「んー、このケーキ、美味しーい! 今日来れて良かった!」
「見た目も華やかで可愛いわね。甘みと酸味が絶妙」
ラウルの正面の席で優雅に微笑むティーナは二十代後半の人間の女性だ。褐色がかった長い髪を緩く巻いて背の中程まで流し、薬師の証である白い長衣(ローヴ)を少し着崩して、どこかしどけない色気を醸し出している。やや目尻の下がった大きなエメラルドの瞳は長い睫毛に縁取られ、蠱惑的な光を放っていた。
健康美溢れるラウルとは対照的な見た目の女性だが、二人は何となく馬が合い、甘いもの好きという共通点もあって、こうして時折予定を合わせては至福の時間を共有しているのだった。
「あ〜……甘いものって、本当に幸せな気持ちにしてくれるよね。仕事が忙しくてもここからまた頑張れるぞ! って元気をもらえるもん。この魅力がどうしてエドゥアルト様とハンスには伝わらないかなぁ」
「好みの問題だからこればっかりはね。あ、そうだ。エドゥアルト様といえば、ちょっと前に結構ひどい怪我してなかった?」
「えっ、怪我? エドゥアルト様が?」
ティーナからもたらされた情報に、そんな心当たりのなかったラウルは驚いて青灰色の瞳を瞬かせた。
「あれ、ラウル知らない? 二〜三ヶ月前の話になると思うんだけど」
「知らない。怪我って、どこに?」
「左前腕部。何か強い衝撃を受けたみたいなのよね。折れてはいなかったけどパンパンに腫れあがってて」
「ええ!? ウソ、全然気が付かなかった。私鼻が利くけど、消炎剤使っているような匂いも全くしなかったよ。てか、怪我の原因は!? 強い衝撃って何!?」
勢い込んで尋ねるラウルにティーナは綺麗に整えた細い眉を少し寄せてみせた。
「それがさあ、私も結構しつこく尋ねたんだけど、頑として理由を言わなかったのよ。でもって極力匂いのない薬で治療しろって言うから、私はもしかしたらラウル絡みなんじゃないのかなーと思っていたんだけれど」
窺うように顔を覗き込まれ、話の矛先が自分へ来るとは思っていなかったラウルは仰天した。
「えっ、私!? ないない、全くないよ!」
「違った? じゃあ、単純にあなたに怪我をしたことを知られたくなくてあんなこと言ったのかしら」
「だって、二〜三ヶ月前の話なんでしょ? そんな覚え……だいたいそんな怪我してて私に気付かれずに済むなんてこと、有り得る? 護衛役で狼犬族の鼻を持つこの私に!」
亜人は概(おおむ)ね人間よりも優れた嗅覚を持つとされるが、中でも狼犬族の嗅覚は格段に鋭い。
「それはそうなのよねぇ……人間の嗅覚では感じないほぼ無臭の薬とはいえ、あなたが気が付かなかったっていうのは変よね。護衛役のあなたが一定期間エドゥアルト様と必要以上に距離を置いているってこともないと思うし」
小首を傾げるティーナの前で、それまで第三者然としていたラウルの表情が変わった。
唐突に思い出したのだ。意識的にエドゥアルトと距離を置いていた時期があったことを。
―――ホワイトデーの後だ。
とある事故があって、すぐに和解はしたものの、ラウル的にしばらくどうにも気まずい状態が続き、普通に接することが出来なくなってしまって、その間は意識的にエドゥアルトと距離を置くようにしていたのだ。
確か一週間程だったと思う。
もちろん何かあればすぐに駆け付けられる位置にはいたし、彼女が微妙な距離を置いていることにエドゥアルトもハンスも気付いてはいただろうが、彼らからそれについて指摘を受けることはなかった。その間はエドゥアルトに剣の稽古を申し付けられることもなかったから、あちらも気を遣っている……というかやはり気まずいのだろう、というふうにラウルは解釈していたから、それを特別おかしなことだとは思わなかった。
今から二〜三ヶ月前の話だ。
「や……やっぱりそれ、原因、私かも……」
突然思い当たってしまった事案に冷や汗でだくだくになるラウルをティーナはどこか面白そうに見やった。
「あらぁ? 何か心当たりでもあった?」
青ざめて額を押さえているラウルは、そんな彼女の様子に突っ込んでいる余裕などない。
「うわ……えー、マジ? ヤバい、全然気付かなかった……まさか怪我させてたなんて」
「いったい何があったの? お姉さんに話してごらんなさい?」
素敵な笑顔で促すティーナにラウルは言いにくそうに口を開いた。
