過去に訪問した塔婆・ご提供画像(2001/8/25〜2001/10/07)

過去の訪問塔婆履歴

2001/10/07 近江百済寺五重塔跡1
  同     心礎  2
  同     心礎  3
  同     心礎  4
  同     塔跡  5
  同     坊跡図
  同     坊跡
幾多の火災で被害を蒙り、寺歴ははっきりしないが、明応7年(1500)年五重塔等主要伽藍失火炎上。(第2次六角征伐?)。文亀3年(1503)伊庭貞隆の乱で五重塔等寺坊までも全焼。元亀4年(1573)織田信長に敵対したため、信長の征伐により悉く焼亡烏有に帰す。現伽藍の本堂・仁王門は慶安5年(1652)の再建。創建は寺伝によると推古天皇の時代聖徳太子によるとされる。平安期に天台宗に改宗し、鎌倉、室町期には最盛期をむかえる。盛時には本堂・五重塔ほか幾多の堂宇、東西南北の四谷には300坊を数えたとされる。昭和59年の調査では275の坊舎跡を確認。坊跡図(現地の案内板を撮影)、坊跡の写真を参照ください。
五重塔跡は現本堂の上の裏山の旧金堂跡と推定される平坦地を数10M過ぎたあたり、つまり現本堂の右奥の裏山に保存されている。現状樹木は伐採され、土壇跡は土嚢で固められ、土壇中にほぼ柱石(礎石)が残されている。心礎は塔跡土壇から数M西南に放置されている。以下「日本の木造塔跡」の記載によると、心礎は1.5M×1M、中央に径49Cmの浅い孔(最大で3Cm)があり、さらにその中央に一辺13Cm深さ3Cmの舎利孔がある。瓦が出土しないので創建の時期ははっきりしないが、白鳳期に創建し、平安期に再興、2層の焦土層が見られることから鎌倉期に被災、再興交互後再び焼失と推定される。現本堂は一段下に再興されている。
近江金剛輪寺三重塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同 塔本尊大日如来
  同      本堂1
  同         2
松尾寺。塔婆は寛元4年(1246)建立。昭和53年復元工事完了。(3層は倒壊消滅、2層は残欠のみ、1層は木組みのみ残っていた塔婆を復元修理)。そのため新材が多く違和感があるのはいた仕方ないが、古い写真の旧観から見ると良く復元できたものと感慨を覚える。1辺4.60M。
本堂は弘安11年(1288)建立で国宝。桁行7間梁間7間桧皮葺きの日本を代表穂湯する堂々たる大堂です。二天門は室町建築で重文。現状の古建築は以上だけで、わずかに本坊明寿院他を残すのみです。ただし先人の努力で優れた仏像群が伝えられています。塔婆・本堂とも写真は撮り難い位置のあります。
寺伝では聖武天皇の勅願で行基の開山といい、後に慈覚大師の教化により天台宗に改宗と伝える。中世には東西南北の4谷に100坊を数えたといわれる。現在でも参道両脇に幾多の坊跡の石組をみることが出来ます。織田信長の百済寺焼討ちに際し当寺も焼き払われるが、辛うじて本堂・三重塔・ニ天門のみは類焼を免れる。明和の頃(1764)では明寿院他1数坊僧侶50人を数えるも、明治維新で再び荒廃する。
近江西明寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同     本堂1
  同        2
  同  本堂蟇股1
  同        2
  同     二天門
池寺。塔婆は鎌倉中期の典型的な純和様建造とされる貴重な遺構(国宝)です。一辺4.2M。高さ20M強。桧皮葺き。本尊は金剛界大日如来で、四天柱が立ち、内部には極彩色の仏画・壁画が描かれていることでも有名です。
本堂(7間四面の大堂で、鎌倉期の純和様の典型建築といわれている。国宝。圧倒的な存在感があります)。ニ天門(応永14年<1407>の建築で重文)。その他多くの優れた仏像が伝えられています。
寺伝では仁明天皇の勅願によって承和元年(834)三修上人(伊吹山の開山上人)が開創したと伝える。中世には寺領2000石、17堂宇・300坊があったと伝える。今も坊跡は長い参道脇に連綿と連なっている。百済寺・金剛輪寺とともに天台の巨刹として繁栄を極める。元亀2年(1571)織田信長配下丹羽長秀によって攻撃され、本堂・塔婆・ニ天門を残し壊滅した。現在は本坊のほか円教坊・観正坊のみを残すのみのようです。
2001/10/07 付録:近江正楽寺 京極佐々木道誉の墓所。かっては天台の巨刹だったようです。背後の裏山に本堂跡・三重塔跡があるとの文献があり、10数年前に探しましたが、城山方面を探したため発見できず。今回は時間の関係で跡は探さず。はたしてあるのでしょうか?
2001/10/07 付録:胡宮神社 仁王門跡および金堂跡が残存。かっての神仏分離以前の姿が今なお良く残されています。この地はかっての天台の巨刹敏満寺跡で、文献上何も調査はしていませんが、十分「塔婆」が存在した可能性大だろうと思っていますが、どうでしょうか?
. 丹後如意寺十方閣(二層塔)情報 概要は「その他の塔婆」のページの「塔婆に関する参考」の項を参照ください。
2001/09/30 山瀧廃寺推定塔心礎1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同       陰刻
山瀧寺跡現状
山瀧寺跡石碑
山瀧時跡小堂
大宮神社社殿

