「もっ、申し訳ありません、フラムアーク様……私のせいで……私のせいでユーファがっ……!」
泣きじゃくりながらそう詫びるレムリアはひどく憔悴した様子で、真っ赤に泣き腫らした目元が傍目にも痛々しかった。
「君のせいじゃない。悪いのは兵士に扮したその賊だ」
そう答えるフラムアークにレムリアはやりきれなさを滲ませてうなだれる。
「でも……でもっ……あの男が言っていたことは、ほ、本当のことだったんですよね……? バ、バルトロが……バルトロがフラムアーク様を裏切った事実に、変わりはなくっ……」
「確かに、彼は一度はオレを裏切った。それは事実だ。だが、それには止むに止まれぬ事情があったんだ。調査中だから詳しくは話せないが、バルトロは最後はオレを守って死んだんだよ。彼が死んだのはオレをかばったせいなんだ―――すまない……」
沈痛な面持ちで深々と頭を下げるフラムアークを前に、レムリアは泣き腫らした目を見開いた。
「えっ……?」
「バルトロから君宛に最後の言伝を預かった。『レムリア、愛している』。それがバルトロの最期の言葉だった。彼は最期まで君のことを案じながら逝ったよ」
レムリアの大きなトルマリン色の瞳に新たな涙がみるみる溢れて、こぼれ落ちる。
「う、うぐぅぅっ……バルトロ、バルトロぉぉっ……!」
胸が詰まるような時間が流れる。レムリアの嗚咽が響く中、フラムアークは唇を結んで、その姿をじっと己の目に焼きつけるようにした。
レムリアからは結局、賊の手掛かりとなるような新たな情報を得ることは出来なかった。
賊について分かっているのは中肉中背の三十代後半〜四十代半ばくらいの人間の男だったということだけ―――まだ暗い時間帯だったことやレムリア自身が普通の精神状態でなかったこともあり、顔の造作や瞳の色、髪の色といった記憶は曖昧だという。これでは犯人像を絞り込むことなど出来はしない。
バルトロの件を全力で調査することを約束する傍ら、何か思い出したことがあったら教えてほしいと言い置いて、フラムアーク達は彼女の元を後にし、ユーファが転落したという現場へと向かった。
古い建物が立ち並ぶ旧地区の隙間のようなこの場所へ足を運ぶのは、彼らにとっても初めてのことだった。
雨のぬかるみが残る花壇を踏み越えて、朽ちた柵から覗いた崖の深さに、フラムアークは眩暈を覚えた。
深い口を開けた断崖の底は昼間でも薄暗く、深淵を這うような形で流れる川がかろうじて見える程度だ。切り立った急斜面を見渡す限り足場になりそうな岩棚はなく、手掛かりになるような突起や樹木もこれといって見当たらない。
崖の下にはユーファを捜索中らしい兵士達が岩場の隙間や川の周辺を捜索している様子が見受けられた。
「ここから―――……」
そう呟いたきり絶句するフラムアークの傍らで、スレンツェも息を詰める。だが彼は即座に自分を取り戻し、衝撃に飲み込まれているフラムアークとエレオラに声をかけた。
「オレ達も捜索に加わろう。一刻も早くユーファを見つけてやらなければ」
「……! あ、ああ。そうだな。その通りだ……」
青ざめたまま茫然と崖下の光景に見入っていたフラムアークは、その言葉で我に返った。
「そうですね。日が落ちるまでまだ時間はあります。急ぎましょう」
同じく衝撃から立ち戻ったエレオラと頷き合って、三人は崖の下へ通じる道へと駆け出した。
「さっき上から見た感じでは捜索隊の動きは転落現場から川下へと移っているように見えた。まだユーファが発見されていないなら、少なくとも崖下の岩場に叩きつけられて死んではいないということだ。川に落ちているなら、まだ望みはある。だが、無傷というわけにはいかないだろうから、なるべく早く見つけ出して処置してやらなければ」
走りながらそう口にするスレンツェは、自身にそう言い聞かせているようにも聞こえた。
それに頷き返しながら、フラムアークは先程の自分の有様を顧みて反省していた。
スレンツェはさすがだ。
それに比べて自分はどうだ―――想像以上に深く険しい現場の光景を目の当たりにして、情けないことに思考が静止してしまっていた。
スレンツェの言う通り生存の可能性はゼロではないのに、あの光景を目にした瞬間、途方もない絶望感に押し潰されそうになってしまっていたのだ。
そんなことでどうする―――!
ぎり、と頬骨に力を込めて、フラムアークは不甲斐ない自分を叱咤した。
今この瞬間、ユーファはギリギリのところで助けを待っているかもしれないのに。
勝手に最悪の可能性を考えて、打ちのめされている場合じゃないだろう……!
余計なことは考えずに今は動け! 悔やむことは後からだって出来る、今は自分が出来る最善を尽くすんだ!
