3月13日(大津波2日目) 朝、避難所から自宅へ向かう
手書きの新聞を発見
2階の教室を出て、いよいよ家に向けて出発だ。
校舎1階の出口左横の掲示板に手書きの新聞が貼ってある。
石巻日日新聞社の大津波を伝える手書きの新聞であった。
このような大変な時に、よくぞ、手書きで新聞を発行したものだと思った。
石巻日日新聞社は日和山(日和が丘)の向こう(仙台側)で海側にあり、
直線でも6000メートルは離れている。 陸側を迂回すれば
8キロから10キロはある。 誰がどのように運び
張り出したのだろうか? たった2キロメートル
もどってくるのだってたいへんだったのに!
このような時の、このような新聞は、たいがい、
新聞協会などから賞を受けるはずだ。
だから、ゆっくりと読んでみた。 読んだ後、もう一度、
新しい情報があるかどうかに着目してゆっくりと読んだ。
NHKのラジオニュースを聞いていた私にとって
それ以上の新しい情報は何もなかった。
新聞を発行した人には悪いけれども、私は
その場で新しい情報がないことを明確に意識して確認した。
ただ、うわさには惑わされないようにという、赤い字の注意書きは
頭に残った。 そうだそのとおりだと思うと同時に、あたりまえだ
そんなことはわかっているとも思った。
予想通り賞を受けたようだ。
http://www.atlanta.us.emb-japan.go.jp/nihongo/hts2.html
http://news24.jp/articles/2011/06/29/10185432.html
http://news.walkerplus.com/article/24377/
グーグルの検索
私の読んだ新聞 と リンクした新聞 がピッタリ同じではないが、
新聞1面にある題字があり、そして、
写真にあるような単純な割り付けになっていた点は同じだ。
(新聞の内容を読むことができるもうちょっと鮮明な写真が欲しい。)
6日間手書きの新聞が発行されたようだが、3番目のリンク先の
6枚の新聞を見ると、私の記憶に残っている新聞は1枚目の新聞に最も近い。
新聞2枚目以降のような具体的な情報はなかった。
次の号の新聞を翌日、翌々日、見たような気がするのだが
何も新しい情報がない新聞との意識で見たせいか
はっきりとした記憶はない。
壁新聞に新しい情報が載っていなくても、同じ市内のどこかで
新聞を発行する活動をしている人がいる、新聞を
運んで来る活動をしている人がいると知っただけで、
自分の力になったことはことは確かだ。
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自転車が30−40台
校舎の外に出ると、早くも、たくさんの人が活動を始めていた。
校舎入口の張り出た校舎側面に沿って
避難者の自転車がおよそ30−40台並んでいた。
自転車での通行は無理だとすぐにわかる。
徒歩で自宅に向かうことにする。
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亡くなった人にささげた花を見る
自宅に向かい歩き始めて、小学校敷地の角を曲がろうとしたとき、
道端の角に花が置かれているのが目に入った。
図1.花: たぶん幼い子がここで亡くなったのだろう。
渡波小学校敷地の角(JR渡波駅側、渡波郵便局正面の道路の向かい)
写真は2年後に撮影したものだが、津波の日の二日後(3月13日朝)には
ここに花が供えられていた。 3年後の今(2014年)もある。 名前はない
5年後の今(2016年5月)もある。
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道路は全面ガレキで埋め尽くされていた。
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