「田原」の部分図
 同 大宮神社の部分図

 同 大御堂の部分図

山瀧寺塔心礎およびその関連です。
詳しくは「山瀧寺および山瀧寺塔心礎(大宮神社手水鉢)」のページを参照下さい。

岩井隆次著「日本の木造塔跡」に思いがけず、大宮神社手水鉢が山瀧寺塔心礎であるという論述がありました。予想だにしなかったことなので、さっそく現地を訪問しました。

「田原」の部分図、同 大宮神社の部分図、同 大御堂の部分図は拾遺都名所圖圖會「田原」より転載したものです。このあたりは現在も基本的に江戸時代後半の風景と変わらないようです。

2001/09/27 近江瓊々杵神社多宝塔1
  同           2
  同           3
  同           4
  同           5
  同         社殿
  同        神宮寺
天保13年(1844)再興。貞観元年(859)神宮寺とともに創建されたと伝える。その後荒廃・破損したため再興。塔内には木造釈迦如来像と23体の薬師如来像を安置する。一辺3.86M。現在は銅板葺きに変更されています。
当社は朽木村宮前坊にあり、木立に囲まれ、おそらく里人意外にはほとんど知られずに存在しています。貞観元年、相応和尚が葛川明王院を建立したとき、当社を勧進し、朽木大宮大権現と称した。鳥居の奥正面に本殿等の一画があり、鳥居すぐ左にバラックの神宮寺の廃屋、その奥に粗末な不動堂、更にその斜め左奥に(本殿の左)多宝塔が立つ。神宮寺はほとんど倒壊寸前と言えども、今なおかっての神仏習合のありさまを残している。多宝塔は美しく維持されています。この姿は、多くの著名な神社が明治維新に際し文化遺産の破壊を行った中にあって、光るものがあります。
近江南滋賀廃寺心礎
  同    心礎基壇
  同   復元伽藍図
寺址は大津京跡の範囲にある。昭和3年を初めとする数次の発掘調査で、伽藍配置は南から南大門・中門・回廊内東に塔・西に小金堂が配置され、さらに北に金堂、講堂、三面僧房が付設(川原寺式)するものであったと確認されている。梵釈寺あるいは崇福寺跡とも考えられた時期もあったようですが、現在は寺名不詳とされています。出土瓦等から白鳳期創建とされている。
塔跡及び金堂の東部分の跡が史蹟公園として公開されています。散在する金堂礎石と塔心礎・基壇が認められます。おそらく公園の草刈は、年数回は行われているようですが、訪問時は心礎の柱穴には泥・枯葉・水がたまり、草も生え、詳しいことは観察できませんでした。
記録によると、心礎は1.55M×1.36Mで、径82mM・深さ10Cm、径21Cm・深さ4Cm、さらに径19Cm・深さ14Cmの3段の穿孔を持つ心礎のようです。なお伽藍図は現地の説明板を撮影。
近江崇福寺塔跡(西北隅)
  同 塔跡(四天柱礎石)
  同 塔跡(全景)
