頼まれたのはチーズをまぶした塩気のある生地を薄く伸ばしたものをスティック状にし、香ばしくカリカリに焼き上げたもので、二年前にたまたまラウルが買ってきたこの一品を口にして以来、彼女の主はこれがいたく気に入った様子で、折に触れて所望するようになっていた。近頃は葡萄酒と共にたしなむことが彼の中で定番らしい。
下戸(げこ)のラウルはそういう味わい方が出来ないので、もっぱらお茶の時間におやつとして純粋に楽しんでいる。それを知っているエドゥアルトはいつも多めに注文してくれるので、この後宮廷に戻ってからのお茶の時間がラウルは楽しみだった。
「私もご相伴(しょうばん)に預かろうかしら。ケーキを食べたばかりだけど、これ美味しいのよね。甘い物を食べた後って塩気のあるものが欲しくなるし」
そう言いながらラウルの抱える包みを見やるティーナにラウルは笑顔を返した。
「うん、そうしなよ! ハンスは食が細いからどうせあんまり食べないし、大勢で食べた方が楽しいし美味しいもん」
「そうね。このままお邪魔しちゃおうっと」
普段調剤室にいることの多いティーナはラウル達と一緒にお茶の時間を過ごすことがあまりないので、ラウルはますますお茶の時間が楽しみになった。
「それにしても今日はチーズスティックのお店、やたらと混んでいたね。何でかな? 買えるまでけっこう並んで待ったし、売り切れたらどうしようってちょっとヒヤヒヤした」
そんなことにならなくて良かったぁ……と安堵の息をつくラウルに、ティーナは軽く小首を傾げてみせた。
「ラウル、知らないの? 今、そのチーズスティックを使ったちょっとしたお遊びが若い子達の間で流行ってて、それもあってスゴく人気なのよ」
「えっ、そうなの?」
「うん。主にお酒を伴った席で行われることが多いんだけど、最近は若い貴族が集まったお茶会なんかでも場を盛り上げる為に行われたりするみたい」
「へえ、そうなんだ。それってどんなの?」
軽い気持ちで尋ねたラウルにそれを答えかけたティーナは、何を思ったのか、開きかけていた口をつぐんでしまった。
「ティーナ?」
「んー、多分エドゥアルト様もハンスも知らないだろうから、みんなでお茶を飲んでいる時に話そうかな。その方が説明するのいっぺんですむし」
「えー? 面倒臭がりだなぁ。まぁいいけど」
顔をしかめはしたものの、ラウルはさして疑問に思うこともなく、その話題はそこで終わりとなったのだ。
*
第五皇子の執務室へティーナと共に戻ったラウルは、エドゥアルトに釣り銭を手渡しがてら、チーズスティックの店の繁盛ぶりや品物が売り切れてしまうのではないかとヒヤヒヤしたことなどを賑やかに報告した。
書類に目を落としたままそれに相槌だけを返すエドゥアルトに文句を言うでもなく、ラウルの陽気な声は続く。そんな見慣れた光景を尻目に、黙々とお茶の準備を始めるハンスをティーナが手伝いに立っていた。
「相変わらずねぇ、あの二人は」
「そうだね」
「あれから何か面白いことは起こっていないの?」
「君が期待しているようなことは何も」
「あら、残念」
小声でそんな会話を交わしながら、二人は手際よく準備を進めていく。
そしてお茶の準備が整い皆が集まったところで、さっそくチーズスティックにかじりついたラウルが「そういえば」とティーナに切り出した。
「さっき言ってた最近若い子達の間で流行ってる遊びって何? このチーズスティックを使うって言ってたやつ」
「ああ、それねー。エドゥアルト様とハンスは知ってます? 若い貴族達の間で最近お茶会なんかでも行われている余興なんですけど」
「いや? 知っているか、ハンス?」
「いえ、存じません」
二人の回答を聞いたティーナはにっこり微笑んだ。
「ある意味、度胸試しのような、一種の勝負性のある遊戯なんですよ」
「勝負?」
そのワードにラウルの目がキラリと光った。一方のエドゥアルトはあからさまに胡散臭げな面持ちになってチーズスティックを眺めやる。
「勝負? これを使ってか?」
「ええ、そうです。このスティックの端と端を口にくわえて、対戦相手の目を見据えながら互いに限界ギリギリまで食べ進めるんですよ。先に耐え切れなくなってスティックを折ってしまったり、口を離してしまったりした方が負けという、いわゆるチキンゲームですね」
