備 中 朝 原 山 朝 原 寺 ・  安 養 寺 宝 塔 / 塔 跡

備中朝原山朝原寺・安養寺

安養寺宝塔

朝原山と号する。安養寺は、古に栄えたと伝える朝原寺の主要寺院の一つであり、今では朝原寺の法灯を伝える唯一の寺院となる。
かっては8間四面の大堂や九重塔(塔跡ほぼ完存)を有したが、近世は毘沙門堂が信仰の中心であったとされる。
以前には本堂に毘沙門天像が犇いていたような光景を思い出すも、近年は流行仏ならんとして(と思われる)、いかにも流行仏らしい雰囲気の宝塔や諸堂宇が建立され、一昔前の破れ寺の雰囲気は無くなる。
かっては108体を数えたと云う毘沙門天は再興を重ねながら現在も40数体が残る。
伝来する仏像の内、兜跋毘沙門と吉祥天像は重文指定。また裏山経塚の出土品は多くが重文指定される。

今手元に安養寺経塚から出土した土製宝塔(重文)の写真がある。
宝塔の姿はこの出土宝塔をモデルにしたのであろうかあるいは宝塔を建立した動機はこの出土宝塔に因んだものであろうかとと推測される。

昭和51年建立、高さ約21m、径6.41m、屋根銅板葺。
 ※高さ情報:「吉備の国寺社巡り」2014年版、山陽新聞社 では高さ26mとする。
RC製の巨大な(素っ気ない/簡略化した)宝塔である。
身の部分は柿色に彩色する。
裏山経塚から出土した経瓦(重文)を奉安する為と同時に信者の写経を収納する為に建立されたと思われる。

2002/12/29撮影:
 備中安養寺宝塔1
 備中安養寺宝塔2
 備中安養寺宝塔3:左図拡大図

2015/09/14撮影
 安養寺宝塔11
 安養寺宝塔12
 安養寺宝塔13
 安養寺宝塔14
 安養寺宝塔15
 安養寺宝塔16
 安養寺宝塔相輪

安養寺塔跡

本堂西側の壇(宝塔北側)に保存状況の良好な塔跡及び塔礎石を16個を残す。
心礎と四天柱礎3個・脇柱礎12個で、西南の四天柱礎1個は欠ける。
  (写真では落葉の積まれている箇所があるが、その箇所の礎石が欠失。)

2002/12/29撮影
 備中安養寺塔跡1:左図拡大図
 備中安養寺塔跡2
 備中安養寺塔跡3
 備中安養寺塔跡4
 備中安養寺塔跡5
 備中安養寺塔跡6
 備中安養寺塔跡7
2015/09/14撮影:
 朝原山塔跡11
 朝原山塔跡12
 朝原山塔跡13
 朝原山塔跡14

2015/09/14撮影:
 朝原山心礎1     朝原山心礎2
 心礎・四天王柱礎1    心礎・四天王柱礎2    心礎・四天王柱礎3    心礎・四天王柱礎4    四天柱礎の一
 側柱礎石1     側柱礎石2     側柱礎石3

心礎は90×70cm(概数)の大きさで、その他の礎石の大きさも概ね同程度の大きさである。
礎石は一見上辺を削平しただけの自然石に見えるが、心礎・東側四天柱礎2個および北東隅礎石は明らかに柱座の跡を残す。
塔の一辺は約5.6m。柱間間(芯−芯間)はおよそ1.8〜2.1mを測る。
なお礎石および基壇の状況から椽はなかったと思われる。
また塔跡から平安〜江戸期の瓦が出土する。従って塔は瓦葺きであったと推定される。

塔の興亡に関して、以下の2文献が知られる。
東福開山聖一国師年譜:弘長2年(1262)「師61歳・・・師赴備中慶朝原塔」
手鑑調法記(文化11年<1814>朝原村宇野勘治郎著):「九重塔三間四面、西塔之壇ニ有之」  →下に掲載
以上により、塔は弘長2年に建立され、塔は九重塔であったと知れる。
但し、もし本当に九重とすると、基壇の大きさから判断して、それは簷塔(えんとう)であったと考えるのが妥当であろう。