「じ……実は、ちょっとした事故があって―――。私、とっさに、本気の掌底(しょうてい)ぶっかましちゃったの……」
「えっ? エドゥアルト様に?」
さすがに驚いて大きく目を瞠ったティーナは、二度確認をした。
「エドゥアルト様に、ぶっかましちゃったの? あなたの、全力の掌底を?」
「……うん」
ショートボブの髪色と同じ銀色の獣耳をしゅんと伏せてうつむくラウルを見やり、ティーナは吐息をついた。
「……だとしたらエドゥアルト様、よくあれで済んだわね」
「とっさに腕でガードしてた。その時怪我したんだと思う。直後に思いっきりぶっ飛んで地面に転がってたし」
「ちょっと待って、想像出来ない。私の想像の域を超えているわ、その光景」
「ハンスが蒼白になってエドゥアルト様に駆け寄ってた……」
「ハンスもその場にいたの? そりゃ目の前でそんなことがあっちゃそうなるわよ。というか、まさかそんなことがあったなんて……。今ここであなたとこうしてケーキを食べていられることが、スゴーく不思議だわ……」
ティーナはしみじみとそう言った。
どんな理由があれ、皇族にそんな真似をすれば普通はただでは済まない。厳しい沙汰が下りるのが定石だ。
「そりゃエドゥアルト様が理由を言わないわけだわ。いったいどうしてそんなことになっちゃったの」
「あ〜、うー……それは……」
ラウルの話をひと通り聞き終えたティーナは、想像の斜め上を行く内容に宝玉のような瞳をキラキラと輝かせた。
「あらあら、うふふ。そうだったのー。災難は災難だったけど、ふふ、何だか甘ーい。せっかくだから開き直ってキスのやり直しをしてもらえば良かったのに」
「は!? いや、キスじゃないから事故だから! 私の中ではノーカウント!」
真っ赤になって全力で否定するラウルをティーナは微笑ましげに見つめた。
「そんなに頑なにならなくても。ファーストキスが皇族となんてむしろ自慢出来るじゃない。なかなかないことよ〜」
「いや、ちょこんってなっただけだから! 触れたか触れないかぐらいの微妙なのだから!」
「私のファーストキスは七歳の時、幼なじみの男の子とよ。ちょこんって重なるだけの可愛いものだったわ〜。そんなもんよ、ファーストキスなんて」
「そんな可愛らしいのと一緒にしないで〜! 気持ちの込もってるちょこんとは違うんだって!」
テーブルに肘をついて頭を抱えるラウルにティーナは整った顔をほころばせた。
ああもう、可愛いわねぇ。この娘(こ)は。
「まあ、意図せず起こってしまったことなんだし、あなたが初めてを大事にしたいっていう気持ちも分かるから、ノーカウントでいいんじゃない? ちょっともったいない気もするけど、確かに気持ちが込もっているかどうかは大切だものね」
「うん……。でも、まさか怪我させちゃってたとは思っていなかったから、悪いことしたなぁ……。エドゥアルト様、正直に言ってくれたらよかったのに」
「そこはエドゥアルト様の男気というか優しさじゃない? 事故のことで落ち込んでいるラウルにこれ以上の精神的負担を負わせまいとしてくれたんじゃないかしら」
だとしたら分かりづらい優しさだ、とラウルは思った。
「でもさ……それってどうなの? 言ってくれなきゃ、分からないよ。今日ティーナがその話をしてくれなかったら、私、多分ずっと知らないままだった。そんなのちっとも嬉しくないよ。相手に怪我を負わせて、なのに私はそれを知らないままのうのうと過ごして、掛けられた気遣いにも気付かないなんて、それじゃ馬鹿みたいじゃん。私はそんなの望んでいない」
「ふふ。ラウルはそういうタイプよね。でも、それがエドゥアルト様なんじゃない? 彼は多分ラウルにこのことを知られるのを望んでいなかったと思うな。私に怪我の理由を話さなかったのは話を大きくしたくなかったこともあるだろうけど、彼のプライド的な部分も大きかったんじゃないかしら。あなたに心配かけたくなかった気持ちと、あなたにそういう行動を取らせてしまった自分を許せない気持ち、それからあなたにはまだ敵わない現実と、そんな自分自身に対する憤り」
「え……?」
ラウルにとってはひどく意外なティーナの見解だった。
剣術や体術全般でラウルに未だ敵わない現実をエドゥアルトが不甲斐なく感じているのは知っている。でも、その他のティーナの言うようなことを果たして彼が考えるだろうかと、ラウルは内心で首を捻った。
あのエドゥアルト様が?
