まだ日の昇りきらない青い朝を窓の外に見やりながら、ラウルは自室のベッドの上で鬱々と寝ぼけ眼をこすった。
幼い頃、優しくて大好きだった近所のお兄ちゃん。地元で剣の申し子と呼ばれるほどの逸材だった彼は、大人達からも一目置かれる存在だった。強さを驕(おご)ることなく、明朗で誰からも好かれている―――そんな彼に憧れて、ラウルは剣を手に取ったのだ。
剣術は彼女の性に合った。日に日に上達していくのが楽しくて、時々彼に手合わせしてもらえるのがこの上なく嬉しくて―――ラウルは一心に稽古に励んだ。いつも妹扱いして、対等に見てくれない彼にどうにか認められたくて、頑張ったのだ。
その結果、彼女は弱冠十二歳にして彼を凌駕してしまった。
面前試合で四つ年下の近所の女の子に敗れてしまった憧れのお兄ちゃんは、彼女に二度と笑顔を見せてくれなかった。それどころか、こんな陰口を叩いているところにラウルは遭遇してしまったのだ。
『ありゃあ女じゃねえよ。手合わせしてる時の闘争本能剥き出しの顔とか、マジ有り得ねぇ。どこ目指してんのか知らねぇけど、女にあそこまでやられたんじゃ世の男の面目は丸つぶれだっての。空気読めよなぁ……オレのプライド、どうしてくれんだ。世の中の男は自分より強い女なんか願い下げだっつーの』
こうして、彼女の初恋は儚く散ってしまったのだ。
今となってはそんな彼の気持ちも分からないではないが、頑張った結果のこの顛末(てんまつ)に、当時の彼女が受けたショックは相当なものだった。だが、女剣士を見下したと取れるその発言は到底納得出来るものではなかったので、ラウルはそこから反骨精神で己を鍛え上げ、今に至っている。
初恋の彼が言っていた通り、世の男の多くは守ってあげたいタイプの女を好む傾向にあり、自分のような男より強い女の需要は、恋愛という市場においては限りなく低いのだろう。
実際、これまで何度か淡い好意を抱く相手には出会ったが、最初(ハナ)から恋愛対象として見てもらえないので、ラウルの恋は未だ実ったことがないのだ。
*
春の訪れを感じさせる柔らかな日差しの下、剣戟の音が響いている。
帝国の広大な宮廷内、皇族達が住まう皇宮の内庭の一角で、ラウルは主である第五皇子エドゥアルトと日課の手合わせをしていた。
何不自由ない環境と剣の才に恵まれた第五皇子は、二年前アイワーンの将軍アインベルトと一戦を交えてからひと皮剥け、顔つきも剣に臨む姿勢も変わった。
最近は二本に一本ラウルから取れるまでになってきた彼の相手をすることは、ラウルにとっても有意義で楽しい時間だ。
時折ゾクリとするような一撃を見舞われると、自身の中の闘争本能が刺激され、胸が熱く滾(たぎ)るのを覚えずにはいられない。
「クソッ……余裕綽々の顔をしやがって」
荒い息を吐きながら芝生の上にどっかりと腰を下ろしたエドゥアルトは、悔しさを隠さずに目の前のラウルをねめつけた。
「口が悪くなっていますよ、エドゥアルト様。それと余裕綽々と言うには語弊があります。私も一本取られているんですから」
「お前は稽古モードで僕は本気モードだろうが。それで僕は二本取られているんだぞ」
腹立たしげに言いながら、エドゥアルトは頬を流れ落ちる汗を乱暴にタオルで拭った。対するラウルは額に汗が滲んでいる程度で、いかにも涼し気な佇(たたず)まいだ。この差が如実に両者の差を物語っており、エドゥアルトはまた腹立たしい気持ちになる。
「私は貴方の護衛役で指南役ですからね。護衛対象の教え子に負けるワケにはいかないじゃないですか」
「師は超える為にあるものだ」
「なら超えてみたらいいじゃないですか。抜かれる気はありませんけどね」
「……絶対に超えてみせるからな。覚えてろ」
負けず嫌いなトパーズの瞳が本気の色を湛えて、ラウルを射る。
この真っ直ぐな気概をぶつけてくるエドゥアルトの率直さが、ラウルは好きだった。
エドゥアルトは気が付いているだろうか?
