調理場で明日の下準備をしていたバルトロにそう声をかけられて我に返った私は、慌てて彼に声を返した。
「あ、いいえ、自分で洗うから大丈夫よ。あなたも忙しいでしょう?」
そう断って薬湯の椀を洗い物用の水桶に浸けながら、先程の出来事がぐるぐる頭の中を回って、その余韻に頬を染めずにはいられなかった。
あんなふうにおやすみのキスをされるの、初めてだった。子どもの頃だってあんなことしてきたことなかったのに―――。
思い出すと全身が火照ってくるので、私はそれを頭の片隅に追いやりながら自分自身に喝を入れた。
色々とすごいことがあった気がするけれど、しっかりしなきゃ―――今はそれどころじゃないんだから。
うん、明日が終わるまで、余計なことは考えない! 今は目の前のことに集中する!
そう言い聞かせて無理やり気分を入れ替えた私はバルトロに尋ねた。
「ねえ、確かネロリのつぼみを乾燥させたものがあったわよね。あれってまだある?」
「はい、そこのカウンターの上に置いてある容器の中に」
「あれね。少しもらっても大丈夫?」
「ええ、どうぞ」
柑橘系の植物であるネロリの花には、様々な精神的ストレスを緩和してくれる効能がある。このつぼみを乾燥させたものを軽く潰して茶葉にすると、微かな苦みと優しい味わいが特徴のハーブティーになるのだ。心の苦しみを和らげてくれる妙薬として昔から重宝されているハーブだ。
気休め程度かもしれないけれど、これをスレンツェに淹れてあげたい。そしてフラムアークのアドバイス通り、あなたを心配しているのだということを素直に彼に伝えよう。
お湯を沸かして茶葉をじっくりと蒸らしている間、私はバルトロと彼の恋人レムリアの話をした。昨年大変な出来事を乗り越えた二人の絆は一段と深まっているようで、その仲睦まじさは聞いていて思わず溜め息がこぼれるほどだった。
「あなたがフラムアーク様の任務に同行する機会が増えて、レムリアは寂しがっているんじゃない?」
「はは、よく寂しいとは言ってくれています。ですが彼女もフラムアーク様には少なからぬ恩義を感じていますし、私の気持ちもよく理解してくれていますから、大丈夫ですよ。任務地が遠方の場合は出先から必ず手紙を書くようにしていますし、今回も最後に立ち寄った町で彼女に手紙を出しました。あ、もちろん機密に関わるようなことは一切書いていません」
バルトロはそう言って照れ臭そうにはにかんだ。
「不謹慎かもしれませんが、今回の件に関われたことが私は少し嬉しくて。……実は、私は元々騎士団への入団を希望していたんです。残念ながら願い叶わず、現在の職場への配属となりましたが……。そういった経緯もあって、自分がこういう場にいられるということに不思議な高揚感があるんです。明日、自分が戦場へ立つわけではありませんが、その空気の中にいられるだけで、何というかこう……感慨深いものがあって」
色々な考えを持つ人がいる。
バルトロは別に殺し合いを望んでいるわけではなく、騎士として祖国を守るという立場に憧れ、叶わなかった夢の舞台にいる昂りを覚えているだけなのだろう。
彼らには意図的にぼかした情報しか与えていないから、私達との認識に温度差が生じてしまうのは致し方ないことなのかもしれない。
けれど、何とも言えないもどかしさとやるせなさに苛まれた。
「……後方支援になるけれど、私達の役目も重要よ。私達は私達できちんと自分の役目を果たしましょうね」
そう口にするにとどめた私に、何も知らないバルトロは「はい!」と力強く頷いた。
*
スレンツェにあてがわれた部屋に彼の姿はなかった。
エレオラとどこかでまだ話をしているのかしら……?