2015/09/25追加:
○「吉備郡史 巻上」永山卯三郎編、岡山県吉備郡教育会、昭和13年 より
 浅原寺毘沙門堂
層塔跡
備中誌には「五重塔方4間本堂の東に在り」とあるも、今の本堂阿弥陀堂や毘沙門堂の一帯より西南方一段高いところにある。
柱間は中央間7尺、脇間6尺とす。しかも心礎と柱礎2はその表面に各々操出を存す。

 浅原寺塔跡実測図:左図拡大図
 浅原寺塔跡
 浅原寺操出礎石

心礎。
3尺2寸×2尺5寸、操出径1尺3寸、高5分。
柱礎。
1.2尺4寸×2尺4寸 2.3尺2寸×2尺5寸
3.2尺5寸×1尺9寸 4.2尺2寸×1尺6寸
5.1尺9寸×2尺8寸
6.2尺4寸×2尺8寸、操出径1尺3寸高5分 7.3尺1寸×2尺8寸
8.2尺4寸×2尺5寸 9.1尺9寸×3尺1寸
10.2尺3寸×2尺5寸、操出径1尺3寸高5分  11.欠
12.2尺2寸×3尺1寸 13.2尺×2尺7寸 14.2尺4寸×2尺2寸
15.2尺6寸×2尺1寸 16.2尺2寸×2尺7寸

2010/12/06追加:「倉敷福山と安養寺」岡山文庫188、前川満、日本文教出版、1997 より
○「浅原村神社佛閣名所手鑑調法記」
 文化11年此記録 宇野勘治郎俊邑後年村方末世 為調法写之置也
     浅原村由来手描
一 抑(そもそも)朝原山朝原寺、一山之伽藍地ニ、鎮守社無之候而者(ては)、境内薄ク(うすく)依之、
 牛頭天王宮鎌倉より、御勧請申度と奉祈念候処
 人皇五十代桓武天皇延暦元壬戌年九月廿三日 折節 生坂村浅原村境之小川江幣帛天降来(あまくだり)被遊益(ましまし)候処
 則字ナ(あざな)幣降川(しでふりかわ)と申伝候 夫より村相山之尾崎ニ益(いまし)候処、同学ナ幣建(しでたて)と申伝候 
 夫より村相上小山ニ而御月待被遊益(ましまし)侯処ヲ、同字ナ月山と申伝候
 夫より朝原寺境内之山峯ニ幣帛御移り被遊益(ましまし)候所二御鎮座仮社(かりのみや)建立奉尊敬候
 猶御裏佛ハ薬師如来尊 扨三季祭祀神供四十八膳供へ来申候
 同山麓へ御社三間四面檜皮葺、元暦元甲辰年頼朝公御祈願所御建立有之候
 元浅原山之義ハ弘法大師御開基之所二而 朝原寺一山伽藍三如来八間四面、南向弥陀釈迦薬師三尊也
 文殊堂六間四面西向 鎮守社上之檀二有之 毘沙門堂八間四面本堂南下タ之檀蓮台二有之
 九重塔三間四面西塔之壇二有之 仁王門馬湯共下平地鳥居前二有之
 仁王門中興中之檀へ上ケ(あげ)、鐘楼門山門東文殊堂南二有之 大師堂経堂寺庫裏客殿有之
 其外村地内別院千坊有之段
 大寺高山休蓮寺本堂・奥之院堂・羅影堂・山門・五重塔弐間四面南向二有之
 右之内高山休蓮寺寺山、高山地内八坊、右別院千坊之号聢与(しかと)相知不申(あいしれもうさず)候得とも
 蓮台坊・円満坊・谷之坊・奥之坊・無量寿坊・覚樹坊・金剛坊・真道坊・本尊薬師如来二而湯出申所也、但絶寺後本尊都宇郡薬師院江入佛
 観世坊・釈僧坊・円明坊・満願寺・正蔵院・地蔵坊・本尊地蔵菩薩 但絶寺後本尊安養寺江入佛有之候
 東光坊・北之坊・十大寺・西明坊・浄満寺・浄土坊・虚空蔵坊・東境界寺・界善坊・道界寺・地引道寺・半坂坊
 ・後参坊・佛生寺・別所寺・入道坊 但此一寺侍法師之坊也
 高野峯寺・轟坊・界曾称坊・日嶋寺・暮之谷寺・石堂坊・弥谷寺 此外坊号相知不申
 右往古より天司(てんし)御祈願所之謂レ有之処
 猶延暦十辛未年佛閣伽藍寺領 井鎮守社牛頭天王 毘沙門天増(ママ)寺領共三百町
 頼朝公鎌倉之御時代迄御寄附有之処 建仁年中御減(おんへらし)三拾町 此分米五百石御寄府(ママ)有之処
 建武年中官軍大将大江田式部大輔氏経公若大将軍足利尊氏公上落(ママ)を支んため福山ニ陣取御仕構有之処
 同二年少将軍足利左馬頭直義公軍兵責メ寄兵乱有之候節、伽藍其外寺々数度兵乱火ニ焼失致し候
 尤毘沙門堂一宇兵火ヲ免ると残申候
 朝原寺右焼失絶寺致し候故 跡安養寺構ニ相成居申候 御領主天司御代々御支配有之
 其後幸山城主石川左衛門尉殿御領主之時分 天正三年迄寺数十二坊有之
 追年潰寺額田畝数弐町被付置候
 宇喜多中納言殿時分寺数六坊有之 追年潰寺領米拾弐石御寄附有之
 大坂御代慶長年中之頃赤桧伊豆殿御領主之時分 寺領田畝数二反五畝御寄附有之候
 御当家宰相様御代ニ寺領高給弐石被下置候
 其後寛永七午年 故少将様御代汐寛文六午年迄御物成九斗宛披下置候 同七未年より九斗四升宛
 宝永四亥年迄 毘沙門天寺領米被下来候処 同五子年寺領米御取上 牛頭天王社領修理領米ニ御立被成候
 尤鎮守社寛文六午年迄ハ安養寺社僧別当構来ニ而有之処 同七未年より佛道神道と御分ケ鎮守社神職構ニ披似付候
 其後宝永五子年より御郡方寺社方と御支配分り申也

