当事者から



 連れだって(選挙に)行きたい 

     (茨城県  名兒耶 清吉<なごや せいきち> : 原告・名兒耶 匠さんの父、成年後見人)



 長女匠(たくみ)は、48歳のダウン症候群(療育手帳B・障がい程度区分3)で、私・連れ合いと3人で暮らしています。
娘は、自宅に近い企業でパート勤めをしています。
 月曜〜木曜は午前中の勤務で、家庭用のラベル貼りや箱詰めなどをしています。
午後は自宅でジグソーパズル(2,000ピース!)を並べたり、アクリル毛糸でエコたわしを編んだり、今は刺し子をやっています。
 金曜日は、通所施設でビーズ細工やさおり織りなど、土曜日は、グループホームで編み物を教わり、日曜日はパソコンの初歩を習っているなど。極めてマイペースな日常を送っています。
 随分いろんなことができると思われるでしょうが、計算や金銭管理はまるっきりダメです。
読み書きもある程度は理解しますが、抽象的なことは「とてもムリ」です。
 娘は今の生活がいつまでも続くと思っています。「お父さんとお母さんが死んじゃったら、どうするの?」と聞いても、その質問そのものが理解できないようです。

 この娘(と言ってもオバサンですが)には、私たちの死後もできるだけ、娘自身の意向に沿った生活を続けさせたいと願っています。それには、自分でできる事は、できるだけ自分でやって、難しいことは、地域の人たちの支援を受けていければいいな。と、思っています。
その手段の一つが成年後見制度ですが、本を読んでも講演を聴いても、難しくって本当には分かんないんです。
そんな折、親として知的障がいのある子の後見人をされている方の話を聞き、やはり自分で経験してみなくっちゃ分かんないと思いました。

 家庭裁判所に行ったのは、2006年8月ごろです。戸籍謄本や住民票などをそろえ、土地や預金も調べて、自分と娘の財産目録を作りました。2007年1月に医師の鑑定を受け、手続き開始から半年経ったころ、家裁から「後見人」として認める通知が来ました。
 本当は「親が後見人になっちゃいけないんだ」と思ってます。昔から「親父おれより年が上」って言うでしょ?
後見人が先にいなくなったんじゃ困るんです。できれば娘より若い人に複数後見人を頼みたいと考えていましたが、三番目の娘が複数後見人となってくれました。
これで私が亡くなっても、すぐに後見人不在という心配はなくなりました。
あとは、後見監督人を地域の社会福祉協議会にやって貰おうと考えています。
 成年後見人になって、この制度の良い悪いがハッキリ見えてきました。
一番いけないのは、娘の「選挙権」が剥奪されたことです。

 娘は、満20歳になって以来、欠かさずに親子三人で選挙に行ってました。親として娘に教えたことは、「選挙は行くもんだよ(行かないのはキケン<棄権・危険>だよ)」「誰の名前を書いてもいいけど、他の人にしゃべっちゃダメだよ」の二つだけです。娘は忠実にこれを守って、誰に投票したかは親にも絶対ナイショです。
 娘は「ダウン症候群」という「見て分かる知的障害者」なので、投票所で「こんにちは」「ご苦労さま」など、立会人や市の職員に声を掛けられて、「なんだか知らないが、世のため人のために役に立つことをしたんだな」と感じたんでしょう、ニコニコしていました。

 私だって、被後見人になると「選挙権がなくなる」ということは、知識としては知ってましたが、現実に選挙権が剥奪されるんじゃあ、まるっきり「月とスッポン」で大違いのコンコンチキです。例えば、誰だって「人は死ぬ」ってことは知っていますが、実際に身内や親しい人が亡くなると愕然として身にしみます。
 私が成年後見人になったばっかりに娘の選挙権がなくなるなんて…、こんな不条理なことが、まかり通っていいもんか!と、怒り心頭に発しました。

 私は娘に「借り」があります。

一つは、就学猶予願を二年出したこと(当時は、特殊学級<当時のママ>の入級希望者が5人以上で第3学年からでないと「特殊学級」の設置はされないのですが、誰だってウチの子は「精神薄弱児(ママ)」だなんて言い出すもんですか。「普通学級でお客様扱いは断る」と言ったら、こちらが入学を断られちゃいました(苦笑)。
 ※「のけもの」「省かれる」の意味がある。

二つ目は、養護学校卒業後に就職した工場を、工場主の詐欺まがいの話を真に受けて退職させたこと(経営難で規模を縮小しなくちゃならないんで、障がい者と高齢のパートの人には辞めて貰いたい、と頼まれ。それじゃあ仕方ないと承知したら、一ヶ月経って法定の予告期限が過ぎたら、何と「業務拡張のため新規従業員募集」のチラシが配られたんです。そんなバカなってんで訴えても、労基署も職安も、予告期限満了しているからと門前払いです)。