心の中でそう発破をかけながら捜索隊の元にたどり着いたフラムアークは、現場の責任者から崖下の岩場で発見されたというナイフの刀身を受け取り、変わり果てたその姿に胸を痛めた。
ユーファ……。
何度も岩壁に突き立てようとした為だろうか、ナイフの先端は欠け、刃こぼれして、『フラムアーク』と刻印された名の後半部分、刀身のほぼ根元の辺りから折れている。
ユーファが最後まで諦めず、生きようと必死に足掻いていたことがそこから感じ取れて、フラムアークは伏し目がちに唇を引き結んだ。
このナイフの加護がわずかでも君にあったのだと、そう信じたい。
どこにいても必ず君を見つけ出すから。だからユーファ、どうかその時まで無事でいてくれ―――。
折れたナイフを手にそう祈るフラムアークの傍らで、スレンツェもまた、やるせない想いを胸に愛する女性(ひと)の無事を祈っていた―――。
*
ユーファの捜索隊が組まれて、早三日。
今朝も早くから捜索隊と共に彼女を探しに向かう第四皇子一行の姿を見送る第三皇子フェルナンドの陣営からは、心無い声が囁かれた。
「またか……あの高さから落ちて、最早生きてはいまいに。死体の捜索など兵に任せておけば良いものを……」
「まったくだ。彼奴等(きゃつら)が捜索にかまける分、こちらの仕事が増えてかなわん。甚だ迷惑だ」
「古くからの側近とはいえ、平民出でしかも亜人の一薬師に対し、皇子自らが捜索に加わるなど……兵の方も動員をかけ過ぎなのではないか?」
「仰る通り。人員と税金と時間の無駄遣いですな」
そんなやり取りをひとつ上の階のバルコニーで耳にした狼犬族の女剣士ラウルは、盛大に眉をひそめて毒づいた。
「胸糞悪ぅ……! これまでさんざん第四皇子側(あっち)に雑用まがいの仕事を押し付けてきといて、よく言うよ。あの連中はこんな時に他人(ひと)の痛みを慮(おもんばか)ってやることも出来ないワケ?」
「政敵相手にそんな情など、持ち合わせてはいないんだろうよ」
憤るラウルに平坦な声を返したのは彼女の主、第五皇子のエドゥアルトだ。ラウルは鼻の頭にしわを寄せてそんな主に言い募った。
「政敵だろうが何だろうが、言っていいことと悪いことがあるじゃないですか。私はああいうの、非常にいけ好かないんです」
「お前はそうだろうな」
流すように肯定しながら、エドゥアルトのトパーズの瞳は臣下達から離れたところでフラムアークの背中を見送るフェルナンドの姿を捉えていた。
そのエドゥアルトの視線を感じたのか、振り返ったフェルナンドの目線がふとこちらへ流れてきて、互いの目が合った。すると涼やかな微笑を浮かべたフェルナンドは片手を上げ、エドゥアルトに声をかけてきたのだ。
「エドゥアルト。良かったら少しこれから話さないか」
うげぇ、と声には出さないまでも、そういう気配を醸し出すラウルをさり気なくフェルナンドの視界から遮るように身体を動かしながら、エドゥアルトはにこやかな声を返した。
「構わないよ。少しの間でいいのなら」
*
ラウルを下がらせ、皇宮の内庭に場所を移した兄弟は、木陰の下で久々に水入らずの対面を果たした。
「お前の護衛は相変わらず私を毛嫌いしているようだな」
開口一番兄からそう告げられたエドゥアルトは、やはり隠し切れなかったか、と諦念混じりに臣下の無作法をこう詫びた。
「獣は相手の強さに敏感だからね。あいつの野生の勘が兄上に対して警鐘を鳴らすんだろうな。失礼な態度を取ったことは申し訳なかった」
「単純な強さならば、比べるべくもなく彼女の方が上を行くと思うのだがな」
ラウルの武勇をそう評する兄に肯定の意を示しながら、エドゥアルトはそつなく敬意を払うことを忘れなかった。
「単純な武ならばね。複合的な強さなら兄上が圧倒するよ」
「ふ……どうかな? それを言うなら、お前も近しいものがあると思うが」
「そう評価してくれるのは光栄と素直に受け取っておこうかな」
「そうしておくといい。父上とてお前を認めているから、独立遊隊なるものを作りお前にその長を任せたのだろう」
昨年エドゥアルトが二十歳を迎えたのを機に、皇帝グレゴリオは帝国軍とは指揮系統の異なる独立遊隊なるものを発足させ、その指揮権限を持つ隊長にエドゥアルトを任命していた。
独立遊隊は機動力を重視した三百人の精鋭からなる部隊で、決まった任務に就かず、有事の際は皇帝に権限を委譲された隊長によってあらゆる問題に迅速に対処することが認められた独立機関だ。他機関とは一線を画す強い権限を与えられた一方、抑止の為に隊の人数は軍隊に及ばない三百人と定められ、隊長には厳しい責任が課されている。
