主である第五皇子エドゥアルトの天幕からその直上の兄、第四皇子フラムアークが立ち去る姿を見届けた狼犬族の女剣士ラウルは、周辺に異常がないことを確認した上で天幕の中へと足を踏み入れた。
簡易式のベッドとテーブルが設(しつら)えられた内部をカンテラの灯りが映し出す中、皇族の中で異端とされる兄と重要な話合いを終えたばかりのエドゥアルトは何か深い考えに沈んでいる様子で、腕組みをしたままじっと佇み、微動だにせずにいる。
ラウルは改めて天幕の周辺に何者の気配もないことを確認してから、そんな主に声をかけた。
「お話は滞りなく済みましたか?」
「……。ああ」
一点を見据えたまま声だけを返すエドゥアルトの表情は思案に沈んだままだ。
何か重要なことを考えている時、彼はしばしばこのような状態になる。これまでも何度かこういった場面に立ち会ってきたラウルは、こういう時は気が済むまで考えさせてやるのが一番だと知っていたので、考え込む主の邪魔はするまいと、最低限の言葉だけをかけて引き揚げることにした。
「何かお手伝いすることはありますか? 入り用のものがあるようでしたら持ってきますけど」
「……」
「ないんですね。じゃあ私は隣の天幕で先に休ませてもらいますから、用があったら声をかけて下さい」
「……」
「もう遅いので、明日に支障をきたさない程度にして下さいよ」
「……」
「では、おやすみなさい。お先に失礼します」
「……。……ラウル」
立ち去りかけるラウルの背中にエドゥアルトの声がかかった。そんなふうに呼び止められるとは思っていなかった彼女は、少々意外な面持ちで主を振り返る。
「何か、ありました?」
そう尋ねた彼女に彼から告げられた内容は、甚だ意外なものだった。
「お前、まだキスのやり直しをしたいという気持ちにはならないのか?」
「―――はぇッ!?」
ラウルが妙な声を返してしまったのは無理からぬことだろう。
「はっ!? ななっ、何なんですか、急にっ……!?」
目を剥いてたじろくラウルにエドゥアルトは顔色ひとつ変えることなく、いつも通りの口調で告げる。
「急なことはないだろう。あれからもう三年は経つんじゃないか?」
「いや、私が言っているのはそういうことではなくって、何で急にそんな話になるのかってことです! 脈絡が! 話に全く脈絡がないじゃないですか!?」
「僕的には繋がってるから問題ない」
「私的には全く繋がってなくて問題ありありなんですけど!?」
全身の毛を逆立てかねない勢いのラウルを見たエドゥアルトは、少し考えてからこう答えた。
「今、スゴくお前とキスしたい気分になったんだ。だから」
「へッ!?」
耳を疑うような、全く予想もしていなかったとんでもない発言に、ラウルは顔面から蒸気を吹き上げかねない様相になりながら、困惑も露わに尋ね返した。
「だ、誰が!?」
「僕が」
その返答に今度こそ青灰色の瞳をいっぱいに見開いたラウルは―――一拍置いて絶叫しかけ、とっさに自分の口を両手で抑え込んだ。
さすがにここで騒ぎを起こすわけにはいかない。
「〜〜〜!? なななななななな!?」
何を突然言い出すのか、この皇子は!?
エドゥアルトの気まぐれは今に始まったことではないが、これは冗談にしても度が過ぎる!