彼のこういうところがまたラウルを刺激して、彼女を更なる高みへと押し上げていくのだということを―――。
そこへ、側用人のハンスが冷たい飲み物を持ってやってきた。
「いつもいいタイミングだね。ありがとう、ハンス」
笑顔でグラスを受け取り喉を潤すラウルの傍らで、ハンスは手短にエドゥアルトへ業務報告を済ませると、最後にこう付け加えた。
「―――それと、ご令嬢方へのホワイトデーのお返しですが、滞りなく済みました」
「ああそうか、ご苦労だったな」
そのやり取りに、銀毛に覆われたラウルの大きな三角耳がピン、とそばだった。
「そういえばエドゥアルト様、私にホワイトデーのお返しはないんですか?」
青灰色の瞳を期待に輝かせるラウルに、エドゥアルトは片眉を跳ね上げる。
「は? お前、よくもそんな厚かましい口が利けたものだな。あれはそもそも、お前が用意したものですらなかっただろうが」
「それはまあ、そうなんですけどー。もしかしたらついでに用意してくれていたりするのかなーって」
「そんなものはない」
まあ、そうですよねー。
微かな期待破れてがっくりと肩を落とすラウルにハンスが声をかけた。
「ホワイトデーのお返しというわけじゃないけど、御用達の菓子店の主人からラウル宛に新作のクッキーを預かってきたよ。ほら、これだ。気に入ったらぜひご注文下さいって」
第五皇子の側近で甘い物を大量に消費してくれるラウルは、菓子店にとって大切なお得意様なのだ。
「ホント!? やったー!」
大喜びでハンスから包みを受け取ったラウルは、早速それを開けると、ふわりと漂う甘くて香ばしい匂いに心躍らせた。
「あ〜、幸せな香り!」
うっとりと呟いて淡い焼き色のクッキーをひとつ頬張ったラウルは、口の中でほろりと解(ほど)ける、これまでにない食感に目を瞠った。
「スゴい! クッキーなのにサクサクとかカリカリとかしていない! ほろって! 口の中でほろっとする!」
興奮した面持ちでエドゥアルトとハンスに新食感の衝撃を伝えるが、二人にはイマイチこの感動が伝わっていないらしく、怪訝そうな顔をされる。
「えーと、表面は一瞬サクッとしているんですけど、すぐほろってなって、口の中で溶けて消えていくんですよ!」
「……どうやら今までにない食感のクッキーのようですね」
「そうらしいな……」
ハンスとエドゥアルトはそんな相槌を打ちながら、次々とラウルの口の中に消えていくクッキーを眺めやった。
「美味しいみたいですね。ラウルのペースが早い」
「身体を動かした後だからな、何でも美味いんじゃないか?」
「菓子店の主人が喜びそうですね、これは」
この時、何気なくエドゥアルトの気まぐれが働いた。
「ラウル、僕にもひとつくれ」
「えっ?」
思いがけない主の発言に、ラウルとハンスが目を丸くする。
甘い物が苦手な彼がそれを言い出すとは思わなかったからだ。
「どんな食感なのか、少し興味が湧いた」
「えー……エドゥアルト様、言うの遅いですよ……。これが最後なんですけど」
ラウルがばつが悪そうに眉を寄せる。彼女はちょうど最後のクッキーの端にかじりついたところだった。
「構わん。ひと口食べられれば充分だ」
エドゥアルトは顔色ひとつ変えずにそう言うと、主の意図を測りかねきょとんとするラウルの方に身を乗り出すようにして、彼女が口にくわえているクッキーの反対側からひと口かじりついたのだ。
「―――!?」
まさかの行動に、ラウルは声が出せないくらい驚いた。彼らの視界に映らないところでは、ハンスも声が出ないくらい驚いていた。
目を瞠る二人の前で、エドゥアルトはそのままクッキーをかじり取ろうと試みたのだが―――。
「―――っ、と」
彼の想像以上に繊細だったクッキーはわずかな加圧でふわりと砕けて、力の加減を誤った彼の唇に若干のたたらを踏ませ、ほんの少しだけ、ラウルの唇と触れ合わさせる結果となったのである。
ハンスは図らずも、その一部始終を目撃することとなった。
「これは―――、本当に解けるような食感だな……」
そんな事故などまるでなかったかのように、クッキーの柔らかさにそう感心するエドゥアルトの前で、ラウルは全身をわななかせた。
「なっ……、何、するんですか……!」
彼女としては、なかったことになど出来ない非常事態である。
「ん? ああ……甘い物は、ひと口食べられれば僕はそれで充分だからな」
「じゃなくて! 何で、あんな方法で……! くっ、口……、口、ついちゃったじゃないですか!」
毛を逆立てるような勢いのラウルとは対照的に、エドゥアルトはそれがどうした、と言わんばかりの風情だ。
