私達が最後の宿泊地に定めたのはテラハ領の丘陵地にある古びた別荘だった。
イズーリ領に繋がるゼルニア大橋はこの丘陵地帯を抜けた先にあり、テラハ領の北東に隣接するアズール領に拠点を構えるカルロ達は明日にもこの付近を通過しようとするはずだった。
この別荘は狩りをたしなむ貴族達の為に先代のテラハ領主によって建てられたもので、狩猟祭が行われる際は大勢が宿泊することもあり、それなりに広い造りになっていた。とはいえ、三千人近い人数を収容する規模はもちろんないので、ここに泊まるのはフラムアークと私達宮廷からの随行者だけだった。諸将はそれぞれの隊ごとにまとまって野営の陣を張っている。
イズーリ周辺の有力者達からの援軍はまだ姿を見せておらず、カルロ達と遭遇する前に合流出来るかどうかが微妙な情勢だった。
夜を迎え、諸将と明日の軍議を終えたフラムアークの部屋に薬湯を持っていった私は、スレンツェの様子について相談した。
「うん……ユーファと一緒でオレもそこは少し気がかりなんだ。スレンツェは滅多なことで動じないけれど、今回の件に関してはさすがに堪(こた)えるものがあると思う。昔馴染みで自分を救おうとし続けてくれていた人物の期待を、こういう形で裏切ることになるんだ……スレンツェの与(あずか)り知らぬところで向こうが勝手に突き進めてきたこととはいえ、そう簡単に割り切れるはずもない。ただ一人残った王族としてあの戦争の責任を両肩に負い続けるスレンツェにとっては、それこそ身を切られるような思いだろう」
フラムアークの表情は沈痛そのものだ。
「穏便に行くことを願うばかりだが、例えどんな形になったとしてもスレンツェは課せられた役目をやり遂げるだろう。そこは疑いようもない。オレとしてはむしろ、その後の方が気がかりかな。結果いかんによっては、そっちの方が心配だ」
誰にもまだ分からない、明日の行方―――最悪を回避するために最善を尽くすしかない、不確かな現実。
「今のスレンツェの気持ちを一番理解出来るのは、多分エレオラじゃないかな。彼女はスレンツェへの義理を通す為に長年所属していた組織を裏切る形になり、尊敬していただろうカルロや大勢の顔見知りを敵に回すことになった。明日には、親しくしていた者達と戦場で対峙することになるかもしれない。自ら覚悟して選択した道とはいえ、彼女もまた並々ならぬ状況にいる」
確かに……エレオラは未だカルロに敬称を用いているし、大きく立場を違(たが)えたとはいえ、彼はそれに値する人物なのだろう。
フラムアークの言う通り、スレンツェとエレオラは似たような状況にあると言える。当事者が抱える辛さというのは、外野がどんなに心を砕いてみても、当事者同士でしか分かち合えないものなのかもしれない。
「そうですね……確かにエレオラなら、今のスレンツェの気持ちに本当の意味で寄り添えるのかもしれない」
相槌を打ちながら、何とも言えない苦しさがじわりと胸に広がっていくのを覚えた。
ためらいのない献身。スレンツェに真っ直ぐに向かうエレオラの想いの深さ、見返りを求めない心の強さが伝わってくる。
エレオラは強いな……私が彼女の立場だったなら、同じような行動を取ることが出来ただろうか。今のように同僚という立場ではなく、お互いを深く知り得る関係でもなく、会うこともままならない地にいる、決して手の届かない相手と自ら想いを封じた男性の為に、自分がこれまで築いてきた何もかもを捨てて駆け付けることが―――。
「エレオラ自身は大丈夫なんでしょうか……? 気丈に見せていますが、自分の下した決断に押し潰されそうになったりはしていないんでしょうか」
今更ながらそこに思い至って彼女を案じると、フラムアークはそれを柔らかく否定した。
「そこは多分、大丈夫じゃないかな。エレオラは自分の心に向き合う時間もそれなりにあったわけだし、熟慮した上での決断だと思う。辛いには違いないだろうけど、後悔はしていないと思うよ。ベリオラの渦中でも見てきたけど、彼女は聡くて芯が強い。自分の定めた信念に基づいて行動出来る人だと思う。
今回に限ってはスレンツェの方が心配だ。スレンツェの方は全くの寝耳に水で、充分な心構えをする間もないまま、ここへ臨む形になってしまったから……。実はさっき、エレオラにそれとなくスレンツェの様子を見てきてもらうよう頼んだんだ。彼女なら煩(わずら)わさずにスレンツェを気遣えるかと思って」
フラムアークはよく見ている。スレンツェのこともエレオラのことも、きっと駆け付けてくれた諸将や大勢の兵に至るまで―――。彼自身、にわかにこの謀略に巻き込まれた当事者で、そう余裕などないはずなのに……。
「フラムアーク様は大丈夫ですか……? 寝耳に水だったのは貴方だって同じはずです」
そう気遣うと、フラムアークはちょっと笑った。
「オレはカルロと面識がないからね。非情な言い方をすれば事務的な対処が出来るんだ。スレンツェやエレオラとは立場が違う」
そんな考え方が出来る人じゃないのは分かっている。貴方はカルロを「スレンツェの古い知り合い」と捉えてしまうでしょう?