それを聞いたエドゥアルトは興味なさげに吐き捨てた。
「くだらないな」
「ところが、やってみると案外色んな戦略が必要なんですよ。目線や表情での駆け引き、洞察力に度胸と運。様々な要素が入り混じってなかなかに奥深いし、何より場が盛り上がるんです」
「ティーナはやったことあるの? それ」
興味津々のラウルにティーナは奥ゆかしい物言いをした。
「ふふ、何度かね。色んな方と交流するのは私のたしなみのひとつでもあるから」
「はー。でもそれ、失敗したら最悪相手と口がくっついちゃうじゃん。その辺はどうなの?」
「そこは相手を見極めて臨機応変に、ね。生理的に無理な方だったら早目にスティックを折るなりしてリタイアしちゃえばいいし、同性の場合は失敗しちゃっても場を盛り上げる余興になるし。意中の人が相手なら、ゲームを口実に甘いひと時を夢見られるわけだしね」
「なるほど」
その辺りが人気の源なんだろうな、と納得するラウルの前で、ティーナが隣のハンスを仰ぎ見た。
「何ならどんなものか、試しにハンスとやってみましょうか? 今」
急に矛先を向けられてしまったハンスはあやうく飲みかけの紅茶を吹きそうになった。
「ごほっ! ティーナ、何を……」
「いいからいいから」
ティーナは戸惑うハンスに有無を言わせず彼をその場に立たせると、自らも立ち上がってチーズスティックを一本口にくわえ、彼の首に両腕を回して自身の上体を逸らせる姿勢を取った。
チーズスティック一本分の距離を置いて二人は密着するような格好になり、グラマラスなティーナに真正面から見据えられる形になったハンスは挙動不審に目を泳がせた。
薬師の証である白の長衣(ローヴ)を少し着崩した彼女の胸元はやや大きめに開いており、緩く巻いた褐色の長い髪とこちらを見つめる少し目尻の下がったエメラルドの瞳とがひどく艶(あで)やかだった。
それに彼女からは男なら誰もが惑わされずにはいられないような、華やかないい香りがする。
何やらティーナの良からぬ企みに巻き込まれてしまったようだと理解しつつ、主君であるエドゥアルトの手前あまり騒ぎ立てるのも憚られ、ハンスは懊悩(おうのう)しながら、美麗な同僚を苦々しく見やった。
こちらが困惑し動揺していることなど分かり切っているだろうに、それを意に介する様子なく、ほら、と言わんばかりに口にくわえたスティックを振って催促する女。
苦り切りながらハンスが差し出されたもう片端を口にすると、それを合図にするようにティーナがスティックを食べ始めた。
ハンスも反対側からかじり始めるが、思った以上に早く相手の顔が近付いてくる。
小動物が小枝をかじるような音を立てて近付いてくる魅惑的な赤い唇にハンスは少々気後れしながら、余裕たっぷりなティーナに少し意趣返ししてやりたい気持ちもあって、自分の方からは絶対にスティックを折らない決意を固めていた。
これに懲りて、ティーナも少し反省すればいい。そして思いつきで自分を妙な陰謀に巻き込もうとするのをやめてくれたらいいのだ。
だが、ティーナの勢いは止まらない。長い睫毛に縁取られた蠱惑的な瞳もハンスの瞳を捉えたまま、逸らされる気配がない。
決意に反してハンスはあせった。
―――ちょっ……このままでは本当にぶつかっ……!
最後の最後、追い詰められたハンスが首を思い切り横に捻り、二人の唇が重なるのはすんでのところで回避された。
「はい、私の勝ち~」
高らかなティーナの勝利宣言に、ハンスは顔を覆って膝から崩れ落ちたくなった。
「おー、確かに色んな駆け引きが見て取れたけど、何だか見ていて小っ恥ずかしいね。まあ場が盛り上がるのは分かるかな」
拍手しながらそう感想を述べるラウルに、ティーナは素敵な笑顔で水を向けた。
「でしょ? はい、じゃあどんなものか分かったところで、次はラウルの番ね。せっかくだからエドゥアルト様との勝負なんてどうかしら?」
「は!?」
まさかの無茶振りにラウルは耳を疑った。
「何言ってんの、エドゥアルト様がそんなことするわけないじゃん!」
さっきだって「くだらない」って吐き捨ててたし!