「あの程度、そう大騒ぎするような年齢でもないだろう?」
そんなに気にすることか、と軽い気持ちでラウルをいなそうとしたエドゥアルトは、ぎょっとした。真っ赤になったラウルが涙目で、渾身の掌底をかましてきたのだ。
「エドゥアルト様のセクハラ野郎―――ッ!」
「―――っ!」
とっさに腕を挟んで顔面直撃は免れたが、強烈な一撃を受け、文字通りエドゥアルトは吹っ飛んだ。
「エッ、エドゥアルト様―――ッ!」
顔面蒼白になったハンスが叫んで、主の元へと駆けつける。肩で大きく息をついたラウルは、それを見届けるようにしてその場から走り去った。
「だ、大丈夫ですか、エドゥアルト様!?」
「っ―――大丈夫だ。クソ、あの馬鹿力……顔面崩壊したらどうする気だ……」
芝生に背をつけて呻(うめ)く第五皇子に、ハンスが気遣わしげな声をかける。
「どこか、お怪我は」
「平気だ」
実際はガードした腕が鈍く痛んだが、何でもないふうを装って半身を起こす。エドゥアルトはひとつ息をつき、傍らで心配そうにこちらを見つめるハンスに尋ねた。
「……ラウルはもしかして、初めてだったのか?」
「……。それは私も存じませんが……あの様子を見る限りは、そうだったのかもしれませんね……」
「は……? そんなことがあるのか? あいつは僕よりずっと年上で、もういい大人だろう?」
愕然とした顔になる十八歳の第五皇子に、ハンスは年上の立場と世間的な観点からやんわりと諭した。
「ラウルの恋愛歴については私も知りませんので何とも言えませんが、そこは人それぞれで、年齢によって決まるものではありません。性格や環境、価値観によっても変わってくるでしょう。これは経験の有無ではなく、エドゥアルト様とラウルの主観の違いによる問題です。まあ、女性の多くは初めての経験に夢を抱くものらしいですから、もしラウルがそうだったのだとしたら、予期しなかった出来事に相応の衝撃を受けたのだろうと察しはつきますが……」
「……そういうものか。どうもその辺り、僕の感覚とは隔たりがあるな……いまひとつ掴み切れん」
皇族に生まれつき、容姿的にも恵まれているエドゥアルトは、幼い頃から異性に囲まれ傅(かしず)かれている境遇にある。年頃になってからは、黙っていても寄ってくる貴族の令嬢達をより取り見取りといった環境だ。そんな彼の感覚を一般の感覚と擦り合わせるのは、確かに難しいことなのかもしれない。
「かといって、ラウルの先程の行為は許されるものではありませんがね」
どんな理由があったにしろ、皇子を掌底で吹っ飛ばすなど(しかも護衛役が)、絶対にあってはならない事態である。普通であれば極刑ものだ。
「僕の浅慮が招いたことだ。こちらの恥を晒すだけだから、大げさなことにしなくていい」
エドゥアルトならきっとそう言ってくれるだろうと思ってはいたが、それを聞いたハンスは心から安堵した。
「ハンス、お前はもう業務に戻っていいぞ。ラウルは僕が連れて帰る」
「え? し、しかし、ラウルがどこへ行ったのか……」
「当てがある。心配しなくていい」
「そうですか……ではお任せしますが、くれぐれもケンカの上塗りは避けるようにお願い致しますね」
「努力はするよ」
ハンス的には非常に不安なひと言を残して、エドゥアルトは心当たりがあるというラウルの居場所へと向かったのだ。
*
―――やってしまった……。
人があまり来ない裏庭の一角。日陰が多いその中で比較的日の当たる芝生の上に突っ伏すようにしたラウルは、悶々と先程の出来事を反芻(はんすう)していた。
あれは事故だ。行為自体に問題はあるものの、おそらくエドゥアルトにそんなつもりはなかったし、触れたかどうかという程度の微妙な触れ加減だった。だが、ラウルにとってはあれがファーストキスだったのだ。何より、その後のエドゥアルトの対応がいただけなかった。
『あの程度、そう大騒ぎするような年齢でもないだろう?』
くだらん、とでも言いたげな顔をして、動揺を露わにするラウルを見やった彼の態度は、大いに彼女を傷付けていたのだ。
思い出すだけで腸(はらわた)が煮えくり返り、やり場のない憤りで胸がいっぱいになる。
あの無節操皇子に、妙齢の女性の誰しもがそういった経験を済ませていると思うな、と言ってやりたい。どこぞの令嬢を夜毎(よごと)とっかえひっかえしているような帝国の皇子と自分とでは、貞操観念が違うのだ。
いつか好きな相手とのその瞬間を人並みに夢見ていたラウルは、心の中でエドゥアルトに毒づいた。
―――あのヤリチン皇子め……!
