過去に訪問した塔婆・ご提供画像(2001/6/10〜2001/8/24)

過去の訪問塔婆履歴

2001/08/24
(画像追加)
相模鶴岡八幡宮大塔 1972年頃鎌倉で入手した版画の絵図で、今手元にある、よく素性のわからない「鎌倉繪圖」を見ると、大塔が存在していたようです。ただし大塔が大塔の絵になっていないですが・・・。
和漢三才図会記事:・・・塔[五間四方]若宮の前にある。五智知如来を安置してある。
残念ながら、これ以上の情報は持ち合わせてはいません。
2001/08/17 三河三明寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
室町期亨禄4年(1531)建立。一・二層は和様、三層が唐様です。全てに彩色を用いない。一辺2.7M、高さ14.5Mの小型塔。3層目の屋根のきつい反りも唐様のようです。
大宝年間(701〜704)創建とされ、本尊の弁財天は平安時代の三河国司大江定基が作ったと伝えられる。鎌倉時代の初期に戦火にあって焼失、室町時代に再興したと伝える。当初は真言宗で、後に現在の曹洞宗に改宗。本殿内の弁財天宮殿は天文23年(1554)の造立で、重文指定。
三河妙厳寺三重塔1
  同        2
日本三大稲荷の豊川稲荷(伏見稲荷大社、最上稲荷)です。曹洞宗。本尊は千手観音菩薩で、境内には鎮守として咤枳尼真天(稲荷)が祀られている。総門、山門、法堂、本殿、奥の院まで、 100余の建物があるとされる相当な流行仏のようです。ただし流行仏の常で伽藍には品格はありませんが・・。三重塔は東京の信者の寄進とのことです。昭和55年(1980)建立。非常な小型塔ですが、檜造りの本格的な塔婆です。
三河国分寺跡1
  同     2
史蹟。塔跡の礎石が露出しており古くからその所在が知られていた。昭和60年以降発掘調査が続けられ、その結果約180メートル四方の築地で囲まれた寺域と南北方向に並ぶ門・金堂・講堂及び四方に塔が配置されている伽藍が確認された。また、回廊は金堂に取り付くこと、塔は一辺56尺の基壇とその外を飾る木造基壇があることが確認された。
しかし平安時代末にはおおかた荒廃した。 なお、東北400メートルには三河国分尼寺跡(現在、発見されている国分尼寺の中では最大のものといわれる)がある。現在は中世の再興になる曹洞宗国府山国分寺と国分尼寺の跡地には曹洞宗祗園山清光寺ある。
三河大樹寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
室町天文4年(1535)建立。松平清康の再興になる。一辺4.35Mで、桧皮葺き。
当寺は松平親忠が菩提寺として建立。徳川時代は徳川家先祖の菩提寺として厚遇された。現在も浄土宗特有の三門・本堂・大方丈等を備えている。(本堂は近年の再建のようですが、他は家光の再建のようです。)なお三門前の小学校は子院の跡地のようで、校庭を挟んで総門が建っています。
三河知立神社多宝塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同  東海道名所圖會
永正6年(1509)重原城主山岡中左衛門が再建。塔は嘉祥3年(850)神宮寺創建の時慈覚大師によって創建されたと伝える。明治の神仏分離の際、堂内の愛染明王を総持寺に移し、相輪をはずし瓦葺きにし、「知立文庫」(扁額は今も懸けられている)としてやっと保存された塔と伝える。後大正10年に修理、元の形に復元された。一辺4.12M。
東海道53次の池鯉鮒の宿にあり、社殿は造替され、また社頭を自動車道が横切っていますが、境内は江戸期の雰囲気を残しています。平地にある神社の仏塔ですが、よくぞ後世に伝えられたものと思います。塔に続く西方への道も江戸期そのままです。
東海道名所圖會の図は「東海道名所圖會・巻の三」より(部分)転用。
尾張荒子観音寺多宝塔1
  同           2
  同           3
  同           4