しかしそんなラウルの心中に反して、当のエドゥアルトはごく真面目だった。
「僕とじゃ嫌か? それとも、誰かしたいと思う相手でも現れたのか」
その様子を見て、信じられないことにどうやらこれが冗談ではなさそうだと察したラウルは、一気に心臓が落ち着かなくなるのを覚えながら、戸惑いに瞳を揺らした。
「い、意味が分からないんですけど! そもそも、何で私とそんなっ、キ―――」
キス、と口にしかけて言い淀み、ラウルは赤く染まった顔を気まずそうにエドゥアルトから逸らした。
「ど、どうしてエドゥアルト様が私とそんなことをしたい気分になるのか……。そっ、そもそもキスのやり直しはしなくていいって、あの時そう言ったじゃないですか」
「『お互いが好き同士で気持ちがこもったものじゃないと意味がないから』、だったな」
「! 覚えてるんじゃないですか!」
「だからお前に聞いているんだよ。お前の気持ちをないがしろにするつもりはないから」
「えっ……」
その言葉にラウルは思わず呼吸を止めて、まじまじとエドゥアルトの顔に見入った。
そして自分の理解力に対し、大いに疑問を抱いた。
どうしよう……まるでエドゥアルト様が私のことを好きだと、そう言っているように聞こえるんだけど。
いやいや……まさかそんな、こんな突然、何の前触れもなく、そんなことが起こりうる!?
いつもの如く、何か重大な勘違いをしている気がする……! 言葉を聞き間違えてるとか!?
怒涛のような自問自答が頭の中をぐるぐると回り、大いに混乱をきたすラウルへ、エドゥアルトの突っ込みが入った。
「おい。何だその面白可笑しい顔の変化は」
「いや……ちょっとエドゥアルト様が急に色々ぶっこんでくるので、混乱して、私の理解力がおぼつかなくなっているのかなと……。その―――今の言いようだと、まるでエドゥアルト様が私のことを好きだと言っているように、そう聞こえたので」
ためらいがちにそうこぼすと、目の前の相手は海よりも深い溜め息をついた。
「それ以外の何に聞こえるんだ。好きでもない相手とわざわざキスしたいと思うわけがないだろう」
うえぇぇぇぇ!?
その回答に恋愛経験値の低いラウルは今度こそキャパオーバーを起こし、ところ構わず悲鳴を上げて転げ回りたい心境になったが、それをどうにか抑え込み、言い募った。
「えっ……!? だ、だって! エドゥアルト様にとってのキスは、作法の延長みたいなものなんでしょう!? 『そういう場面』で『礼儀としてしなければならないもの』的な……!」
「昔は確かにそうだったな。そもそも『好き』という感覚がよく分からなかった」
「昔は? 今は違うんですか?」
「今はお前のことが『好き』なんだと認識しているし、そう気付いてからは誰にも触れていない」
ぎゃあぁぁぁ!
その一撃にラウルは脳内で真っ赤になってのけ反りながら、倒れる寸前でどうにか踏みとどまった。
確かにある時からエドゥアルトは手当たり次第に遊ぶことをやめ、数人の決まった令嬢だけにそういう相手を絞ったという経緯はあるが、そんな彼と彼女らの逢瀬は現在も定期的に続いており、場合によっては密会現場の護衛に駆り出されることもあるラウルとしては、納得のいかない回答だった。
「―――っ、でも、エドゥアルト様には今もずっと定期的にお会いしている方々がいらっしゃるじゃないですか。……私はそういうのは嫌なんです。私は大勢の中の一人じゃなくって、ただ一人、好きな相手から特別に見てもらえる存在になりたいし、相手にもそうであってほしいんです。私が考える男女の『好き』は、お互いだけを一途に想い合う唯一絶対の対等なもので―――貴方の言う『好き』と私が思う『好き』とでは、大きく隔たりがあると思うんです」
言いながら、何とも言えない苦い感情が胸の内に広がっていくのをラウルは覚えた。
それは、ラウルの胸の奥底にいつからかずっと溜まり続けていた暗い淀みだった。
