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源氏物語




KISEI  YUKARIHANA    MUSEUM  OF  ART 
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「源氏物語」は一人の女性を中心に書かれています。一つ一つの話として、それぞれ、ふと我に返るあの呼吸が生きています。主人公は一人の女性から観た 男性そのものの多面性の表現です。先生そっくりです。蝶が花から花へ飛んで移っているように、男性は美しい花の蜜に惹かれて飛んでいきます。その真実の姿を表現 しているのです。映画で表現するとしたら、一人の女性を主人公にして多くの男性を周りに登場させたら、良いと思います。太古から、現代に至るまで、東西を問わ ず男性をこれくらい美しく書き上げた物語はありません。普遍性があります。目の前に光源氏がいますから、女性は無情を感じるのです。この月を何時になったら先生と 観られるでしょう、永遠に無理かも知れません。だから紫式部も「源氏物語」を書いたのでしょう。私には解り過ぎるほど解ります。

                        

「源氏物語」に就て誰かと話し合ってみたいですが、残念ながら、しみじみと話す相手がいません。女学校の先生と話した事がありました、先生も私の話しに驚いて、もう少し年を取って恋愛の経験をしたらもっと理解出来ると言っていましたが、既に亡くなった父を慕った事で理解出来るのですと、言ったものです、その先生も一年位して亡くなりました。
女子が男子に従い、子供に従う事で女性が喜びを感じる事が解らなければなりません。これが一つの秩序です。この秩序が美で在る理由です。「源氏物語」は、のらりくらりとして何が出て来るか解りませんが、その筋がちゃんとした秩序の上になり立っています。物語の多くの女性は一人の女性の表現でもあります。男性の心が移り行く故に女性の心が姿も従って移っているのです。人を信じる事、感謝する心が無かったら理解出来ません。
私には肌で解るものがあります。道元や親鸞の文章も解って来るものがあります。好きな文章には、其の中に入って行く事が出来、作者と共に泣き感動する事があります。女性の中には、弱い密やかなものがあります。「源氏物語」の中の女性像にもそれがあります。美しいものです。


「源氏物語」には激突はありません。大調和の世界が美だと思います。女性が命を全うしています。

「源氏物語」は読むものではなく、味わうものです。川端康成さんは「源氏物語」を宝のように、大切に自分の胸に抱いています、誰にも話したくないような気がした事でしょう。

「美しく汚す」という事は千年も前から言われています。疵とは、玉を掌に受けるものです。「源氏物語」も疵だらけです。美しく疵付けられています。


紫式部に許されるような男性が「源氏物語」を理解出来ます。女性なら紫式部に似た女性に憧れます。

「源氏物語」も出会いの間ですから、出会いの為に毎日があるのです。 滑らかな角の取れたものが好きです。中間色の色彩「間の芸術」が日本の美です。                         
月(理想の美)は移ろい易いものです。光源氏は女性の中に常に満月を求めています。 だから満月を過ぎると、次の満月を求めて移って行くのです。美は常に完全な姿を求めています。

色は一人で居る時は、真っ白です。人が来たら、相手との関係がある色が生まれます。男子と女子の純粋な出会いは美しい色に成ります。動物的でなく、人間的な世界にのみ美しい色があります。「源氏物語」はこの純粋な美しい色に成って物語られています。

本居宣長は「源氏物語」の中に、人間の魂を観ています。その魂は何処から来たのか探しているうちに、「古事記」や「万葉集」に、日本古来の美を観付けています。 小林秀雄さんも、象徴的な文学を通じて「源氏物語」の魂に触れています。

貴方は人が、土産を持って訪ねて来たら、感謝し有り難い心に感動して相手と伴に喜んで話しています。
「源氏物語」もそうです、事柄の変化ではなく心の変化なのです。だからなかなか言葉では表現出来ないものです。でも樋口一葉はこの心の変化を見事に表現しています。

先生は今年になって歎異抄を熱心に読んでいます。何か源氏物語にある真実に触れてきている事が確かに感じられます。それは芸というものに打ち込んでいるから、解ってくるものだと思われます。十年前から先生とこの真実を話し合える事を願っていました。

源氏物語は人間の真実、特に男女というものの真実を見事に表現しています。私は物心付く頃から父に連れられて料亭に連れて行かれ、芸者さんの手から手に抱かれて 可愛がられているうちに、自然の男女というものを知っていたように思います。だから女学校の頃には源氏物語に興味があり、ちゃんと今と変わらないような解釈をしていました。

樋口一葉には理想の男性像があります。だが現代の作家の多くには理想像を必要とはしていません。 樋口一葉は苦悩があり、いろんな男性とも付き合って、男性の心の移りゆくさまを実によく観ています。 もっとも横田先生を観ていると男性そのものがよく解ります。美から美へと蝶が飛んで花の蜜を求めているように、 心が移って行きます。その様子は「源氏物語」にも美しく表現されています。樋口一葉は「源氏物語」から教わったものがあります。「十三夜」等は「源氏物語」を読んでないと、解らない世界です。愛する事は喜びです。愛される事を求めても許されない事もあります。だから愛する事の悲しくも哀れな姿が紫式部の心の中にもあった事でしょう。 私は「人間的な愛情」を求めて毎日を暮らしています。だから現実的には余りにも寂しいものがあります。一人になった夜中に「樋口一葉」の文章を読んだりします。文章の世界だけに友達がいるように思います。文章が話しかけてくれます。また後で耐えられないような孤独感に襲われる事もあります。


私は先生より「源氏物語」が理解出来ると思います。それは女性だからです、女の血が何か解る様よういます、でも先生は「源氏物語」を紫式部という作者、人間して理解してゆこうとしている処は実に先生らしいですね。川端康成さんにも先生と同じ箇所が解らないようですね。でも、先生を見てると主人公の光源氏に似ています。それは美(真実)を求める男性の姿があります。今ここに現にこうして話をしていても頭の中では常に別の美の事を考えています、光源氏と同じです。だから私には平安時代ではなく、今現在先生の中に「源氏物語」を見る事が出来ます、それは余りにも真実ですから、永遠の生命を人々に感動させるものを持っているのだと思います。