  同           5
室町天文5年(1536)建立。一辺3.5M・高さ11.5M。近年修理が終わったようで、すっかり新しくなりましたが、新材が目につき、多少違和観があります。屋根は新しく桧皮葺きになったようです。(前は銅板葺きであったようです。)
寺は奈良時代の草創と伝えるが、天正4年(1576)前田利家によって再興(利家生誕地と伝える)され、後尾張公の庇護を受けた。本堂は近年再興されたようですが、例によって、他の尾張観音霊場の本堂と同一で、醜悪です。多宝塔は立派ですが・・・。それと当寺には円空佛200体が伝えられているということでも有名です。
2001/08/17
(画像追加)
遠江秋葉山多宝塔 秋葉寺に多宝塔が存在していたようです。「東海道名所圖會・巻の四」より(部分)。
記事:秋葉社の側にあり。大日尊を安ず。
三河蓬来寺三重塔
  同     全景
かって三重塔が存在していたようです。「東海道名所圖會・巻の三」より(部分)。記事:源頼朝公の建立。梶原景時奉行のよしいい伝えり。常行堂とこの塔は、むかしの姿にて、造替なしという。
尾張笠覆寺(笠寺)多宝塔 「東海道名所圖會・巻の三」より(部分)。現状は「多宝塔2」の「尾張笠覆寺」を参照下さい。
美濃真禅院三重塔 「木曾路名所圖會」より「南宮大社」(部分)。神宮寺時代の三重塔です。詳しくは「三重塔2」の「美濃真禅院」を参照下さい。
2001/08/12 丹後円隆寺多宝塔1
  同        2
  同        3
再訪です。宝暦5年(1755)再建。再建前は三重塔であったようです。三重塔は享保17年(1732)焼失し、宝暦5年再建とされる。極めて近世風の多宝塔で、風格はありません。相輪は異様に長いようで、層塔のようです。また饅頭が漆喰ではなく、うろこ状になっています。内部には多宝塔としては珍しく心柱が通っています。現在須弥檀上には何も安置仏はないようです。円隆寺は高野山真言宗で長徳年間(995-8)に皇慶上人の創建とされる。現在も本堂・仁王門その他幾多の堂塔を有し、舞鶴寺町の主要寺院です。阿弥陀如来坐像をはじめ5体の重文指定の仏像を有する。
丹後智恩寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
室町明応9年(1500)丹後国守護代の府中城主延永修理之進が建立(銘文による)。本尊として金剛界大日如来を安置する。天の橋立の入り口の智恵の文殊にあり多くの観光客が訪れ、この意味では珍しく、広くその存在を知られた塔婆の一つであろう。楼門をくぐり本堂に向かう参道のすぐ左手に立つ美しい塔婆です。
丹後成相寺五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
純和様の伝統的な塔婆です。新造塔婆ですが、伝統的手法のゆえに、揺るぎない均整を持って、すくっと立っています。変な新造塔の多い中、この塔は必見です。平成11年完成(外観のみ?)のようです。高さ108尺(33M)。
成相寺は西国観音28番札所。慶雲元年(704)創建と伝える。塔婆の建立目的は何なのか知りませんが、とにかく復古調の本格的塔婆が建立(再興・戦国時代焼失)されたことは喜ばしい限りです。
丹後縁城寺多宝塔残欠1
  同           2
  同           3
  同         露盤
(露盤は塔残欠横の地面に放置されています。)
天保3年(1832)再建塔。昭和38年雪で上層が倒壊。以降40年近く下層に切妻屋根を乗せた状態のままです。寺伝では元明天皇代印度僧善無畏三蔵の開基とし、弘法大師中興とする。また延暦14年(795)桓武天皇より「縁城寺」の寺号勅額を賜る。その後衰徴したが、一条天皇の勅願により堂塔が再興され、西ノ坊・池ノ坊・東之坊・上ノ坊・下之坊・辻ノ坊・杉ノ坊・奥之坊・尾崎坊・宝積坊(以上衆徒坊)東之坊・志水坊・向之坊・山本坊・中尾坊・脇之坊・梅本坊・閼伽井坊・脇之坊・中之坊・小谷坊(以上行人寺)・力蔵坊・南ノ坊・藤本坊・大門坊の25坊があったとされる。