そして三回目が、この「選挙権剥奪」です。いくら国の制度だからって、今度ばかりは黙っちゃいられないと、前から知り合いの杉浦ひとみ弁護士さんなどに相談して、2011年2月1日に東京地裁に提訴しました。
 記者会見では、娘が「こんなメンドクサイの、もうイヤダ」なんてことを言い出さないかとハラハラしてたんですが「また、選挙に行きたい」と素直に自分の気持ちを言ってくれてホッとしました。

 国を相手の裁判なので、そう簡単には片付くとは思えません。私の息のあるうちに、また親子三人で連れだって選挙に行きたいというのが今の願いです。

 しかし、それだけではありません、被後見人・被保佐人などへの公職停止など、今の制度のトンチキを直して、本当に「人権を護る」成年後見制度にしたいし、障がい者だの健常者だのと言っていないで、差別と偏見のない社会を、皆と一緒に作っていかなくっちゃいけないと心底から思っています。

 今度の裁判は、その一里塚のようなものであり、みんなが連れだって一緒に歩くための道標のようなものだと考えていましたら「埼玉」に二つ目の道標ができて喜んでいます。



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妹と選挙権:第1回口頭弁論を前にして思う

             (埼玉県  浅見 豊子 : 原告・浅見 寛子さんの姉、成年後見人)

          ★ 寛子さんは絵を描くのが大好きです。


「お姉さん、八時ですよ!」
毎朝8時になると、妹からモーニングコールが入ります。
その声を聞いただけで、私は妹のすべてがわかります。
妹は2011年6月21日に56歳になりました。
妹が46歳の時に両親が亡くなり、その後は弟が一緒に暮らして、面倒を見ています。週末には私も帰省して兄弟3人で過ごします。

さいたまの実家に住む妹、東京に住む私、その間を埋めるのがホットラインなのです。
今年の2月、妹は選挙権を失いました。
成年後見制度を利用することにより、選挙権を剥奪されたのです。
楽しみにしていた4月の統一地方選挙の頃です。
「お姉さん、東京に選挙はあるの?いいな、お姉さんは選挙出来て…」
作業所から帰ってきた妹からのホットラインです。
思いもよらぬ妹の言葉にびっくり致しました。
「わかった、寛子ちゃん、お姉さんも選挙止めよう!」
妹は、ずっと考えていたのです、選挙権を失ったことを妹なりに
理解しているのです。
選挙に行けない、妹の心情が痛いほど伝わってきました。
この時、私は妹の選挙権の回復の為に頑張ろうと、思いを新たにしました。

 妹が選挙権を失った、そもそものきっかけは、交通事故なのです。
平成20年の10月、妹は作業所のワゴン車で外出中、交通事故にあいました。
何とぶつけた車は無車検だったのです。
妹は頸椎と腰椎の捻挫で約1年半通院しました。
その間、示談を試みたのですが、車の持ち主からは一度も謝罪がありません。
それで、賠償を求めて裁判を起こしました。でも裁判所は、妹は知的障害者なので成年後見などの能力の補正が必要というのです。
私は妹の財産管理の面だけで補正する「保佐」で充分と思い、申し立てをしたのですが、後見と保佐の判定の基準は何なのでしょうか?

 妹は成人してから35年間、ほぼ休むことなく選挙に行っていました。
誰に投票するか自分で決め、一生懸命漢字の練習をして、自分の書いた人が当選するか、テレビの選挙速報を真剣に見ていました。当選が決まったときは「私の書いた人が上がった」と万歳をして喜びます。
こんなに選挙が好きなのです。
でも、選挙に行くことは、もう出来ないのです。
後見制度は財産管理のための制度であるはずなのに、納得出来ません。
 ※“当選”した事を寛子さんは「上がった」と言うそうです。

 妹は、埼玉県の北西部、群馬県との県境の小さな山村に生まれました。
両親は、従妹同士の近親結婚です。昔はよくあったようですね。
小・中学校を卒業してからは、自宅の手伝いをしながら両親に見守られ暮らしてきました。
もちろん、養護学校にも行っていません、療育手帳も持っていませんでした。
 妹が46歳の時、両親が相次いで亡くなり、私と弟は妹を託されました。
その後、妹が体調を崩して入院したりして遅くなりましたが、49歳で療育手帳を取得し、やっと念願の作業所に通所できました。
遅まきながら、51歳にしての社会デビューとなったわけです。

 作業所に通所するようになり、お友達もでき、家族を離れて一人の旅行も体験、また、働いてお給料を貰う喜びも知りました。

 5月に開かれた、名兒耶さんの第1回口頭弁論を傍聴いたしました。
記者会見も拝見しましたが、匠さんは立派でした。思わず「妹は大丈夫かしら…」と心配になりました。

 今、妹に言い聞かせています。
「寛子ちゃんが選挙に行けるように、弁護士さんや、みなさんが応援してくれるって、だから、29日の浦和、頑張ろうね!」
先程のホットラインです。「お姉さん、29日もうすぐた!」と元気な声が響きました。

お姉さんは、妹の権利の為に頑張ります。皆様応援よろしくお願いいたします。