「てか、この国の第五皇子ともあろう人にそんな真似出来るわけないでしょ!」
「そうよー、帝国の第五皇子という立場にある御方だもの、何処へ行ってもこんな遊戯に興じる機会なんてないのよ。そんなことを勧めてくる相手がまずいないもの。だからこうして、主君が経験し得ないものを経験することの出来る機会をひとつ設けてみせるのも、臣下としての務めと言えるんじゃないかしら?」
どこか楽しげに、もっともらしい理屈を取って付けるティーナにラウルはがなった。
「あのね!」
「別に強制してるわけじゃないし、どうするかはエドゥアルト様のご判断よ。ラウルがエドゥアルト様にはとても敵いそうにないって思うんならあなたの相手は私がしてもいいし、何ならハンスでも」
「―――私は遠慮させてもらうよ、もう充分だ」
ティーナにみなまで言わせず、ハンスは辞退を申し出た。
彼女との対戦だけでこんなにも消耗してしまっているのだ、ましてやラウルの相手など、それこそ主君から放たれるであろう重圧を想像するだけで胃がもたない。
「どうします? エドゥアルト様」
笑みを含んだ声でティーナに尋ねられたエドゥアルトは、涼しい顔でそれに応じた。
「くだらない試みだが、ティーナの言うことにもまあ一理ある。臣下のせっかくの心遣いに興じてやるのも主の務めというものだろうな」
「ええ!?」
まさかの承諾に驚愕するラウルを見やり、エドゥアルトは挑戦的な笑みを湛えた。
「逃げてもいいぞ? また“事故”が起きないとも限らないからな」
二年前のホワイトデーのクッキー事件のことを揶揄されている、そう悟ったラウルの頬にカーッと血が上る。
一方、エドゥアルトが悪びれもせず、実に堂々と自分の企みに乗じようとしている意思を感じたティーナは、そんな主に心の中で拍手を贈りながら、敢えてラウルを煽る言い方をした。
「エドゥアルト様もこう仰ってるし、無理する必要はないのよ? お遊びなんだもの。あなたが辞退するなら代わりのお相手は私が務めればいいんだし」
それはそれで嫌だ、と漠然とラウルは思った。
相手がティーナだとしても、エドゥアルトがあんなふうに誰かと接しているのは、見たくない。何故かは分からないが、心がざわめいてひどく嫌な気持ちになる。
おかしいな……? 社交ダンスなんかで女性とのあのくらいの距離感は見慣れているはずなのに……。
そんな自分に違和感を覚えながらも、負けず嫌いの気質を刺激されたラウルは毅然と言い放った。
「冗談言わないで。エドゥアルト様相手に逃げたりしないし、勝負から逃げるなんて女が廃(すた)る!」
そうこなくちゃ、とティーナは内心で拳を握った。
さすがね、ラウル。
「へえ。大口叩いたな」
ラウルの言い方が気に障ったらしく、じろりと視線をくれるエドゥアルトにラウルも負けじと強気な眼差しを返す。
「勝負と名のつくもので負けるわけにはいきませんから」
二人は互いに超のつく負けず嫌いで、勝負となった以上、どちらも相手に勝ちを譲る気はなかった。
あらあら、ものスゴーく真剣勝負の雰囲気……本来はもっとお気軽で、ちょっとドキドキする楽しいノリのゲームのはずなんだけど……。
そっと苦笑をこぼしながら、ティーナは火花を散らす二人の間に割って入った。
「ええと……本来は女性か、同性同士であれば背の低い方が背の高い方の首に両腕を回す形を取るんですけど、エドゥアルト様、どうしましょうか?」
「ん? ……ラウルにその度胸があれば、僕としてはそのやり方で構わないが」
ちらりと目線をくれられて、ラウルは腹立たしさを覚える半面、エドゥアルトの首に両腕を回す自分を想像して、「無理!!」と脳内で絶叫してしまった。が、素直にそう伝えるのは悔しいので、別の言い方に変えて伝える。
「そんな不敬な真似、臣下としてはさすがに出来ませんよ」
「そうか。ならこうしよう」
あっさり頷いたエドゥアルトは、一方の手をラウルのショートボブの銀髪に挿し入れるようにして彼女の後頭部に添えると、もう一方の手で彼女の腰を引き寄せたのだ。
同じくらいの身長の二人は腹部をくっつけて真正面から見つめ合うような格好になり、青灰色の瞳をいっぱいに見開いたラウルは、急激に頬に熱が集まるのを感じた。左の鼓動が騒いでどうにも落ち着かなくなり、目の前のトパーズの瞳を直視するのが難しい状況になる。
「なっ、なっ……! ちょ、エッ、エドゥアルト様っ……」
「うん? 不満ならお前が僕に腕を回すか?」
明らかに動揺したラウルの様子を見て、エドゥアルトは機嫌を良くした。どうやらラウルに異性として認識されているようだと察したからだ。
二年前はソファーの上で馬乗りになっても全く動じてもらえないという、悲惨な体たらくだった。完全に異性というカテゴリーから外されてしまっていたのだ。そこから考えれば、劇的な進歩であると言える。
ひどく落ち着かない様子のラウルを悪戯っぽく眺めやりながら、エドゥアルトは新鮮な心持ちで束の間の合法的な触れ合いを楽しんだ。
……可愛いじゃないか。
腕の中でうろたえるラウルは普段の彼女とはまるで違っていて、長らく禁欲状態に置かれているエドゥアルトの胸の内を甘く満たした。
こんな感覚は初めてだ。
「二人とも背が高いから、何というか、そうしていると絵になりますね」
ほぅ、と息を漏らすティーナの隣で、どこかいたたまれない面持ちのハンスは二人の様子を直視出来ずにいる。
「ティーナ! ほらっ、スティック! 早く早く!」
速攻でこのゲームを終わらせて、いち早く現在の状況から脱出したいラウルがティーナをせっついた。
「はいはい」
渡されたスティックを素早くくわえたラウルの反対側から、エドゥアルトがゆっくりと口を開けてスティックの反対側をくわえる。
その動作に得も言われぬ色気を感じてしまったラウルは、そんな自分に愕然としつつ、心の中で激しく頭を振って煩悩を追い出しながら、心頭滅却して勝負に集中することに努めた。
―――集中、集中! 今はただ勝つことに集中するんだ……!