事故の際、こっちの気持ちなどまるで顧みない様子で「あの程度、そう大騒ぎするような年齢でもないだろう?」と傲然(ごうぜん)と言い放っていたあのエドゥアルト様が?
「……そんなふうに、考えるかなぁ?」
「エドゥアルト様ももう十八歳だもの。男として背伸びしたい時期でもあるだろうし、加えてあの気性でしょ。プライド高いし、絶対に口にはしないと思うけど、自分の浅慮でそういう事態を招いてしまったことは彼の沽券に関わると思うのよね。こんなことが表沙汰になってお気に入りのラウルを手放すような事態は絶対に避けたいところだろうし」
「えええ……でもあの時、私のことは気に入っていると思っていたけど違ったみたいな、むしろお払い箱にすることを匂わせるような発言してたけど……」
懐疑的なラウルにティーナは大いに疑わしげな眼差しを向けた。
「私はそこ、相当に疑問なんだけど―――エドゥアルト様、本当にそんなこと言ったの? そんなケツの穴の小さいこと言うような方だとは思えないんだけれど」
「言った! 言ったもん! 私慌てて謝ったんだから!」
「そーぉ?」
これはラウルが何か勘違いしている可能性大だな、とは思いながらも、ティーナはこの場はこれ以上の言及を避けた。
「まあとりあえず、エドゥアルト様の方から話が出ない以上、怪我の件は聞かなかったことにしてちょうだい。私もお払い箱にされたくはないし」
「うん……分かった」
素直に頷くラウルを見やりながら、ティーナは心の中で主に詫びた。
エドゥアルト様、ごめんなさいね。貴方の意図に反して私、ラウルに怪我のことを話しちゃいました。
だけど後悔はしていないんです。ラウルといる時の貴方はとても自然体で年齢相応の男の子のように見えるから、これからもそんな二人でいてもらう為に、今回のことは話して良かったんじゃないかって勝手に思っちゃっているんです。
立場上難しいんだろうなぁと想像はつきますけど、どうかせめて、彼女の前でくらいは肩肘を張らずにいてほしいと思うんですよねぇ。ラウルはそれを望んでいないし、精神衛生上、ありのままを見せられる相手がいることは、とても大切なことだと思いますから。
―――それに、何となく感じてしまったのよねぇ……女の勘。
ティーナは心の中でそっと呟き、落ち込んでいる様子のラウルを見やった。
もしも私が感じたような小さな変化が貴方達に訪れているのなら、ぜひ間近でその変化を見守っていきたい、そう思ってしまったのは、二人には秘密だ―――。
*
エドゥアルトに怪我をさせてしまっていた事実を知り、その罪悪感をどうにも拭えないラウルは、せめてもの罪滅ぼしにと、外出の土産を装ってお詫びの品を渡すことにした。改まったものや形に残るものでは不審に思われると判断し、ちょうどカフェで売りに出されていた新作のスナックが美味しそうだったので、それを帰り際に購入する。
チーズをまぶした塩気のある生地を薄く伸ばしたものをスティック状にし、香ばしくカリカリに焼き上げたものだ。甘い物が苦手なエドゥアルトもこれなら大丈夫だろう。
エドゥアルトにだけ買っていくのは不自然なので、ハンスの分とついでに自分の分も購入し、ラウルは密かに気合を入れた。
「美味しそうだったので買ってきちゃいました! みんなで一緒に食べましょうよ〜」と軽い調子で渡せばいいのだ。これなら不自然じゃないし、変に勘繰られることもない。
宮廷に戻りがてらティーナが覗きたいと言っていた化粧品店に立ち寄って、いつもなら匂いがきつくて敬遠する店内にもラウルは足を踏み入れた。鮮やかで綺麗な色彩を見ることで、ともすると沈みがちになる気分を誤魔化す。
「ラウル、これ新作だって。亜人の嗅覚にも優しいオーデコロン。植物性の芳香で香料は使っていないみたいよ。ほら、微かで優しい香り」
