病弱な第四皇子は屈強な皇帝となって、兎耳宮廷薬師に求愛する

まつろう者@


 皇帝グレゴリオは一命を取り留めた。

 運良く重要な臓器が傷ついていなかった為、傷口が塞がれば後遺症もなく復帰出来るだろうとの薬事総長クレメンスの見解に、私もフラムアークも一様に安堵の息をついた。

 一時は次期皇帝に最も近しい位置にいた二人の皇子の叛乱と皇帝の負傷の報せに宮廷内は一時騒然となったけれど、フラムアークとエドゥアルトが重鎮達と連携して事の対処にあたり、さほど大きな混乱には至らなかった。

 グレゴリオの意識がほどなく回復し、皇帝が無事であることを早々に宮中に知らしめることが出来たことも大きい。

 そのグレゴリオから話があると私とフラムアークに呼び出しがかかったのは、大聖堂での事件からちょうど一ヶ月の節目を迎えた日のことだった。

「―――来たか」

 人払いを済ませた室内、豪奢な寝台の上でクッションに背をもたれ、半身を起こした状態のグレゴリオはそう言って私達を迎え入れた。

「お加減は宜しいのですか」

 そう気遣うフラムアークにグレゴリオは軽く首を振って、私達に近くへ寄るようにと促した。

「大事ない。今日は気分が良かったからお前達を呼んだのだ……ゆっくりと話せる、良い機会だと思ってな」

 寝台の傍らには椅子が二つ用意されており、私達がそれに腰掛けるのを見届けてから、グレゴリオはゆっくりと口を開いた。

「……こうしてお前と改まって話をするというのは、おそらく初めてのことだな、フラムアーク」
「……はい」
「そしてユーファ。君と話をするのは、ずいぶんと久し振りのこととなる」
「……はい」

 硬い面持ちで頷く私達の表情を目にしたグレゴリオは、静かに半眼を伏せた。

「色々と尋ねたいことはあろうが、お前達の疑問に答える為にも、まずは私の昔話を聞いてもらおう―――」



*



 皇位継承争いに勝利し次期皇帝となることが決まったグレゴリオは、戴冠の日が近づくにつれ、次第にその重責を感じるようになっていった。

 これまで皇帝の座を勝ち取る為に注いできたエネルギーを、これからは自らの治世に注いでいくことに変わった時、彼は漠然とした不安感に苛まれたのだ。

 興国以来、脈々と続いてきた古き歴史を誇る大帝国。歴代皇帝の治世ごとに版図を広げ、勢力を拡大してきたこの国を、自分の御代でもつつがなく発展させていかなくてはならない。

 さもなくば自分の名は愚帝として、不名誉な名を帝国史に永劫に刻まれることとなるだろう。

 自身の代で大帝国を衰退させるようなことがあってはならない。先人達に倣って、自分もまたこの国を発展させていかなければ―――。

 歴史ある故国の行く末を双肩に担う、それは心躍る半面、計り知れないプレッシャーをもたらすものでもあった。

 そんな抑圧が日に日に高まったある日、唐突に何も考えずに一人でゆっくりと過ごしたいという欲求に駆られたグレゴリオは、半ば発作的に宮廷を飛び出したのだ。十日程で戻る、という置手紙だけを自室に残して―――。

 彼の足が向かったのはガードナー山脈を隔てて帝都に隣接するガーディア領だった。そこの象徴(シンボル)で領の中央に位置する、霊峰ガドナ山を眺めて心を落ち着かせたいという思いがあったのだ。

 しかし、ガードナー山脈を超える際、急な悪天候に阻まれて、乗り合わせた馬車が山道から滑落してしまうアクシデントに見舞われる。馬も御者も他の乗客も命を落とし、グレゴリオ自身も重傷を負って万事休すとなった時、現れたのが事故の音を聞いて駆けつけたユーフェミアだった。

 肉体的にも精神的にも疲弊していたグレゴリオの目に、手を差し伸べたユーフェミアは天の使いの如く燦然と輝いて見えた。

 負傷したグレゴリオを自宅へ連れ帰ったユーフェミアは、事故で路銀を失くし無一文になってしまった彼を無償で手当てし、かいがいしく世話を焼いてくれた。

 困った時はお互い様だと言って、とっさにグレイと偽名を名乗ったグレゴリオのあれこれを詮索しなかった。

 皇族としてではなく、一人の人間として受け入れられる感覚をグレゴリオは生まれて初めて味わい、そしてそれをひどく温かく感じた。この時彼は、心の奥底に初めて火が灯ったような感覚を覚えたのだ。