いかに心乱されようとも、ラウルは一流の剣士だ。
瞬時に気持ちを切り替えて、集中に徹することが出来る。
その気配を察したエドゥアルトも集中下に入った。
ラウルはエドゥアルトの動きに注意を払いつつ、唇が触れないギリギリを見極めて彼と同時にチーズスティックを食べ終えるという腹積もりだろう。それがおそらく彼女の設定した「勝利」の形だ。
エドゥアルトはそう見立てていた。
彼からすればそれはあくまで引き分けであって勝利とは呼べないものだったが、互いの性格的に逃げるという選択肢がない以上、そこが落としどころだろうな、という思いはある。
彼としては幸運な事故に乗じて彼女の唇をせしめたい気持ちもなくはなかったのだが、それ以上に彼女を傷付ける真似はしたくなかった。
『お互いが好き同士で、気持ちがこもったものじゃないと……私にとっては、意味がないので』
耳に甦る、二年前のラウルの言葉。
エドゥアルトは半眼を伏せてその言葉をなぞらえた。
そうだな……お前を傷付けるのでは意味がないし、それは僕の望むところじゃないもんな。
ならば自分が目指すところの「勝利」の形は、ラウルにギリギリを見極めさせず、わずかでも気後れさせて、一瞬早くスティックを折るように仕向けさせるといったところか。
「はい、ではスタート!」
ティーナの合図で、二人は同時にチーズスティックを食べ始めた。
とりあえずこの状況を楽しもうと達観したエドゥアルトではあったが、食べる速度に緩急をつけて多少の意地悪はさせてもらう。
だが、集中下にあるラウルは彼の揺さぶりに動じることなく、真っ直ぐにトパーズの瞳を見据えながら、冷静にチーズスティックを食べ進める。
―――綺麗だな。
近付いてくるラウルの整った顔を見つめながら、エドゥアルトは改めてそんなことを思った。
勝負に集中している時の彼女には得も言われぬ美しさがある。神の鉱脈から削り出された至高の宝玉の原石、荒々しくも神秘的な輝きで何物をも寄せ付けない、不可侵の美しさが―――。
無理に触れればケガをすると分かっている。
でも、触れたい。こんな形ではなく、もっとちゃんと。
腕の中にある彼女の体温とサラサラと手に触れる心地好い銀の髪の質感が、理性で覆った彼の本能をどうしようもなく刺激して、いっそ突き上げてくる衝動に身を任せてしまいたくなるような誘惑へと駆り立てる。
ラウルの野生の勘がそれを捉えたのは、もうすぐ互いの鼻先が触れ合うかという距離まで来た時だった。
加速する―――!
そう感じて急制動をかける直前、彼女の青灰色の瞳に映ったのは、少し切なそうで慈愛に満ちた、これまでに目にしたことのない第五皇子の顔だった。
ほんの一瞬、ほんのわずか、瞬きにも満たない刹那の時間。それに目を奪われたことを自覚したラウルの胸に、不覚の思いが走る。
キスを作法の延長というくらいにしか捉えていない相手が、当たったら事故程度の軽いノリで躊躇なく攻め入ってくる可能性を考えていた彼女にとって、それはまさに取り返しのつかない一瞬だったのだ。
だが、それを予期したラウルの覚悟に反して、チーズスティックを噛み切った彼女の唇がエドゥアルトのそれと触れ合うことはなかった。ゲームは二人同時にチーズスティックを食べ終えるという形で決着していたのだ。
え……。
ラウルは思いがけないその結果に呆然とした。それくらい、彼女にとっては意外な結末だったのだ。
―――エドゥアルト様……まさか、帳尻を合わせてくれた……?
「えー……っと、引き分け、引き分けでーす!」
固唾を飲んで勝負の行方を見守っていたティーナが、思い出したように引き分けを宣言した。
「さすがというか何というか……こんな攻め合いの展開で、まさかこんなふうに引き分けちゃうなんて……二人とも、本当に規格外ですねぇ」
感心したような呆れたような彼女の声に、エドゥアルトは何食わぬ顔でこう返した。
「僕としては勝てる公算だったんだがな。まあいい……それなりに楽しめたし、いい経験が出来たと言っておこう」
ラウルに回されていた彼の腕が解かれ、その熱が遠ざかっていく。身体に残る彼の余韻が消えていくのを感じて、どことなく寂しい気持ちになったラウルは、知らず自分の腕を抱くようにした。
そしてどうにもスッキリしない気分のまま、彼女は残りのお茶の時間を過ごすこととなったのだ―――。
*
その日の夜、自身の居室で就寝前のひと時を楽しもうと、ハンスに葡萄酒を持ってくるよう頼んだエドゥアルトは、ノックの音と共にそれを運んできたのがラウルだったことに驚いた。
「ラウル? ハンスはどうした?」
既に入浴を済ませ後は寝るばかりの彼は、素肌にバスローブを一枚纏っただけの姿である。就寝時は全裸で寝る主義なので、バスローブの下は肌着も身に着けていない。
そんなエドゥアルトから少し視線を逸らしながらラウルは言った。
