その報せを耳にした時、第十三地区駐屯所の一室で昨夜の事後処理の指揮に当たっていたフラムアークは、息の根が止まるほどの衝撃を受け、絶句した。
居合わせたスレンツェとエレオラも色を失くし、宮廷からの急使を見つめている。
「詳しい状況は調査中ですが、未明に伝令の兵士を装った何者かが保護宮のユーファ殿の元を訪れ、此度(こたび)のフラムアーク様の暗殺未遂事件と被疑者の死亡を伝えた模様です。その際、そこに居合わせた被疑者の恋人レムリアが被疑者の死を知ってしまい、ショックから発作的に部屋を飛び出した彼女を追って出たユーファ殿が旧地区の廃材置き場にて崖から飛び降り自殺を図ろうとした彼女を止めようとした際、誤って崖下へ転落したという顛末(てんまつ)のようでして―――現在兵を動員して崖周辺の捜索に当たっていますが、強い雨が降り出したこともあり、今のところユーファ殿の発見には至っておりません。現場は切り立った深い崖となっておりまして、その、発見されたとしても、生存している可能性は限りなく低いかと―――」
終盤言葉を選びながらの報告となった使者の声は、耳の奥で大きくなっていく心臓の音に邪魔されて、よく聞き取ることが出来なかった。
ユーファ―――……。
全身の血が凍りついていくかのような錯覚に囚われながら、フラムアークは自身から感情を切り離すように努め、表面上はあくまで冷静であるように振る舞った。
「―――……そうか。その伝令の兵士に扮した賊の行方は? 目撃情報はあるのか?」
「衛兵達による目撃情報はなく、その後の足跡(そくせき)も現時点では不明です。時間帯が時間帯ですので、他の兎耳族や宮廷勤めの者達による目撃情報も今のところはなく―――現状は被疑者の恋人、レムリアによる証言のみです」
「レムリアは、無事なんだな?」
「はい。彼女が衛兵に事の次第を伝え、助けを求めたことで此度の件が発覚しました」
「彼女に証言を聞くことは可能だろうか?」
「フラムアーク様の求めであれば、可能かと。一時はひどく取り乱し、精神的に不安定だったようですが……」
ああいう理由で恋人が死に、目の前で自分をかばおうとした親友が崖下へ転落したとあっては、無理もないだろう。
今頃はきっと罪の意識に打ち震え、地獄のような精神状態にある。
「発作的にいつまた自殺を図らないとも限らない。彼女は唯一の目撃者でもあるわけだから、絶対にそういうことにならないよう、くれぐれも監視の目を怠らぬようにと責任者に伝えてくれ」
「かしこまりました」
急使の退出後、緩慢な動作で額に手を当てがったフラムアークは、動悸の治まらない胸を意識しながら、ともすると思考が停止しそうになる頭を意志の力で働かせた。
厳しい警備体制の敷かれている宮廷内へ外部から潜入し、数いる衛兵の目を全てかいくぐってユーファの元へたどり着くなど、そうそう出来ることではない。あまつさえ目的を達成して、誰の目に止まることも怪しまれることもなく宮廷を後にすることなど―――。
普通に考えたら、不可能だ。
賊は宮廷内から現れて宮廷内に消えた―――そう考えるのが自然だ。
フラムアークが本当の伝令を宮廷へ送ったのは今朝方である。にもかかわらず偽物は半日近くも前にその情報を宮廷へと持ち込んでいた。つまり、暗殺未遂の事後直後から敵は次の一手に動き出していたことになる。
おそらく、暗殺未遂事件自体がフラムアークを足止めする為の陽動だった。バルトロの背後にいた人物の真の狙いは、最初からユーファだったのだ!
「クソッ!」
フラムアークはやり場のない憤りを拳に乗せて、壁に叩きつけた。別室にいる兵士達が竦み上がるような音が上がり、陥没した壁から破片がパラパラと床に落ちる。
「落ち着け、フラムアーク。気持ちは分かるが、冷静さを失うな。それこそ向こうの思う壺だ」
スレンツェがそう言って拳を壁に叩きつけままの彼の肩に手を置いた。振り返ったフラムアークはそんな彼のもう一方の手が色が白くなるほど握りしめられているのを見取り、奥歯を噛みしめる。
「スレンツェ……」
スレンツェとて同じ気持ちだ。分かっている。
分かっているのだ。今、こんなふうに嘆いている場合ではないということも。
静かに歩み寄ったエレオラが赤くなったフラムアークの拳を取って、労わるようにその状態を確かめた。
「折れたりひびが入ったりはしていないようです。大切な御身です、ご自愛下さい」
「……すまない、そうだな。ユーファを助けに行かなければならないのに、自分で自分を痛めつけて、無意味な怪我を負っている場合じゃないよな。こんなことをしたって何の解決にもならないのに」
苦い光を瞳に湛えて反省の弁を述べたフラムアークは、一度瞼を閉じ、自らを落ち着けるように深呼吸した。次に目を開けた時、彼の橙味を帯びたインペリアルトパーズの瞳にはいつもの輝きが戻ってきていた。
「宮廷へ戻ろう。ユーファを助けに行かなければ―――レムリアから直接話を聞き、賊に関する情報を精査して必ず全容を明らかにする!」
今はあえてユーファの安否に触れることは避けた。必ず生きていると、そう信じて行動する。
そうでなければ膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
スレンツェとエレオラと顔を見合わせて頷き合い、己の心を奮い立たせて、フラムアークは急ぎ出立の準備を整えた。衣服の上から胸元の香袋を握りしめて、強く、強く念じる。
―――どうか、無事でいてくれ。
どこにいても、必ず見つけ出してみせるから。だからどうか、それまで絶対に生きて待っていてくれ。
ユーファ……!