 早くに夫を亡くしたというユーフェミアは娘と二人暮らしで、自宅を兼ねた薬店で薬師として慎ましく働いていた。

 薬師としての彼女の造詣は深く、グレゴリオの知る宮廷薬師と比べても遜色のないレベルで、もしかすると彼らよりも頭ひとつ抜き出ているかもしれなかった。

 しかし当のユーフェミアは己の技量をそうとは捉えていない様子で、ただ薬師として目の前の人を助けることを何よりも重んじているふうだった。

 損得なしに他者を思いやれる、若く美しい兎耳族の未亡人。たおやかな見た目ながら、滅多なことでは物怖じしない芯の強さを感じさせる女性―――そんな彼女にグレゴリオの心は急速に惹かれていった。

 動けるようになるまでここに置いてあげる、というユーフェミアの言葉に甘える形で、グレゴリオは彼女の世話になりながら、ある程度の傷が癒えるとせめて治療の礼にと、無理のない範囲で出来る限りの仕事を手伝った。

 ユーフェミアの一人娘、ユーファの相手をするのが主だった仕事だったと言えるかもしれない。

 目鼻立ちがユーフェミアそっくりの彼女は好奇心旺盛で、グレゴリオが語る話にいつも大きな瞳をキラキラさせながら聞き入っては、次々と新しい話を彼にせがんだ。

 帝国の皇子として育ったグレゴリオにとって、ユーフェミアの家での生活は何もかもが目新しく新鮮で、肩書を取り払った等身大の自分に対する彼女達の接し方は裏表なく穏やかで、ひどく心地好いものだった。

 その頃には、ユーフェミアに対しひとかたならぬ恋情が育っていたように思う。

 当時グレゴリオは従妹(いとこ)であるクレメンティーネと婚約関係にあり、二人はグレゴリオの即位と同時に結婚することが決まっていた。グレゴリオは彼女を人として愛していたが、女性としては想うことが出来ていなかった。一方のクレメンティーネは幼い頃から彼に好意を抱いており、彼との結婚を心待ちにしていた。

 皇族として生まれた以上、婚姻は国の益に結びつくものと決まっており、グレゴリオもこれまでそれに否はなかったのだが―――生まれて初めて自覚した恋情が、その思いを鈍らせる。

 グレゴリオはそんな自身の感情と己が立場との狭間で密かに懊悩(おうのう)したのだが―――。

 代々皇位継承者に伝わる「先人の書」と呼ばれるものの存在が、彼の心を決めさせた。

 それは歴代の皇帝達が大帝国の繁栄を願い後世の皇帝達へ残した指南書のようなもので、先日父である現皇帝からグレゴリオに譲り渡されたものだった。それにも、婚姻は最大限国の利益を追及したものであるべきと記されていたのだ。

 先人の書は、この大帝国を確かに発展させてきた歴代皇帝達の叡智が集約されたもの。

 この教えから逸脱した行動を取り、自身の代で大帝国を衰退させるような憂き目に合わせてしまったらと考えると、それは非常に恐ろしいことで、グレゴリオの足を竦ませるには充分だった。

 ―――先人達の教えに背き自らの気持ちを押し通す勇気など、グレゴリオにはなかったのだ。

 彼は芽生えた淡い恋心を自らの内に封印して、ひと時の幻のような時間をユーフェミアの家で過ごし、その後、帝都へと戻ると、予定通り戴冠した。

 グレゴリオに気持ちを告げられることもなかったユーフェミアはおそらく、彼に恋情を向けられていたことにも気が付いていなかったに違いない。

 帝都へ戻ってほどなく、グレゴリオはグレイという偽名でユーフェミアの元へ薬草や薬の材料となるものを謝礼の手紙と共に送った。彼女の性格的に金銭は喜ばれないだろうと思ってそうした。

 ユーフェミアの家で過ごしたあの日々を良き思い出として心の糧に、グレゴリオの心は職務を邁進しようと前を向いていた。自分の仕事ぶりが彼女達の生活にも影響を及ぼすのだ、肝に銘じてかからなければ、と。

 戴冠前に失踪していたグレゴリオの皇帝としての資質を心配していた重鎮達は、主君の精力的な仕事ぶりに良い意味で期待を裏切られ、大いに胸をなで下ろした。

 だが、妻となったクレメンティーネはそんな夫の姿に女の影を感じ取っていた。

 ふとした瞬間、夫の表情に、眼差しに、感じる影。何者かは分からないが、夫の心に棲みついている女性がいる。

 それはクレメンティーネにとって面白くないことではあったが、かと言って取り乱すほどのことでもなかった。

 失踪した時は肝を冷やしたが、グレゴリオはちゃんと自らの立場をわきまえ、クレメンティーネの元へと戻ってきた。予定通り戴冠して彼女を妻に迎え、婚姻後は常に誠実な態度で接し、夜の務めもつつがなく行われている。今のところ自分以外の女性の元へ通っている様子もない。