  同 塔跡礎石配置図
  同 南尾根金堂跡
  同     金堂礎石
大津京の西北の山裾が3つの尾根に侵食された地形上にある。昭和3年・15-16年の発掘調査で、南尾根上に金堂・講堂・付属堂宇、中尾根の東に塔・西に小金堂、北尾根に弥勒堂・付属堂宇跡が確認された。それぞれの尾根は約180-100Mの距離を置き、急な深い谷で隔てられている。この寺跡は「扶桑略記」等の文献及び出土品から、南尾根上の寺跡は梵釈寺(桓武天皇建立)に北・中尾根の寺跡は崇福寺(天智天皇勅願・大津京の鎮護)跡と推定されている。寺跡はきれいに管理され、今なお各堂宇の礎石が整然と残り、各尾根を結ぶ急なアップダウンする道も良く整備されています。崇福寺は平安期には南都の各寺とともに10大寺に数えられた。しかしその後は山門・寺門の争いに巻き込まれ、鎌倉期後半には廃絶したようです。
塔跡は心礎(地下1.2Mにあるそうで、写真には写っていません)・四天柱礎石・側柱礎石が完存している。一辺6.24Mを測る。なお心礎から発見された四重の舎利容器一式(国宝)は特に秀品とされる。中尾根「塔跡礎石配置図」は現地説明板を撮影し、合成したものです。左は全貌で右は塔跡拡大図です。
2001/09/24 石清水八幡宮西谷の現状
 同 多宝塔推定跡
 同 推定礎石1
 同 推定礎石2
旧西谷阿弥陀堂(八角堂)1
旧西谷阿弥陀堂(八角堂)2
護国寺薬師堂跡
瀧本坊跡
松花堂跡
密蔵坊跡
萩の坊跡
参道脇坊舎跡
極楽寺(現山下の屯宮)
石清水八幡宮の現状です。

説明については石清水八幡宮のページをご覧下さい。

西山廃寺(足立寺)三重塔1
  同            2
  同            3

石清水八幡宮の西南の丘上にある。ここから100〜200M西南に行けば、摂津であり、山城の国堺に位置している。現在は住宅地の中に移設され、史蹟公園として整備・保存されている。「山州名跡誌」等によれば、この地には、和気清麿が弓削道鏡の命で、宇佐八幡宮へ赴き、道鏡追放の神託を受け、そのために道鏡の怒りに触れ、両足切断・流刑を受けた。が、八幡宮の加護で両足が治癒し、そのお礼に足立寺を建立したと言われている。塔は一辺10Mの基壇の上に、5.2M四方(3間×3間)の大きさで、まわりの礎石はほぼ原形をとどめており、大きさからみて高さ25mぐらいの三重塔が建っていたと推定されている。塔心礎は、直径36CMの柱穴があり、北側に柱孔に隣接して舎利孔が穿られている珍しい形式のものです。もともとはここから西南50Mの斜面の造成地から出土したもので、東に塔婆・西に堂跡が出土し、現在地にそのまま移設されたようです。なお出土品から見て、和気清麻呂前役100年頃に建立され、平安後期に土砂に埋もれ廃絶したものと判断されている。なお塔跡に並んで建立されていた堂跡も移設されている。