文中3年(1374)上ノ坊から出火灰燼に記す。その後、金堂(永享2年)、下坊(永正8年)、西明院(元和8年)、心王院(寛永2年)、不動院(寛永20年)、弥勒院(慶安元年)、十輪院(寛文8年)と建立。貞享2年(1685)ほぼ全焼。再建後堂塔は本堂・ニ重宝塔・宝篋印塔・阿弥陀堂・熊野権現(仮堂)・鐘楼(仮堂)・西明院・十輪院・弥勒院・不動院・心王院・福井坊とされる。二重宝塔はもと願興寺塔婆を移建、堂中の四天柱は室町時代のものとされる。天保14年本堂・阿弥陀堂・弥勒院を焼失。嘉永元年(1846)本堂再建。明治4年十輪・心明・不動・弥勒の4院は無住になり西明院に合併。昭和2年丹後震災で総門・仁王門・庫裏が全壊。昭和38年の豪雪で多宝塔上部倒壊。現在本堂の痛みもひどく、堂塔の再興が待たれるが、かなり困難なものと思われる。
丹後国分寺塔跡1
  同      2
史蹟。塔婆礎石16個(心礎は在りません)、金堂礎石36個、中門礎石2個が現存している。ただしこの礎石は創建当時のものではない。創建後幾多の興亡を経て、建武元年(1334)金堂が再興され、また雪舟画「天橋立図」(室町期)中の伽藍配置と似ている。おそらく室町再興時の伽藍礎石と推定されている。当伽藍は天文11年(1543)兵火で焼失。
但馬温泉寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
明和5年(1768)再興塔。本尊金剛界大日如来。本堂(吉野・重文)横の石段上の高所に立つ。保存状態は良いようです。温泉寺は天平年中に温泉(城崎)の発見者である道智上人の開基と伝える。有名な城崎温泉にあり、山下の仁王門・薬師堂近辺は温泉客で溢れていますが、中腹の本堂・多宝塔はもの好き以外は余り訪れることは無いようです?。
2001/08/04 美濃円鏡寺三重塔1
  同        2
  同      楼門
平成元年(1989)竣工の新造塔。木造彩色。銅板葺き。弘法大師1150年遠忌で建立。新造塔ですが正規の塔婆です。当寺はこの地方(美濃北方)の名刹で、この地に溶け込んでいるようです。今なお多くの近世の伽藍を整備している。高野山真言宗。寺伝では弘法大師の創建とする。中世においても寺運隆盛で16坊を擁した。楼門(重文)は鎌倉期永仁4年(1296)の建立。その他重文仏像3体外の寺宝を有する。
美濃横蔵寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
寛文年間(1661-73)建立。塔は高い石組み上の際に立ち、かつ周りを広葉樹の木立が囲んでいるため、写真はとりにくい位置にあります。一辺3.65M。当寺は谷汲からさらに10KMばかり山中に入ったところにある。古くから延暦寺と関係があったとされる。古代中世は300余坊があり、近世には12坊があったと伝える。現在の伽藍は寛永及び寛文年間の再建とされる。伽藍は西面し、仁王門・本堂・三重塔・本坊の古伽藍と観音堂・瑠璃殿・舎利堂がある。再建前は両界山上に伽藍があり、仁王門・本堂址等が残っているようです。その他本尊薬師如来・大日如来(塔本尊)等の多くの重文指定の什宝を残す。山間の古寺で緑が美しくいつまでもこの景観が残れば・・と願うものです。
付録:名鉄谷汲線
美濃新長谷寺三重塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同       本堂
室町期寛正4年(1463)再建塔。均整のとれた秀麗な塔婆であろう。初代塔婆は二階堂行藤の娘の建立(徳治2年<1307>)とされる。また室町期の本堂・鎮守堂・薬師堂・大師堂・阿弥陀堂・釈迦堂(ずべて重文指定)等が同じ桧皮葺きで立ち並ぶ様は地方寺院としては類のない景観であろう。外に本坊中の客殿も重文指定。
