第四十七回:モティヴェーションと私


高校や大学の頃のバンド仲間は、今でも楽器を弾いてるんだろうかと、 ふと思うことがある。

もちろん音楽への関わり方なんて十人十色で、 バンドなんてものは楽しくやるための手段であって、 別にそれがテニスやスキーでもあまり結果が変わらないぜウハウハ、 といううらやましい、いや違った、不真面目で軟派で許し難い、 出来ることなら代わって欲しい、いや違った、 成敗してくれるわちくしょうちくしょう涙で前が見えんわ、 って何故泣く、という人もいれば、 こいつから楽器を取ったらただそこに駄目人間が残る、という人もいた。

私はというと、非常に残念なことにどちらかといえば後者に近かったのではないか。 しかし、「音楽というものは、そして楽器というものは、 己をどれだけ懸けられるかの真剣勝負、負けた奴は裸になる」なんてことを 書きたいのではない。 自分も、音楽への情熱を燃やし続けることの難しさを感じているところなのだ。 ところで裸にならなくてもいいと思うんですが。

学生の頃からずっと楽器が好きで今もやってます、 という困った人たちは置いておいて、 楽器を続けてますという話をすると「打ち込めるものがあると良いですねぇ」 「好きなことをコツコツと続けられるというのは素晴らしいですねぇ」なんて反応が 来ることがしばしばある。ちなみにドラムをやってますという話をした時の 一番多い反応は「手足がばらばらに動いてすごいですねぇ」であるが、 これについてはまた別の機会に触れたいと思う。

これって、そう言いつつも半分は「好きなんだから続いて当たり前じゃん」と 思っているのではないかと推測するのだがいかがだろう。

世間には誘惑がたくさん落ちていて、ついつい面白そうなものに手を出してしまいがち なんじゃないだろうか。一つのことを情熱を持って続けていくのは 意外に難しいのではないか。

周りの人を見ていて思うんだけれど、私よりいろんなことに通じていて、 バランスの取れた大人が多くて、振り返って自分を見るとどうもバランスが悪く、 普通そのぐらいのことは知ってるだろということを知らなかったりする。 昨日も 15 分 100 円の駐車場に車を入れる際に、そのシステムが分からずに 駐車場の入り口をふさいで説明書看板を熟読して周りに迷惑をかけたりしていた。 しかしアレはいかなる仕掛で駐車スペースに車が入り続けていることを感知するので あろうか。説明書によると駐車スペースに車を入れて、2 分後に車止めが置きあがり、 その後は時間に応じた料金を入れないと車を出せなくなるとのことであるが、 駐車スペース A にぽこんと車を入れて 30 秒後にお金を払わずすぐ出して、 隣のスペース B に入れた場合、スペース A はどうなっちゃうのか考えると 夜も眠れず昼に眠ってしまうぞ。

学生時代なんて、周りに面白いことはいっぱいあったはずだ。けれど、 夢中になったことを思い出してみると、バイクには乗っていたけれど 八百屋のおっちゃんが仕事でカブに乗るのとあまり差の無い付き合い方だったし、 学生の本分である学業なんてこんな所で例に出せるような状態じゃなかったし 女の子に夢中でしたなんてのは誰でもそうであるし胸を張って 言えることでもなさそうだ。

うーむ。旅行とかなんとか、もっと楽しくて見聞の広がりそうなことに 夢中になっていれば良かったんじゃないのか。俺よ。 そういえば大学時代、学食で知った顔数人がディズニーランドの話をしていて、 あ、俺も何度か行ったことがある、と話の輪に入ったらアメリカのヤツの ことで恥をかいたことがあるな。 やはりディズニーランドにはツいていないようだ。 とほほ。

とにかく良かったのか悪かったのか、奇跡的に音楽くらいにしか興味が なかったのだな。

そして、いろんなものを犠牲にしてバランスの取れた知識習得、つまり 駐車場の使い方とかアメリカ旅行の仕方とか、そういうものを放棄して 打ち込んだ音楽に対しても、続けることが難しいと感じる瞬間がある。 まぁ、打ち込んだといってもその結果はこのとおりであるし、 そっとしておいて下さい。旅に出ます。探さないで下さい。という感じだ。 やっぱり打ち込む要領が悪いんだろうなぁ。

さて、著しい上達も見られず、他に楽しいこともある、となると、楽器を続ける モティヴェーションってなんだろう。

音楽が面白いと思えること、を大前提として、

まず、演奏するという行為が面白いこと。例えば、特に曲を弾くわけでもなく楽器を 手にして戯れに音を出しているのが楽しい、という。「音楽は好きで 楽器も弾くが、楽器は嫌いだ」なんて人が居るわけないじゃんと思われるかも しれないが、楽器が自分からすごく遠く離れている感じ、楽器を持っても 楽器が話し掛けてこない感じ、というのはあるものだ。上達しなくて嫌になって しまうこともあるだろう。

