第三話:理想の自動車


皆さん、自動車に乗りますか。

運転する方や助手席専門の方などいろんなケースが考えられるけれど、 多少なりとも車に接する機会がある、という方は少なくないのではないか。

私はというと、これまではもっぱらレンタカー・ドライバーで、 年に数回、レンタカー屋のパンフレットで一番安いところに載っている 車種を借りて出かけるくらい。以前住んでいた家の近所にあったのが 日産レンタカーで、マーチばかり借りていたので 街中でマーチを見掛けると「あ、愛車だ」と思ったりしていた。

さて、自動車に乗る機会を有する皆さん、自分にとって「理想の車」とは どんな車でしょう。

この度、私はどういう風の吹き回しか車を入手しようと決心したのだが、 さて何を買えば良いのかさっぱり分からぬ。まずは自分にとっての理想の車を 想像してみることにした。

なにぶん運転に不慣れなので、運転しやすい車が良いな。 家のそばには狭い道もあるし、コンパクトなボディがよい。

しかし室内があまり狭いのも考え物だ。長距離乗ったら疲れてしまう。 やはりある程度の余裕を持って大人四人が座れるサイズが必要だ。

サイズだけではなく、運転のしやすい姿勢が取れるかどうかも大事だ。 的確なドライビングポジションからの広い視野。安全運転の第一歩だ。

そう、安全。当然安全には気を使ったものでなければならぬ。 万一衝突など起こった際には風船が膨らんだり、 ボディが衝撃を吸収したりして乗員を守ってくれる。 急ブレーキの際にもタイヤが空回りしてしまわぬよう電子制御してくれる。 願わくば、ボタン一つで車がジャンプして障害物を飛び越えてくれるとか、 ボンネットの下から鋸が出てきて障害物をなぎ倒してくれるとか、 そういう車がありがたいのだが、実際に走っているのはあまり見ない。 おかしいなぁ、昔テレビで見たような気もするんだけど。

だが反面、あまりもたもた走られても困る。やはりアクセルを踏めば びゅわーんと加速しちゃったりして、運転がうまくなったアカツキには サーキットの狼となって早瀬左近との勝負も辞さぬ。 しっかりとした足回り、クイックなハンドリングはスポーツ走行には欠かせない。

さらに坂道をものともせず駆け上るようなパワーも欲しいが、 坂道といえば、坂道発進。教習所を出て早十年以上、 オートマチック車しか運転していない私に 坂道発進が出来るかどうか非常に不安である、というのは恥ずかしいので ここだけの話にしておいて欲しいのだが、 最近はオートマチックも進化し、燃費や動力性能も上がっていると伝え聞く。

坂道だけではない、もっと悪路、雪道にもどんどん分け行くバイタリティも欲しい。 クロスカントリー。アウトドア。車にそういう荒っぽいイメージを期待するのも 悪くないじゃないか。

また、やはり車というのは人と物を積んで走るものだ。実用を考えると やはり荷物はそれなりに載らねばなるまい。後部座席を折りたたんで大きな 荷物スペースを確保するといった機能も必要だろう。何せ私はドラマーなのだ。 ドラムセットが載らないような車は私の車ではない。シートをフラットにして 寝転がれるというのも面白そうだ。

パワー・ウィンドウキーレス・エントリーなど、 最近では普通になった便利機能も当然必要だ。 車内には適切なところに適切なポケットが配され、 使いやすくまとまっている。オート・エアコンで快適な温度が保たれる。 そうそう、音楽好きの私にはCD プレイヤーなども 付いていてくれるとありがたい。 静寂性も高く、豪華かつ上品なインテリアが落ち着いた雰囲気を醸し出す室内は、 上記のような広くゆとりのある室内とあいまって、後部座席に乗った人が、つい 立派なスーツ(コナカ特売不可)を着込み、ゆったりと足を組み、 葉巻を燻らせ、携帯電話で 「ふむ、その件は私からクインシー・ジョーンズに話をつけておこう」 (もちろん英語) とか話しそうになってしまうという。素晴らしい。

忘れちゃいけない、フォルム。かっちょ悪い車に乗りたいヤツなどいない。 やはり洗練され、なおかつユニークな車がよい。いわゆるセダンタイプよりは 一ひねりしたボディ形状を持つ車が好みである。 あまりにメジャーな車はつまらぬ。かといってあまりにマイナーな車種はちと 不安だ。

そして最後に、経済的な車でなければならない。燃費がよく、価格も安い。 というわけで、上記希望を全部満たして 100 万円。

良い車だと思いませんか。

ところが、これが無いのだ。何故だ。私の希望はかなり皆さんの思う理想像に近いと 思うのだ。つまりニーズの多い車のはずだ。ニーズの多い車を作れば 売れるはずだ。しかし、無い。不思議だ。残念だ。私は失意の中で 中古車情報誌カーセンサーをめくるのであった。 おいおいベンツが 30 万って大丈夫かよ。

つまり、こういうことなのだ。完璧な車は存在しない。

では、どのファンクションを削るのか。セダンでないとすると、 ファンカーゴ、ディンゴなど流行のミニバンか。 あるいはレガシーなどのワゴンタイプか。 それとも街乗りも OK のなんちゃってクロカン、RAV4 辺りか。 うむ。RAV4。そのなんちゃってぶりはいかにも私に似合っているかもしれぬ。 ボディサイズもそれほどではない。乗用車よりは見晴らしも良さそうだし、 多少悪路にも強そうだ。なかなかわくわくするじゃないか。

