病弱な第四皇子は屈強な皇帝となって、兎耳宮廷薬師に求愛する
番外編 第五皇子側用人は見た!

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 帝国の第五皇子、十九歳のエドゥアルトは本日、皇帝の名代として友好国ベイゼルンの王宮で開かれている、第三王子マシューの成人祝賀パーティーに出席している。

 側用人ハンスと護衛役のラウルを伴い、薬師ティーナは王宮の豪華な客室にて悠々自適の待機中だ。

 ラウルはそんなティーナがうらやましくてたまらない。彼女は貴人達が催すこういったパーティーでの警護任務が非常に苦手なのだった。

 何故なら、出席者は老若男女問わず強い香りを身に付けていて、鋭い嗅覚を持つ狼犬族の彼女としてはまずそれが辛い。

 パーティーは立食形式で会場には見た目にも華やかな最高級の料理が燦然(さんぜん)と並べられるが、職務中は決してそれを口にすることが出来ないのがまた、食いしん坊のラウルとしては口惜しい。どうせ余るのだからといつもエドゥアルトがラウルの分を取り置いてくれるのだが、いただく頃にはどうしても冷めてしまっているので、せっかくの料理を一番美味しい状態で食べることが出来ないというジレンマがある。

 ちなみに要人の警護役はパーティーが始まる前に握り飯やサンドイッチといった手軽に食せるもので小腹を満たし、水分も必要最小限だけを摂るようにする場合が多い。万が一に備え、俊敏に動ける状態を維持する為と、トイレで任務に支障をきたさないようにするためだ。

 憂鬱なラウルの視線の先で、皇族の正装に身を包んだエドゥアルトはにこやかな表情を湛え、入れ替わり立ち替わりやってくる他国の要人達と挨拶を交わして、皇帝の名代としての役割をそつなくこなしていた。彼の傍らにはいつもより改まった装いのハンスが控えていて、必要に応じさり気なく主をサポートをしている。

 普段は香水の類を身に付けないエドゥアルトもこういった場面ではたしなみ程度に香りを纏うので、それもあってラウルはパーティーの警護が嫌いだった。

 ただでさえ会場には強い香りが溢れているというのに、エドゥアルトの匂いがいつもと違うことでやりにくくて仕方がないのだ。

 あ〜あ、早く終わらないかなぁ……。

 会場ではダンスが始まり、贅を尽くした衣装を纏った高貴な身分の男女が何組も手を取り合って、きらびやかなシャンデリアの下で管弦楽団(オーケストラ)の音色に合わせ、くるくると華麗に舞っていた。

 主役のマシュー王子のほど近くで、エドゥアルトもどこかの国の御息女と踊っている。運動神経抜群の彼はダンスも得意で、端整な容姿と帝国の皇子という身分も相まり、こういった席で彼にダンスを申し込みたがる相手は後を絶たなかった。今日この後もそれこそひっきりなしに声がかかり、踊り続けることになるのだろう。

 それを延々見ていなければならない立場のラウルとしては溜め息をつきたくなる。身体を動かすのが大好きな彼女は踊り続けるのは得意だが、それを見ているだけという側はどうにも不得手だった。

 そんなこんなで、退屈で窮屈でやたら拘束時間が長く、強い香りに満ち満ちた場で食事も娯楽も見せつけられるだけというパーティーの警護任務は、ラウルにとって敬遠したい仕事となってしまうのだ。

 そんな不満をくすぶらせつつ、会場の片隅からそれとなくエドゥアルトの周辺に気を配っている彼女に、やおら声をかけてきた人物がいた。

「―――ラウル……か?」

 そちらに視線をやった彼女は、意外な人物をそこに見出して青灰色の瞳を見開いた。

 相手はラウルと同じ狼犬族の青年だった。日焼けした大柄な体格で背はラウルより頭半分ほど高い。銀色の短髪に深い青色の瞳をして、髪と同色の獣耳は片方の先が欠損していた。

 記憶にある顔よりだいぶ年輪を重ねてはいるが、面影はそのままだ。

「ティーガ……?」

 ラウルは久々に彼の名を呼んだ。彼は、彼女のほろ苦い初恋の相手だった。

「やっぱりラウル……久し振りだな。まさか、こんなところでお前に会うなんて」

 ティーガはどこか遠慮がちにそう言った。

 四つ年上の彼は当時十二歳のラウルに面前試合で敗れた後しばらくして、剣を片手に故郷を離れていた。武者修行をしながら世界を回るというような話を人づてに聞いたが、それっきり彼に会うこともなく、二人の仲はあの時のままで止まっている。