ラウルは恋愛の機微には疎いが、自分に向けられる感情そのものに鈍感なわけではない。エドゥアルトがこれまで自分に向けてくる言葉や態度の端々に、彼女なりに特別なものを感じる瞬間は何度もあったのだ。
いつからかそれを面映(おもはゆ)く感じるようになった半面、彼が変わらず令嬢方との逢瀬を重ねる度、自分と彼の恋愛に対する価値観に大きなずれがあることを突きつけられているようで、ひどく重苦しい気持ちになった。
ずっと考えないようにしてきたけれど、今本人を前にそれを口にして、自分の中にあったその感情と初めて正面から向かい合う。
そして、自覚した。
この決定的な違いを認めたくなかったから、自分は無意識のうちに深く考えることを放棄していたのだと。
長い時間を共に過ごすうちにいつの間にか芽吹いてしまった、本来なら抱くべきではなかったはずの彼への想いを失いたくなかったから、ずっと見て見ぬふりをしてきたのだ。
―――気付かせないでいてほしかった。
ラウルの胸にそんな悲しみが溢れる。
どうせ交わらぬ想いなら、このままずっと触れずにいてくれたら良かったのに。
自覚した瞬間に相容れないと分かってしまった、行き場を失くした恋心に、銀毛に覆われたラウルの大きな三角耳は自然と下向きになった。
「だから私と貴方とは―――」
沈むラウルの声にエドゥアルトの声が重なった。
「―――……確かに定期的に会っている令嬢は何人かいるが。それはそういう関係を装って情報交換をしているだけの間柄であって、お前が思っているような関係じゃないぞ」
「へッ!?」
うつむいてうっすら涙ぐんでいたラウルは、エドゥアルトのその言葉に弾かれたように顔を上げた。
端整な面差しに珍しく困惑の色を浮かべた彼は、自身の失態に苦り切っている様子だった。
「何だ、もしかしてそこが引っ掛かっていたのか? お前の聴覚なら室内で何をしているかくらい伝わっていると思っていたから、盲点だった」
「そっ、そんな人様の情事を覗くような真似、するワケないじゃないですか! 私なりに気を遣ってなるべく距離を取ったり、内部に耳が行かないようにその他の警備に集中したり、色々神経使って大変だったんですよ!?」
そういった仕事の後はいつも決まって憂鬱な気分になり、ラウルは人知れず眠れぬ夜を過ごしたものだ。
声量控えめながら、がなり立てるような調子で文句を言うラウルに、エドゥアルトは苦笑を呈した。
「それはいらない気を遣わせて悪かったな。ティーナからも何も聞いていないのか? 長らく避妊具を頼んでいないから、そういう行為をしていないことは彼女に聞いても分かるはずなんだが」
「ひっ、ひにっ……!」
具体的な名称に真っ赤になって口元をわななかせたラウルは、小声でわめいた。
「そんな職務上知り得る秘密を、ティーナが悪戯に漏らすわけがないじゃないですかッッ!」
「それもそうだな」
ふ、と瞳を和らげて、エドゥアルトは真っ赤に染まったラウルの顔を覗き込んだ。
「―――それで? これでお前の憂いは晴れたのか?」
「えっ……」
ヤンチャな気質を纏わせた端整な面差しが見たことのない甘やかさを帯びて、鼓動を跳ね上げるラウルの表情を窺ってくる。
「他に気掛かりは?」
「あ……いや、今のところは……ないです……多分」
「そうか。なら、先程の僕の問いに対する返答は? 僕はまだお前の返答を聞いていないんだが」
からかうような、試すような、どこか艶めいた光を宿すトパーズの双眸に視線を絡め取られて、ラウルは再び顔が火照ってくるのを覚えた。合わせたように心臓の拍動がものスゴいことになって、落ち着かなくて逃げ出したくなるような、なのにずっとこのままでいたいような、矛盾した複雑な心境になる。
これは何度も体感している、エドゥアルトの前でしか覚えない緊張感だ。
踏み込む勇気も覚悟もいるけれど、それでも触れてみたいと思える男性(ひと)。少し怖いけれど、触れられてみたいと思える男性(ひと)。