テスターを吹きつけた薄い板状の試香紙(ムエット)をティーナに差し出され、強い香りが苦手なラウルは一歩後退(あとずさ)った。
「私はいいよ。本当にこういうの苦手だから」
「そう? 私には石鹸とあまり変わらない程度の香りに感じられるんだけど、まだ強い?」
「んー、普段つけていないからそう感じちゃうのかもだけど、私はいいかな」
「鼻が良過ぎちゃうのも難点ね。直接じゃなくて試香紙(これ)につけたものをつけるくらいなら大丈夫かしら」
手首の内側にちょい、と試香紙(ムエット)をくっつけられて、ラウルは慌ててティーナに悪戯された手を取り上げた。
「もう、やめなって!」
「ふふ、ごめんごめーん」
ティーナは普段使いと新作の化粧品を何点か購入し、店を後にした二人はまた女子会を設けることを約束して、宮廷内の回廊で別れた。
「……さて、と」
ラウルはひとつ深呼吸をして重厚なドアの前に立った。これから一戦臨むような心持ちになり、意を決して第五皇子の執務室のドアを控え目な力加減でノックする。
「ただいま戻りましたぁ―――」
普段どおり、軽い調子で―――そう自分に言い聞かせながら室内へと足を踏み入れた彼女は、大いに肩透かしを食らった。
「あれ?」
てっきりいるものと思っていたハンスがいない。おまけにエドゥアルトの姿もデスクに見当たらない。
午後の陽光差し込む室内に視線を走らせると、黒塗りの革のソファーに深く背をもたれているエドゥアルトを見つけた。難しい顔をしたまま瞼を閉じた第五皇子は、どうやら寝入っているようだ。
―――珍しいな。エドゥアルト様がこんなふうにうたた寝しちゃうなんて……。
拍子抜けしたようなホッとしたような気分になりながら、ラウルは備品の肩掛けを手に取った。ソファー近くのローテーブルにスナックの包みを置き、腕組したまま寝ているエドゥアルトにそっと上質のそれを掛けてやろうとする。
途端、トパーズの瞳が勢いよく見開かれると、力強い腕が瞬時にしてラウルの右肩と左手首を掴み、そのまま互いの体勢を入れ替えるようにして、ドッ、とソファーの上に押し付けた。
予想外の事態に目をぱちくりさせるラウルの上で馬乗りになるようにして彼女を押さえ付けたエドゥアルトは、相手が狼犬族の女剣士だと気が付くと肩の力を抜き、寝起きの瞳を気怠そうに眇(すが)めた。
「……何だ、お前か」
そう言いながら掴んだラウルの左手首を自分の顔のところまで持っていき、その匂いを確かめるようにすん、と鼻を鳴らす。
「ぎゃっ! ちょっ、何を……!」
「何でこんな匂いをつけている」
思わぬ相手の行動に泡を食いかけたラウルは、その言葉で納得した。
自分が嗅ぎ慣れない匂いを身につけていたから、エドゥアルトは襲撃者か何かと勘違いしたのだ。
「あー……ティーナの悪戯です……すみません」
「ティーナか。紛らわしい」
ちっ、と舌打ちするエドゥアルトの影の下でラウルは小さく身じろぎした。
「あのー……貴方の寝込みを襲う襲撃者でも貴婦人でもないと分かったところで、そろそろ離してもらえませんか。あと、早くどいてほしいんですけど」
「ああ……」
エドゥアルトは緩慢な動作で現在の状況を確認すると、改めて自分の下にいるラウルへと視線を落とした。
「? 何ですか?」
「いや……改めて見ると新鮮な眺めだと思ってな」
「はぁ? 何を言っているんですか、とっととどいて下さい!」
「ああ、重いか?」
「そういう問題ではなくてですね!」
牙を剥きかけたラウルは、微笑を湛えてこちらを見下ろすエドゥアルトの端整な顔立ちや体格が、いつの間にかずいぶんと大人びいてきていることに気が付いた。
あれ―――。
いつもとは違う角度から見ているからだろうか。普段見ているようで見ていなかった部分に焦点がいった。