暗い部屋の小机に淹れたてのハーブティーを置いた私は、彼の姿を探して別荘内を歩き始めた。ほどなくして一階のベランダ付近から話し声が聞こえてくることに気が付いて、そちらへと足を向ける。
そこにいたのは思った通りスレンツェとエレオラだった。こちらに背を向けた二人は距離を置いてベランダに座り、夜風に当たりながら話をしている。
―――邪魔……しない方がいいわよね。
フラムアークから事情を聞いていた私は、そう考えて足を止めた。
どうしよう……? スレンツェにひと言気持ちを伝えたいけれど、彼の部屋に勝手に入って待っているのもどうかと思うし……。
少し離れた壁際から二人の後ろ姿を眺めて逡巡していると、静かな夜の空気に乗って彼らの会話が漏れ聞こえてきた。
「……後悔はしていないのか。お前は今でもカルロのことを尊敬しているんだろう?」
「……。あの方がいなかったら、戦争で天涯孤独となった私は絶望して、自死を選んでしまっていたかもしれません。この先を生きる意味を見出せなかった当時の私を救って下さったのは、間違いなくカルロ様です。あの方が掲げた悲願に縋りつくことで、私は戦後の生を歩んできました。……だから、こうなってしまったことは残念でなりません。ブルーノの話は何かがおかしいという、私の進言を聞き届けてほしかった―――それだけが心残りです」
うつむいたエレオラの声には無念さが滲んでいた。
「あの時、もう少し言い方を工夫すれば良かったのか……あるいは進言するにしても、もっとタイミングを図るべきだったのか―――どうにかしてこの事態を回避することは出来なかったのか、そういった後悔ならば尽きません。ですが、今ここにいることに対する後悔は全くありません」
そう言い切ったエレオラの口調に迷いはなかった。
「貴方を騙(かた)る第三者にあの方が踊らされることなど、それこそあってよいわけがありませんから。これが私なりに出した結論で、あの方に対する恩義です」
フラムアークの言った通りだ。エレオラには自らの決断に対する後悔は一片たりともなかった。
「……そうか。分かった」
「カルロ様を説得出来なかったこと、申し訳ありません」
「お前が謝ることじゃない。これはオレの不甲斐なさが招いた結果だ。今だあの戦争の爪痕に苦しんでいる、お前達のような者を救ってやれなかった」
「スレンツェ様のせいではありません……!」
エレオラは顔色を変えて訴えた。
「それは違います……! 貴方のせいではなく、私達が……! 私達が生きる為に自分達の願望を勝手に貴方に押し付けて、貴方を利用し続けていたんです……! 貴方はそれを望んでなどいなかったのに、私達がそうしないと生きていけない、弱い人間だったから……! 貴方は私達を救う為に人質として皇帝の元へと下り、最後に残った王族として辛い役目を果たしながら、そうやって独り、私達の生きる道筋を立ててくれていたのに……! なのに、孤独と絶望で押し潰されてしまいそうだった私達は自らの足で立つことが出来ず、また貴方というカリスマに縋ってしまった……!」
押し殺した悲鳴のような声音。エレオラは自らの胸の辺りを押さえて、深い後悔にうなだれた。
そんな彼女に向けて、スレンツェは静かに告げる。
「戦争を回避出来なかった責任は王族にある。お前達国民はそれに巻き込まれた、言わば被害者だ―――だがオレは何としてでもカルロを止める、止めなければならない。先の戦争の被害者だったからといって、あいつが新たな火種を起こす加害者になっていいはずはないからだ。あいつにそれをさせてはならない、絶対に。あいつをそういう存在にしてしまってはいけないんだ。これはオレの王族としての責務であり、あいつの忠義に報いる道だと信じている。
……時々考えることがある。もしあの戦争で勝利していたのがアズールだったなら、オレは帝国の皇子であるフラムアークを殺していたんだろうか。帝国の民であるユーファをこの手にかけていたんだろうか。考えても詮無きことだが、それを想像すると空恐ろしくなる。国家という枠に囚われて人を殺すことの愚かしさをまざまざと感じるんだ」
私は小さな衝撃を受けた。
そんな話、初めて聞いたわ……。
知らなかった。スレンツェが、そんな思いを抱いていただなんて……。
今となっては想像も出来ないことだけど、でも、それは有り得たかもしれない私達の「もしも」だ。