真言宗智山派。寺院は関市の街中にあり、南面する。大門は参道のはるか南方に立つ。関は当寺の門前町として発達したと伝える。開山は護忍上人(弘法大師の四代法孫)。正安2年(1300)兵火で全山焦土と化す。七世隆覚上人(二階堂行藤の実弟)が再興。長禄元年(1457)伽藍の一部を焼失。村山頼秀・山内利道らが本堂を再建(長禄元年)した。近世には僅か4坊をとどめ、明治維新で金剛院(本坊中の客殿)のみを残した。
美濃岐阜公園三重塔1
  同         2
  同         3
大正天皇御大典記念として大正5年建立。寺院以外の塔婆で最初の建立されたものであろう。岐阜公園中の山腹下方にあり、写真は非常に撮りにくいです。近年新しく朱色に再度塗られたようです。軒の四隅に支柱がある。九輪は真ん中が膨らむ紡錘形をしている。内部は四天柱があり、須弥檀上には弘法大師像が安置されているようです。
2001/07/21 紀伊高野山大塔1
 同        2
 同        3
根本大塔は仁和3年(887)創建。正暦5年(994)焼失。康和5年(1103)再興。久安5年(1149)雷火炎上。保元元年(1156)再建。大永元年(1521)全山焼失。慶長2年(1597)復興。寛永7年(1630)焼失寛永20年(1643)再建。天保14年(1843)焼失し長く基壇を残すのみであったが、昭和12年に再建された。鉄筋コンクリート製。高さ16丈(48.5M)で、一辺約22Mの大建築です。中央は胎蔵界大日如来、四方の金剛界四仏、周囲16本の柱に16大菩薩像を描く(堂本印象画)。壁には真言八祖大師像を描く。後陣の2天像は中門の2天像を仮安置。
紀伊高野山西塔1
 同        2
 同        3
仁和3年(887)創建。正暦5年(994)焼失。大治2年(1127)再興。応永8年(1401)炎上。天文16年(1547)再建。寛永7年(1630)焼失後再建、現在伝わるのは天保5年(1834)に焼失後に再建された塔です。近世末期の塔ですが、維新前の大塔では外には根来寺の大塔しかなく、貴重な遺構です。高さ27.3M一辺12M。中央仏は創建時の金剛界大日如来で四仏は胎蔵界四仏を安置する。
紀伊高野山東塔1
 同        2
 同        3
白河上皇の御願により大治2年(1127)に創建。東塔も焼失再建を繰返し、現在は6代目の再建塔です。5代目が天保14年(1643)に焼失し、長期間礎石のみ残されていたが、昭和59年再建された。(ただし東塔はもともと大塔ではなく多宝塔です。)尊勝仏頂尊と不動明王・隆三世明王を安置。
紀伊高野山壇上伽藍図
  同      不動堂1
  同          2
  同      御影堂
  同      金堂
  同   東塔と大塔
高野山の歴史・文化財については多岐にわたり、とても一言では言い表せません。が・・
壇上伽藍図(高野山発行パンフレット):ただし西塔の絵が多宝塔形式になっていますが、正確には方5間の大塔です。大塔・西塔・金堂が伽藍の中心をなす。
不動堂:建久9年(1196)頃一心院谷に建立され、明治末年頃現在地に移建。高野山に現存する最古の建築。国宝。
御影堂:大師御影を祀り、信仰の中心の一つとなる。現在の堂は江戸末期の建築。
金堂:昭和再建堂。残念ながら鉄筋コンクリート製のようです。
東塔と大塔:東塔から大塔を見る。
紀伊高野山金輪塔1
  同        2
天保5年(1834)再建塔。一心院谷女人堂を下ったところ、西室院の向かい側あたりにポツンとある。本尊として一字金輪を安置する。明算上人(高野山中興に尽力)の廟所で嘉承元年(1160)創建と伝える。現在は少々荒廃しているようです。相輪が後方に傾いているようです。一辺4.95Mの中型塔です。
紀伊高野山金剛三昧院多宝塔1
  同               2
  同               3
  同               4
  同               5
貞応2年(1223)建立。現存する多宝塔では(河内金剛寺)石山寺塔に次ぐ古塔です。
