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  紫花人形 終わりの章=山茶花)

KISEI  YUKARIHANA    MUSEUM  OF  ART 


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女性が唐桟縞(細かい縞模様の木綿布)の羽織を着て坐っています。これから何処かへ出かける前で,何か書かれた巻物を広げて考えている姿です。心が落ち着いて次の動作に向かう寛ぎの時でしょう。傍(カタワ)らに裁縫道具の針箱が置かれています。 作品には琴、三味線、針箱等の沢山の調度品を驚くほど精密な寸法で綺麗に作られていました。作者の住居には大正時代と変わらない僅かな箪笥、針箱、行燈、本箱、机が置かれて在りました。家屋は冠木門が建てられ正月には竹を組み合わせた門松が飾られていました。道具が語る追憶にも生き甲斐を感じていた様です。
人形は静かに座るか立っ姿勢をしています。座るには「腰が据わる」と云う言葉が有ります。腰とは身体の直素(マッス)ぐな中心の軸です。身体の軸が確りしていると、手足の動作も大振りには成りません。腰が据わると、立つと脛(スネ)を少し前に傾け爪先立ちをする、座ると上体を動かない姿勢です。着物(和服)を着る習慣と現代の洋服の習慣とでは姿勢も少し違う現象を感じるものです。
作者の兄は乳母が就いて養育された様ですが、作者は母が懇願して育てられたそうです。兄は招集され戦場(ガダルカナル島参戦、撤退)でも思った事などを文語調の日記を書いていたそうです。内容は実に呑気なもので「弾の飛び交う中で頭にあるは食べ物の事なり。韮の豆腐和え、鰻の蒲焼なり」と手帳に書いたそうです。戦後に住時を追憶すると食事が喉を通らなかったそうです。音楽も好きでマンドリンも弦がもう一本欲しいと、自分で工夫し余分に附けて弾いたりしていたそうです。 南海地震が起きた後、近くの土手で夜マンドリンを弾いている姿に哀愁を感じたそうです。父が盛時に生まれた兄には50本位の大きな鯉幟が立てられ祝ったそうです。戦後に誕生した息子に一人で1本の鯉を上げている姿を観て涙が出たそうです。
冷静沈着な賢人と伺えました。




四十年来、私の事を思い詰めていたという兄の高等学校の友人が広島から訪ねて来ました。 会って話すのは始めてした。 会うなり医者が嫌になったので止めたいと言うのです。この茶室がひどく気に入っていました、此処こそ本当に貴方らしい、知性的な安住の出来る処だと言っていました。茶を差し上げると流石に上品に飲んでいました。この部屋には何か生命の長いものを感じるとも言っていました。 人形を創る事も市長さんから教えられて知っていました。人形を観たくないかと言うと、観なくても今此に居る貴方が素晴らしい人形と同じで、解ると言っていました。兄はああいう生き方しか出来なかったでしょうと、解ってくれていました。(昭和52年10月1日)


女性は歳の暮れ、丸髷に襷を掛けて、台所を駆け廻っていた姿が美しく懐かしいものです。昔は何故か女性は優しかったかと想うのです。人形には大正時代の風俗を出来る限り残して表現しています。決して誇張したものではありません。花のように、美しい姿が女の修行でした。 この着物が百年、帯が百二十年も昔の物です。親から守られて此処(展覧会場)に居るつもりです。 人形は私が他所から眺めたものではなく、内からの表現です。一番大事な事は、無邪気さがあるからです。この無邪気さを表現している世界ですから、文学の中では、泉鏡花の中に描かれている女性と同じものがあります。泉鏡花の女性が解ったら、同じものを解ってもらえると思います。


人形は、哀れな女性の運命を表現しています。私は華やかなものより、静かなものが好きです。瞬間、瞬間を美しい考えをして柔軟なものの押さえ方をする事が大切です。


女子が男子に従い、子供に従う事で女性が喜びを感じる事が解らなければなりません。これが一つの秩序です。この秩序が美である理由です。



















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