「ハンスに代わってもらうよう、私が無理言って頼みました。……その、どうしてもエドゥアルト様に確認したいことがあって」
「ふぅん?」
エドゥアルトが招き入れる仕草をしたので、ラウルは葡萄酒とチーズスティックを載せたカートを押して室内に入った。
足を組み、ゆったりとした椅子に背もたれたエドゥアルトは肘掛けに頬杖をつき、テーブルにそれらを移すラウルを眺めやりながら単刀直入に尋ねた。
「昼間のゲームの件か?」
ズバリ言い当てられてしまったラウルは、少しすねたような顔になって、言いにくそうに口を開いた。
「どうにも釈然としなくて。……最後、私はエドゥアルト様が加速すると思って、急制動かけたけど間に合わなくて、正直ぶつかるかと思いました。でも実際は加速すると見せかけたフェイクで、本来なら私の方が一歩早く食べるのをやめてしまっていたから、負けになるはずだったんです。にもかかわらず、引き分けになるよう帳尻を合わせてくれたのはどうしてですか?」
そんなラウルの解釈は現実とは少々異なっていた。
あの瞬間、理性が揺らいだエドゥアルトは確かに本気で加速しかけたのだ。ラウルの野生の勘はそれを捉えたのだろう。
だが、彼女を真剣に想う彼は瞬時に理性を取り戻した。そしてラウルが一瞬の隙を見せたわずかな内にブレーキをかけ、事なきを得た―――それが引き分けの真相だ。
無論ギリギリを見計らいはしたものの、結果的に引き分けで済んだというような内容だったのだ。
「どうしてですか? 普段なら勝負にすごくこだわる人なのに」
重ねて尋ねるラウルにエドゥアルトは軽く肩を竦めてみせた。
「僕の方でも色々と目算が狂ったんだよ。結果は正直偶然だ」
だがラウルは腑に落ちない様子で、疑わしげにエドゥアルトを見つめている。そんな彼女にひとつ息をついて、彼はこう問いかけた。
「お前こそ、最後に一瞬止まったのはどうしてだ? 勝負の最中(さなか)に集中力を欠くなんて珍しいじゃないか」
「! あれは―――」
ラウルは途端に言葉に詰まった。
エドゥアルトの表情に目を奪われていたから、とはとても言えない。
彼女としてはあの時の彼の表情も大いに胸に引っ掛かっていて、ひどく気にはなっていたのだが、どう切り出して尋ねたら良いものなのか、皆目見当がつかなかった。
あの時、どうしてあんな顔をしていたんですか?
あの表情には、どんな理由があったんですか―――?
「……あれは―――加速がフェイクだったことにちょっと驚いて……」
尋ねたいのに尋ねられないジレンマに駆られたラウルは、それをごまかすように葡萄酒のコルクを抜き、優美なフォルムのグラスに勢いよくドボドボと注いだ。それを見たエドゥアルトがぎょっとした声を上げる。
「おい、何て注ぎ方をするんだ」
「えっ?」
「グラスの三分の一程度を目安に、丁寧に少しずつ注ぐのが常識だろう。知らないのか?」
「えっ、そうなんですか?」
グラスになみなみと注がれた赤い液体を見やり渋面になるエドゥアルトに、知らなかったラウルは目を丸くして謝罪した。
「すみません……知りませんでした。下戸なので……」
「飲める飲めないの問題じゃない、教養の問題だ。僕の傍にいる以上は覚えておけ、ハンスでもティーナでもいいから、その辺り一度キチンと教授してもらえよ」
「はい……申し訳ありません」
ラウルはしゅん、と獣耳を伏せた。
情けないなぁ……エドゥアルト様のところに仕えてかれこれ結構な年数が経つのに、こういうのをハンス達に任せっきりで覚えようとしてこなかったから、何の成長もしていない。これじゃいけないよね……いい加減、専門分野以外のことも学ばないと。
これまでの自分を顧みて反省したラウルは、素朴な疑問をエドゥアルトに投げかけた。
「でも、どうして三分の一なんですかね? なみなみ注いだ方がたくさん飲めるし、注ぐ回数も少なくていいのに」
「香りを楽しむためだよ。充分に香りを溜めるにはグラスの中の空間が必要になるんだ」
「へえ……」
「まあ狼犬族のお前からすれば、この状態でも充分香りは楽しめるんだろうから、その必要はないのかもしれないけどな」
「葡萄は好きですけど、葡萄酒の匂いはちょっと……正直、何がいいのかよく分かりません」
「はは。お前にかかっては年代物の葡萄酒も形無しだな」
声を立てて笑ったエドゥアルトは、至極残念そうにこう言った。
「お前が下戸でなかったら、この場で一緒にグラスを傾けることも出来たんだがな」
まあ仕方がない、と瞳を伏せて、エドゥアルトはラウルに退出を促した。
「後は自分で適当にやるから下がっていいぞ」
「えっ……でも、あの」
「ゲームの話ならあれで全部だ。何も忖度したりしてない。純粋な引き分けだよ」
「……。分かりました」
エドゥアルトにそう言われてしまっては引き下がらざるを得なかったが、胸のモヤモヤが何ひとつ解決せずスッキリしないままのラウルは、まだこの場を後にしたくなかった。
