3月12日、避難所 渡波小学校の教室の中 1.

石巻市立渡波(わたのは)小学校、午後4時頃

教室の中に靴のまま入る。

教室の中に20−30人いた。
机と椅子は、窓側と教壇側にまとめられている。
床はコンクリートのまま。

皆座り込んでいる。 毛布にくるまっている人もいる。
毛布を敷いている人もいる。 ダンボールを敷いている人もいる。

体の調子が悪いのか頭から衣類をすっぽりとかぶり
床に寝たまま動かない人も二人いた。

教室の中は雑然としている。
教室の前後の入り口から人の出入りが激しい。
教室の前後の入り口付近にももちろん人がいる。

私は窓側の空いているところで子供用椅子にすわった。
毛布も段ボールもないので冷たい床に座るわけにはいかない。

窓から校庭を見る。
(外部リンク先の2番目にある写真です。)
多量の木材などのガレキで校庭全体が覆われている。
(ただし、この写真は津波直後の写真ではない。
ガレキを集めた時期のようで、実際よりもガレキの密度が高い)
校庭の中には流されてきた自動車が5−6台見える。
(たぶん、それ以上だったかもしれない)
多量の木材、ガレキだ! しかし、よく見ると、校庭全体に
一様に瓦礫があるわけではない。 まだら模様である。
不思議なことにガレキの無い、水たまりもある。

周りにいる人に尋ねてみた。
「渡波小学校はどこまで(海)水が上がったんですか?」
ある人は一階の天井までだと答えた。
別の人は二階まで浸水したと話した。
(しかし、後で調べてみると、どちらも正しくなかった。)
中には、三階まで浸水したと言う人もいた。 
さすがに三階までは、二階の教室の中を見渡せば
浸水していないことは明らかなのでその場で否定した。


渡波(わたのは)小学校は私にとって海から遠く離れているという元々の想いがある。
(渡波小学校は、太平洋の海岸線から650メートル、入り江の海岸線から600メートルにある。)

ここでこんな状況では、さらに海に近い我が家ではどうなっていることか・・・。
(自宅は、太平洋の海岸線から500メートル、入り江の海岸線から150メートルにある。)
もう家は流されたかもしれないし、破壊されたかもしれない。


空はまだ明るいが、気温が下がり始めた。 もうまもなく暗くなる。
これから家に戻るのは無理だ。 明日にすることにする。


私は、リュックをひとつ背中に背負い、
もう一つのリュックに両手を通して、胸の前に抱え込む。
手袋をつけたまま、椅子に座り、体を丸めて休む。


教室は雑然としている。
大きなラジカセを持ち込みがんがんと音楽を鳴らしている者がいる。
ラジオのニュースを流すわけでもない。 何のために鳴らしているのかわからない。

近くでは、仙台から車で帰宅途中、津波に遭遇したことを延々としゃべり続けている女もいる。
話の筋道が辿れない。 地名がわからない。 意味がわからない。
誰を相手に話しているのかもわからない。

怒っている人はいない。 泣いている人もいない。 笑っている人もいない。
歩き回っている人がいるわけではないが、教室への出入りが激しい。 
大きな声で話をしている人がいるわけでもないが、何か騒々しく、雑然としている。

体の調子が悪いのか頭からすっぽりとかぶり床に横たわったまま動かない人がいた。

そのうちの一人に誰か女の人が声を掛けている。
「大丈夫ですかー? 大丈夫ですかー?」
返事があるのか、ないのかわからない。
顔は見えない。 男か女かもわからない。 
体が動いているようには見えない。

暗くなってから、救急隊員4−5名が到着、タンカに収容して教室を出た。

救急隊員はガレキの中を、どこからやってきて、どの道路を通り、何処へ搬送したのだろう?
救急車のサイレンは来る時も、帰るときも聴こえなかった。
その後は不明。

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もう一人、私のそばに、体の調子が悪いのか、
たくさんの重ね着をして、横たわっている人がいる。
毛布を下に敷いていない。 顔も頭も見えない。
顔、頭もすっぽりと衣服をかぶっている。

その人に同じ女の人が声を掛けている。

「大丈夫ですかー? 大丈夫ですかー?」
「具合が悪い? 具合が悪い? えー、えー}
「もうちょっと辛抱してね、もうちょっと辛抱してね・・・」

返事があるようだ。 体が動いているのがわかる。
おばあさんのようだ。 小柄だ。 着ぶくれして体が丸く見える。

しばらくして、被っていたものから少し顔を出し、私の方を向く。

小さな弱い声で、「わたしねー、 ぐあいがわるいの・・・」と。
両眼に一杯涙をうかべている・・・。
そして、なぜか、ふっと微笑んだ。
70歳代半ばの女の人。

アクセントや言葉使いや表情から海で働く家庭の人ではないようだ。

近くの女が 「あんた、どこがわるいの? え? どこがわるいの?」と、
大きな声で聞く。 何か話しているようだが内容はわからない。

私は悪寒(寒気)がするのですかと額に手を当ててみた。 熱は無い。
(私は、当時、 「低体温症」 という言葉を知らなかった。)

女が夫に対して、隣の教職員の教室へ行き薬をもらってくるように話す。
結局、薬は無い。

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数日後だったか、1週間後に、このおばあさんから聞いたお話によると、

木造平屋建ての家の中に海水が入り浸水した。
偶然、目の前に畳が浮き上がってきたのでポンと飛び乗り、
家の長押(なげし)につかまり、一晩中海水に浸かったままでいた。
朝になり家の外に出て、止まっていたバスの中で着替えをすることができた。
バスの中に入れてもらい、着替えをすることができたので助かった、とのことであった。

(このおばあさんの家は、太平洋の海岸線から600メートル、
入り江の海岸線から400メートルにある。

浸水深は正確にはわからないが(私の調査では)
170センチから300センチメートルである。

夜には津波の海水は引いたはずだが一晩中海水に浸かりながら
家の長押(なげし)につかまっていたとのことだ。 バスはどこに止まっていたのだろう?
この家からバス道路は二方向にあるが、どちらも300−400メートルは離れている。

今は、このお宅は解体されて更地になっている。
隣近所の家も解体されてしまい共に周辺は更地だ。)

(大変な体験をした人に次のようなことを書くのは大変心苦しいが、)
大地震の後、大津波が襲来するまでのおよそ50分の間
津波避難をすることなく自宅にとどまっていたことも大事な事実である。

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暗くなる少し前

「各クラス班長を決めてください、と連絡が来ています。
誰か班長さんをやってくれる人はいませんか?」

誰からも返事がない。
結局、連絡事項を大きな声で伝えた女の人が
「それじゃ私がやります」と、引き受けた。

毎日朝7時(その後、夕方4時にも)班長会議が開かれることになった。


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