大津波の翌日(3月12日)の午後 家へ向かう
家へ向かう道路は3本ある。
山すそを巡る道路は通行できる。
家へ向かう道路は、浸水のためどれも通行できない。
急速に海水が引くだろうと予想した。
25000分の一の地図によると、周辺の土地は、海方向に傾斜している。
田んぼの用水路は太平洋の海岸に口を開いているからである。
しかし、急速と言ってもどの程度かはわからない。
1時間経過単位では、海水が引いているようには見えない。
2時間経過すると、海水が引き始めているのがわかる程度であった。
やがて午後3時が過ぎた。
午後4時を過ぎると暗くなる。 もうこれ以上は待てない。
野宿するか、水の中を突破するか決断しなければならない。
水に濡れても行けるところまで行くことにした。
避難してきた同じ道を戻ることにした。
自転車を踏み始めた時、さきほどの魚行商のおばあさんに
10メートルほど先から大きな声で、声をかけられた。
「あんた、なんか食べたか?」
「いいえ、何も食べてません。」
「根岸の公民館で食べる物を配ってるそうだから、
あんたももらうといいよ!」
「ああ、そうですか。 わかりました。
ありがとうございます。」
でも、どうして根岸の公民館で食べ物を配っていることを知っているのだろうか?
浸水のためこれまで根岸の公民館まで行くことができない状態だったのに・・・。
まあ、とにかく出発した。
道路は大雨の最中の道路の状態であった。
水の中を自転車で走った。 予想以上に水は引いていた。
これならばもっと早く出発してもよかった。
およそ600メートル走り、渡波公民館根岸分館にどり着く。
浸水したはずだが、乾いたせいか浸水の様子はない。
(2年後、根岸公民館近くに住む農家の人によると、根岸の公民館は
周辺よりも若干土地が高くなっているので浸水しなかったとのことだった。)
公民館内の小さい部屋は人でいっぱいだった。 お年寄りと子供。
調理室の机の上にはスナック菓子の袋がたくさん散乱している。
お年寄りが壁に寄りかかり毛布にくるまり丸くなっている。
お年寄りなど皆の世話をしている40才前後の女の人がいた。
その女の人に尋ねた。
「(あなたは)公民館の人ですか?」 「ちがいます。」
「市役所の職員はいますか?」 「いません。」
「(ここで)食べ物を配っていると聞いたのですが、食べ物を配っていますか?」
「配っていません。」
がっかりした。
公民館の調理室の机の上にあったスナック菓子の袋や食べ物の袋は
みな個人の持ち込み物だとは・・・。
女の人は、非常にそっけない態度で、私にそっけない返事をした。
私の質問にはすべて答えた。 返事はきちんとしたものだった。
私は、この女の人に悪い印象はない。 むしろ、
さっさとお年寄りや避難してきた子供らの世話に戻って行く姿を見て
非常に感心してしまった。 公務員でもない普通の人が
このような災害時に自主的に、自然に皆の手助けをし、世話を始めているからである。
非常にすばらしいことだと思った。
根岸の公民館は、人でいっぱいなので、通路と調理室の床以外休む所はなさそうだ。
だから、ここに留まっているわけにはゆかない。
さらに、およそ100メートル走り、(海抜3メータぐらい)
家の中や庭から浸水した海水を掃き出ししている人に会った。
話しを聴く。
床上浸水ではなく、床下までの浸水であると。
何時頃家の中にか海水が入ってきましたか?
−−> (津波が既に引いた)夜になってから、
家の脇を通る、田んぼの用水路を伝わり、
海水がじわじわと上がってきた。
「ここまで水が来るとは思わなかったなぁー」と、
何度も独り言のように繰り返す。
さらに、おおよそ200メートル走る。
道路から100メータ離れた田んぼの中に
津波で流されてきたと思われる、乗用車1台、
その道路の反対側の150メートルほど離れた田んぼの中に
乗用車が2台積み重なっているのを初めて見る。
津波に流されて民家の生け垣で止められたようだ。
この付近は太平洋の海岸線からおよそ1200−1300メートルである。
この地点で少なくても車の屋根の高さまで浸水したとは、と驚く。
もう自分の家は流失してしまい、無いかもしれないと覚悟をする。
私の家は、
入り江の海岸線から150メートル、
太平洋の海岸線から500メートル
にある。