一辺5.5Mの大型塔で、多宝塔の原型とも言うべき姿を今に伝える。自然環境の厳しいまた火災の多かった高野山で、幾多の塔婆が廃亡した訳ですが、その形の秀麗さとともに、良く今日まで伝えられたと感銘をうける塔です。
金剛三昧院は北条(平)政子が源頼朝の菩提を弔うために建立(禅定院)し、のち実朝の為鎌倉幕府は大いにその規模を拡大した。多宝塔もこのとき建立された。その後鎌倉期・室町期を通じ、当院は高野山の政治及び教学の中心寺院としての地位にあった。
多宝塔本尊は創建時の五智如来坐像(重文)で、内部には極彩色の菩薩像等が鮮やかに残されているようです。
紀伊高野山光台院多宝塔1
  同            2
  同            3

ただし写真はどれもこれも素人のため全く不鮮明です。

白河天皇皇子覚法親王あるいは後鳥羽天皇皇子道助親王の開基といわれ、高野御室と称する。多宝塔は道助親王の供養塔として建立されたと伝える。
塔は書院の庭の小池の上の丘の斜面中腹の潅木中に立つ。もとの塔は現在大阪藤田美術館に移建されている。現地の塔は移建に際し、藤田男爵が大正5年ころ同型に再建した塔です。ただし移建にあたり、藤田美術館塔は銅板葺きに改めれたが、この塔は桧皮葺きです。藤田男爵への所有権移転の経緯はわかりませんが、同型の塔婆を残したということは大いなる見識というべきか。一辺4.45Mの極めて小型塔です。
多宝塔1の藤田美術館多宝塔の項を参照。
参考)紀伊高野山六角経蔵 塔婆もどきの経蔵です。平治元年(1159)美福門院が鳥羽天皇の菩提を弔ための創建し一切経を奉納した。現在の建物は昭和8年の再建。木造のようです。
参考)紀伊高野山竜光院瑜祇塔 本中院谷にある。弘法大師の住坊であったと伝え、平安時代には高野山の中心寺院であった。背後の山上に弘法大師建立と伝える瑜祇塔がある。ただし昭和6年の再建です。
寺側によると一般は近寄ることは出来ないとのことで、竜光院の前庭から遠く拝観するしかありません。写真中央に微かに見えるのが瑜祇塔です。
参考)紀伊高野山南院仏舎利塔 現在は五之室谷にある。有名な本尊浪切不動明王を安置する。本堂背後北西の一角に宝塔もどきの仏舎利塔(のようです。)が建立されています。鉄筋コンクリート製?のようです。昭和6年建立。
参考)紀伊高野山成福院
六角三重塔
六角三重塔と称する塔婆が建立されています。多分鉄筋コンクリート製のようです。木造三重塔のシルエットとは遠く離れた醜悪な代物で、どういう感覚なのだろうかと思ったりします。昭和59年建立。一層は極端に大きく仏堂として作られているようです。写真のシートは門が建立中でその覆いです。
紀伊慈尊院多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同      本堂
現在の塔は室町時代建立で、江戸時代大改造されたとされる。もともと弘法大師の建立とされ、炎上後再建。再建塔は天文の洪水で流失し、その後再建されたのが現在の塔婆とされる。一辺4.65Mの中型塔で、重厚な感じの塔婆です。現在は補修が十分でないようで、いささか荒廃しています。相輪も傾いています。屋根は銅板葺きのようですが、相当錆ています。相輪から四方の宝珠に下がる鎖は全部切れています。
慈尊院は九度山にあり、弘法大師の御母堂を祀る(現在の本堂=弥勒堂です、鎌倉期の建築で重文。本尊弥勒菩薩は国宝)。中世は下政所として大きな権力があった。当院から大門を経て壇上伽藍に至る大門口は空海によって開かれた最初の表参道で、180の町石がある。この宝塔の背後左の石段途中に起点となる町石がある。なおこの表参道を数十町進んだ途中の天野に羽生津比売神社にも多宝塔があり、明治維新の神仏分離で取り壊されたと伝える。今回は距離的にあきらめましたが、いつの日にか訪問したく思います。
1972/05月
訪問
能登妙成寺五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
元和4年(1618)建立。総高34.27M。
