私は、言葉というものが大切だと、最近になって解ってきたように思はれます
。彫刻には彫刻の、絵画には絵画の言葉を知ることです。子供は言葉を与へら
れ聞き分けることにより、それも親が本当の言葉を与へることにより、創造力
が生まれるということを知りました。
私は、芸術に於ける言葉というものの結論を得たように思はれます。その結論
に至るまでを、どのように纏めていくかが問題なのです。古典の中に永い間使
はれてきた言葉、臨済に於ける言葉とか、それぞれあります、佛教やキリスト
教のヨハネ傳からも例書を挙げて説明したらいいと思います。だから、作品は
滅びるが言葉は滅びないということです。その言葉が受け継がれていくものだ
と思います。雀でも燕でもいろんな種類があり、また同じ性能を持っています
。花でも同じです。そういうものを見ていると、自然というものは、例えば麒
麟なんか、麒麟の願いが首を長くしています。蛇でも元の姿をある願いが、あ
る限度にくると、それ以上に変化しないところに到達します。そういうものを
、言葉で現してみると芸術として成り立つことが解るでしょう。このことを解
り易く工夫してみると、講義も面白くなるでしょう。それならば、どんな芸術
論もそれ以上に出ないでしょう。私は、ある意味で世阿弥の「花傳書」をもう
一度完成するものと思っています。
それぞれの花でも同じ種類がありますが、それがある限界までいくと、それ以
上は変化しません。菊は菊で、撫子にはなりません。菊は菊で止まっています
。そういう自然性というものがあります。麒麟も首が長く足が高くなり、樹や
草の新芽ばかりを食べるのに都合よく出来ています。あれは祈りと願いが、あ
の姿になったものと思います。それぞれ、ある立場にあるものだと思います。
虫でも願いとなって「生まれ」を持っていると思います。自然の生というもの
は面白いものですね。馬や猫がどうして生まれているかということを考えると
、やはり創造の力だと思います。そこに無限の創造があります。
昭和44年9月28日(話の要約)
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