 察するに、夫の想い人は身分の釣り合う相手ではなく、夫は失踪した時期にその相手と自分の気持ちに決着をつけてきたのだろう。

 政略結婚なのだから、なかなか相思相愛というわけにはいかないのは分かっている。だが、夫婦として過ごすうちに穏やかな愛情が二人の間に育って、いつしかそれが真の愛となればいい―――クレメンティーネはそんなふうに思っていた。

 彼女としては幼い頃から恋焦がれていた初恋の相手と夫婦になることが出来て幸せだったから、いつか彼の瞳にも自分と同じ熱情が宿ってくれたら嬉しいと、そんな期待を持っていたのだ。

 何より自分は皇妃という立場にあり、皇帝である夫ともっとも長い時間を共に過ごせる女性なのだ―――彼との子を授かれば、その絆はより強固に、盤石なものになっていくに違いない。

 それからほどなくクレメンティーネは第一子を懐妊し、十月十日(とつかとおか)を経て国中が待望する初の御子を無事に出産する。

 待望の第一子、それも皇子となる男児の出産に国中が祝賀ムードに包まれ、グレゴリオも大いに喜んでクレメンティーネをねぎらった。

 まずは皇妃としての役目をひとつ果たし終えたことにクレメンティーネ自身も安堵したが、夫であるグレゴリオとの関係は、出産前とほぼ変わらなかった。

 幼いゴットフリートの様子を見に、クレメンティーネと顔を合わせる回数は増えたが、グレゴリオの言動はいつも彼女が期待するものとはどこか異なっていて、その小さな積み重ねは彼女をひどく歯がゆくさせた。

 グレゴリオはいつも誠実な態度で思いやりのある言葉をかけてくれる。何かを望めばそれを手配し、実現してくれる。

 皇妃としての自分を大切にしてくれている。皇子としての息子を気にかけてくれている。

 それは分かっているし、伝わっている。

 だが、その言葉に熱を、態度に愛を感じない。

 その立場にいる自分達をただそのように扱ってくれているだけ―――クレメンティーネには夫のありようがそのように感じられてしまってならなかったのだ。

 結婚当初、夫婦として過ごすうちに穏やかな愛情が二人の間に育って、それがいつしか真の愛となればいい―――そう思っていたクレメンティーネだったが、幼い頃からグレゴリオを恋慕っていた彼女は、いつまで経っても自分と同じ熱が宿らない彼に対し、無意識に苛立ちを募らせ、その気持ちをこじれさせていっていた。

 彼女は無意識のうちに彼に対して自分と同じだけの熱量を求め、いつまでもそれを返してくれない彼に対し不満を募らせてしまっていたのだ。

 当のグレゴリオはまだそんなクレメンティーネの心の変調に気が付いていなかった。彼としては後継ぎとなる息子も生まれ、夫婦としての仲が以前よりも深まっていると感じており、公私ともに順調であるという認識だったのだ。

 愛情の深さの掛け違いに気付かないまま、彼らは互いに皇族としての務めに励み、順調に第二子、第三子を授かった。

 三子連続で男児を授かると、男腹のクレメンティーネに感心した家臣の一部が、何の気なしに世間話の体でこんな発言をするようになった。

「いやあ、クレメンティーネ様は素晴らしい。このままいくと、いつかはインペリアルトパーズの瞳を持った男児をお産みになるやもしれませぬな!」

 そんな宮廷内の風聞が、やがてクレメンティーネの耳にも入ることとなる。

 インペリアルトパーズの瞳は、優れた帝王の資質を秘めたる者の証―――。

 代々皇族の間で吉兆と尊(たっと)ばれ、数代に一人現れるかどうかと言われるその希少な瞳を持つ者を産んだ母親は、特別な国母として称えられる風習があった。

 その風習は、疲れたクレメンティーネの心にふとした闇を差し込むこととなる。

 ―――自分がその特別な存在となれれば、未だに熱を宿さない夫の瞳にも、仄かな熱が灯るだろうか。

 お前は素晴らしい妻だと、自分の誇りだと、心からそう褒めて下さるだろうか―――。

 求め続ける愛情を得られないことに疲弊するクレメンティーネの思考は、次第にそんな方向に囚われていった。

 その頃になってようやく、グレゴリオはクレメンティーネの様子がどこかおかしいことに気が付いた。

 表面上はこれまでと変わらず振る舞っているように見えるのだが、どことなく表情が精彩を欠き、口数が少なくなったような気がする。そういえばいつの間にか、笑顔を見ることも少なくなった。