それから、良い題材、演奏対象があること。こういうタイプの音楽がすごく 好きなんだけれど、一体全体どこから手を付ければいいのか、何を練習すれば 良いのかさっぱり分からぬ、という状態だとやはり敷居が高く感じてしまう。 ああ、こういう音楽を演ってみたい、と思わせるニンジンが、遥か彼方ではなく 鼻先にぶらさがっている時、練習は楽しいものだ。かと言って、ぱくりと 食べられてしまう距離では前に進まない。

さらに、演奏の場。そしてなんらかの形のフィード・バック。 ライブで演奏してお客さんに見てもらう、 とか、デモテープを完成させて聴いてもらう、とか。 あるいは第三者を意識しなくても、仲間同士セッションして楽しんだり、あるいは、 自分のために曲を作って自分で演奏するというのもあるのかもしれない。 フィード・バックといえば、ギャラという形もあるかもしれないなぁ。

とまぁ、こんなに簡単に単純化できるものじゃないとは思うけれど、 ヨタですから。本気で怒ったりしないように。

この三条件のうち一つが欠けた例、つまり、

  1. ギターは好きで、時々セッションもするんだけれど、昔から弾く音楽のジャンルが ずっと決まっていて、実は最近レパートリーも増えてない

  2. 俺、ローリング・ストーンズのファンでキースばりにポーズ決めたくて メンバー集めてライブの予定も立ててるのにジャンケンで負けてビル・ワイマンに なっちゃった

  3. やはり情熱のラテンです。灼熱の太陽です。メンバーが一丸となってグルーヴ するんです。最近はインターネット・ショッピングでレアな CD の入手も可能に なりました。練習ネタにも事欠きません。各種パーカッションも取り揃えました。 さぁ、レッツ・ダンス! しかし彼が住んでいるのは過疎の村。 若者は村にたった二人。村で人気があるのは八代亜紀
というケースで、モティヴェーションを継続させるのは難しいような気がしませんか。 まぁケース 2 はそのままベーシストとして邁進する可能性も結構あると思うけど。 ケース 3 は、そもそも何故彼がラテンフリークとなったのかという部分に 注目したいところです。

プロミュージシャンでさえ、歳を取ってからも自分のスタイルに囚われず 前進を続けるという人は少なく、「自己のスタイルを確立」という言葉の上に ちょっと胡座をかいていたらスタイルに脂肪がついちゃった、という例が後を絶たぬ。 ジミー・ペイジよ。その首周りはなんとかならないのか。

いわんや、アマチュアである。ヘタクソである。観客もちょぼちょぼである。 卒業と同時に学生サークルを脱退、楽器を手にする機会もぐっと減り、なんて 良くあるケースなんだろうと思う。 逆に、結婚式の二次会で久しぶりに仲間と音を出したらすっげーヘタになってたけど 楽しかった、またやろう、なんてケースもあるにはあるのかな。 その後続けていくことはやっぱり難しいかもしれない。

そう考えてみると、楽器を続けることは案外骨の折れることなのかもしれぬ。

自分の音楽へのモティヴェーション低下理由は、 いくつかのバンドは、メンバーが多忙だったり産休だったりで活動休止(演奏の場)、 以前からやっているバンドには若干新鮮味を失い(題材)、という辺りだろう。 そこへ来て麻雀だったり だったりして、 延いては音楽そのものへの興味も危ぶまれる今日このごろ。 自分でも珍しいと思うのだが、CD もここ二ヶ月ほど買っていないというテイタラク。

そこへ、復活への兆しが見えそうな企画。とあるところから声のかかった お祭りバンド。バンド形態はピアノトリオ、演奏するのはジャズであるという。

前にも書いたが、ジャズは難しい。 そして、面白い音楽だ。練習しなきゃ、という気にさせてくれる。 スタジオでセッションするのは取り敢えず楽しくて、 一応人前で演奏する予定もある。上で書いた三つの条件がまずは出揃っている。 私が昨日久しぶりに CD を買ったのも無関係ではあるまい。

考えてみれば、飽きっぽい私が楽器を続けてこれたのは、 そんな風な絶妙のバランスを持った機会を、幸運にも与えられ続けていたから、 だったのかもしれない。ありがたいことだ。 そしてやっぱり、人と会うことで生ずる何か見えない力が、 大きな後押しとなっていることを意識させられる。人と会おう、と改めて思う。

とすると、楽器を演らない人が音楽を聴きつづけるモティヴェーションって なんだろう、と考え始めると、夜も眠れず昼に眠ってしまうのである。


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