 再会したティーガはきちんとした身なりをしていて、腰に立派な長剣を帯びていた。今は、どこかの貴人の下で仕えているのだろうか。

 ラウルは思わぬ再会に驚きつつも、意識的に口角を上げて彼に応じた。

「それはこっちの台詞(セリフ)……驚いた。久し振りだね。ここへはどなたかの付き添いで?」
「ああ。オレは今、この国でアラン伯爵という方に仕えているんだ。護衛長の役を仰せつかっていて、ここへは伯の警護役として来ている」

 ティーガは気持ち胸を張ってそう言った。

 アラン伯爵という名は聞いた覚えがある。確かこの国でそこそこの要職に就いている人物だ。

「お前は? ラウル。オレと似たような立場でここへ来ているんだろう?」

 彼女の身なりを眺めながら尋ねるティーガにラウルは頷いた。

 あれからおそらく一度も里帰りしていない彼は、ラウルが現在帝国で第五皇子に仕えていることを知らないのだろう。もっともラウル自身も長らく里帰りをしていない身ではあるのだが。

「うん、そうなんだ。私は今、あそこにいる―――」

 会場にいるエドゥアルトを示そうとしたラウルは、今しがたまでダンスを踊っていたはずの主の姿が消えているのに気が付いて、「あれ?」と瞳を瞬かせた。

 先程までとは曲が変わり、会場では新しいペアによるダンスが始まっている。

 てっきり次も相手を変えて踊るものだと思っていたのに、どこへ行ったんだろう? トイレ?

「ラウル」

 会場を注視していたラウルは、探していたエドゥアルト自身に後ろから声をかけられ、慌てて背後を振り返った。

「エドゥアルト様! 急に見えなくなったと思ったら―――、どうしたんですか」
「人は急には消えない。それはお前の注意不足だ。油を売っていないできちんと職務を全うしろ」

 不機嫌な面持ちでそう諫められ、言葉どおりで反論出来ないラウルはぐっと詰まった。

「うぐ……すみません」
「この男は?」

 ティーガにじろりと視線をくれる主にラウルは昔馴染みを紹介した。

「同郷のティーガです。ここで偶然再会しまして……彼は今こちらの国のアラン伯爵という方に護衛長として仕えていて、本日は伯の警護役として来ているそうです」
「ほう……」
「ティーガと申します。どうぞ以後お見知り置きを。ラウルが貴方様に仕えているとは存じず、その務めを妨害してしまったこと、ここに深くお詫び申し上げます」

 丁重に謝罪と礼を取るティーガにひとつ頷いて、エドゥアルトはラウルに向き直った。

「暇(いとま)に再会を喜ぶも雑談をするも結構だが、職務に支障をきたさない程度にしろ。お前の一番はこの僕だ、そこを違(たが)えるな」

 外では従者の顔を重んじるラウルは、自らの非を素直に主に詫びた。

「はい。以後、肝に銘じます。申し訳ありませんでした」
「分かればいい」

 殊勝な態度を取るラウルに許しを与えるように彼女の二の腕辺りに軽く触れたエドゥアルトは、ティーガに鋭い視線を向けると、無言の圧をくれてからゆっくりとその手を引き上げた。

「エドゥアルト様、そろそろお戻りならないと―――次の曲が始まってしまいます。皆様がお待ちかねです」
「ああ。今戻る」

 主の後を追ってきていたハンスに短くそう返すと、エドゥアルトは何事もなかったかのように会場へと戻っていった。

 ―――うん? ところであの人はいったい何をしにここへ来たワケ?

