3月12日午後、渡波小学校に入る

渡波(わたのは)小学校の入り口が見えてきた。
裏門である。 門から校舎の入り口まで、敷地内に人がたくさんいる。
予想のとおり 避難所になっていた。

      
図1.(左) 渡波小学校裏門(職員用入口だけが壊れていた) (津波から2年後の6月に撮影)
図2.(右)の庇の突き出た部分は、学校給食用の搬入口。 その左の入口から校舎に入る。

渡波小学校が災害時避難所になることは知っていた。

通学路の途中に石巻市の避難先案内の看板があった。
石巻市報には、校舎が災害対策用に
最大震度にも耐えるように改修したとあった。

校舎は、職員、来客者通用口の庇(ひさし)部分は壊れていたが、
校舎本体は、問題なさそうだ。 
(庇部分とは、図1.左 の車が停車している茶色の上の部分をさす。)

自宅にはすぐにでも戻りたい。 しかし、これまでの瓦礫の状態では、
「今夜休む所」を確保しておくことがまず肝心だと考えた。

そこで、敷地内に入り、周りにいた人に
「受け付けはどこですか?」と、尋ねた。

どこからともなく、
「にかい、二階!」 と、声がきこえて来た。
だから、二階へ向かう。


浸水したはずの校舎に靴のまま足を踏み入れる。
一階のコンクリートの床は泥だらけだったが、
津波の泥が堆積している状態ではなかった。
運動会の時生徒や父兄が靴のまま教室や廊下入り口を
歩きまわることがあるが、その程度である。

人がいっぱいいる。 階段を上がる。
階段は、上る人、下る人で体が触れるほどだ。
階段も泥だらけである。
人の声で騒がしい。

二階の廊下はそれほど汚れてはいない。
二階の廊下も人がいっぱいである。
学校の休み時間のような感じ。
速足では体が触れ合うぐらいの人の混み具合。

教室の廊下側の壁や廊下にあるホワイトボードには、
安否を求める貼り紙、書き込みが既にたくさんあった。

小学校なので鉛筆やサインペンがたくさんあるようだ。
避難所として機能を始めてから
既に相当時間が経過している雰囲気がした。

逆を言うと、私のように海岸線から十分遠くまで避難した人は少なく、
自宅にとどまったまま被災、あるいは、せいぜい小学校まで避難をして津波にあい
渡波(わたのは)小学校に集まったのだろう。


教職員と思われる人たちが入っている教室を発見。
二階のコンピュータ室(たぶんパソコンを教える教室)である。
職員の一人に声を掛けた。

「わたしの家は海の近くなので、今日は戻れそうもありません。
今夜はここに泊めていただきたいのですが、受付はどこでしょうか?
登録が必要ならば、名前、住所を書きたいのですが・・・。」

職員:「受付はありません。 何もありません。
登録などもありません。」

「そうですか。 どの教室に入ったらよろしいですか?
この教室には入らないでください、ということがあれば
それを教えてください。」

職員:「どこでもかまいません。 体育館と校舎2階、3階の教室に
避難の人が入っています。 どこでも構いません。
好きな所に入ってください。」

「わかりました。」

職員:「例えばですね」
と、教室の後ろの入り口を出て、
その隣の教室の前の入り口へ私を導き、
教室の扉を開けた。 教室内に人がたくさんいる。

職員:「ここに名前を書いてください。」 見ると、
教室の前の入り口の廊下側右扉に一枚の紙が貼ってある。
ノートを破いた一枚の紙、名前と町名が書いてある。

職員:「ちょっと待ってくださいねー。」と、
職員は教室に戻り、鉛筆かボールペンを持って来る。
職員:「ここに名前と住所を書いてください。
町内名だけ、簡単でよいです。」

「わかりました。」
筆記具を受け取り、自分の名前と町内名を書く。
もうすでにたくさんの名前があった。
一枚の紙の3分の2ぐらいの位置、下のほうだ。

この一枚の紙をカメラで写した写真、 あるいは、
この紙を手で書き写し、その写しの写真が、
渡波(わたのは)小学校の避難者の名簿として、
インターネット上に掲載された。
(私の筆跡でない写真も市役所で見たからである。)

親戚は、これを見て、わたしの安否を確認した。

肉親を捜す人は、渡波小学校を訪ねて、
各教室入り口のこの紙片(名簿)を見てまわった。


お礼を述べて、筆記具を返し、頭を下げながら教室に入る。


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