もしも私達が初めて出会った場所が戦場だったなら。敵対する関係として巡り合っていたなら。そこには、今とはまるで違う残酷な結末が待ち受けていたのかもしれない。
だとしたら、それは何て恐ろしく悲しいことだろう。
「今となって思うのは、人は等しく人であるということだ。一人一人が誰かにとっての大切な存在であり、誰かにとっての大切な存在になり得る可能性を持っている。そこに国家も身分も人種も関係ない。一部の者のくだらん驕(おご)りの為にその可能性が潰されることなど、決してあってはならないんだ」
スレンツェ……。
「だが、オレもこういう考えに至るまでには長い年月がかかった―――……そのきっかけを与えてくれたのは、エレオラ―――お前の言葉だよ」
「えっ?」
そんな方向に繋がるとは思ってもいなかったのだろう、エレオラはひどく驚いた様子でスレンツェを見つめ返した。
「五年前アズール城で、お前はためらいがちにオレに声をかけてくれたな。あの当時、オレの胸にはまだ国の再興を期する復讐めいた思いがくすぶっていたんだ……。帝国の手によって建て直された新たなアズール城、以前より立派に生まれ変わった城下の街並を目にして、正直、心穏やかでいられなかった。だが、そんなオレにお前がこう言ってくれたんだ」
スレンツェがエレオラの方へ向き直り、距離を置いて二人の視線が交わり合った。
「『今は違う国の民となりましたが、かつて貴方の国の民であった時も、私は幸せでした。どうかいつまでもお元気で、ご自愛下さい』と―――。
温かい言葉だった。オレはお前のその言葉でひどく救われた気持ちになったんだ」
エレオラは感極まった様子で、両手で口元を覆い隠した。
「アズール王国は失われてもそこで暮らした記憶は確かに人々の中に残っていて、何もかも失ったことにはならないのだと、お前の言葉でそう実感することが出来た。その時にようやく、かつての国民達が今は平和に暮らしているのならそれでいいと、オレの役目には意味があったんだと、そう思うことが出来たんだ。あれでようやく気持ちに折り合いがついた―――だが今にして思うと、あの時お前はオレを慮(おもんばか)って、無理をしてくれていたんだな。オレは自分の心にかまけるばかりで、それに気付いてやれなかった。すまなかった」
「そんな……」
「オレはあれを契機に物事を前向きに考えられるようになったと思う。だからエレオラ、お前には感謝しているんだ。今回のことも含めて……とても」
「スレンツェ様……」
エレオラが静かに涙を流す気配が感じられて、それにつられた私も思わず涙ぐんだ。
良かった……エレオラがスレンツェの口からそれを聞くことが出来て。
スレンツェが私達以外にもこうして心の内を語れる、信頼を置ける相手を得ることが出来て―――。
これ以上彼らの話を立ち聞きしてしまうのが忍びなくなった私は、目頭を押さえながらそっとその場を離れた。
エレオラはスレンツェの良き理解者で、彼女の存在はきっとスレンツェの大きな力になる。彼らを取り巻く状況が厳しいものであることに変わりはないけれど、自分の言葉が彼を救っていたことを知ったエレオラもまた、それによって救われるだろう。
うん……良かった……。
二人の話が終わるまでまだ少しかかるだろうから、私の気持ちはメモに残してスレンツェの部屋に置いていこう―――。
スレンツェ―――私達もあなたと一緒に、明日の結果を背負うから。だから、一人で必要以上に責任を抱え込まないで。あなたを心から案じている存在が確かにいることを、忘れないで。冷めてしまうかもしれないけれど、心を込めて淹れたこのハーブティーをどうか飲んでほしい―――。
……伝えたいことを簡潔に文章にまとめるのって、結構難しいわね。
スレンツェに当てがわれた部屋で小さな明りを灯しながら彼へのメッセージをしたためていた私は、文面に頭を悩ませつつ吐息をついた。
本当は、これを自分の口から直接彼に伝えたかった。
……でも、自分の願望ばかり押し付けていられないものね。
苦心しながらメモを書き上げた時、音もなく開いたドアからスレンツェが入ってきたことに私はまるで気が付いていなかった。だから後ろから彼に声をかけられた時、飛び上がるくらい驚いたのだ。
「何をしてるんだ?」
「きゃあっ!!」
とっさにスレンツェが私の口を塞いだからその声が別荘内に響くことはなかったけれど、ビ、ビックリしたっ……! 心臓、止まるかと思った!