どこか少年ぽさの残っていた輪郭はいつの間にやらすっきりと引き締まって、細く尖っていた顎は先端が平らになり男ぶりが増した。華奢だった首は喉仏が出て程よく太くなり、身体つきも全体的にがっしりとしてきて、どことなくたくましい印象になった。
―――肩幅、広くなったなぁ……胸板も厚くなった。そういえばずいぶんと背も伸びたよね。今はもう、隣に並ぶとほぼ同じ目線の高さにいるもんなぁ。
だからかは知らないが、ここ最近は以前より目が合うことが多くなった気がする。
漠然とそんなことに思いを巡らせながら、ラウルは自分が映る綺麗な黄玉色の双眸を見つめた。
今は体重をかけないようにしてくれているが、さっき身体ごと押しつけられた時はずいぶんと重たくて息が詰まった。筋肉がついて力も強くなった証拠だ。
こんなふうに彼を下から見上げることがなかったから、なるほど、これは確かに新鮮な感覚だ、と先程のエドゥアルトの言葉をなぞらえていると、視線の先の相手が不思議そうな顔をした。
「どうした? 急に押し黙って」
「何ですかね……唐突にエドゥアルト様の成長を実感したというか、大きくなったんだなぁと、こう胸に感じ入るものがありまして、過去の記憶と照らし合わせていたところです」
「は? 何目線だ、それは」
形の良い眉が盛大にひそめられた。年長者が年少者に向ける、ややもすれば保護者目線的な言い回しが気に障ったらしい。
こういうところにいちいち反応してしまう辺りは、まだまだ子どもっぽいなぁ。
「何目線って、私目線ですよ」
他に何があるんですか、と大人の余裕で返すと、負けん気の強いトパーズの瞳に微かな苛立ちが宿った。
「……こういう状況でも動じないというのは、お前の役目からすれば長所なんだろうが」
言いながらエドゥアルトは身を乗り出して、彼の動向を注視するラウルの獣耳に顔を寄せた。
「成長を感じたのなら気を付けろ。いつまでも子どもじゃないんだ」
吐息ごと耳の中に注ぎ込むような低い声の不意打ちに、後頭部から背中にかけて予期せぬ怖気(おぞけ)のようなものが走った。銀毛に覆われた三角耳が忙しなく揺れ、ラウルは腰がビクつきそうになるのをどうにか堪(こら)えた。
「……っ!」
「相変わらず耳が弱いな」
その様子を見たエドゥアルトがふっと笑う。ラウルの獣耳は持ち主の意図に反して、その息遣いにも反応してぴるぴると動いてしまい、くすぐったいやら恥ずかしいやら、してやられた感でいっぱいになるやらで、心も身体も急激に忙しくなった。
「急に、何するんですか!」
「意趣返し」
頬を紅潮させて抗議するラウルにしれっと答えたエドゥアルトは悪びれる様子もなく、再び彼女の耳元に唇を寄せていく。それに気付いたラウルは逃れようと首を巡らせたが、いつの間にか相手に上手く抑え込まれていて思うような身動きが取れなかった。
「僕以外の男にこんな真似、許すなよ」
意味深長な発言をさも当然のように突きつけてくる青年は、彼女の耳にわざと息がかかるようにしてそれを囁く。
「……!」
またあのぞくぞくするような感覚が後頭部から背筋へと下りていって、ラウルは身体の震えこそ意志の力で抑え込んだものの、反射でどうしようもなくふるふると動いてしまう獣耳の反応だけは誤魔化しようがなかった。
これ以上遊ばれてはたまらない。ラウルはきっ、と至近距離にある相手の顔をにらみつけた。
「貴方以外にこんな子どもじみた真似をする人、いませんよ!」
彼女のこの返しに、相手は少々面食らったようだった。
―――いったい何年振りにやられただろう。