2001/09/21 山城教王護国寺1
  同      2
五重塔です。夕方・小雨・弘法さんの日で、例によって上手く撮れてはいませんが。
2001/09/21 参考:山城御香宮

桃山・江戸初期の装飾についての参考資料です。

表門・蟇股(重文、表門は伏見城大手門を移築したもので、寛永2年徳川頼房の寄進と伝える)
拝殿正面唐破風下拝殿正面通路左上拝殿軒下蟇股1同 2同 3(拝殿は徳川頼宣の寄進と伝える)
本殿正面向拝本殿西妻(本殿は慶長10年徳川家康の再建とされる)
東照宮本殿向拝(非常に小規模ですが、近年修理・復元されたようです。ただし拝殿前の石灯篭の年号は「嘉永」とあり、この時期の建立とすれば江戸後期となる)
2001/09/20
(ご提供画像)
山城岡本廃寺塔心礎 当ホームページをご覧の「X氏」より、画像はご提供いただきました。
まったく知られていなかった寺院であったが、宅地開発に基づく発掘調査(昭和60年)で、法隆寺式伽藍配置の金堂・講堂・塔跡等が確認され、出土品から白鳳期創建、奈良時代前半に改修された寺院と判明。塔跡から心礎と思われる巨石が出土。
山城普賢寺塔心礎 当ホームページをご覧の「X氏」より、画像はご提供いただきました。
山城普賢寺については「山城普賢寺」のページをご覧下さい。
2001/09/19 和泉大威徳寺多宝塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同      一の滝
内部板壁の墨書により永正18年(1513)建立とされる。寛政6年(1794)の葺替(棟札)・元治2年(1865)の総修理(棟札)あり。昭和49・50年の修理で一新された。一辺3.1M。本堂は山側が正面であり、現在の参道・山門には背を向けているが、牛滝川の瀧に対面する形であり、その意味で多宝塔は本堂の同一平面上で背後に建立されている。おそらく古は瀧に向かって参道があり、瀧から本堂に参詣するルートであったのかも・・と推測しています。寺伝では役行者の草創、弘法大師・恵亮和尚の経歴する所とし、坊舎40と伝える。本坊(真言)と穀屋坊(天台)の開基論争もあったが、明治45年本坊も天台宗に改宗。ただし参道脇に幾多の坊舎の石垣を残すも現在は僅かに本坊1坊のみで維持されているようです。近年、近くにおそらく行政によりつまらない施設が建設されたようですが、平日の9月ということもあり、まだ(おそらく行場であったであろう)瀧等修験の雰囲気が辛うじて残っています。(多分紅葉のころは人で溢れるのでしょうが)
和泉家原寺三重塔1
  同        2
  同        3
平成元年(1989)建立。総檜、彩色。当寺にはかって多宝塔が明治まで存在したようです(未検証ですが)。ともあれ無残な塔婆では無くて、本格的な木造塔婆が建立されたことは喜ばしいことです。古建築はないものの、広大な境内に諸伽藍が点在し、三本尊の内の文殊菩薩は日本三文殊の一つとされ、広く信仰を集めているようです。この地は行基菩薩の生誕地とされ、慶雲元年(704)生家を寺に改めて当寺が成立した。東大寺式伽藍が一山を埋めたが、度重なる兵火で衰微した。
和泉法道寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同    伽藍図
南北朝期正平23年(1368)建立。多宝塔中10番目くらいの古塔です。一辺4.75M、高さ18.63M。かの一乗寺を初め攝津・播磨地方の多くの寺院を開基したと伝える法道上人の開基とされ、上人がこの峰に上がってきて、常に鉢を飛ばし供養を受けたのでこの地を「鉢が峰」という。盛時は700余の坊舎があったと伝えるも、幕末には7院に減じ、現在は2院のみで維持されているようです。法道上人・鉢が峰という連想から深山を連想しますが、現在はバスで簡単に行くことができ、山と言うより丘で、おそらく坊舎があったであろうと推測される地は「公営?墓地(霊園)」になり、拍子抜けします。食堂(鎌倉期・重文)、金堂・大師堂・中門(いずれも江戸期)の堂宇を有する。中門は現在解体修理中です。以下は塔婆には関係ありませんが、参考資料です。
解体中の中門の桁・斗栱外された中門斗栱ジャッキアップされた柱
摂津法楽寺三重塔1
  同        2
  同        3
平成8年建立。木造本瓦葺き。素朴。塔婆は表門を入り、あたかも古代寺院の伽藍配置のように境内中央に建立されている。ただし狭い故に写真は撮りにくいです。また塔婆建立の趣旨は情報として現在掌握できていません。当寺は真言宗泉涌寺派の大本山あるいは別格本山と称する。寺伝では、治承2年(1178)小松内大臣平重盛の創建とする(院号を小松院と号す)。熊野参詣の途次に立ち寄り落慶法要を営む。この伽藍は戦国の末まで護持されととされる。現在はおそらく近世初頭より「不動明王」が祀られ「田辺の不動」として多くの信仰を集めているようです。市街地にあり、盛んな信仰活動を行っている「祈祷寺」のようです。なお慈雲尊者が得度出家した寺院でもあるようです。
2001/09/12
(ご提供画像)
河内善正寺跡・西塔心礎1
  同           2

