異変が起こったのは、私達が古びた館に連れて来られてから数日後の夜のことだった。
「……何か上が騒がしくない?」
ピンと羊耳を立てたファルマ同様、私もベッドの上で兎耳をそばだてる。身体を起こして聴力を研ぎ澄ますと、いつもより大勢の足音と諍(いさか)うような声が聞こえた。
その喧騒は瞬く間に増していき、ほどなく怒号と金属音も入り混じって、何かが激しくぶつかったり壊れたりするような大きな音が響き、その振動で天井から砂埃がバラバラと降ってきた。
地下牢に閉じ込められている人達の間から悲鳴が上がり、何事かと身を寄せ合う私とファルマの視線の先で、上の様子を見に行っていた見張りの一人が慌ただしく階段を駆け下りてきた。
「襲撃だ! かなり大規模な!」
その一報に他の見張り達が騒然とする。
「帝国軍か!?」
「いや、違う! 何とかって自警組織(ヴィジランテ)を名乗っていた! 上はもう乱戦状態で火の手も上がっている!」
「何だって!?」
「奴らここへもすぐに来るぞ、早く逃げた方がいい!」
「……っ、商品達は!?」
「そんなの構っていたら死ぬぞ! あたしは逃げる!」
知らせに来た見張りがそう言って背を翻すと、互いの顔を見合わせた残りの見張り達も弾かれたようにその後を追い、それを見た牢の中の人達から悲痛な叫びが上がった。
「待って! このまま置いていかないで!」
「ここから出して! 牢を開けてよ!」
地下牢に悲鳴が交錯し、辺りは完全なパニック状態になった。
そんな中、一人逃げ出さずにいたアマンダが私達の牢の前へやってくると、おもむろに鍵束を取り出して牢の鍵を開け始めたのだ。
え……!?
驚く私達をよそに、彼女はそのままベッドの脇で寄り添うようにしている私達の元へやってくると、ファルマの足元にしゃがみ込み、彼女の足に着けられていた重り付きの足枷を外してくれた。
「アマンダ。あんた……?」
思いがけないその行為に事態を把握出来ず訝しむ私達へ、彼女は口角を上げてこう言った。
「安心しな、何も企んでないし危害を加えるつもりもないよ。今ここを襲撃しているのも、さっき他の連中を扇動して出て行ったのもあたしの仲間。
あたし達は何処にも所属しない自警組織(ヴィジランテ)、“比類なき双剣(アンパラレルドゥ・デュアル・ウィールド)”の一員さ。弱きを助けクソヤロー共を挫くことを信条とした集団だよ」
―――比類なき双剣(アンパラレルドゥ・デュアル・ウィールド)!?
思いがけないその名に息を飲む私の前で、アマンダは誇り高い戦士の顔を見せた。
「さあ行きな、フランコに見つかる前に。まだ本調子じゃないだろうがここまで頑張ったんだ、気合入れて生き残りなよ。捕まってる他の連中もあたしが責任もって逃がしてやるから心配しなくていい。後ろを振り返らずに行きな、あんた達が逃げる道はあたしの仲間が全力で作ってくれるはずさ」
その間にも上階から争う音が響いてくる。ファルマは頷いて私を促した。
「アマンダ、恩に着るよ。行こう、ユーファ」
「え、ええ。……あの、アマンダ。あなた達をまとめているのは、もしかしたらカルロという人?」
私の口からカルロの名を耳にした彼女は、少し驚いた様子を見せた。
「―――何、あんた、あの方の知り合い?」
私は小さくかぶりを振った。
「直接の知り合いというわけじゃないけれど……私の近しい人が、彼のことをスゴく心配していたの。息災なら良かったわ。……後で、改めてお礼が言えると良いのだけれど」
「ならまずは、何としてもここを切り抜けることだね」
「……そうね。ありがとう」
「気を付けていきな」
「ええ。あなたもどうか気を付けて」
アマンダと別れた私達は、地上へ続く階段へ向かって走り始めた。
……大丈夫。痛いけど、何とか走れる!
「行けそう? ユーファ」
「ええ、大丈夫です」
気遣うファルマに頷き返して、私は前を見据えた。
まさに天の助けのこの機会を失うわけにはいかない。
絶対にここを脱出して、生きてフラムアークに会うんだ……!