「……。ジュースなら」
「ん?」
「ジュースなら、付き合えますよ!」
「は?」
勢い込んで言ったラウルにトパーズの瞳をいっぱいに見開いたエドゥアルトは、まじまじと彼女を見て正気を疑った。
「まさかとは思うが、香りだけで酔っているのか?」
「いくら何でもンなワケないじゃないですか!」
「……あー、お前には遠回しに言っても伝わらないからハッキリ言うぞ? 僕はお前に退出してほしいと言っているんだ」
その言葉にラウルは少なからぬショックを受けた。
「えっ……そんなに私のことが邪魔、というか嫌いだっ」
「違う、そういうことじゃない」
身体をわななかせる彼女を遮ってエドゥアルトは真意を述べた。
「僕がこの下素っ裸なのはお前も知ってるだろ? 主従とはいえ、こんな夜更けにそんな格好の男の部屋へ一人でのこのこやって来るのは、倫理的に考えてどうなんだ? しかも僕はこれから酒をたしなむんだぞ? お前はこの状況に危機感を覚えないのか?」
「男って……だって、相手はエドゥアルト様じゃないですか。そんな大袈裟な」
そう言った瞬間、目の前の相手の機嫌が目に見えて悪くなったのが分かった。
「ふーん……大袈裟、ね」
チリッと肌を刺すような空気に、言葉の選択をまずったとラウルは悟ったが、時すでに遅し。剣呑な表情になったエドゥアルトに苛立ち混じりの苦言を呈されてしまった。
「お前はさ、下手に腕が立つから、こういうことに関して危機意識が欠如している傾向にあるよな。他でも何の気なしにこういう真似をしてるんじゃないだろうな?」
「えっ……そんなことないですよ。お酒を飲まないから深夜まで出歩くこともそうそうないですし、そもそも私はそういう目で見られることがないので、そんな状況にまずなり得ないというか、ご心配いただく必要は何も」
「僕は前に言ったよな。お前は綺麗だって」
「!」
カッ、とラウルの頬に朱が散った。
思い出すと恥ずかしくてたまらなくて、変に意識してギクシャクしてしまうから、思い出さないように今の今まで努めていたのに……!
去年ベイゼルンの王宮でエドゥアルトにそう言われて以来、ラウルはしばらく彼を意識しまくってしまい、業務がやりにくくて仕方がなかったのだ。
そんな彼女を面白がって相手は度々「綺麗だ」と不意打ちのように言ってくるし、おかげで彼と二人で相対することに妙な緊張感を覚えるようになった彼女は、それを紛らわす為にどうでもいい話をやたらペラペラと喋るクセがついてしまった。
ティーナとハンスから言わせると今までとさして変わらないそうなのだそうだが、ラウルの中では大きく意識が違う。
「あ、ありがとうございます。でも、それはエドゥアルト様が特殊なだけで」
笑顔でそれとなくかわそうとしたものの、即座に相手に切り返されて撃沈してしまった。
「ふぅん。お前は今、その特殊な男の部屋にいるわけだが」
しまったあぁ、藪蛇だった。
迂闊な自分の発言に頭を抱えるラウルへ、エドゥアルトが少し意地悪く口角を上げて言った。
「そういえばいつぞやは、ベイゼルンの王宮で僕に大胆な真似をしてくれたっけな。そうだ、思い出したぞ。あの時の借りをまだ返していないままだったな」
出来ることなら忘却の彼方へ葬り去りたい過去のしくじりを掘り返されて、ラウルはあせった。
「えっ、いや、それはどうぞ未来永劫忘れてて下さい! てか、とっくに終わった話では!? だってあの時ちゃんと謝りましたよね!?」
「許すとはひと言も言ってないだろう?」
「時効ですよ、もうとっくの昔に!」
「僕の性格を知っているよな? やられっぱなしは性に合わないんだ」
黄味の強いトパーズの瞳が妖しい光を帯びて、身の危険を感じたラウルは思わず後退(あとずさ)った。その拍子に脚が軽くテーブルに当たってしまい、グラスになみなみ注がれていた葡萄酒が波立って勢いよく溢れてしまったのだ。
「あっ」
ビシャッ、とテーブルにこぼれ落ちたそれがエドゥアルトの白いバスローブにも飛び散って、胸から腹部の辺りにかけて点々と汚してしまう。ラウルは素早く動きながら自身の失態を詫びた。
「すみません!」
葡萄酒が床に滴り落ちないよう急いでテーブルの上を布巾で押さえ、すぐに別の清潔な布巾でエドゥアルトのバスローブの汚れを軽く押さえるようにして叩くが、落ちにくい葡萄酒の染みは上質のバスローブからなかなか消えてくれない。
少し悪ふざけが過ぎたと反省していたエドゥアルトは、先程まで距離を置いていたラウルが不意に懐まで飛び込んできたこの状況に軽く戸惑った。
事態を考えれば当然のことなのだが、突然手の届く位置に彼女が現れたこと、その指先がともすれば自身の素肌に触れかねないところを行き来している事態に、少なからぬ動揺を覚える。