バクバクする心臓を押さえながら涙目で彼を振り仰ぐと、私からゆっくりと手を離したスレンツェは小机に置かれたメモとハーブティーを見て、おおよその状況を察したらしい。きまり悪げに、気配を消して部屋に入ってきた理由を説明した。
「さっきエレオラと話しているところへも来たか? 背後に人の気配を感じた。それで、戻ってきたら部屋に灯りがついているから、てっきり侵入者かと」
私がいたの、しっかり気付かれていたのね。それでも素知らぬふりでエレオラと会話を続けていたのは、こちらの様子を窺ってのことだったんだ。もちろん、距離と声量から鑑(かんが)みて人間の耳では会話の内容まで聞き取れないと判断してのことだろうけど。
「ごめんなさい、立ち聞きするつもりはなかったの。どうしてもひと言、スレンツェに伝えておきたかったことがあって―――まだ時間がかかりそうだったから、メモにして部屋に置いていこうと……勝手に室内に入ってごめんなさい」
「いい。今晩寝るだけの部屋だし、鍵もかけてなかったからな。驚かせて悪かった。……にしても、ひと言と言うにはずいぶん文字の羅列が長いようだが」
スレンツェにひょい、と手元を覗き込まれた私は慌ててメモを覆い隠した。
「ダメ! 見ないで!」
こんな成り行きでこれを読まれてしまうのは恥ずかし過ぎる。覆い被さるようにしてメモを隠した私の背後から、揶揄するようなスレンツェの声がかかった。
「おかしな話だな。メモを送る相手に向かってそれを見るな、とは」
「い、今じゃなくて私が部屋から出ていってからにして! それまでは読んじゃダメ!」
「何故?」
スレンツェが動く気配がして、背中に彼のぬくもりが重なった。メモに覆い被さった私の背後から、スレンツェが覆い被さるようにしてこちらを覗き込んでいる。思わぬ状況に、たちまち胸が落ち着かなくなった。
「はっ、恥ずかしい、から……!」
ぎこちなく答えながら、みるみる顔が熱くなっていく。さっきまで直接彼に言葉を伝えたいと思っていたのが嘘のように、口も頭も回らなくなった。
「せっかく本人がここにいるんだ。オレとしてはぜひ今、これを読みたいところなんだがな。何ならその口から直接聞かせてもらいたい」
いや、それ、私もついさっきまではそう思っていたんだけれど!
チラと後ろを振り返った私は、至近距離もいいところにあるスレンツェの顔を見て、即座に正面に向き戻った。
むっ、無理! 何なのこの体勢〜! スレンツェの匂いも体温も近すぎて、心臓が持たない!
「わ、分かった、分かったわ! 今渡すから……!」
あっけなく降参した私からメモを受け取ったスレンツェは、それにざっと目を通すと、見ているこちらがドキリとするような柔らかな表情になった。
「……心に留めて置く。ありがとう……」
噛みしめるようにそう言って、だいぶぬるくなってしまったハーブティーを口元に運ぶ。ゆっくりと味わうように飲み込んで、こう感想を述べてくれた。
「甘酸っぱくて奥深い、いい香りだな……身体に沁み入る優しい味わいだ」
「ネロリっていう柑橘系の花のつぼみを使ったハーブティーなの。気持ちを健やかに整えてくれる効果があるのよ。飲むと寝付きも良くなると思うわ」
スレンツェにそう効能を説明しながら、適切な距離を保てたことで少し気持ちが落ち着いた私は、メモに書き切れなかった思いを伝えようと改まって彼に話しかけた。
「……スレンツェ。あなたの剣は、多くの人を助ける為に振るわれる剣だと思う。私達は全能ではないから、どんなに望んでも全ての人を救うことなど出来はしないけれど、あなたの剣はより多くの人を救う可能性を秘めていると、そう思うの。だから決して、自分を粗末に扱わないで。そして、絶対に無事で帰ってきてちょうだい。
前にも似たようなことを言った気がするけれど、自分も含めて誰も傷付けないように守る為の力……その可能性があなたの剣にはあると、私はそう思っているから」
スレンツェは引き締まった口元を結び、頬骨の辺りに力を込めてじっと私を見つめた。薄暗い部屋を灯す小さな明りを映した彼の瞳に様々な感情の色が揺らめいて浮かび上がり、それがまるで刹那の瞬きのように変化していく様を、私は息をひそめて見ていた。
こんなスレンツェは初めてだ。
濃い陰影を滲ませた黒の双眸は深い感情を湛えて、見る者を吸い込んでしまいそうな煌めきを放っている。
部屋に長い沈黙が落ち、互いの目を見つめ合ったまま時間だけが過ぎていく。まるで時を止めてしまったかのようなスレンツェと向き合いながら、私は辛抱強く彼の言葉を待ち続けた。
表情を見る限りは、私の言葉を不快に感じたわけではいないと思う。けれどいつまで経っても口を開く気配を見せない彼の心中を計りかね、私が言葉を発しかけた時だった。
「……そうだな」
長い沈黙を破ってようやくスレンツェの声が響き、私はホッと肩の力を抜いた。
「お前は以前にもその言葉をオレにくれた。胸に響いた言葉だから、よく覚えている。嬉しく思うと同時に、身が引き締まる思いのする言葉だった―――今、改めてそうならねばならないと肝に銘じていたところだ」
そう……だからあんなに間が必要だったのね。
「……覚えていてくれて光栄だわ」
柔らかく目を細めた私に、短い沈黙を置いてスレンツェが問いかけた。
「……。願掛けをしてもいいか」
願掛け?