だが、冷静になっていくにしたがって、滾(たぎ)るような怒りは鬱屈とした思いへと変わっていく。
発端となったのはエドゥアルトの軽率な行動だったが、その後の展開については、どう考えても自分が悪い。
大人として、まずは気持ちを抑え、きちんと話し合うべきだった。手合わせの場でもないのに、主に対していきなり(しかも思いっきり)掌底をかましてしまうなど、言語道断だ。さすがのエドゥアルトはとっさに腕でガードしていたが、これが皇太子辺りだったら今頃顔面がひしゃげている騒ぎである。
「大人なんだから……臣下なんだから……私の方から出向いて、謝るべきなんだよな……そうしなきゃいけないんだよな……」
嫌だなぁ……とラウルは溜め息をついた。
何が嫌って、顔を合わせるのが気まず過ぎる。ハンスにも現場を目撃されてしまっているのだ。いったいどんな顔をして戻ったらいいものか。
「ねちねち嫌味言われそうだしなぁ……」
「―――へえ。誰にだ?」
突然降って湧いたその声に、芝生の上に突っ伏していたラウルは跳ねるようにして起き上がった。
見上げた先には、まだ会いたくなかったエドゥアルトその人が傲然(ごうぜん)と立っている。
不覚。気配を消した相手にここまで接近されるまで、気が付かなかった。
「エ、エドゥアルト様。どうしてここに……」
気まずい面持ちでその名を紡ぐと、不機嫌そうな顔をした相手に当たり前のように返された。
「お前の行動なんぞ、お見通しだ。いつもと違って昼寝はしていなかったようだがな」
「うぐ……」
何かの時にぽろっと漏らしたことがあっただろうか? ここがラウルお気に入りの昼寝スポットだということがバレている。
ためらいなくこちらへ近付いてくるエドゥアルトに、芝生に腰を下ろした状態のラウルの身体は自然と後退(あとずさ)った。
この場へ彼が現れるとは想定していなかった―――まだ心の準備が出来ていないというのに、この事態にどう立ち向かったらいいものか。
「そんなに警戒するな。取って食いやしない」
「そんなことを言って、予想外の行動に出ますからね、貴方は」
謝らなければと思っていたはずなのに、ついつい憎まれ口が出てしまい、内心で頭を抱える。
あー、しまった。これじゃいけないと分かっているのに、どうしてこう―――。
絶対に言い合いになる。そう思い、ラウルが身構えた時だった。彼の口から、思いも寄らぬ言葉がこぼれたのは。
「さっきのことは―――まあ、僕が悪かった」
ラウルは思わず青灰色の瞳を瞬かせた。
聞き間違い? そう考えてしまうほど、意外な返答だった。
「勝手に決めつけて悪かったよ。ああいうことは年齢で決まるものじゃないと、ハンスに諭された」
きまりが悪そうにそう言って、エドゥアルトはゆっくりと膝を折り、ラウルの前にしゃがみ込んだ。
「キスは、初めてだったのか?」
面と向かってそう問われて、ラウルはカッと頬が火照るのを感じた。
何てことを聞いてくるんだ、この皇子は!
「そそそそそれ、聞きます!?」
赤くなってにらみつけると、当然の口調で返された。
「容赦のない掌底を食らったんだ、それくらい聞く権利はあるだろう」
「うぐぅ……」
そこを突かれると痛い。
しかし、年下の男からの何と答えにくい質問であることか。回答すること自体が既に罰ゲームのようなものだ。
「そ……そうですよ、初めてですよ! 悪いですか!? 大切にとっておいたのに、何てことしてくれたんですか!!」
半分ヤケになって白状すると、エドゥアルトは心底驚いたようにトパーズの瞳をまん丸にした。そのレアな表情がまたいたたまれなさを増長させて、ラウルの羞恥心を加速させる。
「何でそんな本気でビックリした顔するんですか! バカにしてます!?」
「いや……世の男達はよくもまあ、ここまでお前を放っておいたものだと思って」
「は!? 何ですか、そのコメントは! やっぱりバカにしてますね!?」
「いや、違う。お前がこれまで出会った男達に見る目がなかったという話をしているんだ」
「下手くそななぐさめいらないですよ! デカくて男より強い女には需要がないって、それくらい分かってますから!」
顔を真っ赤にして叫ぶラウルはほとんど涙目だ。
エドゥアルトは深い溜め息をつくと、そんなラウルの頭にぽんと手を置いた。
「少し落ち着け。僕が下手くそななぐさめを言うようなタイプじゃないって、お前、分かってるだろう?」