「……オレは大丈夫だよ。ほら、ユーファからもらったお守り代わりもあるしね」
彼が胸元から取り出してみせたのは、以前私があげた手作りの香袋だった。飾り紐の先に付いた小さな袋にリラックス効果のある手製のドライポプリが詰めてあり、中身は彼に頼まれる都度、私が入れ替えている。
もう五年も前にあげたものだ。フラムアークは任務に赴く度にこれを身に着けてくれているから袋はかなりへたっていて、何度か新しいものに取り替えましょうと提案したのだけれど、彼はこれがいいんだと言って譲らないから、すっかりくたびれた見てくれになってしまっている。
それを目にしたら、何だか胸がいっぱいになってしまった。
「……ユーファは心配していることを素直に伝えるだけでいいと思うよ。それだけで君の気持ちは充分にスレンツェに伝わると思う」
「そうでしょうか……?」
「うん。ユーファの言葉がもたらす効果は大きいから」
「だと、いいんですが」
その効果が発揮されるよう願いながら、私は改まってフラムアークに申し出た。
「では……お願いがあります、フラムアーク様」
「? うん」
「決して一人で責任を抱え込まないと、約束して下さい」
先程彼がスレンツェに伝えた言葉を引用して、私はそう願い出た。
「仮に貴方がスレンツェに命じてカルロを討ち取らせる結果になったとしても、それは決して貴方だけの責任じゃありません。私はそれを望んだ当事者の一人で、共に責任を負うべき者です。だって私は、貴方もスレンツェもカルロの為に失いたくはないから」
それは偽りのない本心だった。軽く目を瞠るフラムアークに向かって、私は一心に訴える。
「カルロがレジスタンスを組織している以上、フェルナンドの謀略がなくても、いずれ彼とはぶつからねばならない運命だったのだと思います。明日、もしも話し合いが決裂して武力行使で決着をつける形になったとしても、それは互いの譲れない信念をぶつけ合った結果です。私は非力で、後方からその光景を見ている事しか出来ないでしょうが、でも、つぶさに目に焼きつけておきます。貴方達と一緒にその結果を背負います。だから決して一人で全てを抱え込もうとしないで下さい」
「ユーファ……」
「心配なんです、貴方もスレンツェも。二人とも当たり前のような顔をして、辛いことを全部自分の責任にして抱え込んでしまいそうだから―――そういうところが似ているんですよ、貴方達は。だから私はそこをすごく心配しているんです」
私の言葉が届くというのなら、二人ともどうか心に留め置いてほしい。貴方達だけが必要以上に責任を感じて、苦しむ必要はないのだ。
「補給して下さい」
私は自分から両手を広げて、フラムアークの前に進み出た。
「えっ?」
「私で貴方の英気が養えるなら、どうぞたくさん補給していって下さい」
唐突な申し出に戸惑う彼の気配を感じて、今更ながら気恥ずかしさが込み上げてきたけれど、私はそれを堪えて言い募った。
「変な意味じゃありません。その、だから、ハグッ……ハグです! “絶対に、無事で帰ってきてほしいから”……!」
考えないようにしていた本音が、口を突いて出た。
私はハッとして唇を引き結んだけれど、一度出た言葉は二度と口の中に戻りはしない。
ずっと、心の奥にくすぶっていた不安だった。
明日の様相は不確定で不明瞭で、どう転がるのか予断を許さない。それはすなわち、彼らの命運が潰えてしまう可能性をも孕んでいる。