野中寺塔婆跡

当ホームページをご覧の「X氏」より、以下の趣旨の情報ならびに塔心礎の画像のご提供をいただきました。ご好意に対し、お礼申しあげます。
東塔心礎石は民家の庭に保存されています。また一回り小さい西塔心礎石は野中寺塔跡の傍らに移されています。」(野中寺訪問時にはまったく気つきませんでした。)
「現地には、特に案内板はありませんが、羽曳野市の教育委員会には確認済みです。」
「西塔心礎は側面や上部を削平し、柱穴等の穿孔はありません。この形式は同寺東塔や、中宮寺塔の心礎石と同じ形式で、地下に設置されたものだそうです。」
西塔心礎1・同 2が今回ご提供いただいた画像です。
野中寺塔婆跡は2001/6/24日撮影画像で、この画像の野中寺塔跡の向かって左側のあたりに移設されたようです。(近年にまた別の場所に移動された可能性もありますが・・)
2001/09/01 播磨鶴林寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同     金堂1
  同        2
  同        3
  同    太子堂1
  同        2
  同     常行堂
  同     行者堂
室町時代再建塔とされる。文政10年(1827)大改修が行われ、初層はほとんど新材で補強。2、3層は室町期の特色が残されているとされ、特に外観では大きな逓減・軒の反り等古式を伝え、堂々と安定している印象です。初層の四天柱内に須弥壇を置き、大日如来を安置。
鶴林寺縁起では高句麗僧・恵便が播磨に身を隠していたとき聖徳太子が訪れ教えを受けた。後太子は秦川勝にに命じて精舎を建立した。(四天王寺聖霊院)養老2年(718)武蔵の国司「身人部春則」が太子の威徳顕彰の為七堂伽藍を建立した。天永3年(1112)鳥羽天皇の勅により「鶴林寺」と寺号を変更した。(この年現太子堂建立)中世には全盛期を向かえ寺坊30数ヶ院、寺領25,000石と伝える。近世には8ヶ坊、117石になり、明治維新後は宝生院・浄心院・真光院の3ヶ院、15,000坪に減じた。しかし現在も西国では屈指の文化財を有している。現伽藍として本堂(室町応永4年・国宝・折衷様の代表とされる)、太子堂(平安天永3年、1間四面堂正面庇付き・国宝)、常行堂(平安・重文)、鐘楼(室町応永14年・重文)、護摩堂(室町永禄6年。重文)、行者堂(室町応永13年・重文)、仁王門(室町)等を有する。
播磨一乗寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同     開山堂
承安元年(1171)長吏法印隆西・一和尚仁西の勧進で造立、承安4年(1174)仁増の勧進により完成。現存する三重塔では6番目の古塔で、平安期の2塔(浄瑠璃寺塔婆)の一つで、建築史上有名な塔婆です。今回は残念ながら金堂が解体修理中の為、金堂周辺に立入り出来ず、金堂への石段上及び金堂からの拝観は出来ませんでした。(将来の再度の訪問を予定)塔は古式を伝え、逓減率も高く、堂々とした姿です。なお狭い場所(急な石段途中造成地)に立っているため、全景は撮影しずらいです。南面階段途中から見る塔婆の木組みの雄大さには感動しました。
