十六年前、死火山だと思われていたガドナ山が突如噴火し、溶岩流が町を飲み込むその時までは―――……。
*
道端に野生する紫色の可憐な花を懐かしく目で追いながら、私は久々に故郷の土を踏んだ。
目の前に広がるのは、かつての兎耳族の町―――それを飲み込んだ溶岩質の土壌の上に芽吹いた一面の緑と、噴火で以前とは少し様相を変えたガドナ山が私達を見下ろしている。町の近くにあった大きな湖は溶岩流で埋め立てられ、二つの小さな湖へと変貌していた。
ああ―――……。
陽光を反射して煌めく水面を見つめながら、私は十六年振りの故郷の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
以前とは景色が変わってしまったけれど、ここはやっぱり私の故郷だ。昼夜の寒暖差が大きいこの地に自生する植物は帝都では見ないものだし、何より空気が違う。風景は変わってしまっても変わらない故郷の匂いは、遠い日の思い出をまるで昨日のことのように私に思い起こさせた。
「美しいところですね……ここがユーファさんの故郷―――」
ガーディアは初めてだというエレオラがそう言って、眩し気に瞳を細めながらゆっくりと周囲を見渡した。
「うん、本当に綺麗だね。何ていうか……空気が澄んでいる気がする」
「そうだな……緑の息吹が心地いい。夜は星空が良く見えそうだ」
フラムアークとスレンツェは以前領地視察でガーディアを訪れているけれど、その時は時間的な余裕がなかったこともあって、ここへ来ることは出来なかったと言っていた。
当時は同行することがかなわなかった私の為に、二人がラリビアの鉢植えをお土産に持ち帰ってくれたのは温かな思い出だ。
あれには本当に驚いたし、思わず泣いてしまうくらい嬉しかったっけ……。
私はその鉢植えをとても大切にしていたのだけれど、年に数回、健気で可愛い紫の花を咲かせてくれたラリビアは、去年その寿命を終えてしまったところだった。
鉢植えだから何年かに一度は土を入れ替えて土の栄養を補給してあげる必要があったのだけど、ガーディアのものと異なる帝都の土では合わなかったのかもしれない。
そのラリビアが咲き誇るこの地へこうしてまた戻ってこれたのは、フラムアークのおかげね……。
私は万感の思いに包まれながら、傍らで景色を眺めている彼の端整な顔を仰ぎ見た。
「ありがとうございます、フラムアーク様。あの時の約束を守ってくれて」
あの時、私に鉢植えを渡した当時十六歳の彼はこう言ってくれた。
『今はこれが精一杯だけれど―――いつか、一緒に見に行こう。ユーファの故郷へ、咲き誇るラリビアの花を見に』
そのわずか五年後にそれが現実のものになるなんて、あの当時は思いも寄らなかった―――……。
二十一歳の青年となったフラムアークはそんな私に微笑んで、感慨深げに言った。
「うん。約束が果たせてオレも嬉しいよ。何より、君と一緒に皆でこうしてここへ来れたこと―――君が生まれ育った故郷の風景を、こうして共有出来たことが嬉しい」
フラムアーク……。
「でも、ユーファは辛くはない? その……ここに至るまで考えが回っていなかったんだけど、君の記憶にある風景とこの風景は形を変えているんだよね……? オレ、君を故郷へ連れて行きたいって思いだけが先行していて、そこが抜けちゃっていたことに今更ながら気が付いて―――」
きまり悪げにそう言われたことに私は驚いた。
そんなことを心配してくれていたの?