妙成寺は日像上人開山・日乗上人創建。日蓮宗寺院としては、加賀前田家寄進の伽藍がほぼ1度も火災に遭わず残されている稀有の例とされる。五重塔のほか本堂(慶長19年建立、重文)・仁王門(寛永2年建立、重文)・鐘楼(同左、重文)・経堂(寛文10年建立、重文)・三十番神堂(元和元年建立、重文)・三光堂(元和9年建立、重文)・祖師堂(寛永元年建立、重文)・書院(万治2年建立、重文)・庫裏(文禄2年建立、重文)・釈迦堂(貞享3年建立、丈六の釈迦立象を安置)・開山堂(延宝5年建立)等の伽藍が現存している。
伽藍堂名不明
なお当項目の画像は昭和47年(1972)5月撮影画像です。
当時の伽藍図
1972年訪問 山城真正極楽寺三重塔 画像は昭和47年(1972)撮影画像です。
山城禅林寺(永観堂)多宝塔 画像は昭和47年(1972)撮影画像です。
山城本法寺多宝塔1
  同        2
画像は昭和47年(1972)撮影画像です。
山城醍醐寺五重塔1
  同        2
  同        3
画像は昭和47年(1972)撮影画像です。
金堂(国宝)・薬師堂(上醍醐・藤原、国宝)・上醍醐(左は如意輪堂、桃山・重文、右は開山堂、桃山・重文)
2001/07/06 大山崎(離宮八幡・寶積寺・相應寺・廃西観音寺) 大山崎(離宮八幡・寶積寺・相應寺・廃西観音寺)の記事を追加。
「大山崎史叢考」吉川一郎著 1953年刊 創元社 から抜粋しました。
2001/06/24 河内大聖勝軍寺多宝塔 下の太子と呼ばれる。高野山真言宗に属する。寺伝では聖徳太子が物部守屋と戦うに当たり、信貴山の四天王に祈願しその加護により勝利を得た。以上に報いるため本寺を建立したとされる。
多宝塔はご覧のように鉄筋コンクリート製で残念ながら正規のものではなく、期待はずれのものです。平和塔と称する。昭和46年(太子1350年祭)にあたり建立した。
本堂(地蔵堂)は明治21年の台風で倒壊し、昭和46年太子堂が復興した。この太子堂も鉄筋コンクリート製の趣味の悪いものです。
河内野中寺塔跡1(現状)
   同     2(礎石)
   同     3(心礎)
   同     4(現地案内板)
中の太子と呼ばれる。この地は太子や馬子の協力者であった「船史」の本拠地であり、氏寺として法隆寺式伽藍が建立され栄えたとされる。その後南朝の拠点であったため、焼亡・廃寺となる。寛文元年(1661)再興される。三重塔跡には礎石が13ヶ残存している。塔心礎は円形の心柱孔に三ヶの半円形の支柱孔を穿孔したもので、大和橘寺の塔心礎と酷似している。昭和60年発掘調査が実施され、東西13.6M・南北12.9M・高さ1.5Mの「壇上積み基壇」が発掘され、階段は東面(金堂向き)にあると判明した。いわゆる塔と金堂が向き合う野中寺式とも言われている。出土瓦から650年には塔が建立されていたことも判明。
一方5間四面と思われる金堂跡も基壇の高まりの中に礎石が現存している。現伽藍はきれいに整備され、多くの人の訪問があるようです。
河内叡福寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5(廟所)
  同        6(聖霊殿)
上の太子と呼ばれる。
多宝塔は承応元年(1652)の建立。江戸の三谷三九郎の建立。本尊は東面に釈迦・文殊・普賢の3尊像、西面は大日如来。近世の多宝塔中雄大な印象をもつ塔婆です。
聖徳太子の御廟を守るため建立されたとされる。のち聖武天皇の時代に東西両院が造営され、西院が現在の叡福寺となった。現在の伽藍はいずれも近世の再建ですが、金堂・聖霊殿(太子堂・桃山末期・重文)・廟所・仁王門・浄土堂・見真大師堂・弘法大師堂・念仏堂・客殿・二天門・上の御堂・聖光明院等多くの伽藍を配しています。
なお境内古絵図(室町)には、現多宝塔位置に五重塔、東院伽藍に三重塔、現墓地になっているあたりにあった塔頭?中に三重塔が描かれています。
大和當麻寺東塔1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
  同       7
