般若とは諸々の生命で知恵、般は普(アマネ)く若く新鮮で泉のように沸く知恵
の事です。世界中の何処にも通用する充ち溢れた若き生命です。
波羅密多とは、波のように此方から向こうの彼岸に達する事、成就する事です。
般若波羅密多とは、万物を生かす知恵が充ち溢れているという事です。
合掌とは菩薩自身が共に、彼岸を念ずる事です。無心となって菩薩と一つにな
っている状態、生かされている自分と、生かしてくれる菩薩が、一つとなった
状態です。
般若心経は舎利子という言葉からみても、師から観た世界だという事で、この
経は天か らの恵みを、この身に受けるように読む事です。だから舎利子よと
いう呼びかけがあります。師と共に佛を合掌する事です。唯、何もなく(無心
の時)にこの経を聴くという時に有難味が、解り悟りが開けます。
自分が「生かされている自分」だという考えがないと解りません。 観自在菩
薩とは、自分の中に菩薩の姿を観るという事ではなく、菩薩自身が御自ら言わ
れる事で、例えば「朕思うに」と自ら菩薩が思う事なのです。 お経は、音が
素晴らしい音で成っています。日本語そのものが音楽的です。
無罫礙とは、差し障りのないという事です。
全部の文字が空に還っています。
涅槃(寂滅)は彼岸と同じ事です。圓寂は圓滅と同じ意味で、この世の生活が
合掌であれば涅槃に行けます。 彼岸とは、永遠の生命を得る事、大往生、大
安楽の境地です。生きている人の世界です。この世の彼岸なのです。 芸術家
は限りない彼岸(真実)への到達に祈りと願いをもつ、文学に於いては箴言(
シンゲン)が映ずる事です。 縁によって門に達し寂滅為楽の門が開かれ、涅槃に
入っていくものです。この真理を追求するには、日常生活を無駄に出来ないと
いう事です。 生滅滅己とは、生死そのものを滅し終わる事、生を儘くす事に
よって、死を明らむ、不生不滅の真理を味わう。 明恵上人は、月を詠じて月
を思わず、涅槃の境地にあり、如来の姿を観る。 涅槃は話の中にあるのでは
なく、行の中にあります。座禅は僧侶の行です。芸術家は芸術家の行が在りま
す。 哲学が芸になった時、涅槃の境地になります。 情緒を持つ事、情緒とは
宗教的感銘です。
般若心経を読んでいると、人間の誕生から死までを謳っていますね。人間生ま
れた時は何の理屈もなく、成長するに従って理屈が付くので、理屈のない生ま
れた時に還るように教へています。
お経のように何も無い無心になり、ものに殉じる心になる事です。 この事に
徹する事が芸の心が解るという事です。理屈ではない無私の世界です。
般若心経には入る事は出来ないが、般若心経が人間の魂の中に入ってくるのです。
禅寺の老師の般若心経の講話を聴きました。何度聴いても般若心経の冒頭の経
文から話が一切先に話が進まないのです。それだけ最初に大事な理(コトワリ)
が在るのだと思いました。
「いろは歌 般若心経」の解釈
色は匂へど散りぬるを (諸行無常)
我が世誰ぞ常ならむ (是生滅法)
有為の奥山今日越えて(生滅滅己,。不生不死。生を諦め死を明らむ。生死超
越)
浅き夢見し酔ひもせす (寂滅為楽。月は月。花は花。雪は雪)
親鸞を読んでいると、法然が偉大に生かされています。親鸞は多くの人から迫
害を受けていますが、凡夫(普通の苦悩を持った人間)だったからこそ悟る事
も多く、 法然をも大きく包み込んでいる様にも思われます。だから「歎異鈔
」が余りにも当たり前であるかが解ります。 法然ではなく親鸞で救われるよ
うに思います、それだけ親鸞が当たり前の人の様に思われます。
昭和45年4月25日
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