「お前は以前から皇帝の座に興味がないと公言しているが、それは今も変わりはないのか」
単刀直入に尋ねてくるフェルナンドへエドゥアルトは即答した。
「ないね。兄上達が共倒れにでもなったら、その限りではないだろうけど」
「お前の言う“兄上達”とは?」
発言の内実を質(ただ)されたエドゥアルトは、躊躇なく答えた。
「もちろん貴方とフラムアークだよ。他にいないでしょ? 貴方達が倒れて、他に適任者が見当たらなければ僕が就くしかないかなぁとは思う。もちろん、なるべくそうなってほしくはないけどね」
「相変わらず食えない奴だ」
フェルナンドはくっ、と口角を上げて四つ年の離れた弟を見やった。
「現状、お前は私とフラムアーク、どちらを上と見る?」
「それは総合的に見たら兄上の方でしょ。決定権を持つ父上の対応を見ててもそうだし―――誰に聞いてもそう答えると思うけど」
「はぐらかすな、エドゥアルト。私はそういった上辺の見解を求めているのではなく、お前自身の意見を聞いているんだ。分かっているだろう?」
「……」
「エドゥアルト、お前は私とフラムアーク、どちらの下(もと)に付きたいと考えている?」
穏やかながら言い逃れを許さない口調。
だが、エドゥアルトは悠然と笑んで、飄々(ひょうひょう)と自身を貫いた。
「……それは、僕をより楽にしてくれる方だよ。今と同じ生活レベルで、なるべく面倒くさいことに関わらず、悠々自適に過ごしたい―――それが一貫した僕の望みだからね。それを叶えてくれる方を僕は選ぶよ」
あくまで元来のスタンスを崩さない弟に、フェルナンドは怒るでも失望するでもなく、納得の意を示した。
「ふぅん……そこはどうあっても揺らがないのだな、お前は」
「それが僕の根っこだからね。逆に兄上が僕をどうしたいと思っているのか、こちらとしてはそこを聞いておきたいな。自分で言うのもアレだけど、僕は決して扱いやすいタイプじゃないし、今は特殊な権限を持った立場に就いている。兄上としては色々決めかねている部分もあるんじゃない?」
軽い調子ながら、真っ向からこちらの真意を質し、返答如何によっては牙を剥く可能性も示唆してくる弟に、相手を値踏みするつもりが逆に値踏みされる形になったフェルナンドはうっすら笑みをこぼした。
「私はお前の持つ機知と剣の才覚を高く評価している。私が皇帝の座に就いた暁には、お前を長とした独立遊隊を一万人の規模まで拡大して、独立遊軍として配したいという心積もりだ。お前には私の剣として共に帝国の繁栄を支えてもらいたいと、そう考えている」
「へえ……」
それを聞いたエドゥアルトは悪戯っぽく目を輝かせた。
「でも、そんな規模にまで拡大しちゃって大丈夫? 下手したら僕の独断で戦争を始めることも出来るようになっちゃうけど」
「無論その際には要綱を精査する。だが、悠々自適の暮らしを望むお前にはその心配は無用だろう」
「はは。確かにそうか。そこを信頼してくれるのは嬉しいかな」
エドゥアルトが声を立てて笑ったところへハンスがやってきて、二人に折り目正しく一礼した。
「歓談中失礼致します。エドゥアルト様、出立のお時間が迫っております。そろそろお支度なさりませんと……」
「ああ、分かった。今行く」
「独立遊隊の仕事か?」
そう尋ねるフェルナンドにエドゥアルトは気怠そうに頷いた。
「そ。最近問題になってる例の案件に担ぎ出されてるんだよね」
「ああ……あの懸案事項だな。女子供がかどわかされているという―――早急に解決すればいいが……気を付けて行って来てくれ」
「ありがとう。短い時間だったけど有意義な話が出来て良かったよ」
にこやかにそう締めくくり、ハンスを伴って庭園を後にしたエドゥアルトは、今ほどのフェルナンドとのやり取りを反芻(はんすう)し小さく息を吐き出した。
腹に一物も二物も持った者同士の化かし合いはどうにも肩が凝ってかなわない。
―――「私の剣として」ねぇ……。
どこまで本気か怪しいが、先程と同じ問いをもう一人の兄―――フラムアークに投げかけたならば、どんな答えが返ってきていただろうか?
「……」
夏の空を見上げながらふとそんなことを考えて、エドゥアルトは心の中で小さく首を振った。
考えても詮無きことか―――今はそれどころでなさそうだしな。
何者かに悪意をもって片翼をへし折られたあの男は再起不能に陥るのか、それとも奮起して立ち向かうのか―――……さて、僕自身はどうするか。
エドゥアルトは己の進む道を見定める時が迫っているのを感じながら、今日も強くなりそうな夏の日差しに目を細めた。