椅子に腰掛けたエドゥアルトの眼下で銀色の柔毛に覆われた三角耳が忙しそうに動いて、その下で昼間触れた彼女のショートボブの銀髪がサラサラと流れているのが見えた。
香水の類を付けないラウルからは、石鹸と混じり合った仄かに優しい彼女自身の香りだけがする。
エドゥアルトは冷静であろうと努めながら、ラウルの邪魔にならぬよう腕だけを伸ばしてテーブルの上のグラスを取った。
彼の傍らにしゃがみ込んで一心不乱に染みと格闘する彼女の集中力はそちらへ向いてしまっているので、何かの拍子にまた残りをこぼされてもかなわないと思い、グラスを空にしておこうと考えたのだ。
だが、エドゥアルトが葡萄酒を飲み始めてほどなく、落ちない染みにお手上げとなったラウルが顔を上げた。
「ダメだぁ、落ちない……。すみません、すぐ代わりのバスローブをお持ちしま―――」
そこでエドゥアルトと目が合ったラウルは、想像以上に彼との距離が近かったことに驚いて、妙な声を上げてしまった。
「わきゃ!」
この時、とっさに距離を取ろうと突っ張るように押し出された彼女の手が、拭き取り作業で少し緩んでいたエドゥアルトのバスローブの合わせ目に突っ込まれる形になり、突然脇腹の辺りに滑るような一撃を受けた彼は、身体をビクッと震わせて派手にむせ返った。
「あわわ! 申し訳ありませんッ!!」
盛大にやらかしてしまったラウルは青ざめつつ、むせ返るエドゥアルトが手に持っているグラスを取り落としてしまわないよう、その柄の部分を掴み、もう一方の手で彼の背中を撫でさすった。
「お前っ……なぁッ」
咳込んで涙目になったエドゥアルトににらみつけられ、平身低頭の勢いで謝罪する。
「本っ当にすみませんッ!!」
そんなラウルの顔が先程より近い位置にあるのを見取ったエドゥアルトは、これ以上妙なことにならないよう、彼女の手を振り払って遠ざけようとした。
「もういい、下がれ」
「でも」
ちょっとした押し問答のようになったその時、二人が手に持ったままのグラスに相反する力が生じ、そこから残りの葡萄酒が波立つようにこぼれ出て、中腰で立っていたラウルの口元にかかってしまったのだ。
「!」
ラウルの手がグラスから離れ、ハッとしたエドゥアルトはすぐにそれをテーブルに置き、自身のバスローブの袖の部分で彼女の口元を拭ってやったのだが、安否の言葉をかける前に彼女の身体はぐにゃりと傾き、とっさに肩を支えたエドゥアルトにもたれかかるようにして、ずるずると椅子に座る彼の膝の上に崩れ落ちてきた。
「おい、ラウル。おい、大丈夫か」
ここまで彼女が酒に弱いとは思ってもみなかったエドゥアルトは驚いてその顔を覗き込んだが、顔を赤く染めた彼女の青灰色の瞳はとろんとして獣耳はだらんと下がり、ひどい酩酊状態に陥っているように見えた。
「おい、分かるか? 僕の声が聞こえるか?」
あまり揺すってもまずいと思い、熱を帯びた頬を優しく叩くようにして尋ねると、瞬きを返した彼女は小さく頷いて、エドゥアルトの膝の上にうつ伏せに上体を預けたまま、首を少しだけ傾けて彼の方へ顔を向けた。
その顔を見た瞬間、エドゥアルトはこれまでに感じたことがない種類の衝撃に射抜かれ、自身の左の鼓動に全身が支配されたかのような錯覚に陥った。
それは、これまで彼が目にしたことのない彼女の姿だったのだ。
しどけなく上気した肌に、熱を孕んで揺れる青灰色の瞳。少しだけ開かれたつややかで健康的な赤い唇。いつもピンと立っている大きな三角耳を後ろに伏せてこちらを見やる彼女は、強烈な色香を放って見えた。
膝の上に感じる彼女の重みが、伝わってくる少し高めの体温が、意識しないようにしようとしても、どうしてもバスローブ越しに拾ってしまう女性らしい胸の質感が、視覚と共鳴してエドゥアルトの深いところに響いてくる。
これは―――色々と、まずい。
覚醒しかける男としての本能をなだめすかすのに驚くほどの忍耐力を要する。彼としてはこれも初めて体感する感覚だった。
これまで何人もの貴族の子女と夜を過ごしてきた経験はあったが、恋愛感情を一切挟まず、あくまで男のたしなみとして、損得の絡んだ相手からの求めに応じて、そんな理由で、作法や取引の延長というくらいの感覚でしか女性と接してこなかった彼にとって、それは切なくて愛くてどこか泣きたくなるような、初めての体験だったのだ。
「……。その顔……」
いつもよりだいぶろれつの怪しくなったラウルの声が、静まり返った室内にポツリと響いた。
「それ……ゲームの決着の間際の顔とおんらじ……。ろうして、そんな顔をしてるんれすか……?」
葛藤の只中から現実に引き戻されたエドゥアルトの膝の上で、のろのろと上体を起こしたラウルは、微かに目を瞠る彼を潤んだ瞳で見上げてこう尋ねた。
「それは、ろういう意味のある表情なんれすか……? 何が、貴方にそんな顔をさせているんれす……?」