「気になさらないで下さい、大丈夫ですよ。確かに風景は様変わりしていますけど、それ以上に望郷の思いが強かったんです。どんな形でもいい、もう一度ここへ来て生まれ育った故郷の空気を感じたかった。母達の眠るこの場所へ来て、鎮魂の祈りを捧げたかった―――。切ない記憶はもちろんありますけど、それ以上にここには温かな思い出がたくさんありますから。私にとってやっぱり特別でかけがえのない場所なんです」
私は胸にそっと手を当てて大切な思い出達を抱きしめた。
「ですから、変に気を回さないで下さい。ここへ来れたことには感謝しかありませんから」
そんな私にフラムアークは柔らかく目を細めた。
「そうか。なら良かった」
「ふふ。母達に花を手向けるの、付き合ってもらえますか?」
「もちろんだ」
フラムアーク同様、スレンツェもエレオラも大きく頷いてくれた。
「―――この辺りに私の家があったんです。幼い頃に父を亡くしてからは母と二人で暮らしていて……」
幾重にも重なった噴石と流れ込んだ溶岩流が固まって出来た土壌の上―――苔生す祭壇のようになった生家の跡地に、近くで摘んできたラリビアの花を手向け、私は十六年越しに母とこの地に眠る人々の冥福を祈ることが出来た。
膝を折って故郷の皆の冥福を祈る私の後ろで、フラムアーク達も鎮魂の祈りを捧げてくれている。その気配が優しくて心強くて、全てを失くし絶望に打ちひしがれていたあの頃の自分に教えてあげたいと思った。
辛いことも大変なこともたくさんあったけど、こうして自分の居場所を見つけることが出来て、今は生きていて良かったと思えるようになったのよ―――全身全霊をかけて支えたいと思える人、絶対に成し遂げたいと願う目標が出来て、分不相応な恋もしている。毎日忙しく、一生懸命生きているの―――。
「ユーファの母君はやはり薬師だったんだよね?」
フラムアークに尋ねられた私は頷いた。
「はい、そうです。薬師だった母は町の人達からの信頼も厚く、幼い私の誇りであり憧れでした。そんな母の背中を見て、私も自然と薬師の道を志したんです。普段は優しい母親でしたけど、仕事となると手厳しい師匠でした」
物心ついた頃から、家には毎日のように薬を求める人々が来ていた。患者さんが運び込まれてくることもしばしばだったし、一度だけ、母さんが怪我人を拾ってきてこともあったっけ。
無一文だったその人は治療のお礼にとしばらく住み込みで働いてくれて―――父さんが亡くなってからずっと母さんと二人きりだったから、その時は新鮮で楽しかったなぁ……。
ずっと思い出すことのなかった穏やかな過去の光景達が色鮮やかに脳裏に甦り、私の目元は自然と和らいだ。
「会ってみたかったな、ユーファの母君に。きっと人としても薬師としても素晴らしい人だったんだろうね」
「薬師としては未だに母には敵わないと思います。私にとってかけがえのない人でした……母もきっと、フラムアーク様に会ってみたかっただろうと思います」
そう言ってフラムアークを振り仰いだ私は、視界に入った彼の姿に何故か既視感を覚えて、呼吸を止めた。
―――え?
かがんだ体勢から見上げた長身のフラムアークの佇まいが、褪せた記憶のいつかどこか、誰かのものと重なったのだ。不明瞭に浮かび上がる記憶の断片が、フラムアークではない別の誰かの面影を彼の上に映し出す。
「ユーファ?」
フラムアークに声をかけられて、私はハッと我に返った。
「どうかした?」
「―――……すみません、急に何か……多分昔のことを思い出しかけて……」
「昔のこと?」
「はい、多分……自分でもよく分からないんですが、フラムアーク様を見た時にふと、誰かの面影のようなものが重なった気がして……」
「え? 知り合いに誰かオレに似た人でもいたの?」
「いえ、そんなことはないと思うんですが―――……」
こんなに目立つ容姿の人物が故郷にいた記憶はないし、パッと思い浮かばないけれど、全体的な雰囲気というか、背格好が似た人が誰かいたかしら―――?