子どもの頃、ふとしたきっかけでラウルは耳が弱点なのだと気が付いたエドゥアルトは、剣の稽古でこてんぱんにやられる度、その腹いせのように彼女の獣耳に息を吹きかけて悪戯をしていた時期があった。だが、ラウルが本気で警戒してしまうと子どもの彼には太刀打ち出来なくなり、自然とそんな真似をすることもなくなっていったのだ。
それが今日、まさかこんな形で復活するとは。
「ふーん……子どもじみた真似、ねえ」
多分に含みを持たせた語調になったエドゥアルトに気付くことなく、ラウルは牙を剥いてがなった。
「だからその、耳元で喋るのやめて下さいって!」
変声した彼の声は何だか耳に深く響いてまずい。首筋や腰の辺りがぞわぞわして、変な感じがする。
昔はただくすぐったくて耐え難いだけで、こんなふうには感じなかった気がするのに。
奇妙なあせりと戸惑いを覚えながら、ラウルは盛大に身をよじってエドゥアルトの下から抜け出そうとした。だが相手はそう簡単に抜け出させてくれる気はないらしく、微動だにしない感触が伝わってくる。生半可な抵抗ではこの場を逃れられそうになかった。
「おふざけが過ぎると、実力行使に出ますよ!」
業を煮やしたラウルは最終通告に出た。
ああ、もう、こっちの気も知らないで! 私は貴方に怪我させた分をお詫びする気持ちでここへ来たっていうのに、何でこんな時に限ってこんな悪ふざけに走るワケ!? 前回の轍(てつ)を踏まないようにと、こっちは内心戦々恐々だっていうのに!
「なあラウル―――僕の観点から言うと、逆に子どもはこんな真似をしないと思うんだが。頭の中で冷静に今の状況を思い浮かべてみたらどうだ?」
毛を逆立てんばかりの勢いのラウルに対し、対するエドゥアルトの声は淡々としていて、しかも人を食ったようにその声はまたしてもかなり耳に近い距離だった。
「っ、はぁッ!?」
ブチ切れそうになりながらラウルが歯を食いしばった時だった。軽いノックの音と共に執務室のドアが開いて、小脇にファイルを抱えたハンスが戻ってきたのだ。
執務室に一歩踏み込んだその瞬間、ソファーの上で重なっている主従の姿を目撃してしまったハンスは、目を剥いてフリーズした後、見たことがないくらいうろたえた表情になり、バサバサと床にファイルをばらまいてしまった。
ポカンとするラウルの前で、らしくもないぎこちない動作で慌ただしくファイルをかき集めたハンスは、彼女が初めて目にする真っ赤に染まった顔をこちらに向けると、目線を不自然に逸らしたまま「失礼致しました」とだけ告げて、そそくさと執務室を出て行ってしまったのだ。
憐れなくらい動揺したハンスのその様子を見て、さすがのラウルも事態に気が付き、青ざめた。
「えっ……ちょ、ちょっと待ってハンス!」
慌てて声を張り上げるラウルの頭上で、その瞬間、エドゥアルトの爆笑が炸裂した。
「くっ、ははっ……! 見たか、今のハンスの顔!」
第五皇子がこんなふうに盛大に声を上げて笑う様は珍しい。大きく肩を揺らして満面の笑顔を見せるエドゥアルトの希少な姿に、一瞬だけ―――ほんの一瞬だけ目を奪われてしまったラウルは、即座に我に返るとそんな主を戒めた。
「ちょっ、エドゥアルト様、笑っている場合じゃないです! 早くハンスを追いかけないと! 誤解ッ……誤解されちゃいました、完全に!!」
「くっ……ああ、そうだな。―――ラウル、これで分かったか? 冷静に状況を考えてみろと言った理由が」
微塵も動じる素振りを見せないエドゥアルトに対し、言われた意味を理解してしまったラウルの方は平静ではいられない。顔を真っ赤にして、したり顔の主に言い募った。
「分かっ……分かりましたけども! でも、何も、あんな方法で分からせなくても! ハンスの気配に気付いていたなら言って下さいよ! ショックでハンスがハゲでもしたらどうするんですか!」
「ハ……くくっ、見てみたい気もするが、それはさすがに心が痛むな。万が一そうなった場合は、持てる限りのコネを使って誠心誠意事後ケアに当たるとしよう」