彼女の無事を切に願いながら、フラムアーク達は祈るような気持ちで駐屯所を後にしたのだ―――。
*
耳に触れるのはせせらぎの音―――打ちつける雨足の声―――。
肌を叩くような雨粒の刺激に意識を呼び戻された私は、うっすらと瞼を開けた。
かすんだ視界に、河原の石と、それを打ち据える勢いで降りしきる雨が映る。線状のその向こうには濡れそぼった樹木が鬱蒼と続いている様子が見えた。
―――ここ、は……? 私……?
薄く瞬きして、のろのろと視線を動かす。
私はどうやらどこかの川岸に打ち上げられているみたいだった。上半身は陸地に上がっているけれど、腰から下はどうやら水に浸かったままのようだ。
私―――どうしてこんな所に……?
朦朧とした意識の中でレムリアに崖から突き落とされたことを思い出し、ハッと目を見開く。
そうだ―――私―――……!
起き上がろうとして全身に走った激痛に、私は短い呻きを上げて動きを止めた。
痛い。どこもかしこも、全身が悲鳴を上げて、とても起き上がれる状態になかった。
崖から落ちた後、その下を流れる川に運ばれて、いったいどれくらい流されたのか―――痛すぎて、もうどこが痛いのか判然としない身体の痛みが、これが紛れもなく現実の出来事なのだと伝えてくる。
悪い夢じゃ―――なかった……。現実だった……。
そう悟った私の瞳からは、とめどなく涙が溢れた。
レムリア……どうして―――?
私は、あなたのことを親友だと思っていたのに―――……。
あなたもそう思ってくれていると、そう、感じていたのに―――。
自分の心模様を映したような、鉛色の空から降り注ぐ土砂降りの雨に打たれながら、私は声もなく泣いた。
夢だったらよかったのに……全部、夢だったらよかったのに。
ひとしきり泣いた後、動くこともままならない私は、降りしきる雨を瞳に映しながら、次第に遠のいていく意識の片隅で自分の現状を考えた。
夏とはいえ、腰から下が水に浸かりっぱなしで降りしきる雨に打たれ続けた私の身体は、氷のように冷え切っている。
いけない……このままだと低体温症で―――……。
明滅しかける意識の中でそう考えるものの、いかんせん身体が言うことを聞かない。ケガをして冷え切った身体はろくに動かせないばかりか、このままでは間もなく思考の方も停止してしまいそうだった。
頑張って、足掻いて、どうにか転落死は免れたけど……でも、もう、限界かもしれない……。
……。フラムアーク―――……。
脳裏に思い描いた彼の姿に新たな涙が溢れて、束の間の温もりを冷え切った頬に伝えていく。
私……貴方に……会わ、ないと―――。
身体の芯から凍りつくような寒さでガタガタと震えながら、為(な)す術なく、涙で滲む視界が薄暗く狭まっていく。
そして、私の意識は一度完全に途切れてしまったのだ―――。
……。
…………。
それからどのくらい経ったのかは分からない。
ざわめく周りの気配に、途切れていた私の意識は微弱に呼び戻された。
ぼやけた視界に、地元の住民らしい慎ましい身なりをした女性が何人か集まって、私を真上から覗き込むようにしながら、あせった様子で何か言葉を交わしている様子が映る。
そこでまた意識が暗転して―――次に気が付いた時には、荷台のようなものに乗せてどこかへ運ばれている最中だった。黒雲が垂れこめた鉛色の空と木々の梢(こずえ)とを瞳に映しながら、私の意識は再び途切れた。
次に気が付いた時には質素な木造りの天井と梁が見えて、どうやら布団に寝かされているらしいことが分かった。
どこかの……民家……?
考えなければならないこともやらなければならないことも山程あるはずなのに、意識を保っていられない。身体も鉛のように重くて、深い闇の底へ吸い込まれるように落ちていっては、時々浮上して短い覚醒を繰り返すような、そんな状態を繰り返した。
そんな中、途切れ途切れ目覚める度、こちらの様子を気遣ってくれている一人の中年女性の姿が瞼に焼きついた。
この家の人……? 私を看病してくれているの……?