強い決意を胸に階段を上った先には、おそろいの軽装備を身に着けたアマンダの仲間とおぼしき人が何人かいて、私達に逃げる方向を指示してくれた。
さっき聞いた通りどこかで火の手が上がっているらしく、辺りにはきな臭い匂いが立ち込めていて、あちらこちらで“比類なき双剣(アンパラレルドゥ・デュアル・ウィールド)”のメンバーらしき人々と犯罪組織の構成員とが戦闘を繰り広げている。
「! 商品が逃げたぞ!」
「例の兎耳族だ! 逃がすな!」
近くで交戦中の犯罪組織の男達が私達を見つけて口々に叫ぶ。けれどアマンダが開け放った牢から次々と逃げ出してきた人達が私達の後ろから続々と合流すると、その中に紛れた私達を視認することは困難になったようだった。
地下牢に囚われていたのは主に亜人の女性と子供だったけれど、地上階に囚われていた人間の女性と子供も解放されたらしく、上から下から逃げてきたたくさんの人達が入り乱れて、辺りは大混乱となった。
商品を逃がすまいとする犯罪組織の男達から“比類なき双剣(アンパラレルドゥ・デュアル・ウィールド)”のメンバーは盾となって私達を守り、逃走経路を確保してくれた。
私はファルマとはぐれないように彼女に手を引いてもらいながら必死に走っていたけれど、完調に程遠い身体はいくらも行かないうちに悲鳴を上げ始め、建物の外に出る頃には既に限界が近かった。
負傷部位が痛くて熱くて、息が切れて、目の前がぐらぐらしてくる。
何度も足がもつれかけ、その度にファルマに助けてもらって、気が付けば人の波から取りこぼされるように、だいぶ後ろの方を走っていた。
「まだ頑張れる、ユーファ!?」
「―――っ、はい……!」
動いて、私の身体……! しばらく走れなくなってもいい、逃げ切るまでどうか持って……!
歯を食いしばったその時、後ろから迫ってくる大勢の足音に気が付いて、振り返った私はそこに手勢を率いて追いかけてくるフランコの姿を見つけて青ざめた。
「いたぞ、兎耳族だ! 捕えろ!」
恐ろしい形相で号令をかけるフランコに対し、それに気付いた“比類なき双剣(アンパラレルドゥ・デュアル・ウィールド)”のメンバーが数人、私達を助けようとその前に立ちはだかった。
「陣形展開! 被害者達を守れ!」
「ゴミ共が、どけぇッ!」
すぐ後方で激しい戦闘が始まり、私は激痛を訴える足を必死で動かして夜の闇をファルマと共に走った。
全身が痛い。呼吸をする度、微かな血の味がして、地を蹴る度、身体中がバラバラになってしまいそうな痛みに苛まれる。
苦しい、息が継げない……! 身体中が悲鳴を上げている……!
けれど、肌に感じるかつてない危機感が、胸にある使命感が、焦燥感が、限界を訴える身体を動かし続け、それによって生じる痛みが、ともすると遠のきそうになる意識を繋ぎ止め、満身創痍の私を走らせ続ける。
「逃がさんぞ……!」
決死の思いで逃避を図る私を逃すまいとする怒りに満ちた声が背後から耳に届いて、恐ろしさに喉がヒュッ、と竦み上がった。
“比類なき双剣(アンパラレルドゥ・デュアル・ウィールド)”のメンバーを力づくで突破したフランコ達が憤怒の形相で、私達のすぐ後ろまで迫ってきている。
―――ダメ! このままでは捕まる……!
瞬間的にそう判断した私は、繋いでいたファルマの手を振りほどいた。
「! ユーファ!?」
「後を頼みます、ファルマ……!」
目を見開く彼女にそう言い残して、私は彼女とは違う方向へと駆け出した。
「く……っ! 死ぬなよ、ユーファ!」
やりきれなさを滲ませながら再び走り出したファルマからなるべく距離を取る為に、私はボロボロの身体に鞭打って、懸命に駆けた。
フランコ達は絶対に私の方を追ってくる、一分でも一秒でも時間を稼いで、なるべくファルマを遠くへ逃がさないと……!
大丈夫よユーファ、最悪でも多分殺されることはない! 奴らは希少な商品を高く売りたがっているんだから……!
そう自分を鼓舞して込み上げてくる恐怖と戦いながら、力の限り駆ける。駆ける。
一歩でも遠くへ……!
「そんな身体で逃げ切れると思ってるのか!」
必死の思いとは裏腹に先程よりずっと近くでフランコの声が聞こえて、荒い息遣いさえ伝わってくる絶望的な距離感に背筋を凍らせたその時、馬のいななきと共に巨大な騎影が私達の間に割り入った。
「―――!?」
振り仰いだ私の目に映ったのは、立派な馬に騎乗した大柄な壮年の騎士の姿だった。金属製の甲冑を着込み、月明りでわずかに見えるその無骨な横顔には古い傷痕が幾筋も走っている。
「行け」
目だけ動かして私を促し、フランコらに向き直ったその後ろ姿は威風堂々としていた。
―――もしかして……カルロ……!?