 心の中で小首を傾げるラウルに、改まった態度を解いたティーガが憮然とした面持ちで吐き捨てた。

「ちっ、何を見せられてんだ、オレは」
「え?」
「ラウル、お前―――帝国の皇子に仕えていたんだな」
「そうだけど……」
「くそっ……またオレの上を行くのかよ、いけ好かねぇ……」

 苛立たし気にそう独り言ちると、ティーガは背を翻した。

「ちょっ、ティーガ?」
「行くわ。帝国の皇子に目を付けられてもかなわねぇし」

 戸惑うラウルにそう言い置いて、ティーガは足早に去っていった。彼を追うわけにもいかず、ラウルは伸ばしかけた手を握り込み、会場へと戻り再び皆に囲まれるエドゥアルトへ注意を戻した。

 ティーガとの再会は気まずさも覚えたが、互いに大人になって、これをきっかけに表面上障りのない関係に戻れるのかと思いきや、何とも後味のよろしくない展開になってしまったものだ。

 ラウルがティーガに勝利した、彼女にとっては当時の自分の全てを出し尽くして勝ち得た珠玉の成果が、彼の中では今も変わらず苦い思い出のままで、あのまま消化も昇華もなされず、彼自身に何の変化ももたらしていないのだと―――そう感じられてしまったことが何より、彼女の心に陰鬱な影を落としていた。



*



 夜も更けた頃、長いパーティーがようやく終わり、エドゥアルトとハンスと共にティーナが待つ客室へと引き上げてきたラウルは、両手を高々と上げて大きく伸びをした。

「あ〜疲れたぁ、お腹減ったぁー!」
「お疲れ様、ラウル。その様子だとパーティーの方はつつがなく済んだみたいね」

 笑顔で出迎えたティーナはそう言ってエドゥアルトに労(いたわ)りの言葉をかけた。

「エドゥアルト様もお疲れ様です。お酒の相手をし過ぎて気分がすぐれないなど、どこか障りはありませんか?」
「問題ない。飲んだ端から汗をかいてアルコールは全部抜けていった」
「あらあら、今夜もだいぶおモテになったみたいですね。たくさん汗をかかれたなら、まずはご入浴になさいますか?」
「そうする。正装でのダンスは肩が凝ってかなわん」

 ハンスに外衣を預けて首元を緩めるエドゥアルトにティーナはグラスに入れた冷たい水を渡しながら、そういえば、と尋ねた。

「今日はラウル用に料理の取り置きを頼まれていないんですか? まだこちらには届いていないのですけれど」
「いや? ハンスを通して頼んでおいたはずだが」

 主の視線を受けて、ハンスも頷いた。

「マシュー様の側仕えの者に確かに頼んであります。どこかで伝達が滞ってしまっているのでしょうか」
「あ、じゃあ私、厨房に確認しに行ってきます」

 お腹が減ってたまらないラウルはそう言って手を上げた。

「くれぐれも廊下を走るなよ。僕の品位が下がる」
「子どもじゃないんですから! 分かってますよ」

 揶揄するエドゥアルトに文句を言って、ラウルは客室を後にした。護衛役の務めとして王宮の見取り図は頭の中に入っている。

 万が一厨房へ話が通っていなかったとしても、今夜のパーティーの余りものはたくさんあるはずだから、その時は事情を話してそれを分けてもらえればいいや―――そんなふうに考えながら広い回廊を歩いていた時だった。

「―――本当かよ、その話」

 灯りの漏れている部屋から仕事を終えて酒盛りをしているらしい王宮の兵士達の話し声が聞こえてきて、たまたまそれが耳に入ったラウルは足を止めた。

「帝国の皇子が護衛役の狼犬族の女剣士とデキてるって」

 ―――は? 

 ラウルは耳を疑った。

 誰と誰がデキてるって!?

「それがマジらしい。聞いた話だとアラン伯爵のトコのほら、狼犬族の護衛長がパーティーの時にその女に声をかけていたらしいんだよな。そしたら皇子がダンスの相手を放り出してやってきて、スッゲェ圧をかけていったらしい。そんなの普通有り得ねぇだろ?」
「あの場にいたダンスの相手って、そうそうたる顔ぶれだよな。それをほったらかしてくるって、確かにねぇな。そりゃデキてるわ。どんだけお気に入りなんだよ」
「だろー!?」

 ―――だろー!? じゃない! 勝手な解釈をして、ありもしない噂を広めるな!