ラウルはうるさいくらいに響く自分の心音を耳にしながら、正直な気持ちを言った。
「―――まだ、話の流れで言われただけで、エドゥアルト様からちゃんと告白という形で気持ちを伝えられていないので……、その後でも、いいですか?」
それを聞いたエドゥアルトはトパーズの瞳をまん丸に瞠った後、ふはっ、と吹き出した。
いつもの皇族然とした不敵なものではなく、年齢相応の、二十一歳の青年の顔だった。
「確かにそうだな、非礼を詫びよう。僕にとってもお前にとっても初めての告白だものな。憂いがないよう、キチンとしよう」
お互いに、初めての……。
その言葉にラウルの胸はトクンと高鳴った。
何だか不思議で幸せな響きだ。
色事で対極の道を歩いてきた自分達が、どちらも初めての体験をこうして共有することになるなんて―――。
頬を染めるラウルから一歩距離を取って、改めて正面から彼女と向かい合ったエドゥアルトは、厳かに口を開いた。
「ラウル。僕はお前が好きだ。気付いたのはお前に掌底を食らってしばらくしてからという、なかなかに得難いタイミングだったが」
えっ、とラウルが目を見開き、エドゥアルトはそれに思わず笑ってしまったが、改めて口元を引き締め直して続けた。
「思い返してみればお前に出会ったあの日、あの瞬間、僕はお前に心を奪われていたんだと思う。子ども心にとてもキラキラ輝いて見えたんだ……剣を振るうお前の姿が眩しくて、心から綺麗だと思って、覚えたことのない感銘に衝撃を受けたことを、今でも鮮明に思い出せる」
「……!」
ラウルは小さく息を飲んだ。
当時十歳だったエドゥアルトが、自分にいわゆるひと目惚れをしていただなんて、夢にも思わなかったからだ。
「そこからずっとお前は僕のお気に入りだと、そう思ってきたんだが―――実はそういう類のものとは違う種類の感情なのかもしれない、と意識するきっかけになったのが、さっき言った掌底の件だ」
ラウルは内心あっ、と思った。
あの時エドゥアルトに「僕はお前のことを『気に入っている』と思っていたけれど、もしかしたら違うのかもしれないな」と言われて、ラウルはてっきり「気に入っていると思っていたけど実はそうでもなかった」的な意味だと捉えてしまっていたのだが、あれは、そういう意味だったのか―――。
―――私、すっごい勘違いしてた。
内心で恥じ入るラウルに、エドゥアルトはどこか懐かしむような眼差しになって告げる。
「手痛い洗礼だったが、あれで気付いた。お前は僕の初恋で、あの時からずっと特別な存在だったんだって」
エドゥアルトは洗練された所作でラウルの前で片膝を折ると、驚く彼女の右手を手に取って、その手の甲にそっと口づけた。
「! エドゥアルトさ―――」
「ラウル。お前は僕にとって唯一絶対のかけがえのない存在で、これからも共にありたいと願う女性だ。お前が僕を受け入れてくれるなら、キスのやり直しから始めたい」
「……!」
魂が震えるような初めての感覚に、ラウルはぶるっと身体をわななかせた。胸の奥底から湧き上がってくる絶え間のない感情に揺さぶられて、心が沸騰しそうなくらい熱くなる。
この感情は―――歓喜だ。
強烈過ぎるその感情に苦しいくらい胸が詰まって、ラウルは涙ぐみながら、震える喉を張るようにして声を絞り出した。
「わ……私は……亜人で、狼犬族で、平民で―――今ここで私が頷けば、貴方がこれから途方もない苦労を背負ってしまうことは、目に見えて分かっているんです」
皇族からはもちろん、貴族諸侯からの風当たりは痛烈なものがあるだろう。ガサツで礼儀作法もなっていないし、ラウル自身、これからたくさんの努力をしていかなければならないことも分かっている。
「でも……貴方ならきっとどうにかしてしまうんだろうなって、そんな希望的な、楽観的な思いもあるんです。何より―――私は貴方にそう言ってもらえて、今、とても嬉しいから―――……もちろん私自身、至らない部分はたくさんあって、これから死ぬほど努力していかないといけないんですけど―――頑張りますから、だから、今は自分の気持ちに素直になってもいいですか?」