  同    西塔1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
  同       7
  同       8
  同       本堂
  同       金堂
  同       講堂
有名寺院の故に詳細は割愛する。
創建当時の東西両塔が現在に伝わる稀有の寺院です。西塔(国宝)が天平末期で、東塔が天平初期の様式(建立)と言われている。両塔とも尾根の中段に位置し、仰ぎ見る形になりますが、近寄れば、その木組の雄大さに圧倒されます。また一段高い場所のため、境内のどの場所からも美しい「借景」にもなるようです。
通常の平地の南面伽藍配置を無理に、尾根を取り込む北向き斜面に取り入れた配置で「何故だろう」と考えさせられます。
尾根の中段の南大門は廃絶していますが、南面する金堂(鎌倉時代・重文・桁行5間梁間4間)と講堂(鎌倉時代・重文・桁行7間梁間4間)は健在です。それと直行する形で造営された(地形から当然ですが)仁王門・曼荼羅堂(本堂・国宝・平安期・現在の外観は桁行7間梁間6間・一重寄棟造り)等の幾多の伽藍があります。さらに主要伽藍の隙間に塔頭が割りこんで建立されています。現在は真言宗の中之坊・松室院・不動院・西南院・竹之坊、浄土宗の奥院・護念院・念仏院・来迎院・紫雲院・極楽院・千仏院・宗胤胤があります。
その他當麻曼荼羅を始めとする多くの寺宝があります。
東東1:本堂から望む。東塔3:西塔から望む。
西塔1:東塔下から望む。西塔6:本堂から望む。
河内善正寺跡>
(埴生廃寺跡)
薬師寺式伽藍配置を持つ白鳳期寺院があったようです。昭和24年の発掘調査で確認された。両塔とも一辺10Mの凝灰岩切石基壇であった。東塔からは大正期舎利容器が出土。戦前は基壇の高まりが確認できたようですが、現状は共同墓地と住宅地であり、掲載すべき写真はありません。が現場の案内板写真(部分)を掲載します。
河内田辺廃寺跡1(西塔跡?)
  同       2(東塔跡?)
西面する春日神社境内に南面する形で寺跡は残されているようです。ただし春日神社周辺の寺跡は鉄条網で囲われ、立ち入り禁止の措置が採られていて、基壇・礎石等を確認することは、私ども素人では現状出来ません。(そこまでしなくてもと思いますが・・)
秦氏一族田辺史氏の氏寺として白鳳時代に建立。東西両塔を持つ薬師寺式伽藍と確認されている。東塔は塼積み基壇で美しく残り、西塔は瓦積み基壇で、両塔礎石も良く残っているとのことです。
河内国分寺跡1
  同     2
  同     3(案内板から)
長年探索されていた河内国分寺跡は、昭和45年塔婆跡がほぼ完全に発見され、確定された。ただ立地している場所は台地上の削平地であり、単純な平地伽藍では無いようです。おそらく東方の金堂院とは別に区画された塔院の中に塔婆が建立されたようです。ただし高台ですから、遠方からよく見え、荘厳さの演出効果は抜群だっただろうと想像されます。なおこの国分寺跡の訪問は、雑然とした市街地の中で何の案内も無く、大工場の裏手(南東)にあり、初めて訪問するとたどり着くのに一苦労します。(正確な地図を準備しなかったのが悪い?)
河内知識寺塔心礎

河内知識寺石碑
(旧伽藍地住宅地にあり)

知識寺は奈良東大寺の大仏造立のモデルとなった大仏を本尊としていた寺院とされる。聖武天皇等の参詣があったと記録されている。伽藍は東西両塔を備える薬師寺式といわれ、この心礎は東塔心礎と推定される。東塔跡と推定される現在地の北方山本義一氏宅東南隅の土蔵付近から出土し、現在地(石神社境内)に打ちしたもの。長径は122CMをはかり、50Mに近い五重塔であろうと推定されている。なおこの付近に北から至近距離に三宅寺、大里寺、山下寺、家原寺、知識寺、鳥坂寺と古代寺院が並んでいたようです。
2001/06/10 山城寶塔寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
再収録

寶塔寺概要

過去の訪問塔婆履歴