 あの時どうしてエドゥアルトがあの場に現れたのか、その理由はラウル自身にも定かではなかったが、彼らが面白可笑(おか)しく言っているような理由では断じてないと、彼女自身はそう考えていた。

「でも何でまた狼犬族の女剣士? その辺の男よりデカい筋肉質な女にわざわざいくかぁ? あの皇子サマならもっと綺麗どころをよりどりみどりだろうに」
「そういうのは食い尽くして飽きちまったんじゃねーの? ちょっと違うのつまみたくなったっていうか」
「オレはアリだけどな―。いいじゃん、獣耳。そそられるじゃん」
「人間の女とはアソコの具合が違ったりするのかな? スゴくよく締まるとか」
「ぎゃはは、そうかもな! スゲー名器なのかもしれねぇぞ! 昼間は剣で守ってくれて、夜は自分の剣を収めてくれるとかサイコーだろ!」

 ―――コ、コイツら……! 頭をかち割ってやりたい……!

 聞くに堪えない内容に歯噛みしながら憤るラウルの存在など知りもせず、兵士達は馬鹿笑いをしながら明け透けな会話で盛り上がっている。

「でも女はいいよなぁ、カラダ使って王侯貴族に取り入ることが出来るんだからよー。世継ぎでも孕んじまえばしめたモンだろ? 羨ましいぜ。あの女剣士も案外そっちから取り入ったんじゃねーの? 大帝国の皇族が、わざわざ亜人の女剣士を取り立てたりしねーだろ、普通?」

 ラウルはぎゅっと拳を握りしめた。

 女のくせに、女の分際で、亜人のくせに、亜人の分際で―――そういった種類の言葉をこれまで何度投げつけられてきただろう。

 女が剣を極めたいと、志してはいけないのか。

 亜人が才を認められ、取り立てられることがあってはならないのか。

 性別や人種を理由に一方的に見下げてくるこういった連中の脳みそは、どうしてこうも凝り固まっているのだろう。

 この世界に根ざしている下らない固定概念を、ぶった切ってやりたい。

 ティーガにしてもそうだ。女だから年下だから、そういったラウル自身にはどうしようもない部分で彼女に敗れたことを恥じ、己の未熟さや精神的な弱さには目を向けなかった。ラウル自身の努力や剣にかける情熱には、これっぽっちも思い巡らせてくれなかった。

 敗れてなお、彼の中でラウルは「近所の年下の女の子」であり、未だ対等な一個人として、剣士としてのラウル自身を見てくれてはいないのだ。

 そうだ―――初恋が破れたことより何より、それが何よりも悲しいと、当時のラウルは感じていたのだ―――。

 勝手な憶測に基づいた妄想を酒の肴(さかな)にする男達に言ってやりたいことは山程あったが、外交関係に支障をきたしても困るので、ぐっと堪(こら)える。

 同じような噂話はきっと他でもされているのだろうから、ここで意見をしたところで焼け石に水、下手なことをして余計な誤解を招いてしまうのも馬鹿馬鹿しいから、ここは聞き流すのが利口なのだ―――うん。

 そう自身に言い聞かせ、これ以上不愉快な気分になる前にと、ラウルは足早にその場を立ち去ったのだった。



*



 料理の取り置きは厨房の片隅に置かれていた。

 指示伝達が充分でなかったらしく、担当者は後で帝国の従者が取りに来ることになっていると思っていたらしい。

 平身低頭する相手に気にしないよう言い置いて、ラウルは上機嫌の体(てい)で皆のいる客室へと戻ってきた。

「ただいま戻りましたぁー、無事ゲット出来ました!」
「あら、良かったわね、ラウル」

 彼女にそう声を返したのはティーナだった。エドゥアルトは入浴中らしく、彼に付き添っているハンスの姿もない。

 帝国の第五皇子一行に当てがわれた豪華な客室はリビングダイニングと浴室とトイレ、それからリビングから扉続きで繋がっている寝室が四つという構成になっていた。寝室のひとつは貴人用の豪華なもので、残り三つは従者用の簡素な造りになっている。

「ちょっと聞いてよ」

 ここぞとばかりティーナを相手に先程の件を愚痴りながら料理をいただいていていると、バスローブを素肌に纏ったエドゥアルトがハンスと共に戻ってきた。

「エドゥアルト様、若い女性が二人いるんですよー? せめて上掛けを羽織って下さいな」

 そう注文をつけるティーナにエドゥアルトは白んだ眼差しを向けた。

「うら若き乙女というわけでもないだろう。ティーナには傷の手当てやら健診やらでしょっちゅう肌を見せているし、ラウルの前では稽古の合間に服を脱ぐなどザラだ。今更お前らの目を気にする理由がないな」
「まあ、失礼ですね。時と場所をわきまえるのは大事ですよ? あと言葉には気を付けて下さい」
「分かった分かった……もう少ししたら羽織るよ。今は暑くてかなわないんだ、少し目をつぶってくれ」