言葉を紡ぐうちに感情が昂っていって、ラウルの青灰色の瞳から涙がひと筋、こぼれ落ちた。
「ラウル……」
立ち上がったエドゥアルトは指先でそっと彼女の涙を拭うと、力強く頷いた。
「もちろんだ。他でもない僕自身がそれを望んでいるのだから」
ラウルは真正面から彼の黄玉色の双眸を見つめて微笑んだ。
「貴方が好きです、エドゥアルト様。負けず嫌いで、努力家で、いつも真っ直ぐな気概をぶつけてくる貴方が―――幼い頃から私をずっと対等な存在として見てくれている貴方が―――好き」
「―――……!」
エドゥアルトが弾かれたように手を伸ばし、掻き抱くようにしてラウルを腕の中に収めた。
普段の彼からは想像もつかない、余裕のない性急な行動に、ラウルは少々驚きながら、そのギャップを嬉しく感じた。
エドゥアルトの胸は広く厚く、ラウルに回された腕は頑強で、同じように鍛えていてもラウルとは筋肉の質が異なった。どちらかと言えば柔軟な筋肉のラウルに対して、エドゥアルトのそれは鋼のように硬い。
ラウルの側頭部に自身の側頭部を押し当てるようにしてじっと感慨にふけっている様子の彼の背は、いつの間にか長身の彼女よりもわずかに高くなっていた。
そんなところに時の流れと、たくましく成長した彼の男らしさを感じながら、ラウルはおずおずとエドゥアルトに身を任せた。自分のものとは違う体温と硬い質感に寄り添いながら、改めて今のこの状況を噛みしめて、幸せでこそばゆい気持ちになる。
彼の匂いに包まれてふわふわ夢見心地に浸っていると、背中に回されていたその腕が緩み、側頭部にあったエドゥアルトの顔が正面に戻ってきて、至近距離で見つめ合う格好になったラウルは小さく喉を上下させた。
こんなに近い距離で彼と向かい合うのは、いつぞやのティーナにそそのかされたゲーム以来だ。
あの時は緊張しまくりで彼の顔を直視するのが難しかったが、今こうしてまじまじと見て、改めてその完成度の高さに気付かされる。
サラサラの金髪、髪と同じ色合いの意志の強さを感じさせる眉。前髪の下から覗く一対のトパーズの瞳は至高の宝玉のようで、いつもの人を食ったような空気をしまい込んだ容貌は、精悍すぎず柔和すぎない絶妙なバランスの保たれた秀麗さと気品を漂わせており、そこはかとなく醸し出される男らしい艶が、見る者を惹きつけずにはいられない一種の麻薬のような中毒性を放っている。
うわぁ、改めて見ると顔面が良……あのヤンチャな悪戯小僧が、いつの間に……。
エドゥアルトの容貌に見とれていたラウルは、その彼の顔がいつの間にかさっきより近づいていることに気が付いて、反射的に距離を取りかけたが、そんな彼女の行動を見越していた彼の手によってしっかりと腰と後頭部を固定されてしまい、逃げ場を失くして上ずった声を上げた。
「! エッ……エドゥアルト様、待って!」
「待たない」
「ちょ、ほっ……本当に? するんですか?」
「そう言ったろう」
押し問答の間にもじりじりと距離は狭まり、互いの息づかいが口元に触れる。笑みを含んだエドゥアルトの表情はラウルの反応を楽しんでいるようにも見えたが、いっぱいいっぱいのラウルはそれどころでなく、耳の奥でバクバク反響する心臓の音に支配されながら、最後の悪あがきをした。
「こっ、心の準備が……!」
「今更? 整うのを待っていたら、いつまで経っても出来ないな」
「うぐ……」
「それに僕としては、充分すぎるくらい待ったんだ」
言いしな、エドゥアルトの唇が柔らかくラウルの唇に重なった。
「……!」
ビクッ、と身体を震わせる彼女の身体を抱き竦めるようにして、エドゥアルトは積年の想いを伝えるようにラウルへと自分の体温を伝えていく。
初めての彼女を怖がらせないように、昂る熱情を抑え込んで、ただ優しく唇を重ね合わせるだけのものにした。その分少し長く重ねて、初恋の成就を味わう。