それを想像して可笑(おか)しくなったらしいエドゥアルトは笑いを噛み殺しつつ、きっちりラウルに釘を刺した。
「だが、ハンスの気配に気が付けなかったのはお前の怠慢だ。お前は僕の護衛なんだから、いつ何時、如何なる状況下であっても警戒を怠るべきじゃないだろう?」
「うぐぅ……」
ラウルの注意力が散漫になる原因を作り出したのは他ならぬエドゥアルトだが、彼の言い分には筋が通っており、この点についてはラウルは反論出来なかった。
「ぐぬぅ……精進します……」
苦虫を噛み潰したような顔になってしまった狼犬族の女剣士に、第五皇子は満足げに頷いた。
「素直じゃないか。―――よし、じゃあハンスがハゲないうちに探しに行ってここへ連れてきてくれ。お前達が戻ってきたらハンスに茶でも淹れてもらって、ゆっくり事の経緯を説明しようじゃないか。ああ、それは茶請けか?」
ローテーブルに放りっぱなしだったチーズスティックの入った袋をエドゥアルトに示され、ラウルはドッと疲れた面持ちで頷いた。
「はい……。今日ティーナと行ったお店で、美味しそうだったから買ってきたんです。お茶を飲みながらみんなで食べましょう……」
言いたかったことが、ようやくここで言えた。
一応目的は達成出来たものの、ティーナの悪戯のおかげでとんだ貰い事故に遭ってしまった。
「ラウル」
ハンスを探しに行こうとドアに手を掛けかけたところを呼び止められ、ラウルは主を振り返った。
「はい?」
「……僕が子どもの頃から傍にいるお前には、どうしてもその頃のイメージがつきまとうんだろうが……さっきのハンスの反応を見たろ? 今はもう、傍目的には僕は男で、お前は女だ。……上に圧(の)し掛かられたあの状況であそこまで動じられないとは、正直心外だったぞ」
それが彼の男としての沽券に関わる、とでも言いたいのだろうか?
ラウルにはエドゥアルトの言わんとする意味がよく分からなかった。
「いやー……そう言われても、相手はエドゥアルト様ですからね。いざとなったら自分でどうとでも対処出来ますし、悪ふざけが過ぎているだけっていうのも分かっているので」
「……その理由も僕的には非常につまらないな」
分かりやすく鼻白むエドゥアルトに一矢報いた気分になって、ラウルは朗らかに笑った。
「あはは、そんなの知ったことじゃありません」
貴族の子女からの誘いが絶えない彼にとって、女からそういう態度を取られてしまったことは(相手がラウルとはいえ)これまでにない屈辱的な経験だったのだろう。ならば今回のことは彼にとって良い社会勉強となったのかもしれない。世の中には相手の容姿や社会的地位に左右されない女性もたくさんいるのだから。
ラウルの出ていった執務室のドアをしばらく無言で眺めやったエドゥアルトは、嘆息混じりにがしがしと自身の金髪を掻き乱した。
「クソ、さすがに手強い……」
昔から傍にはいたが、最近になって執着の意味を考えるようになった相手。そこに向かう自身の感情に付けるべき名を、既に彼は見出していた。
だが、その相手に異性というカテゴリーから完全に外されてしまっている現実。意識し出した初っ端からそれを手酷く突き付けられてしまったわけだが、不可能を可能にしたくなる彼の心にはこれで完全に火が付いた。
まあ、そのくらいでないと張り合いがないよな。
心の中でそう呟いて、エドゥアルトは長期戦の覚悟を決めた。先程まで腕の中にいた相手の様子を思い出し、知らず柔らかな笑顔になる。
「いいさ、時間はある。じっくりと向き合ってやるよ……」
紡がれたのは、深い感情の滲んだ優しい声音。慈愛に満ちた第五皇子の希少な微笑みを目の当たりにした者は、この場に誰もいなかった。
<完>