 面倒臭そうにそう言い置いて、エドゥアルトは格調高いソファーに深く背もたれた。ダイニングテーブルで食事中のラウルに視線をやり、「あったようだな」と声をかける。ラウルから事の次第を聞き、遅い食事を頬張る彼女に向けられるその眼差しの柔らかさに、ティーナは心の中で「あらあら」と呟いた。

 あら〜これはやっぱり、もしかするともしかするのかしら……。

 エドゥアルトの傍らに控えるハンスもどうやらそんな主の様子に気が付いているようだ。

 まあ……これはこの件で一度、ハンスとじっくり話をしてみたいものねぇ……。

 内心そわそわするティーナの前でエドゥアルトがそのハンスを振り仰いだ。

「ハンス、お前ももう休んでいいぞ。風呂へ行って来たらどうだ?」

 主にそう勧められたハンスはそれを丁重に辞退した。

「いえ、私はエドゥアルト様が休まれてからいただくことにします」
「真面目だな、お前は。僕がいいと言っているのに」
「性分ですのでお気遣いなく」
「分かった。じゃあティーナ、先に浴室を使ってくれ」
「かしこまりました」

 ティーナが席を外してほどなく食事を終えたラウルは、何となく夜風に当たりたい気分になり、リビングから繋がっているバルコニーへと出た。

 いつもなら満腹になった後は幸せな気分になるのだが、今は何となく胸が塞いでいて、美味しいはずの豪華な料理もさほど美味しく感じられなかったのが残念だった。

 あー、地味にダメージ受けているなぁ……。

 内心で溜め息をつきながら異国の星空を眺めていると、上掛けを羽織ったエドゥアルトが隣にやって来て、手すりに肘をつくラウルに尋ねた。

「何かあったのか」
「えっ?」

 唐突に指摘されて瞬きを返すラウルに、手すりに頬杖をついたエドゥアルトは彼女の顔を斜めに仰ぐようにしながら言った。

「いつもの元気がないじゃないか」

 空元気が、見透かされている。

「いや、そんなことないですよ……」

 一旦は誤魔化そうとしたラウルだったが、こちらを見据えるエドゥアルトの眼差しを見て諦めた。

「……いや、あまり突っ込まないで下さい。個人的なことなので」
「ティーガとかいう男絡みか」
「あの、人の話聞いてます? 突っ込まないで下さいって言いましたよね?」

 ティーガ絡みではあるが、エドゥアルト絡みでもあると言えばある。

 ティーガのことで下手に突っ込まれたくないラウルはこちらから質問を振って話題を変えることにした。

「そういえばエドゥアルト様、ダンスの途中で私のところへ来た用件は何だったんですか?」
「は?」

 エドゥアルトが驚いた顔をしたので、そんな彼の反応にラウルは驚いた。

「え? あれ? 何か用事があったわけじゃないんですか?」
「……。お前のその脳筋は、どうにかしてもう少しほぐれないものなのか」

 げんなりした様子で深々と嘆息され、その言葉の意味を理解しかねたラウルが慌てて記憶を思い返していると、そんな彼女を見て埒(らち)が明かないと踏んだのか、エドゥアルトは投げやりな口調で話し始めた。

「用件はあったし、伝えた」

 彼としてはこれ見よがしにティーガを牽制し、これ以上ないくらい分かりやすく言葉と態度で伝えたつもりだったのだ。少なくともティーガには伝わっていたはずだ。

「言っただろう、『お前の一番はこの僕だ、そこを違(たが)えるな』と」

 まさか、これほど露骨なアピールが本人にまるで伝わっていなかったとは。

「……ダンスをしていたらあの男がお前に話しかけるのが見えたから、何の目的があってお前に接近したのか、確かめに行ったんだよ。まかり間違ってこの僕の護衛役を口説きにでも来たのなら、ひと言言ってやろうと」

 半分取って付けた理由を説明すると、疑いなくそれを受け入れたラウルは愕然としていた。

「えっ……そんなことの為に、ダンスを抜け出して来たんですか」

 これが実は、好意を寄せる相手に同族の男が話しかけているところを見て、居ても立ってもいられなくなっただけの衝動的な行動だと知ったら、彼女はどんな反応を見せるだろうか?