エドゥアルトとしても好きな相手とキスを交わすのは初めてのことで、これは彼にとっても特別な瞬間だったのだ。
愛しい想いが胸の奥から際限なく溢れてきて、気を抜くと理性が溶けていってしまいそうな情動に鼓動が逸る。
これまでは義務という行為でしかなかったキスへの概念が覆されて、まるで別のものへと昇華していく感覚に、エドゥアルトの胸は熱くなった。
甘いな―――味わい的にも、感覚的にも。
ラウルの唇は柔らかかったが彼女自身はガチガチで、それがまた愛おしかった。
ラウルの身体の強張りを解くように、エドゥアルトは短く優しいキスに変えて唇を重ねた。ついばむような優しいキスを繰り返し受けて、きつく閉じられていたラウルの唇は徐々にしっとりと熱を帯び、ほころんでいく。
ちゅ、と小さく湿った音が立つ度に彼女の肩からは少しずつ力が抜けていって、いつしかラウルは獣耳をくたりと伏せてエドゥアルトのキスに身を任せ、彼の胸に縋るような格好になっていた。
彼女に深く口づけたい衝動が高まって自身を抑えきれなくなってきたエドゥアルトは、名残惜しさを覚えながら一度唇を離した。
すると頬を上気させて熱っぽく潤んだ瞳でこちらを見つめるラウルの表情が視界に入り、その色香に理性を根こそぎ持っていかれそうになって、彼女をきつく抱きしめ直しその表情が見えないようにすることで、己を制した。
この体勢はこの体勢でまた色々と問題があるが、致し方がない。自身の制御が想像していた以上に難しかった。
それだけ大切な存在をこの腕に抱いているのだ、と改めて自覚して、自らの双肩にかかる重責を再度認識したエドゥアルトは、自らが選び取ると決断した道にラウルを含めた皆を連れて進む覚悟を、その道の先に誰一人欠けさせることなくたどり着く決意を固めた。
―――背後に常に憂いを抱え続ける未来ではなく、大切な者とつつがなく過ごせる未来を、この手に掴む為に。
「……エドゥアルト様。どうしてこのタイミングで私とキスしたくなったんですか? フラムアーク様と何か……」
抱き合ったままじっと黙して動かないエドゥアルトに、ラウルが控え目な声をかけた。
エドゥアルトは少し間を置いて、自らの内にあった迷いと弱音を初めて覗かせた。
「……お前に最後のひと押しをしてもらいたかったんだ。戻りが利かない分かれ道に一歩を踏み出すことを心のどこかでためらっている、臆病な自分自身に新たな意識と覚悟を課す為に―――どれほど大切なものを自分の決断に巻き込もうとしているのか再認識することで、不退転の覚悟としたかった」
ラウルは微かに目を見開いて、その意味を噛みしめた。
エドゥアルトの決断には、自分達側近はもちろん、彼に付き従う多くの者達の命運が関わってくる。それを重々承知しているエドゥアルトは、きっと幾度もこの選択を吟味して、想像も出来ない重圧と戦ってきたのだろう。
ラウルは自分を抱きしめているエドゥアルトの身体をぎゅっと抱きしめ返した。
「私は、貴方の背中を押せましたか?」
「……。ああ」
「エドゥアルト様がそうと決めたのなら、私は最後までお供しますよ。ハンスもティーナも、きっと皆、そう言うと思います」
「……そうだな。僕もそう思う」
それを聞いたラウルは頬を緩めた。
「何だかんだ、エドゥアルト様は人気者ですから」
そんな彼と自分がこういう関係になったことを知ったら、みんなどんな反応をするだろうか? ひどく驚くことだけは間違いない。
……想像すると、何だかこそばゆいな。
そう思ったラウルはふと、今後の自分達の在り方について考えた。
「ところで私達の関係って、ハンスやティーナには内緒にしておくんですか?」
自分達の関係が今の段階で公になるのはさすがにまずいということは、ラウルにも分かっている。
それに対するエドゥアルトの返答はこうだった。
「いや、あの二人には伝えておこうと思う。お前がボロを出した時にさりげなくフォローしてもらう為にも、あの二人には知っておいてもらった方がいい」
