インペリアルトパーズの瞳を持つ者を、我が子に―――。
その思いは日に日にクレメンティーネの中で大きくなっていった。
あれからグレゴリオはクレメンティーネの心に歩み寄ろうと努力している様子が見受けられ、夫婦関係は改善の兆しを見せていた。クレメンティーネの精神状態は表面上落ち着き、臣下達はそんな皇后の様子に胸をなで下ろしていたのだが、彼女の中でそれはまだまだ満足のいくものではなかったのだ。
夫が自分の為に心を砕き、あれこれと気にかけてくれていることは嬉しい。
だが、そこにはクレメンティーネが求めている熱情がどうにも欠けていた。彼女からすると、夫の行為に努力や義務といった気遣いがどうしても透けて見えてしまうのだ。
しかし、多忙な夫が自分の為にそれだけの時間を割いてくれている事実に、自分を大切だと言ってくれている彼の気持ちに偽りはないのだとも感じる。
彼の目が確かにこちらを向いているうちに、その気持ちをより盤石なものとして繋ぎ留めたい―――そんな思いから、クレメンティーネはよりインペリアルトパーズの瞳を持つ我が子を欲するようになっていたのだ。
そんなクレメンティーネの執念にも似た祈りが神に通じたのか、彼女の四番目の子供は、インペリアルトパーズの瞳を授かった男児だった。
奇跡だ、とクレメンティーネは涙した。
神は彼女の願いを聞き届けてくれた。
寵児の誕生に、宮廷中がこれまでにないほどの歓喜に沸き、途切れることのない言祝(ことほ)ぎがクレメンティーネの元に届く。グレゴリオも見たことがないほど興奮した面持ちで喜んでいるように、彼女には見えた。
ここからきっと、何もかもが上手くいく―――ようやく……ようやくだ。ようやく、本当の意味で自分もグレゴリオも幸せになれる―――。
この時、そう感じたクレメンティーネは幸福の絶頂にいた。
だがほどなく、そんな彼女に残酷な事実が突きつけられることとなる。
インペリアルトパーズの瞳を授かった寵児―――フラムアークが極度の虚弱体質で、成人出来ぬ恐れもあるとの見立てが下されたのだ。
それを告げられたクレメンティーネの嘆きようは凄まじかった。
何故、何故、何故―――ここへ来て、ようやく幸せになれると思ったのに―――いったい何が、いけなかったというのだろう。
滂沱(ぼうだ)の涙を流し、悪夢のような現実に打ちひしがれつつも、クレメンティーネは必死になってフラムアークを看病したが、発熱と寛解を繰り返し、母乳すら満足に飲めぬ息子を前に、次第に疲弊し、心身に著しい不調をきたしていった。
グレゴリオはそんな彼女を案じ頻繁に声をかけるように努めたが、皇帝としての日々の激務と長引く妻の不調にやがて彼自身が擦り切れてしまい、いつしかその足は逃げるようにそこから遠ざかり、徐々に夫婦間の距離は遠のいていったのだ。
事実、彼は逃げたのである。
クレメンティーネといると、まるで二人そろって終わりのない底なし沼に引きずり込まれていくようで、息苦しかった。どんなに言葉を尽くしてもそれが届かない彼女へ、これ以上どう接したらよいのか、正解が分からなかった。
クレメンティーネにもそんなグレゴリオの変化は伝わっていたはずだ。だが彼女はその後も、まるでフラムアークの代わりを得ようとするかのように夫を求め続けた。
まるで種馬のような扱いだと思ったが、グレゴリオは必死の形相で求めてくるクレメンティーネを拒否出来なかった。
かつてはそこにあったはずの愛が今はもうそこにあるのか、あるいは義務を超えた妄執になり果てているのか、二人にはもう分からなかった。
改善の兆しを見せていた夫婦関係は音を立てて崩れ始め、グレゴリオは仕事に集中することで自身を守った。
愚帝として帝国史に名を残すわけにはいかない―――私生活が上手くいかずとも、公人としては成功しなければ―――精神的に追い詰められていた彼はそんな強迫観念から「先人の書」の教えをなぞり、帝国の領土拡大の為、ただそれだけの為に隣接するアズール王国に侵攻し、その圧倒的な武力をもって地図上から彼(か)の国を消し去ったのである。そしてその地を新たに帝国領アズールとして改め、自領に加えたのだ。