「そんなこととは何だ」

 エドゥアルトは眉を跳ね上げると大真面目な顔でラウルに意見を付けた。

「お前は僕が見つけて自らスカウトした、僕の護衛だ。他の者に粉などかけられてたまるか」

 彼としては紛(まご)うことなき一大事だったのだが、一方のラウルにとってそれは衝撃的な理由だった。

 だって、あの場にはそうそうたる顔ぶれがエドゥアルトとのダンスの順番を待っていたはずなのだ。

 なのに、その面々を待たせてまで席を外した理由が、そんな些細なことだなんて。

 無論エドゥアルトのことだからそれで波風が立つことのないように上手く取り成したのだろうが、まさかそんな理由で彼がわざわざ自分の元へやって来ただなんて、ラウルには思いも寄らないことだったのだ。

「―――……」

 その驚きはやがてゆっくりと喜びへと置き換わっていき、気が付くとラウルの口元には柔らかなほころびが広がっていた。

 ―――ああ、そういえばエドゥアルト様は初めから私を「ラウル(わたし)」として見てくれていたっけな。

 そうだ。この人は最初から人種や性別に関係なく、ただ純粋に剣士としての私の資質を見込んで、自分の元へ来いと熱心に口説いてくれたんだった―――。

 それを思い出した瞬間、先程までの陰鬱な気分が嘘のように晴れていくのをラウルは感じた。

 ラウルが女であることや、人間よりも肉体的に強靭な狼犬族であることを、エドゥアルトは理由にしない。彼にとってラウルはあくまで「ラウル」という一個人なのだ。

 だから何度彼女にやられても腐ることなく、次こそは、という気概を彼は見せる。その繰り返しで、どんどん成長していく。そんな彼を目にしているから、こちらも負けられないという思いがふつふつと込み上げてくる。結果、相乗効果で互いを高め合っていく―――。

「そこまで言ってもらえるなんて、従者冥利に尽きますね……」

 素直な気持ちが言葉になって滑り出た。自然と晴れやかな顔になって、ラウルはエドゥアルトに微笑みかけていた。

「ええ、そうですよ……私は貴方のものです。他の誰のものにもなりませんから、そこは安心して下さい」

 星空の下で不意に花開いたその笑顔にエドゥアルトが目を奪われたことなど夢にも思わず、ラウルはただ彼に自身が必要とされている喜びを噛みしめていた。

 固定概念に染まらず、自分の目で確かめたものを自分の信念に基づいて選び取る、周りからは変わり者だと噂されるこの主に見初められたことはとても幸運なことだったと、彼女は深く感じ入っていたのだ。

 柔らかな夜風が二人の髪をそよがせて、異国の石鹸の香りが入り混じったエドゥアルトの匂いを運んでくる。それを感じたラウルはひどく穏やかな気持ちになった。

 いつもと少し違うけれど、間違いのない彼の匂い。そんなことに何故かホッとする。

 香水の香りに邪魔されていた彼自身の匂いを約一日ぶりに嗅いでそんなふうに感じる自分を少し不思議に思ったが、それをあまり深くは考えなかった。

「そんなに心配しなくても、そもそも需要がありませんから。もう少し可憐な見た目ならともかく、こんないかつい狼犬族の女、そうそう欲しがる人もいませんよ」

 自虐気味に笑うラウルにエドゥアルトは小首を傾げ、異論を唱えた。

「別にいかつくはないだろう。充分整っている部類に入ると思うが」
「うぇ!?」

 思わぬ言葉を返されたラウルは素っ頓狂な声を出してしまった。今更そんなことで動じないエドゥアルトは淡々として、ラウルが恥ずかしくてたまらなくなるような言葉を連発する。

「この機会に自覚しておけ。お前の見目は充分に男の目を引く。静謐(せいひつ)な夜空に輝く月光を紡いだような銀の髪も、それと同じ柔らかな銀毛に覆われた獣耳も、夜明けの空を思わせる青灰色の瞳も、引き締まった均整の取れた肢体も―――」
「ちょちょちょ、な、何で急に褒め殺しを始めるんです!?」