 それに最近、彼女の周囲では人の入れ替わりが激しくなったという話を耳にしていた。

 心配になったグレゴリオが側仕えの侍女達に確認してみると、クレメンティーネはこれまでも時折感情が不安定になることがあったらしいのだが、最近はその波が激しく、急にヒステリックになったり、かと思うと突然押し黙ってこちらの問いかけに何も反応しなくなったりと、彼女達も対応に困っているらしい。

 気に障ることがあると声を荒げて物を床に投げつけるなど攻撃的な一面を見せる一方、子供達には甘くなり、何でも許容してしまい、悪いことをしても注意することをしないので、教育に支障が出て困っていると教育係が嘆いているという話だった。

 困り果ててグレゴリオに陳情しようとした者もいたらしいが、クレメンティーネが早々に手を回してそういった者達を軒並み首にしてしまったらしい。

 想像以上に悪かった妻の状態に、グレゴリオは衝撃を受けた。

 何故、こんなことになってしまっているのか。

 グレゴリオには原因が思い当たらなかったが、このまま放置しておくわけにはいかない。彼はすぐに妻と話し合いの場を設け、彼女に何か不満や不安があるのか、率直に尋ねてみた。

 だが、それに対して返ってきた妻の回答は、グレゴリオを困惑させた。

「貴方はいつになったら私(わたくし)自身に目を向けて下さいますか。貴方の目に映っているのは皇妃という役目を負った虚像であって、そこに向けてかけられる言葉にも、振る舞いにも、私はもうずっと熱を感じられずにいるのです」
「……!? 何を―――其方(そなた)は幼い頃から知っている私の従妹だ。虚像でも偶像でもない、他ならぬクレメンティーネ自身と認識して、私は其方を娶った」
「ええ……でもきっと、それが私ではない他の誰かだったとしても、皇妃としてふさわしい者であったなら、貴方はその相手に同じ言葉を囁き、模範通りの誠実な対応を取って、つつがない結婚生活を過ごされたのだと思います」

 妻が何を意図してそう言っているのか理解出来ないグレゴリオは、当惑も露わに首を振った。

「意味が分からない……クレメンティーネ、分かるように話してくれ」
「私は模範通りの夫として振る舞う貴方の妻になりたかったのではなく、熱の通った、素の貴方の妻になりたかったのです。私だけに向けられる、私だけに見せる、グレゴリオという一人の男性としての貴方自身が、ただ私は欲しかった…! ありのままの貴方自身の心から放たれる温かみのある言動を、ずっとずっと私に向けてほしかった!」

 それは、これまで常に淑女としての姿勢を崩してこなかったクレメンティーネがグレゴリオに初めて見せた感情の爆発だった。

「夫婦となった時からずっと、貴方の胸の内に私でない誰かが棲みついているのは知っています。その誰かを想う時、貴方の表情は、眼差しは、私が見たことのない色を帯びる! その誰かに対しては、たくさんの感情が動くのでしょうね……!?  夫婦としての時間を重ねれば、いつか私達の関係もそのように変わっていくものだと思っていましたが、どれだけ言葉を交わしても、幾夜肌を重ねても、三人もの子宝に恵まれても、貴方の態度はいっこうに変わらない……! そんな貴方に、幼い頃から抱いている貴方への想いが報われない私は、言いようのない、とてつもなく虚しい気持ちに襲われているのです……! もう、ずっと、ずっと長いこと……!」

 この時妻の心情を初めて知ったグレゴリオは、鈍器で頭を殴られたような思いがした。

 ―――クレメンティーネに、心の内にあるユーフェミアの存在に気付かれていた。

 夫婦関係が順調だと思っていたのは自分ばかりで、妻は長い間ユーフェミアの存在に思い悩み、精神に不調を来すところまで追い詰められてしまっていたのだ。

 だが、妻は思い違いをしている。

 ユーフェミアに対する焦がれるような想いとは違うが、夫婦生活を過ごす中で、クレメンティーネに対する穏やかな愛情も確かにグレゴリオの中では育っていたのだ。

 これは他の誰でもなく、クレメンティーネでなければ育たなかった感情だ―――それが彼女に伝わっていなかったのは他でもない自分の努力不足で、彼女が向けてくれる愛情に甘えてきた自分の怠慢だ。

 グレゴリオは言葉を尽くしてそれをクレメンティーネに伝えようとしたが、彼女の心にはまるで届いていない様子だった。

「愛してほしい―――私はただ、貴方に愛してほしいだけなんです」

 顔を覆ってさめざめと泣くクレメンティーネを抱きしめながら、これからは彼女を不安にさせない為に逐一愛情を伝えていこうと心に決めたグレゴリオだったが、それは混沌とする夫婦関係の在り方を模索する葛藤の日々の始まりとなった。
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