黙して語らない主に一方の腕をゆっくりと伸ばして、その頬に触れるような仕草を彼女はしたが、その指先はただ彼の胸の辺りを彷徨うだけだった。
「私は、それが引っ掛かっれ、気になっれ……。もしかしたらゲームの結末よりも、その理由が聞きらくれ、知りたくれ、ここへ来たのかもしりません……」
ラウルの言葉を黙って聞いていたエドゥアルトは半眼を伏せて、自身の胸の辺りを彷徨っている彼女の手を取った。
「……。僕は……あの間際、今と同じような顔をしていたのか……?」
問いかけるようなひとりごとのような、判然としがたい彼の小さな呟きに、ラウルはコクリと頷いた。
それを見たエドゥアルトは諦めたような表情になって、自嘲気味にひとりごちた。
「は―――無意識に顔に出てるとか……思春期の小僧じゃあるまいし、気持ち悪いし情けないな」
「……? 別に、気持ち悪くなんれ……」
不思議そうに瞳を瞬かせるラウルの頭をもう一方の手でくしゃりと撫でて、銀色の髪を緩くかき混ぜながら、エドゥアルトは他の者に見せることのない優しい顔をしてこう言った。
「まあいいか。今こうして話したところで、どうせお前は明日にはキレイさっぱり忘れて、何も覚えてやしないんだろうからな」
「……?」
「大した理由じゃない。……難しいなぁって、そう思ったんだよ。お互いの気持ちが同じくらいになるまで待つっていうのは、案外難しいものだなって」
そう言って、エドゥアルトは少し寂しそうに笑んだ。
「僕は為せば成るっていう主義だし、欲しいものを得る為には相応の努力をする心積もりはある。けれど、人の心にはそれが当てはまらないんだよな。こちらが気持ちを向けているからと言って、必ずしも向こうがそれに応えてくれるとは限らないんだよな。自分(こっち)の気持ちと相手(あっち)の気持ちに温度差があり過ぎて、それが腹立たしいくらい身に沁みて―――諦めるつもりはないけれど、らしくもなく弱気になって、時々心身のバランスが取りづらくなるんだ。相手を大切にしたい気持ちと、無理やりにでも触れたい気持ちがせめぎ合うっていうのかな。それが表れたのが、お前の言う『その顔』さ」
頭皮を往復する長い指の心地好さにうっとりと身を任せていたラウルは、頭の芯がぼうっとするようなアルコールの影響下に置かれながら、エドゥアルトには誰か想う相手がいて、あの表情はその相手のことを考えて出たものなのだと、漠然と悟った。
あのエドゥアルト様に、いつの間にかあんな切ない顔をさせる相手が現れたなんて……。
……。
……。嫌だなぁ……。
アルコールの影響でふわふわしていた気持ちが急激にしぼんで、表現しようのない重苦しさに胸がぎゅっと押し潰されそうになる。
「……エドゥアルト様が寂しそうにしているのは嫌らけろ……あんな目れ誰かを見つめているのも、嫌らなぁ……」
酔っているせいで頭が上手く働いていないラウルは、それが自分の口から声になって出ていることに気が付いていなかった。
「エドゥアルト様には笑っれれほしいけろ……幸せになっれほしいけろ……れも、いつまれも大人になり切れないままのエドゥアルト様れ、ずっろ一緒にいれたら良かっらのに……」
キューン、と鼻を鳴らして、ラウルはエドゥアルトの胸の辺りに自身の側頭部を押し付けるようにした。はだけた彼の素肌が頬に触れ、そこから力強い心音が拍数を上げていくのを耳にしながら、ラウルの意識は眠りの中に吸い込まれていった。
「……。何勘違いしてるんだよ……」
無防備極まりない状態で寝落ちしてしまったラウルを見やり、エドゥアルトはやりきれない溜め息をこぼした。
「こっちはお前に意識される男になりたいと思って、早く大人になろうと努力しているってのに……」
銀毛に覆われた三角耳に唇を寄せてそう囁きながら、エドゥアルトは腕の中のラウルを抱きしめた。
「危機感なさ過ぎだろ……あまり信用してくれるなよ、こっちはもういっぱいいっぱいなんだ。そのうち勝手にキスのやり直しをしても知らないからな」
銀色の髪に頬をうずめて切ない想いを吐き出したエドゥアルトは、ややしてから、未練を断ち切るようにラウルを抱き上げてソファーへと移動させた。
ドアの外で控えているだろうハンスを呼び、こちらの求めに応じて現れた彼に諸々の後始末を頼む。
室内の惨状に唖然とするハンスに大まかな事情を伝えると、優秀な彼はそれ以上詮索することもなく、迅速に役目を果たし始めた。それを横目に見やりながら、エドゥアルトは扉続きの自身の寝室へと引きあげていった。
ぐっすりと眠るラウルには、ハンスの手によって毛布が掛けられた。
翌朝、主の居室のソファーで目覚めたラウルは、ハンスから強烈な説教を受けることとなるのだが、葡萄酒を浴びてからの記憶が一切ない彼女には何が何やらという状況で、ただまたしてもやらかしてしまった、という記憶だけが残ったのである―――。
<完>