一乗寺は西国26番札所で多くの参詣者があります。当山は法道上人の開基と伝え、かつ当山が上人の活動の本拠地とされる。同上人の加持により孝徳天皇の病平癒があり、勅により白雉元年(650)本堂が落慶したと伝える。現伽藍として金堂(寛永5年<1628>再建・桁行9間梁間8間・重文)、護法・妙見・弁天の鎮守3堂(室町・重文・・今回は金堂とともに参拝出来ず)、常行堂・開山堂等がある。門前の左右には院坊跡と思われる石組みが見られるが、現在は本坊地蔵院・隣聖院の2坊のみのようです。<開山堂には法道上人を祀る>
播磨酒見寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
江戸寛文2年(1662)建立。酒見寺実相院・隆恵僧都と鉄屋与三兵衛尉氏之と共の建立、大工は住人神田宗左衛門とされる。(相輪の露盤刻銘)平地伽藍中に立つ、大型塔に属する塔婆で昭和51-53年の解体修理で彩色も鮮やかに復元され、その姿の雄大さとあいまって、かなり目立つ塔婆です。下層は本瓦葺・上層は桧皮葺に変更され、また以前の写真で見かけた上層を支えていた四天柱は撤去され建立当時の姿に鮮やかに戻ったようです。
酒見寺は古代酒部の酒見氏の氏寺として建立され、天平17年(745)行基の開基とする。その後天正年間兵火によって焼失。姫路城主本多氏よって現在の伽藍が再建された。現伽藍(南面)はいずれも正規の建築になる堂宇を備え、仁王門の右に地蔵堂・多宝塔・新観音堂、正面に本堂・鐘楼(本堂右)、左に引聲堂(常行堂)、さらに本堂左奥に御影堂を配置する。本坊は本堂右奥に数棟の建物を備えているようです。なお境内左には住吉神社境内が展開されていて、神宮寺としてのあるいは神仏習合時代のあり方を今に良く残しています。
播磨荘厳寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
正徳5年(1715)建立。檜皮葺。塔は建久年間(1190年代)佐々木嵩綱の造営と伝える。心柱墨書と棟札によって、正徳元年(1711)に起工し、同3年に棟札をあげ、同5年に完成していることが知られる。多宝塔は本堂に向かって右(南)にあり、やや規模の大きな塔である。下層は、一辺5.0M。中央間をやや広く14支分、両脇間は12支に割っていて、内部には背面寄りに二本の柱を立てて来迎柱とし、その前に禅宗様の仏壇を据えて釈迦如来坐像を安置する。上層は円柱12本を内法長押と台輪で繋ぎ、尾垂木付四手先の組物を組む。 多宝塔としては、意匠のうえでは特に取り上げるべき点を持たないが、構造的には立て上せ柱を用いて、いかにも近世らしい特質を示している。 大工は氷上郡久下谷川村清水七郎左衛門清光と清水武右衛門真信である。平成13年度兵庫県県文に指定された。<写真は夕暮で逆光のため良く撮れていません>
荘厳(しょうごん)寺は白雉年間、法道仙人の開基と伝え、加東郡の西光寺を行場とする修験の寺院であり、現在高野山真言宗に属する。現在の伽藍は姫路城主本多氏の寄進による。播磨のはずれの辺鄙な山里にあり、人知れず存在しています。山裾に本坊があり、坊舎跡と思われる地形を左にみて、山中を登っていくと杉・楓の木立の中の鐘楼・本堂(慶長11年)・多宝塔に達する。
2001/08/25 丹波大福光寺多宝塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同      本堂1
  同         2