「うぐ……」
反論出来ないが、その言い方は悔しい。
「これを知ったらハンス、胃が痛くなったりハゲたりしませんかね?」
ティーナの方は手放しで喜んでくれそうな気がするが、気苦労が多そうなハンスにはこの展開は少し気の毒かもしれないと思った。
「その可能性はあるが、僕としてもここは譲れないからな……せいぜい先回りして、ティーナに胃痛と脱毛に効く質の良い薬を用意してもらうことにしよう」
それに、とエドゥアルトは薄く笑った。
「二人とも薄々勘付いている節があるから、案外驚かないんじゃないかって気はする」
「えっ!?」
「特にハンスは、要所要所様々な場面に立ち会って、僕達の様子をその目で見てきているからな」
言われてみれば確かに、あの時もあの時も、いつもハンスはそこにいた。
思い出しても恥ずかしくて転げ回りたくなるようなシーンを、彼は常に目撃してきた。
その事実にラウルは脳が茹(ゆだ)りそうになるのを覚えながら、思わず周囲を見渡した。
「さ、さすがに今回はいませんよね……!?」
こんなところを見られていたら、恥ずかし過ぎて憤死する。
「僕とお前の索敵(さくてき)をかいくぐってここにいるとしたら、それはもうハンスじゃないぞ。それに―――いくらハンスとはいえ、お前の貴重な姿を僕以外の男に見せるわけにはいかないからな」
「―――っ!?」
耳元で、不意打ちのように色気漂う低音でそう囁かれたラウルは、ぴるっと獣耳を揺らし、腰の辺りをぞくぞくさせた。
「エッ、エドゥアルト様……」
「……その顔。僕以外には見せるなよ」
鼻先が触れ合う距離で、すり、とうなじを撫で上げられて、思わず「あっ……」と密やかな吐息をこぼしたラウルの口をエドゥアルトが速やかに塞ぎ、深まる夜の静寂(しじま)へと連れ去っていった―――。
*
後日、エドゥアルトからラウルとの関係を告げられたハンスは、驚きを見せつつも取り乱すことはしなかった。
やはりそういう時が来ることを薄々予見していたらしく、臣下としての苦言と提言をひと通り主に呈した後、意志を覆す気のないエドゥアルトの様子を見て、諦め混じりの吐息と共に肩を落としたハンスは、複雑な胸中を述べた。
「臣下としては賛同しかねますが、これまでの貴方達を見てきた一人の人間としては祝福したい気持ちです。エドゥアルト様がどうしてもそうと望まれるなら微力ながら力添えは致しますが、相応の覚悟をもって臨まれること、そしてそうと決めた以上は必ずラウルを幸せにすると約束して下さい」
同僚としてのラウルを思いやるハンスの忠言に、エドゥアルトの表情は自然と柔らかなものになった。
「もちろんだ。折れてもらってすまないな……このことは然るべき時が来るまで他言無用で頼む。しばらくはお前とティーナの胸にだけ留めておいてくれ」
「かしこまりました」
「……お前は優秀な上にいい奴だな、ハンス」
「褒めていただけるのは光栄ですが、私は正直、これからのことを思うと……」
浮かない顔で鳩尾(みぞおち)の辺りを押さえるハンスに、エドゥアルトは珍しく殊勝な態度を見せた。
「そこは本当にすまないと思っている。お前には色々な意味で苦労をかけるな」
主従の間でそんなやり取りが交わされてしばらく経った後、度々調剤室のティーナの元を訪れるハンスの姿が目撃されるようになるのだが、その原因がまさかエドゥアルトとラウルの関係にあるとは思ってもみない人々は、口々に「ハンスがティーナの元へ足繁く通い詰めている」と噂し合い、ハンスの知らないところで、見当違いのその噂がまことしやかに宮廷内へと広まっていくのであった。
ちなみにそれは、そうなるであろうことを重々承知の上で、主と友人の目くらましとなる為ならばと、適当に話を合わせたティーナが自ら火種を撒き散らして煽ったのもまた一因である。
優秀な側用人ハンスの受難は、これからもまだしばらく続きそうだ―――。
<完>