次に目を覚ました時、彼女はちょうど息せき切らせ、誰かの手を引くようにしてこちらへやってきたところだった。
―――あ……?
その人物を目にした私は、記憶の糸を刺激された。
彼女が連れてきたのは白衣を着た亜人の女性だった。理知的な顔立ちをして、羊耳の上方にくるんと丸まった一対の小振りな角がある。その目鼻立ちに見覚えがあった。
私を見た相手が目をいっぱいに見開いて、愕然とした面持ちで私の名を呼ぶのが分かった。
《ユーファ!?》
ファルマ―――ああ、ファルマだ。
モンペオで共にベリオラと戦った、羊角族の薬師の女性。
ずいぶんと久し振りだけど、変わらない―――元気そうで良かった。
《ファルマさん、お知り合い? 見つけた時、白い長衣(ローヴ)を着ていたからもしかしたらとは思ったけど―――》
家主の女性が私とファルマとを交互に見やりながら尋ねる。彼女達の会話は水の膜を通したようにくぐもって聞こえて、まだ意識がハッキリしない私はそれをおぼろげに耳にしていた。
《ああ、知り合いだ。この娘(こ)をどこで? エナさん、状況を説明してもらえる?》
《雨が落ち着いた後、近くの川に生活用水を汲みに行ったら、この人が半分水に浸かった状態で河原に倒れていて―――ひどいケガをしているもんだからビックリして、とりあえず人手を呼んで荷車に乗せてうちに連れてきたのよ。……そうそう、見つけた時、手にこんなものを握っていてね》
エナと呼ばれた女性から布にくるまれた何かを手渡されたファルマはそれを受け取って確認すると、微かに目を瞠ったようだった。
《……これは多分彼女の大事なものだから、エナさんから後で返してやってもらえる? もしくは身なりの整った金髪の優男が訪ねてきたら、彼に渡してもらってもいいけれど》
《え? 金髪の優男? この人の恋人か何かかい?》
目を丸くして身を乗り出してきたエナにファルマは軽く口角を上げてみせた。
《そういうんじゃないけど、この娘にとっての大事な相手》
それからファルマは私の状態をひと通り確かめると、テキパキと処置を始めた。
《……いったい何があったのさ。何があってこんなひどいことになってるワケ……回復したらちゃんと説明してもらうからね》
その言葉に声を返すことは出来なかったけれど、知り合いの顔を見て安心した私の意識は、再び眠りの底へと沈んでいった。
*
《キャーッ! ちょ、ちょっと誰!? 何をするの! だ、誰か―――ッ!!》
大きな物音と悲鳴にぼんやり意識の戻った私の目に映ったのは、民家に押し入ってきたとおぼしき男達と、私を背にかばうファルマの後ろ姿だった。
《何なのさ、あんた達! ここにいるのはケガ人だけで金目のものなんかないよ! 分かったらさっさと出ていきな!》
そう啖呵を切るファルマに男達はニヤニヤ笑いながら、品定めするような視線を送っている。
《おい、こいつだろ? この辺りを回っているっていう羊角族の女薬師。少々とうが立っているが、充分いい商品になる。……おいおい、それに見ろよ奴の後ろ―――あれ、オレの見間違いじゃねぇよな? 兎耳族だぜ……! しかも若い女だ!》
《こいつぁツイてる……! オレ達にもツキが回ってきたな》
《こいつらを連れて行けば、かなりの報酬を期待出来るぞ……!》
不穏な会話を交わしながら一攫千金とばかりにザワつく男達を蔑んだ目で見やったファルマは私をかばった。
《ち……! 強盗よりタチの悪い連中か……! この娘はあいにく、見ての通りひどいケガを負っているんだ。下手に動かしたら死ぬよ。連れて行くのは私だけにしておきな》
《そうはいかねぇ。オレらにとっちゃこれはまたとないチャンスなんだ。お前、薬師なんだろう? 一緒に連れて行くから、その兎耳族を絶対に死なせないようにしろよ》
《バカ言うな、彼女は重傷なんだ! 動かしたら命の保障はない!》
《オレ達にとっちゃ見逃すも途中で死ぬも変わらねぇ。一緒なんだよ。だったら連れてった方がいい》
《フザけるな! 人の命を何だと思ってる!!》
憤るファルマに男達は事もなげに言ってみせた。
《オレ達にとっちゃ日々の飯のタネさ》
《! クソが……!》
いけない、ファルマ―――ダメよ逃げて、せめてあなただけでも……!
心の中でそう叫ぶも、目の前で抵抗するファルマが男達に囚われてしまう。
《よせ、やめろ! ユーファに触れるな!!》
ファルマが必死にもがきながら叫ぶ中、無遠慮に伸びてきた男達の手に落ちた私は、激痛に苛まれて、そのまま意識を失ってしまったのだった。