ひとつ瞬きをした私は、その意図をよく理解しないまま頷いた。
「? ええ……」
スレンツェが一歩、私の方へ踏み出した。手を伸ばして私の長い雪色の髪をひと房掬(すく)い、うやうやしい動作で口づける。
予想外の彼の行為に目を瞠っていると、髪に口づけたまま視線を上げた黒い瞳と目が合って、心臓が大きく跳ねた。
「決して自分を粗末にしないと誓う。そして必ず戻ってくる。オレにとっての光の元へ」
―――光って……私のこと? そんな、神聖化するようなものじゃ―――。
大仰な彼の物言いに頬を染めて訂正しようとした私に向かって、スレンツェは加護を求める言葉を口にした。
「我が身に、祝福を」
流れるような優雅な所作で彼の腕の中へと導かれ、揺蕩(たゆた)うままに精悍な顔を見上げると、そこに彼の唇が降ってきて、私の唇に柔らかく重なった。
え……っ。
私は目を見開いた。
少しかさついた、柑橘の香る唇。視界を覆い尽くすのは、有り得ないほど間近に映るスレンツェの目元だ。
スレンツェに抱き寄せられるようにしてキスされているのだと理解した瞬間、ドッ、と鼓動が叫び出した。
「……! ス―――」
驚いて、反射的に身体を離しかける私の腰を引き寄せて、スレンツェは再度私に唇を重ねてきた。私の後頭部にもう一方の手を添えるようにして長い指を髪の中に差し入れながら、先程より深く唇を重ね合わせ、しっとりと押し包むようなキスを繰り返してくる。
「……っ! ふ……」
鼻先をかすめるハーブの香り。御しがたい気持ちを感じさせながら、同時にそれを抑え込もうとする意思も感じる、本能と理性がせめぎ合うようなキスをされて、その熱に煽られる。初めて触れる彼の熱情に私は頭がくらくらするのを覚えながら、ともすると砕けてしまいそうになる膝に力を入れた。
当たり前だけど、フラムアークとは唇の質感もキスの仕方も違う。
これまで秘めてきた想いを解放するような口づけに、心臓がぎゅうっと切ない音を立てた。
「―――……すまない」
ひとしきり唇を重ねた後、スレンツェはゆっくりと私から顔を離しながらそう言った。
「だが、決していい加減な気持ちでしたわけじゃない」
私は乱れた呼吸の下から、真摯な光の灯る黒い切れ長の瞳を見つめ返した。
―――分かっている。あなたは、いい加減な気持ちでこんなことが出来るような人じゃない。
「ユーファ。この件が片付いたら、お前に伝えたいことがある。だから、後で時間を作ってくれないか。オレはそれを伝える為に、必ず生きてお前の元へ戻ってくる」
スレンツェ……。
様々な感情がない交ぜになる中、私は泣きたくなるような胸の痛みを覚えながら頷いた。
「……約束よ」
スレンツェ―――私はあなたが思っているほど清廉(せいれん)でも潔白でもなく、お世辞にも清らかな存在とは言えない。あなたのような人から「光」に例えられる資格なんて、私にはないのだ。
あなたとフラムアーク、どちらにも心惹かれていて、未だ自分の気持ちに答えが見出せずにいる。さっきまでフラムアークにドキドキしていたクセに、今は目の前のあなたに胸を高鳴らせて、あなたが私に好意を抱いてくれていたことを、あなたがキスしてくれたことを、嬉しいと感じているのだ。
けれど一方で、それを手放しでは喜べない自分がいる。この瞬間早鐘を打つ胸は、湧き起こる感情は確かに悦びに基づいているのに、それを心から嬉しいと感じることが、今の私には出来ないのだ。
頭の片隅に、フラムアークの存在があって―――。
私は心の中でそっとその事実を噛みしめた。
でも、今はそれをあなたに言わない。
ずるいことは重々承知の上だ。
私はあなたもフラムアークも大切で、どちらにも無事で帰ってきてほしいから、今はそれを全部押し隠して、あなた達を送り出す。
それが身勝手で不誠実な私の、心からの切実な願いだ。
私は祈るような思いを込めて、スレンツェの熱が残る唇にその言葉を乗せた。
「だから―――絶対に、無事で帰ってきて……」