いやまて。

正しい決断を下すためにはやはり 自分自身の今を、そして過去を見詰め直さなければなるまい。 実は車には苦い思い出が二つあるのだ。

蔵王のすぐそばに上山温泉というところがある。大学時代、私はそこへ 二十日ほど滞在し免許を取得したのであった。所謂「合宿免許」である。

講習の中で「自分がどのくらい運転に向いているか」を精神面と運動面から 分析する簡単なテストのようなものを受けた。 運動能力にはなんの問題もなかったのだが、精神面のテスト結果を教官が見て 「んむ、おんまぇはかんならずぅ事故おこすなぁ」とバリバリの山形弁で 予言しやがったのだ。それも「必ず」である。 これから免許を取ろうと燃えている若者に対してもう少しましな言い方は なかったのか。今となっては、何故そういう結果になってしまったのか分からない。 どんな質問にどんな答を、19 歳の私はしたのだろう。「トンネルの中を 100 Km で 走行中、つい『このままこの車を壁にこすり付けたらどうなるだろう』と妄想 してしまい止まらなくなりますか? YES/NO」「YES」なんて答えてないんだけど なぁ。

さて、首尾よく免許を取得した私。免許をお持ちの皆さん、覚えていますか。 取りたてだったあの頃を。運転したくてしょうがなかった青春の日々を。 甘酸っぱい思い出を。初めての恋を。って思い出さなくても良いことまで 思い出している私である。

幸いなことに家には車があった。普段は父が通勤に使用していたので、 狙い目は休日だ。車種はローレル。初心者が運転するには ちとデカい車だが 5 ナンバーだし、教習車(カペラだった)もそれなりの大きさ だったわけで、私はイケルと判断した。

ある日曜日。父は家でのんびりしている。私は暇。免許取りたて。 このチャンスをものにしない手はない。 ちょっとそこら辺一回りするだけだから、と言い残してクルマのキーを掴んで 外へ。

本当に、「ちょっとそこら辺一回り」のつもりだったのだ。その証拠に、 私のいでたちはジャージにサンダルだったのだ。特にふざけているつもりはなく、 すぐ帰るつもりだったのだ。だから地図も何も持たなかった。

さて、当時私は西葛西という所に住んでいた。千葉県との境界近くの町である。

乗り慣れていない人間にとって、車というのは案外速いもので、あっという間に 結構な距離を移動してしまう。ああ、そろそろ家に戻らなきゃ。ん、ここは 一方通行なのね。じゃ、こっち…おっとこれ行くと高速乗っちゃうのか、 えーと、それじゃここ入って、あ、このまま行くと川を渡っちゃうじゃん、 まずい、どこかで曲がらなきゃ、えーと、あれ、もうここって橋の上?

そして私は辿り着いた先は、どういうわけだかディズニー・ランドの駐車場であった。

もう半泣きである。道も分からない。方向も失った。その前に運転だけで精一杯。 誰かに聞こう、それしかない、そう思って私が選んだのは駐車場の係員さんであった。 すまない。名も知らぬ係員さんよ。さぞや脱力されたことであろう。 しかしもっとトホホだったのは私本人なのだ。挙動不審の日産ローレルから現れた、 ジャージにサンダル、肩まである髪、という不気味ないでたちの男。その男から 発せられたセリフが

「すみません、東京、どっちですか」

それでも親切な係員さんは大まかな道順を教えてくれた。ああ、ありがたい。 これでまた東京の土が踏めるのだ。希望の地へ向けて私は再び発進した。 ほどなく道路案内の青い看板に見慣れた地名を発見した時、私は狂喜した。 ここを右へ曲がれば。右へ曲がれば。安らかな家が待っているのだ。 スイート・ホーム・ニシカサイ。 そして信号が青に変わる。そりゃ行け右折ぢゃーっ! と、その行く手には対向車線の左折車が…

どっかーん。

双方大きな被害はありませんでしたが、 あちらはドアが少し凹み、こちらはバンパーが少し歪みました。 当然、悪いのはこちら。

初一人ドライブ。初迷子。初事故。初示談。なんとも波瀾万丈な経験を通して 私が車と疎遠になるのも無理はあるまい。その後 250cc のバイクを入手して 通学にも利用し、「公道を運転すること」と縁が切れることはなかったのだが。

こう見えても(どう見えるんだろう)、私が大学時代に籍を置いていたのは 工学部機械工学科である。さらに熱機関研究室である。周りは当然クルマ好きばかり。 モーターショーがどうだとか話し合う仲間達の中で、私はというと相変わらず 楽器を弾きに学校へ来ていたわけで、 どうも居場所を間違えていた感もあるがまぁそれなりに楽しかったし、 こういう人生の綾を楽しむのも悪くなかったかもしれぬ。

閑話休題、つまり、この思い出から導ける結論は、こうだ。 「ヘタなんだから安全なのに乗っとけ」

嗚呼。過去が突きつける無情な結論に屈服せざるをえないのか。 走って楽しい車か。安全な車か。悩む私。その横で 「これが可愛くて安全っぽいからこれ」とか茶々を入れる嫁。 実は上に書いた RAV4、結構本気で考えてたのだ。RAV4 オーナーの WEB サイトを 見て回ったりもしたのだ。なんでも RAV4 の ML まであるらしく、 よし入手したら入っちゃお、なんてことまで思っていたのだが。

だが。

迷走の末に辿り着いたのは、何故か、使い勝手と安全性はハイレベル、 しかしスポーツ心のまったくない こんな車になったのだった。 上述の「私が思う理想の車」でアンダーラインを引いた項目が、まぁ一応実現 出来ているのではないかと思われる機能である。足は組めるのだが、残念なことに クインシー・ジョーンズとのコネがない。

それにしても侮れない。嫁の茶々。 なんかなぁ。試乗したら気に入っちゃったんだよなぁ。RAV4 より。

まぁこれも、人生の綾ってことで楽しまなきゃね。


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