「久々に帰郷して、色々と思い出すこともあるのかもしれませんね」
そう気遣うエレオラに私は曖昧に頷いた。
「そうね……ここへ来て、昔のことを色々思い返していたから……その中にふと何か重なるものがあったのかも……」
いったいあれが何だったのか、もどかしい思いはあるけれど、どこか懐かしい感じだったし、嫌な印象は受けなかった。大事なことならきっとそのうち思い出せるだろう。
「みんな―――忙しい中、こうして私の用事に付き合ってくれてありがとうございました」
改まって深々と頭を下げた私に、皆が歩み寄って温かな言葉をかけてくれた。
あの日―――突然のガドナ山の噴火という未曾有の災害の中、降り注ぐ噴石をかいくぐり、全てを焼き尽くしながら迫るマグマに怯えながら、着の身着のまま逃げ惑うことしか出来なかった私達は、噴火の犠牲となった大切な人達に何ら別れの言葉を告げられないまま、遺体を弔うことも鎮魂の祈りを捧げることも叶わないまま、混乱の只中に生まれ故郷を後にするしかなかった。
あれから十六年―――跡形もなくなったかつての町に墓標という墓標はなく、この地に埋もれて眠る人達をキチンと弔ってあげることは出来なかったけれど、これでようやく、自分の気持ちにひと区切りつけることが出来たような気がする。
母さん―――私、頑張るわ。ここにいる大切な仲間達と、自分が信じる道を精一杯生き抜いてみせる。
だから、どうか遠いところから父さんと一緒に見守っていてね―――。
*
その夜、私達は近くの町で宿を取り、明朝の帝都への出立に備えて、一階にある食堂で英気を養っていた。
ガーディアの代表的な料理が所狭しと並んだテーブルを囲み、景気づけにお酒も頼んで、怒涛の旅路の締めくくりとする。
「ごめんね、一日しか滞在出来なくて」
そう詫びるフラムアークに私は首を振った。
「いいえ、その一日を工面してくれたことがありがたいです。まさかこうして故郷へ立ち寄ることが出来るとは思っていませんでしたから……本当に感謝しているんですよ」
その気持ちが伝わるように、私は彼の瞳を見つめて言葉を紡いだ。
「今日は私にとって、特別でかけがえのない一日でした。今こうしてガーディアにいて、こうやってみんなでお酒を酌み交わしていること自体、何だか不思議で、夢みたいです。こんなこと、少し前は想像も出来ませんでしたから。この顔ぶれで今ここにこうしていられることが、私には言葉に出来ないくらい幸せなことなんです。しかも、こんなにたくさんの懐かしい料理の数々に囲まれて―――もう、本当に最高なんですよ!」
拳を握りしめてそう力説した私は、それを示すように揚げたてのガーディアクラブという蟹の唐揚げを頬張ってみせた。
「ん〜、懐かしい味……とっても美味しいです!」
この辺りの沢に生息する、脱皮したての甲羅まで柔らかい小振りな蟹を丸ごと揚げたその料理は、表面はカリッと、噛みしめるとジューシーな蟹肉の旨味が口いっぱいに広がって、たまらない香ばしさが鼻に抜ける。ほっぺたが落ちてしまいそうな表情で至福に浸る私を見て、フラムアークは整った顔をほころばせた。
「それは良かった、心ゆくまで食べてね。エレオラも遠慮しないでたくさん食べて。今夜は君の歓迎会も兼ねているんだからね。頑張らないとユーファに全部食べ尽くされちゃうよ」
「ありがとうございます、いただいています。ガーディアの郷土料理は初めてですが、どれもとても美味しいですね」
ふふ、と小さく肩を揺らすエレオラはさすが元貴族の令嬢だけあって、食べ方がとても上品だ。
彼女の所作に感心しながら、私は軽口を叩くフラムアークに頬を膨らませた。
「もう、フ―――いえ、アーク様ったら。いくら何でもそんなことしませんよ」
さすがにフラムアークという名前を大っぴらには出せないので、私達はアークという貴族の子息とその従者という体(てい)でこの宿に泊まっていた。
これまでは町の宿屋に泊まることはあっても、バルトロ達のような帯同者が一緒というのが常で、こんなふうに身内だけで泊まるということがなかったから、いかにもお忍びというこの状況は、年甲斐もなく私の心をワクワクさせた。