 そういったことに免疫のないラウルは真っ赤になって背筋をぞわぞわさせながら、たまらずエドゥアルトから一歩距離を取った。

「褒め殺し? 思ったことを言っているだけだが」

 余裕の笑みを湛えた相手はすかさず踏み込んで距離をゼロにすると、身体の向きを変えて手すりに両腕をつき、ラウルを自分と手すりとの間に閉じ込めてしまった。

 同じくらいの身長の二人は至近距離で互いの目を見つめ合うような格好になり、ラウルはエドゥアルトの発する馴染みのない雰囲気に気圧されながら、精一杯背中を反らせて彼との距離を取ろうと苦心した。

「ちょっ、エドゥアルト様、近い―――」
「剣を振るうお前をひと目見た瞬間、子ども心にその姿をとても綺麗だと思った。未だに覚えているよ」

 端整な顔に見たことがない種類の表情を浮かべ、エドゥアルトはまるで愛しい者に囁くようにしてそう言った。

「お前は綺麗だ」

 その表情を目にしたラウルの胸に、これまでにない衝撃が走った。

 胸の奥を射抜かれたような、そこがムズムズして叫びだしたくなるような、上手く表現出来ない感覚に飲み込まれ、急激に体温が上がるのを自覚する。

 逃げ場のない空間で、先程まで安心すると感じていた彼の匂いがどこか危ういものへと置き換わり、目の前の相手に初めて異性を感じてしまって、彼女は混乱をきたした。心拍数が跳ね上がり、様々な感情が入り乱れて、今何が起こっているのか、どう対処したら良いのかが分からなくなる。

「……その顔、僕以外には見せるなよ」

 黄玉色の双眸に映る自分の顔は、少女のように頼りなく動揺を露わにしていて、ひどく情けないもののようにラウルには映った。

 そんな彼女をまじまじと見やって、エドゥアルトはどこか困ったように小さく笑う。

「勝手に触れるとお前は怒るから、難しいな。どこまでなら触れていい? どこまでなら触れて許される?」

 とんでもないことを聞かれている! そういったことに耐性のないラウルは完全に受容力の限界を超え、反射的にエドゥアルトの胸を両手で突き飛ばすようにしてしまった。

「どっ、どこもダメですっ!!」

 勢いよく彼を遠ざけようとしたつもりが、滑らかな光沢素材で作られた上掛けに突いた手が変に滑って、その下のバスローブに思いっきり両手を突っこむ形になってしまい、盛大に彼の胸元を寛(くつろ)げる格好になってしまう。掌に温かく硬い素肌の質感が当たり、夜の闇に晒されたエドゥアルトのあられもない姿を見たラウルは恐慌状態に陥った。

「ぎゃあぁぁぁ! もっ、申し訳ありませんんん!」

 とっさにエドゥアルトがラウルの口を手で塞いだのでベイゼルンの王宮にその声が響くことはなかったのだが、バルコニーの様子を見て見ぬふりをしていたハンスがさすがに事態を静観出来なくなり、意を決して室内から呼びかけた。

「エドゥアルト様、冷えますからそろそろ室内へお戻り下さい」

 その時になってようやくハンスの存在を思い出したラウルは、一部始終を彼に見られていたことを悟り、あまりの恥ずかしさにその場を転げ回りたくなった。

「なかなか大胆なことをしてくれるじゃないか」

 バスローブの乱れを直しながら追い打ちをかけてくるエドゥアルトの声を聞くまいと獣耳を伏せながら、ラウルは恥ずかしさを怒りへと転換させて、精一杯文句を言う。

「さ、さっきのことはすみません、ちょっと手元が狂って……! でも、あれは事故です! エドゥアルト様が妙な真似をするから……!」
「へえ。妙な真似、というのは?」

 からかうようにそう促され、ぐっと詰まると、それを見越していた相手は薄く笑ってこう嘯(うそぶ)いた。

「僕はやられっぱなしは性に合わないんでね。そのうち借りは返させてもらうから、覚えていろよ」
「ぎゃあ! か、返さないで下さい! 不可抗力です! 謝りますから〜!!」

 そんなことがあったとはつゆ知らず、さっぱりとして浴室から戻ってきたティーナが室内の妙な雰囲気を察し、何だか面白そうなことを見逃してしまったらしいということに気が付いて、こっそりハンスを問い詰めにかかるのは、それからほどなくしてのことである―――。



<完>
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