一 以下略・・・・・

※以上朝原山一山の伽藍の詳細が述べられる。
千坊と称するのは、朝原山の山容および生産力(経済基盤)から見て誇張と思われるも、中世には記録されたような坊舎が存在したものと思われる。但し考古学的な裏づけが為されたということは未だ聞かず。
 中世には九重塔があったことが記録される。西塔の壇とは今に残る塔阯(上述)のことであろうか。
朝原寺伽藍は南北朝の兵乱(建武2年<1335>の福山の戦)で焼失するというので、九重塔も焼失したものと推測される。
その後は安養寺が朝原寺の母屋となる。その安養寺は近世初頭には12坊、あるいは6坊を数えるも、寛文年中の池田氏の廃仏などもあり、塔婆を再興するような寺勢ではなく、また以下は略したが、その後の記録にも塔婆の記録は一切無く、以上から九重塔は南北朝期に廃絶したものと考えるのが妥当であろう。

※大寺高山休蓮寺五重塔
一山寺院である休蓮寺に五重塔の記録があるが、休蓮寺およびその塔についてはここに記された情報以外皆無である。
 地区内に別院千坊があったが、そのうちの大寺は高山の休蓮寺であり、五重塔もあった。五重塔は2間四面で南向きであった。
高山には休蓮寺寺山で、高山地区に休蓮寺塔頭8坊があった。