明日には帝都へ戻るんだもの、気を引き締めなければならないのは分かっているんだけど、湧き上がる高揚感を抑えるのがなかなかに難しい。
フラムアークも心なし上機嫌で、そんな彼の様子と身内の気兼ねのない空気に会話も気分もお酒も弾み、ついつい浮足立ってしまいそうになる。そんな私達の手綱を締めるのは、やっぱりしっかり者のスレンツェの役目だった。
「おい、くれぐれも開放的になり過ぎるなよ。アーク、お前はもうアルコールは打ち止めだ」
「ええ、まだみんな飲んでいるのにオレだけ!? そんな殺生な」
「オレは自分で制御(コントロール)できるし、ユーファはザルだ。エレオラもかなり強い部類に入るそうだぞ」
「えっ、そうなの?」
血色の良くなったフラムアークの視線を受けたエレオラが、彼とは実に対照的な見た目でにこやかに応じた。
「貴族時代は夜会で、以降は組織で鍛えられました。おかげさまでアルコールで不覚を取ったことはありません」
「ええ……それって鍛えてどうにかなるものなの? 明らかに体質の問題じゃない?」
胡乱(うろん)な眼差しになるフラムアークを、スレンツェが溜め息混じりに諭す。
「人によっては鍛えられる余地もあるのかもしれんが、根本的には体質の問題だろうな。だからお前はもう水にしておけ」
そう言われてしまったフラムアークは、憮然とした面持ちになった。
「くそぉ、どうしてオレだけ……」
ぼやきながら、釈然としない様子で顔色ひとつ変わらない私達を見渡し、自身の頭を抱え込むようにしてこう嘆く。
「あ〜〜〜もう、何でオレの周りはこうも酒豪ばかりなんだ! 決してオレが弱過ぎるわけじゃない、オレの周りが強過ぎるんだ〜!」
「それは否定しないがな。従者(まわり)が強いのは主(おまえ)にとっても強みだろうが」
「それは否定しない……否定しないけど、でも、どの分野でも出来れば一番強くありたいって願望は、男としてはあるじゃん……それが仲間内でぶっちぎりで弱いってのがさぁ、もう何とも……」
口を尖らせてやさぐれるフラムアークを見ていたエレオラが私にこっそり囁いた。
「こんな言い方は失礼ですが……何だかちょっと可愛いですね。お気の毒ではあるんですけれども」
その意見に私は激しく同意した。
そうなのよ! 色々出来る人なのに、取るに足らないようなことでちょっと拗ねたり落ち込んだり、こういうところ、何だか可愛いわよね。
「フラムアーク様、身内の前ではこんな感じなんですね。普段とのギャップがあって少々驚きました。スレンツェ様は何だか甲斐甲斐しいというか……まるで弟君を慮(おもんばか)るお兄様のような」
そうなのよ! 口調はぶっきらぼうだけど、面倒見が良くて本当によく気にかけてくれているのよね! 何だかんだ優しいんだから。
こんなことを分かち合える相手が今までいなかった私は、エレオラが仲間になってくれた喜びをこういうところで改めて噛みしめることが出来て、嬉しくてたまらなくなった。
これこれ、こう言うのが今までなかったのよ!
こういう他愛もない話が出来るってすごく楽しいし、共感してもらえるって新鮮で、とってもいいわ!
「ふふ。何だか貴重なものを見せてもらった気分です。皆さんの一員になれた気がして、嬉しいですね」
控え目に微笑むエレオラに、私はぎゅっと抱きつきたくなるのを堪(こら)えながら言った。
「何言ってるのエレオラ、なれた気がするんじゃなくて、あなたもう私達の一員なのよ」
それを聞いたエレオラは、青味を帯びた黒い瞳を軽く瞠った後、同性の私でも惚れ惚れとしてしまうような表情になって、長い睫毛を伏せた。
「……はい。光栄です」
「私の方こそ光栄だわ。あなたが私達の一員になってくれて、私はスゴくスゴく嬉しいの」
私は彼女の手を握りしめ、心からの言葉を贈った。彼女はそんな私を見やり、少しはにかみながらこう返してくれた。
「そう言っていただけて、私もとても嬉しいです」
そんな私達を、男性陣がなごやかな眼差しで見やっている。
ここからもっともっと、エレオラと仲を深めていけたらいいな。
たくさん言葉を交わして、様々なことを分かち合いながら、時々こんなふうに他愛もない話をして、笑い合える関係になっていきたい。
心から、そう思った。