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  紫花人形 本題の章=望月) 


KISEI  YUKARIHANA    MUSEUM  OF  ART 


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「望月」は作者が望んだ結婚とは、自分の好きで尊敬できる相手の元にバスケット一つの荷物を持って嫁ぐという姿を理想としていました。純粋に愛があればどんなな苦労も厭(イト)わないという考えでした。普段着に柳を編んだバスケットが如何にも性急な身支度を感じます。首に巻いた厚手のショールにも寒さに耐える心構えが観えます。女性の強い決意と不安な感情が運命に身を任せる現実的な哀感に惹かれます。足元の下駄が行く末の微かな仕合わせに向かって行くようです。
作者が十三歳の時(大正十五年)父が病で倒れました。この時を境に生活環境は一変しました。父亡き後 は家族を慕っていた人の心は一変しました。兄の周りからも多くの友人が去っていきました。つい昨日まで父 同然に可愛いがってくれた父の知人に、父の面影を求めて、後ろから声をかけ振り返った恐ろしい顔を見た瞬間,驚きました。以前の優しい知人ではなかったのです。此の出来事で父の魂とは何時でも自分の心の中で話会う事が出来ると知覚して毎日が楽しくて仕方がなかったそうです。残された母と兄は作者の成長を終生暖かく見守ってくれました。 編者も晩年の母堂(明治十八年生まれ)と暫しの間お会い出来た事を無上の光栄に存じます。
横田先生もやっとお弟子さんが出来て安心したと、母が言っていました。
中平先生から昭和40年9月23日(彼岸の祝日)に伺った事を記録しています。編者は終生この言葉を金科極条の至宝として懐に抱いています。




私は随分と父に可愛がられていました。然し父の死によってその悲しみは心に深く傷付いていました。父が私の心の中に生きている事を知ってから、私は再び生気を取り返しました。その時まで豊かに恵まれた生活をしていたからこそ、それ以後の苦難の生活に堪え忍ぶ事が出来たとも言えます。その豊かな生活にあっても、私の考えは沢山の箪笥を持つよりも、柳行李一個に身の周りの品を入れて好きな人の元へ嫁入りしたいと夢見ていました。私は芸事に生き話し合える人と共に暮らす事が夢でしたから、現在のこの生活が私の理想と願っていた生活だったのでしょう。神様が会わせてくれた理想の男性が横田先生という事になります。少し先生には物足りない処もありますが、不満は言えません。私がどうしても先生を理想の源氏に仕立てねばなりません、紫式部と同じ境遇でしょう。

人形は無心な状態だと左向き、感情が深くなると右向きになっています。深い想いの人は、首が身体に深く埋まっています。

男女の出会いは神から許されています。何時でも「尊敬の念」を忘れてはいけないものです。寸刻も自分(自我)を出すと、現実的になり破綻します。

「寂しい」という表情でも自分が実際に夜道を一人で歩いてみて 、「寂しい」という事を味わってみました。その時に足の先に力が入っている事に気付きました。この事が実感として表現出来るのです。









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