2015/09/25追加:
○「吉備郡史 巻上」永山卯三郎編、岡山県吉備郡教育会、昭和13年 より
浅原寺
朝原寺とも記す。報恩大師また弘法大師の開基との称す。
予は大正8年より浅原寺調査に際す。秋庭二郎氏に浅原寺塔頭寺坊趾調査のことを依頼置きしが爾来十有六年・・・遂に23個所の寺趾を確定せられたり。それは次の如し。
 浅原寺坊趾配置図
 1.蓮臺坊(元の本坊)、宮ノ下、畑、8畝5歩
 2.才地坊、峠、山林、2畝3歩
 3.薬師院、宮ノ下、川下の田、1段3畝1歩、本尊釈迦如来郡宇郡早島村長津薬師院に入佛
 4.眞道坊、宮ノ下、川下の田、1段3畝1歩
 5.金剛坊、向山、山林、18歩、趾に井あり
 6.釈迦坊、向山、山林、2段9畝歩
 7.安養寺、境ノ西、田、8畝7歩
 8.満願寺、大池尾、田、1畝24歩
 9.地蔵坊、西谷、畑、2畝19歩
 10.地引道寺、中疇、宅地、68坪
 11.東光坊、村前、宅地、129坪
 12.羽作坊、村前、山林、1畝20歩、坊趾に石地蔵・石観音あり
 13。入道坊、岩崎、山林、7畝20歩
 14.虚空蔵坊、虚空應、畑、6畝21歩
 15.源大坊、栗林、畑、8畝26歩
 16.十大寺、東山、田、1畝歩
 17.常萬寺、茶木根、畑、4畝1歩
 18.中ノ坊、東谷、宅地237坪
 19.圓満坊、北出口、畑、5畝歩、圓満又閻魔に作る
 20.浄土坊、東ノ上、田、4畝24歩
 21.観世坊、東ノ上、宅地、133坪
 22.覺樹坊、東ノ上、宅地、134坪、覺樹又角壽に作る
 23.谷ノ坊、北谷、田、8畝3歩
以上の他、その位置的確ならざるもの23坊その名左の如し。
 幸蔵坊、圓明坊、奥ノ坊、無量寿坊、正蔵院、東境界寺、界善坊、久蓮寺(又作休蓮寺)、北ノ坊、道界寺、別所寺、高野峰寺、寺山、界曽根坊、轟坊、日島坊、蔵見谷坊(又作春三寺)、石堂坊、弥谷寺(又作以弥谷寺)
 <※休蓮寺については、秋庭二郎氏調査では「その位置明確ならざりし」とされ、休蓮寺五重塔も亡としたままである。>

2015/09/30追加:
○休蓮寺に関する情報
◇岡山文庫188「倉敷福山と安養寺」平成9年>「幻の休蓮寺」の項では次のように述べる。
 「備中誌」によれば、平安初期朝原に牛頭天王を勧請したとき、朝原と西坂の境を幣振川が流れるが、勧請の神輿を休めて幣帛を捧げたところ、その幣帛が飛んで朝原山の尾に止まる」という。
 幣振川は今コンクリートで固められた用水路になっているが、その流れを辿れば容易に朝原に到達できる。この流れに沿った北柄の山が高山でかつては休蓮寺の大規模な伽藍があったと伝えられる。今では痕跡すらなく、名も忘却されてしまったが、朝原はその奥之院として開かれたのではないだろうか。

浅原寺現況

3015/09/14撮影:
 毘沙門天道標:西岡にある。因みに左に道をとれば、西岡山である。
 安養寺門前1     安養寺門前2     安養寺龍神堂
 安養寺成願堂:以下の毘沙門天像などを祀る。
 毘沙門天・吉祥天立像:重文、いずれも平安後期
 毘沙門天立像群1     毘沙門天立像群2     毘沙門天立像群3     毘沙門天立像群4
 毘沙門天立像群5     毘沙門天立像群6     毘沙門天立像群7     毘沙門天立像群8     銅造如来形立像:鎌倉期

 安養寺山門前     安養寺俯瞰1     安養寺俯瞰2     安養寺俯瞰3
 毘沙門堂山門     安養寺毘沙門堂:現本殿      安養寺阿弥陀堂:元毘沙門堂
 安養寺通用門     安養寺庫裡客殿     安養寺会館     安養寺新阿弥陀堂?     朝原山経塚

2018/10/30追加:
浅原山鎮守牛頭天王

安養寺の東北にかつての鎮守であった牛頭天王が現存する。
勿論明治の神仏分離の処置で祭神をスサノヲ、社号をスサノヲ神社と改号している。
貞観年中に勧請と伝えるも、どこから勧請したのかは言及がない。


2006年以前作成:2015/09/30更新:ホームページ日本の塔婆