津波の後の最初の朝 (3月12日)


午前4時、寒さのために目を覚ました。

外はほんのり明るい。
熟睡ができた。 3時間熟睡!

私は元々睡眠不足に弱い。 短時間だが
「熟睡」 できたので大変うれしかった。
今日、一日きっとうまく行動できる。

午前4時半から午前5時頃になると、起き上がる人多し。
縁側に出て外を見る人や小さな声で話し始める人がいる。
皆出発準備を始める。津波に関する話はほとんど無し。
私は体力温存のため横になったままでいた。

襖(ふすま)一枚隣の部屋に乳幼児と添い寝している
母親3組ほどがいるのを知る。

そうだ、昨日の夜、乳飲み子にミルクをあげたいのでお湯がほしい、
トイレをかりたいと、この家の中に入っていった女の人たちだ。
そのままこの家に泊めていただいたらしい。

この家の主人公はすごい、さすがにガレージに
「尚武」 の額を掲げていただけのことはある、
どのような方なのだろうか、と思った。


この家の奥さん(おばあさん)が部屋に入ってきた。 そして、
「わたしの家の縁側から海を見ると、眼の高さが
ちょうど松原の松の木高さと同じなんですよ。」 と、話すのが聞こえた。

確かにそうなっている。 縁側から太平洋の海を見ると
海岸線の松原が見える。 眼の高さが、ちょうど
松の木の高さと同じだ。 私の家にも大きなモミの木がある。
だから、ここは海抜、12メートル前後であることがわかった。


午前6時あるいは6時半頃挨拶をして外に出る。
家人には挨拶はしたが、泊めていただいた者どうしは、
挨拶することはなかった。 あっという間に皆いなくなった。


家を出て坂道を下ると、十字路の道端で
たき火を囲んでいる人たちがいた。
たき火を囲んでいる人は10ー15人ほど。 
入れ替わり立ち代わりたき火を囲むので20−30人ほど。
津波の情報はない。 津波の話もない。 無駄な話しもない。

たぶん自動車のラジオで津波被害の様子を聴いているが、
津波被害の現場をまだ誰も見ていないからだと思う。

時々ちょっと互いに小声で言葉を交わしているぐらい。
女の人の中に 「家(うち)が心配だ・・・」 と話す人がいた。
男の人でそのような話をする人はなし。

どちらかと言えば、皆無表情、無言のままである。

頭の上を小型ヘリコプターが次々と何機も飛ぶ
海岸方向では中型のヘリコプターが飛ぶ
皆ヘリコプターを見上げるが、無言のままだ。

しかし、
渡波町内をぐるぐる廻り被害の様子を調べているヘリは一機もなかった。
ヘリは、渡波(わたのは)町内を通過するだけであった。

たぶん津波の被害は、チリ地震津波(1960)の時のように、
渡波町内よりも、はるかに、V字形のリアス式海岸の三陸海岸沿いの町や
牡鹿半島沿いの小さな集落の方が大きいからであろうと思った。

ヘリコプターを見上げながら考えた。
津波の被害は甚大なのだろうし、甚大なはずだ。
東京の国(政府)はもうそのことは知っている。
救援はいずれ来るだろう。 心配することはない。
2−3日後には救援のおにぎりを食べることになるだろう。
2−3日辛抱するだけだ。
(結局、このおにぎりの予想は外れてしまった・・・が、
救援はいずれ来る、心配することはないことはまちがいなかった。)

この時期なのに、田んぼに水が張っているのに気付く。
周りの人にこれは津波の水ではないだろうか?
と訊ねるが、皆首を傾げるだけで返事なし。

中国人のグループ
水産加工会社に務める中国人のグループが作業着姿のまま避難して来た。
自動車の中から食料品を取り出し互いに分け合っている。

たき火の周りに人がいなくなると中国人のグループがたき火に集まる。
焚火の周りに日本人が集まると、中国人はたき火から離れる。
それを繰り返す。

午前10時頃、小学生の男の子が一人とぼとぼと歩いて帰って来る。 
農家の母親が大きな声を出しながら家から飛び出し走って来る。
「心配してたよー、 心配してたよー! 心配してたよー! 」 と、
甲高い声で駆け寄り男の子を抱きしめた。 
男の子は母親の下できょとんとした表情のままである。

たき火の周りの人はいっせいに振り返り見る。
誰もそれに対して言葉を発しない。 黙ったまま。

町の方向へ向かう


冠水のため町の方向には戻れないことを知る。
水が引くのを待つことにする。


焚き火の周りに戻ってくると、50歳ほどの男の人が私に話しかけてきた。
「先ほど農家の人が通りかかったので訊いてみた。 農家の人の話によると、
今の時期、田んぼで水を張る農作業はない。 だから、
田んぼに今張っている水は、津波の海水なのだろう、とのことです。」 と。 
私は納得して、お礼を言った。


渡波町内の明神社付近でヘリコプターが長い時間、
ホバリングしているのが見える。 
何かを引き上げているのかもしれないが、それは見えない。

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最初の噂(うわさ)話を聞く。
「北上川の河口にある石巻市立病院は津波で流されてしまった。 
日和山から見ていた人から聞いた。 
津波で流された自動車が3−4台積み重なっている。」、と。


娘さんが石巻市立病院の看護婦という魚行商のおばあさんがそれを聞く。
大変心配の様子だ。  そこで、私は、
少し離れた所で、ラジオで聴いたことを話した。

私はこれまでNHK仙台第一放送のニュースを聴き続けている。
南三陸町の志津川病院に関するニュースはあった。

しかし、石巻市立病院に関する、NHKのラジオニュースは、
これまでのところ、全く 「無い」、私の今言えることはそれだけです、と伝える。


魚行商のおばさんは 「おうようだね、おうようだね、・・・、応用だね!」 と、非常に喜ぶ。
初め 「おうようだね」 の意味がわからなかった。 
「応用だね!」 の意味だとわかった。 当たり前のことを伝えただけだったが、
たしかに、そういえば、「応用」 なのかもかもしれない。




(ーー> このおばさんとは四日後に再会した。 )



1時間おきに町の方向へ向かう。
浸水の海水が引かず途中で戻る、
たき火で暖をとる、農家の
ビニールハウスへ入るを繰り返す。


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