フラムアークの年子としてエドゥアルトが生まれ、この年は第六子となるアルフォンソが生まれた年だったが、待ち望むインペリアルトパーズの瞳の子を得られなかったクレメンティーネの精神状態はいよいよ危うくなっていた。
エドゥアルトの誕生後、妻の変調ぶりを危惧したグレゴリオは古い因習を尊ぶ風潮を禁ずる布令を宮廷内に出していたが、それに一番こだわっていたのは他ならぬクレメンティーネ自身だった。
この頃には次期皇帝候補となることはないと見なされたフラムアークは皇宮の片隅に追いやられ、皇帝夫妻が彼と距離を取ったことと、この布令を曲解して捉えた者達がいたことによって、祝福の御子として誕生したはずだった彼は宮廷内で孤立した立場へと追い込まれていったのだ。
グレゴリオはそんなフラムアークの有り様を認識していながら、何の対応も取らず、ただ黙然と幼い息子の現状を眺めやっていた。
優れた帝王の資質を秘めたる者の証とされるインペリアルトパーズの瞳を授かりながら、極度の虚弱体質というハンディキャップを背負って生まれてきたが為に、大帝国の第四皇子という立場にあるにも関わらず、いつ亡くなっても構わない形だけの皇族として扱われ、誰にも必要とされずに存在している息子―――。
皮肉なものよな……。
グレゴリオはそんなフラムアークの存在に、いつしか自分自身の影を見出していた。
寵児ともてはやされる器を得ながら、欠陥を抱えて生まれてきた者。
それは、皇帝という栄光の座に就きながら、欠陥だらけの実生活にもがき苦しむ自身の姿と重なって見えた。
ユーフェミアへの想いを断ち切らねば、予定通りクレメンティーネと結婚しなければ、自分は皇帝たり得なかった―――皇帝として今ここに立ってはいなかった。
現状こうして皇帝として君臨している自身の選択は、生き方は、間違ってなどいないはずだ―――自分にそう言い聞かせながら、グレゴリオは現実から目を逸らし続ける日々を送っていた。
そんな時だった。
死火山だと思われていたガドナ山が突如噴火し、麓にある兎耳族の町が溶岩に飲み込まれたとの一報が入ってきたのは―――。
ユーフェミア―――……!
その報せにグレゴリオは自身でも驚くほど動揺し、居ても立っても居られない思いで臣下達に指示を出した。
本当は今すぐにでも自分がその場に駆けつけてユーフェミアを探し出し、この手で救い出したかったが、皇帝である自分がこの場を離れることなど出来るはずもなく、ましてや危険な現場へ赴くことなど、許されるはずもない。
ユーフェミアの安否がようとして知れない中、ガドナ山の麓から救出された兎耳族の生き残り達が着のみ着のまま保護されて宮廷へとやってきた時、グレゴリオは逸る心を抑えきれずに、彼らが集められた区画へと密かに様子を見に行ったのだ。
遠目から息を凝らして兎耳族の集団を窺っていると、彼女とおぼしき人影がグレゴリオの視界に入った。
―――ユーフェミア……!
歓喜に跳ねかけたグレゴリオの心臓は、わずかな違和感にすぐに気が付くと、不吉な旋律を奏で始めた。
ユーフェミアと見まがった、彼女によく似た面差しに疲労と絶望の色を深く映した女性は、ユーフェミアその人ではなかった。
―――……。ユーファ、か……?
グレゴリオの予想通り、ユーフェミアによく似たその女性は彼女の娘で、グレゴリオが出会った時はまだ少女だったユーファだったのだ。
後日得た情報によれば、病人の家に薬を届けに行った際に被災したとみられるユーフェミアはそのまま消息不明となり、娘のユーファも知らぬところで帰らぬ人となってしまったらしい。
グレゴリオはこの時初めて、己の選択が正しかったのかどうか疑問を覚えた。
もしもあの時、自分が身分を明かして、誠心誠意ユーフェミアに想いを伝えていたら、何かが変わっていたのだろうか。
そしてもし、彼女が自分の気持ちに応えてくれていたのなら―――いや、多少強引にでも自分が彼女を帝都へ連れ帰っていたならば―――ユーフェミアは今この時も生きて、自分の隣に存在していた?