大きな手でくしゃりと頭を撫でられて、奇妙な状況に口をつぐむと、端整な面差しにヤンチャな気質を纏わせた相手の顔が少しほころんで、初めて見る色を帯びた。
「は……お前が強い女で、良かったよ」
どういう意味なのか計りかねる言葉だったが、強烈な引力を感じさせる表情だった。胸の辺りが落ち着かなくなるのに目が離せないような不思議な感覚に囚われて、ラウルは青灰色の瞳を揺らす。
「初めてがあんな形になって、悪かったな」
銀色のショートボブを滑るようにして下りてきたエドゥアルトの手がラウルの片頬を包み込むようにして、彼の親指が彼女の唇にそっと触れた。
「お前が望むなら、希望に沿う形でやり直してやるぞ」
キスのやり直しを提案されて、エドゥアルトの表情に見入っていたラウルは我に返った。
「―――! い、いいです!」
慌ててエドゥアルトの胸を押しやって距離を取ると、相手はふぅん、と鼻を鳴らした。
「初めてが、あんなくっついたかどうかも分からないような代物でいいのか?」
「いいんです! あれは事故だったということにしますから! お互いが好き同士で、気持ちがこもったものじゃないと……私にとっては、意味がないので」
「ずいぶんと大仰なんだな、お前にとってのキスは」
「エドゥアルト様がお気軽過ぎるんですよ!」
ラウルはきっ、と奔放な皇子をにらみつけた。断じて未経験者が夢を見過ぎているのではない、と思いたい。
「……エドゥアルト様だって、初めての時くらいは、そういう気持ちだったんじゃないんですか?」
「いや? 作法の延長くらいの感じだったな。知識として知り得たことの実践とでも言えばいいのか」
「ええ……」
ラウルはドン引いた。
エドゥアルトにとってのキスは「そういう場面」で「礼儀としてしなければならないもの」といった認識でしかないのか。ラブもロマンもへったくれもない。ある意味、彼は彼で気の毒な人なのかもしれない。
「好きな相手としたことは、ないんですか?」
「そもそもその『好き』という感覚がいまいち分からないんだよ。……。でも、まあ―――」
エドゥアルトは少し考えてからラウルを見やり、こう言った。
「僕はお前のことを『気に入っている』と思っていたけれど、もしかしたら違うのかもしれないな」
「ええ!?」
唐突なその発言に、ラウルは色を失くした。
「そ、それってつまり、私をお払い箱にしようと考えているってコトですか!? ちょ、待って下さい!」
「脳筋……」
「はい!?」
「いや。それで?」
「え、ええと。いきなり掌底を見舞って、本当に申し訳ありませんでした! それについては全面的に私が悪かったです! 心から反省していますから、ですから、どうぞ今後ともエドゥアルト様の傍に置いて下さい!」
今の環境がラウルはとても気に入っている。宮廷という独特の場の階級社会の煩わしさはあるが、第五皇子周辺の人間関係は良くて待遇にも満足しているし、スカウトした時の言葉通りエドゥアルトは様々な機会を与えてくれている。手近なところに全力で手合わせ出来る相手もおり、何より、目覚ましい成長を続けるエドゥアルト自身の行く末を見届けたいという思いがあった。
直立不動の姿勢から勢いよく頭を下げた瞬間、堪(こら)えきれなくなった様子でエドゥアルトが吹き出したので、全力で謝っていたラウルは怪訝な顔になった。
「あ、あの?」
「はー……分かった分かった。きっかけを作ったのは僕だし、今回のことは不問にするよ。お前を超えてみせると言ったのに、そのお前がいなくなってしまっては意味がないからな」
「あ……ありがとうございます!」
良かったぁ、と心からホッとした笑顔になるラウルを見やって、エドゥアルトは瞳を和らげた。
「戻るぞ。ハンスが気を揉みながら待っている」
「はい!」
大きく頷いたラウルは、前を行くエドゥアルトの背中を見ながら「そういえば」と尋ねた。
「あの、ところでエドゥアルト様は怪我とかしませんでした? 全く手加減なしでやっちゃいましたけど……」
「問題ない。やわな鍛え方はしていないからな」
「そうですか! 私が言うのもアレですけど、エドゥアルト様、たくましくなりましたね」
「ふん……」
根が単純なラウルは疑いもしなかったのだが、その後、腕がぱんぱんに腫れあがったエドゥアルトが密かに専属の薬師の元へと足を運び、根掘り葉掘りの追及を受けながら、頑としてその理由を明かさないまま、怪我の手当てを受けたということを、彼女は知らない―――。
<完>