JR石巻線の線路上を歩き 渡波(わたのは)小学校へ向かう

線路に登り歩き始める。
線路は地面よりも50センチメートルほど高い。
津波に洗われているようだ。
線路上にガレキがある。
線路がぐにゃりと曲がっているのが見える。

ここは太平洋の海岸線から750メートル、
入り江の海岸線から1250メートルの地点である。

変だな、鉄道の線路はこんなにも軟らかいもの
だったのだろうかと思った。

周辺の家々は倒壊はしていないが、薄い壁や、
物置の側面のトタンは海水の流れで破られている。
家財が透けて見えているお宅もある。

線路の敷石が流されて線路が空中に浮いている箇所が何か所もある。
スムーズに線路上を歩くことはできない。
4−5回線路を降り、地面を歩き、再び線路上に戻るを繰り返す。

海からかなり離れた線路上でこのようでは、
我が家はどうなっているのだろうか? もう無いかもしれない。

JRの線路上を何人ぐらいの人が歩いていたか?
1−2メートル間隔で人が歩いていた。
たまに反対方向から来る人とすれ違うこともあった。

線路上を歩く人は無言ではなかった。
声をかけあいながら、声を出しながら歩いていた。

「ここは危ないから気を付けて!」
「あー、線路が曲がっている!」
(敷石が流されて線路が空中に浮いている)
「こっちの家は、壁が抜けてこわれている」
「魚だ、魚だ! ボラ、ボラ(魚の名前)、ボラだ」
(線路わきの水たまりに津波で流されて来た魚が跳ねまわっている)


やがて渡波(わたのは)小学校の建物が見えてきた。
渡波(わたのは)駅の手前150−200メートル付近。
線路上から線路わきの細い道路へ降りることにした。

ちょうど、線路上から道路側へ渡れるように道ができていた。
ガレキの上に板が渡されて歩きやすいようになっていた。
通常ならば、高いフェンスで線路側から道路側へ行くことはできない。
フェンスが半分壊れ、瓦礫の積み重なりで高さがちょうど同じとなり、渡りやすくなっていた。
道路は元々幅4メートルほどなのだが、瓦礫で人がやっと歩ける程度である。
30−60センチメートルほどちょうど瓦礫が除かれていた、
あるいは踏み分け道ができていた。

道路に降りたところで、このまま渡波小学校へ向かわずに、その反対方向の
自宅へ向かう最短の道の通行が可能かどうか調べてみることにした。
結果は100メートルも歩かないうちにわかった。
ガレキが軒下まで積み重なり通行は無理だ。

渡波(わたのは)小学校へ向かうことにして、引き返した。
その時、ばったり、顔なじみの宮城生協渡波店のレジ係の女の人に出会った。
顔なじみと言っても個人的にお話したことはない。
その女の人は私を見るなり、にっこりと笑顔となった。 そして、
自転車を引く私に、「この道は通り抜けられますか?」と、尋ねる。

私はよく道を尋ねられる。 仙台駅などで・・・。

「瓦礫が軒先まであって通り抜けられません。
今見てきたところです。 でも、もしかすると、人が一人通れるような
隙間があるかもしれません。 すぐそこなので、行ってみてください。」

「はーい、ああそうですか」 ですれ違い別れる。 

この女の人が大津波以降最初の笑い顔の人となった。
でも、どうして私の顔を見て、にっこり笑顔になったのだろう?
不思議で、わからない。 この後、笑顔の無い世界へ入る。


渡波小学校に向かう。



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