直感的にそう思ったけれど、確認している暇はない。
「ありがとうございます……!」
彼の邪魔になってもいけない。今は、一刻も早くこの場を離れなくては。出来るだけ遠くへ逃げなければ……!
再び駆け出した私の後ろで、馬上の騎士が確認の口上を取る声が聞こえた。
「貴様がここの責任者フランコだな」
「……! そのいで立ち……お前がこの襲撃の主犯か。どこの回し者だ? こんな真似をして、生きて帰れると思うなよ!」
「笑止! それはこちらの台詞だ、外道め!」
背後で騎士とフランコ達の戦闘が始まった。
私は闇夜を駆けながら、気力だけで持たせている肉体の限界を感じて、荒い呼吸を繰り返しながら、どこか身を隠せるところはないか辺りに視線を走らせた。
さすがにもう身体が持たない。一度、どこかに潜んで休まないと……!
その時だった。
「―――!」
横合いから突然強烈な体当たりを受けて、不意を突かれた私は勢いよく弾き飛ばされ、横滑りするようにして派手に地面を転がってしまったのだ。
「……っ!」
痛みに顔をしかめながら首をもたげると、そこに見覚えのある一人の男が立っていて、その顔を見た私は、頭から血の気が引いていくのを覚えた。
……あ。
そこにいたのは、私を牢に運んだ男―――あの男が肩で大きく息をつきながら、獣のようにギラついた目で私を見下ろしていたのだ。
忌まわしい記憶が脳裏に甦り、自然と身体が強張る。そのおぞましい予感を肯定するように、目の前で黄色い歯並びの悪い口が笑みの形に裂けた。
「……っ!」
言い知れない悪寒が全身を駆け抜ける。反射的に後退(あとずさ)った私に大股で歩み寄ったその男は、私の兎耳を無造作に掴むと、そのまま乱暴に引きずるようにして歩き出した。
耳の付け根に鋭い痛みが走り、ビキッ、と筋線維が千切れてしまいそうな音を立てて、私は痛みと恐怖に声を引きつらせながら抵抗した。
「痛ッ……! やめっ……、離して!!」
「へへ……隠れるトコ、探してたんだろぉ? 連れてってやるよ……」
男は私の意思を無視して、樹木の生い茂る手近な木陰へと引きずっていく。
そこに連れ込まれたら何が始まるのか―――容易に想像出来て、言葉にならない屈辱感と絶望感に襲われる。私は必死にもがいたけれど、男の力は強く、為(な)す術もなく樹木の陰へと引きずり込まれてしまった。
「いやぁ! やめて……離して!」
「ひひっ、暴れんじゃねぇよ……お互いにちょっと愉しむだけさ、なぁ……?」
「いやぁッ!」
生温い息が首筋にかかり、野太い腕がやすやすと私を羽交い絞めにして、乱暴に草むらの上に抑えつけた。体重をかけてのし掛かられ、痛みと息苦しさで視界がくらむ。
「っ、あ……!」
息が、出来なっ……!
「へへ……へへ……柔らけぇなぁ……!」
男は興奮して舌なめずりしながら、無遠慮に私の身体をまさぐった。
太腿までめくれ上がった簡素なワンピースタイプの寝間着はまるで男の手を阻む役目をなさず、汗ばんだいかがわしい手がベタベタと太腿を這いまわり、欲望のまま乱暴に下着を引き下ろそうとする。
―――イヤ!!
無我夢中で暴れた拍子に、膝で男の股間を蹴り上げる格好になった。
「ぅぐッ!」
たまらず動きの止まった男の下から必死で脱け出そうとするも、髪を乱暴に掴まれて引き戻され、地面にめり込みそうな勢いで押し付けられる。
「あぅッ!」
「ってぇな……! 使い物にならなくなったらどうしてくれんだ、コラ……!」
男は血走った目を向けながら力任せに私の胸を掴み、服の上から乱暴に揉みしだいた。
「痛っ……ぁ……!」
苦痛に顔を歪める私を見て興奮したらしく、男は鼻息荒く寝間着の胸元に手を掛けると、強引に布地を引き裂いた。
「……!」
肌が夜の空気に触れ、涙で滲む視界に、歪んだ欲望に満ちた男の顔と、その上で夜空に向かって伸びる木々の梢とが無情に映った。
―――フラムアーク!
力づくで蹂躙しようとする暴力を前に抗い切れない、悔しいくらい無力な自分を痛感しながら、私は絶望の中、愛しい男(ひと)を想いながら絶叫した。
「いやあぁぁぁ―――ッ!」
その、刹那!