はっきりした資料は無いようですが、様式等から室町中期建立とされる。1辺3.9M高さ13.27M。慈眼院多宝塔の一層に似て、若干平面に比べ立面が高い印象ですが、美しい多宝塔です。
なお中備えの蟇股には見事な彫刻がなされています。
蟇股画像:蟇股1  同 2  同 3  同 4  同 5  同 6
当寺は延暦年間に、鞍馬寺中興・法印釈法延が北東約2KMの空山上に創建したとされる。嘉歴2年(1327)足利尊氏が山上から現在地に移し、本堂はそのときの建立(桁行5間梁間5間・重文)。天正年間の兵火で多くの堂宇を焼失し、現在は本堂と塔と鐘のない鐘楼のみ残されている。現状、まず訪問者など考えられない、丹波の田舎の散村の中にひっそりと佇み、本坊は約100Mばかり北方にありますが、良く保存・維持されています。鎌倉・室町期の本堂・塔を残し非常に贅沢ですが、日本の原風景のような気がします。真言宗御室派。
但馬国分寺跡1
  同     2
昭和48年からの発掘調査で、南門・中門・金堂・講堂が一直線にならび、金堂・講堂間東西に経蔵・鐘楼、回廊は中門から金堂に取り付く。塔は金堂のほぼ西に築地に囲まれて1基建立されたことが判明。その他東南隅築地跡等が発見された。現状は民家:田畑の中に各伽藍跡の位置を示す立て札が立てられ、保存されています。塔址にはただ1ヶ礎石が保存されています。
丹波柏原八幡神社三重塔1
  同            2
  同            3
  同            4
  同            5
  同            6
  同         社殿1
  同            2
  同            3
文化10年(1813)から文化12年にかけて再建。(塔は応仁年間の創建で、下記の明智の乱で焼失。天正7年再興しまた焼失。)本殿のすぐ背後の石垣上に聳え立つ。初層は四天柱を立て、格天井をはり、来迎壁の前に須弥檀を置く。一辺4.96M。平成3年の台風で屋根が破損し、近年全面時に修理されたようで、屋根・彩色当再建時の艶やかさによみがえったようです。いかにも江戸期の関東風な派手な装飾があります。姿も江戸期風です。しかしながら男山八幡の僧侶は大塔・多宝塔を始め全ての坊舎に至るまで、仏教的なものを棄却したが、当社の塔婆は大変目立つにも係わらず、良く残されたものと「その寛容さ」に瞠目します。生き残りのすべとして、今も扁額は「八幡文庫」となっています。また塔前面左に千木のある鐘楼も残っています。
当社は万寿元年(1024)男山八幡宮の別宮として創建、後明智光秀の丹波攻めで焼失。天正10年(1582)秀吉は堀尾茂作み命じて再興。当時の拝殿・本殿(重文)が今に伝えられている。
丹波弘誓寺多宝塔1
  同        2
  同        3
昭和9年着工、昭和18年建立。忠霊の扁額あるいは建立時期からから推察ずると、塔建立の目的は「報国」・靖国神社の「寺院版」なのであろう。扁額は陸軍大将男爵本庄繁書とある。それは別にして、一辺6Mに近い大型塔で、かつ設計は初期多宝塔がモデルのようで、堂々とした塔婆です。なお当寺は「宇土観音」と呼ばれ、多くの信仰を集めているようです。本堂は戦後の再建・あと仁王門があります。曹洞宗の由。

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