だが、亜人で平民でしかも子持ちのユーフェミアは、人種的にも身分的にも体面的にも、寵姫に望むことさえ難しい立場だった。ユーフェミアを妃に望めばクレメンティーネの生家の怒りを買い、自分は皇帝にはなれなかっただろう。
ならばいったい、どうするのが正しかったのか。何が最善の選択だったと言えるのか。
分からない。
過ぎ去った時は戻らない。検証してみようもない。だが、だが、だが―――……!
グレゴリオの中を、やり場のない悲しみと憤りが吹き荒れる。
そして―――……。
「……お前は……どのような選択をする……?」
グレゴリオは独り、虚空に向かってポツリと問いかけた。
過ぎ去った時は戻らない。何をどうするのが最善だったのか、検証してみようもない。
だが―――、自分と同じように欠陥を抱えた者が、限られた現状でこれからどのような選択をして生きていくのか、それを見届けることは出来る。
自らと重ね合わせて見ていたフラムアークに対し、この時、グレゴリオは正解のない答え合わせを求めたのだ。
先人達の教えに従い、自らの想いを封じる選択をした自分と、先人達が尊(たっと)んできた色彩の瞳を持ちながら、身体的な欠陥を抱え、遠からず命の灯(ひ)尽きようとしている息子。
もしもフラムアークがこの現状を打ち破り、次期皇帝候補として台頭してくるようなことがあれば、先人達の教えは確かな慧眼に裏打ちされたものであり、それに従った自分の選択は間違っていなかったと言えるのではないか―――。
グレゴリオはそんなふうに考えたのだ。
それは虚構にまみれた、こじつけでしかない、人としても父親としても失格の、最低な自己保身。
だが、その時のグレゴリオは、そんなものにすら縋らなければ己を保てない程のやりきれなさにまみれていたのだ―――。
そして彼は、フラムアーク専属の宮廷薬師として兎耳族のユーファを指名し、側用人にアズール王家の生き残りであるスレンツェを据えることを決めたのだが、それにはこんな思惑があった。
この五年間、グレゴリオはフラムアークの現状回復のため、宮廷薬師達に持ち回りで彼の療養に当たらせていたのだが、フラムアークの体調が改善する兆しは全く見られず、グレゴリオはこの状況を打開する可能性があるのはユーフェミアに師事し、自らも薬師となっていたユーファを於いて他にいないと考えたのだ。
スレンツェを側用人に起用したのは、一国の王子として生まれながら全てをグレゴリオに奪われ、その下で飼い殺しにされる境遇に至った彼に、フラムアークと同じく自身に通じるものを見出したグレゴリオが、彼の選択と生き様を目の届くところで見届けたいと思ったからだった。
自国を滅ぼされたスレンツェの心が帝国に対する憎悪と憤怒にたぎっていることは想像に難くない―――もしフラムアークがそんな彼の手にかかるようなことがあれば、それまでだと思った。だが同時に、その可能性は限りなく少ないだろう、とも。
わずか十五才にして剣聖と謳われる才を発揮し戦場を駆け抜けたスレンツェには帝国の名だたる将も幾人か討ち取られており、その勇猛な姿は実際にグレゴリオも現場で目の当たりにしていた。彼に対するアズール国民の人気は非常に高く、帝国としても無視出来ないほどの助命嘆願の声が届き、アズール領を平定する為にもこのタイミングで彼を殺すのは得策でないと判断されたほどだ。
敵国の王子でありながら高潔な人柄で知られ、文武に秀でたスレンツェを懐柔し彼から様々な教えを請うことが出来れば、それはフラムアークにとって大いなる糧となるだろう。
だが、それは全てこれからのフラムアーク自身の在り方とその選択にかかってくる。
まずは、先天的な虚弱体質に打ち勝てるかどうか―――そして、ユーファやスレンツェとどのような関係を構築し、味方などいないに等しいこの宮廷で、いかように立ち回り、周りとどう関わって生きていくのか―――。
病弱な幼い息子には過酷極まりない環境であると言える。だがグレゴリオは自身の不甲斐なさを押し付けることを躊躇せず、身勝手な検証に一方的に息子を巻き込んだ。
―――さあ見せてみろ、フラムアーク。お前のこれからの生き様を―――……。
こうしてグレゴリオから暗黙の内に投げかけられた正解のない答え合わせは、フラムアークの知らぬところでその幕を開け、二十年近い歳月を経て、あのような決着を迎える形となるのだ―――。