ズシュッ。
肉を貫く生々しい音と共に身体に生温かい何かがかかり、目の前で私を凌辱しようとしていた男の顔が壮絶に歪んだ。
直後、男の口からくぐもった呻きと共に血反吐が溢れて、私は何が起こったのか理解出来ないまま、ただただ震えながら喘ぐような呼吸を繰り返した。
その私の上に重心を失った男の身体がもたれかかるように倒れ込んできて、その背に深々と長剣が突き刺さっているのを見た私は、呼吸を止めた。
息を飲んで凝視する私の視線の先で、男の身体から血で濡れそぼる長剣がゆっくりと引き抜かれ、その持ち主を目で追った私は、そこに黒っぽいフード付きの外套を目深に被った人物を見出し、衝撃に身体を震わせた。
黒いフードの奥に潜む、一対の冷ややかなアイスブルーの眼差し―――月明かりの下、おぼろげに見えるその輪郭に、見覚えがあった。
―――グリファス……!
間違いない。第三皇子フェルナンドの側近で、昨年カルロ達を利用してフラムアークを陥れようとしていた中心人物。
直接言葉を交わしたことはないけれど、宮廷内で何度かその姿を見かけたことがあった。
彼が、どうしてここに……!?
大きく動揺する私の前で、私の顔を確認したグリファスの口から独り言のような呟きが漏れた。
「この目で見るまではよもや……と思ったが。あそこから転落して、まさか生きていようとはな……」
彼が自分を助けてくれたのか、はたまたそうではないのか、その目的が定かでない私は息を詰めて彼の動向を見守った。
「奇跡的に一命を取り留めていた兎耳の宮廷薬師は、不運にも誘拐された先で深夜の大規模な襲撃に巻き込まれ、その最中、犯罪組織の男に暴行され落命した―――誠に残念な結果だ」
「―――!」
グリファスの明確な意志を悟って、心臓が一回、鼓動を飛ばした。
血塗られた剣を無造作に振って血糊を飛ばし、足早に近付いてくる暗殺者から私は距離を取ろうとしたけれど、上にのし掛かったままの男の遺体が重くて、そこからなかなか身体を引き抜くことが出来ない。
そうこうしているうちに距離を詰められ、有無を言わせず左手で口を塞がれると、万力のような力で地面に縫い付けられた。
動きに一切の無駄がない、まるでためらいのないアイスブルーの双眸と頭上で冷たく光る白刃に、かつてない戦慄が全身を貫く。
―――殺される!
その瞬間フラムアークの姿が脳裏をよぎって、もう一度彼に会いたいという想いが爆発した。強い祈りにも似たその願いは恐怖で凝り固まっていた私の身体の強張りを解き、決死の抵抗をもたらした。
「―――っ!」
私に手酷く噛みつかれ、口を塞いでいた手をわずかに浮かせたグリファスに、私は手探りで握り込んでいたものを遮二無二振り回した。それは、私を襲った男が所持していた短剣だった。
「!」
グリファスの左手の袖口がスパッと切れ、その下から彼の肌と身に着けているブレスレットが覗いた。
―――え……!?
それを目にした瞬間、私は強烈な違和感に襲われた。
彼が身に着けたブレスレットに、何故か見覚えがあったからだ。
―――いつ……どこで―――? そうだ、あれは確か―――……。
おぼろげな映像が線を結び、記憶の中のある光景とそのブレスレットとが、結びつく。
―――!
私は大きく目を見開いた。
あれは―――あれは確か、レムリアが種の保存に関する罪に問われて投獄され、彼女のいない保護宮の自室へと私が一人戻った時のことだった。
小さなテーブルの上に装飾用の石と作りかけのブレスレットが置かれたままになっていて、それを彼女がバルトロの為に作っている贈り物なのだと思った私は、とても切ない気持ちになった―――もうすぐだと言っていた彼の誕生日に贈る為に、彼女が心を込めて作っていたものなのだと、そう思って。
けれど―――思い返してみれば、あれからバルトロがあのブレスレットを身に着けているところを一度も見たことがなかった。
色々なことが重なった時期だったから、私自身今の今までそのことを失念していて、それを不自然に感じることもなかった。
そして今―――それとよく似たブレスレットを、目の前のグリファスが身に着けている。
その意味は。
思いも寄らなかった可能性に愕然とする私の前で、グリファスは袖を斬られた左手を素早く手刀に変えると、私の手から短剣を叩き落とした。
―――あ!
瞬時に状況は逆戻りし、私は再び彼の左手によって抑え込まれてしまう。
「離してっ……!」
―――イヤだ、死ねない! 死にたくない!!
私は必死にもがいた。
もう一度会いたいの―――あの人に会って伝えなければいけないことがあるの!!
口を塞がれる寸前、私はひと目会いたいと願う人の名を全身全霊で叫んでいた。
「フラムアーク―――ッ!」
様、と敬称がくぐもった叫びに代わる中、涙に濡れた視線の先で、無慈悲な輝きを放つ白刃が今まさに振り下ろされようとしていた。