フラムアークが指揮官として優れた資質を持っているのは知っているし、剣士としてのスレンツェの腕は言わずもがなだ。たくさん集まってくれた援軍だって、心強い。
でも現状、イズーリ周辺の有力者達からの援軍はまだ到着しておらず、カルロ達とぶつかる前に合流出来るかどうかは不透明だ。彼らが間に合わなければ、こちらはカルロ達の半分にも満たない兵力で臨まざるを得ない。
何より、カルロだって必死なのだ。一度全てを失い、そこから執念で大規模なレジスタンスを作り上げて、悲願の為に突き進んでいる。そんな命懸けで挑んでくる相手を前に無事でいられる保証なんて、どこにもない。
フラムアークが初陣を迎えた時も怖かった。けれどその時とはまた違う怖さがある。
でも、あの時と違うのは、私はこうして彼らの傍にいて、同じ舞台に立っていられるということだ。有事の際は、自分で手を尽くすことが出来る。それが救いだった。
だから、あの時のように泣いたりはしない。代わりに精一杯、私は私の役目を果たすんだ。
「……こういう決戦前夜というか、何かを成し遂げる直前って、軽い緊張状態というか興奮状態っていうのかな―――何となく血が荒ぶるのを感じるんだ。人が本来持っている闘争本能とか生存本能に起因するのかもしれないな。だから、ユーファに触れるのは自重しようと思っていたんだけど……」
フラムアークはどこか独り言のようにそう呟くと、両手を広げたままの姿勢で止まっている私を見つめた。それから少し間を置いて頬を緩めた彼は、重苦しくなってしまった空気を一転させるように明るい口調でこう言った。
「でも、そんな考え一瞬で吹き飛んだ。やっぱりユーファのもたらす言葉の効果は大きいな。そうだね……こういう時だからこそ、英気を養わないとね」
目の前で穏やかに細められるインペリアルトパーズの瞳。ゆっくりと歩み寄ってきた彼の腕が私の背中に回されて、広い胸にふわりと包み込まれる。血が荒ぶっていることなど微塵も感じさせない、優しい抱擁だった。
ああ、自制心の強いフラムアークらしい。でも私は今、彼に無用な気遣いをしてほしくなかった。
不安も猛りももっとぶつけてくれていい。私はむしろ、それを分かち合わせてほしいのだから。
「……もっと力を込めても大丈夫ですよ」
彼の腰に手を回しながら遠回しにそれを伝えると、苦笑混じりに諭された。
「血が荒ぶっているって言ったでしょ? そういう状態の男にそんなこと、軽はずみに言っちゃダメだよ」
「みだりに言っているわけじゃありません。相手がフラムアーク様だから言っているんです」
「オレだって、男だよ」
「……。知っています」
「……表面的な意味じゃなくて」
「……。分かっています」
「……。それ、本当に意味が分かって言ってるの?」
「…………。はい」
消え入りそうな声を返した私は、そこはかとなく漂い始めた濃密な空気を振り払うように顔を上げて、口早にまくし立てた。
「あの、妙なことをさせようとしているわけではなくて、ただもっと、ざっくばらんに思うところをぶつけてほしいというか、必要以上に気を遣わずに接してほしいというか……! もうちょっと遠慮せずに来てもらいたいというか、不安定な時はもっと甘えて頼ってもらっていいんですよと、そういうことが言いたいんです!!」
目をまん丸にしてそれを聞いていたフラムアークは、私の剣幕に堪えきれなくなった様子で吹き出した。
「ぶっ……ちょ、ユーファ、顔が必死過ぎ……」
も……もぉ〜〜〜!! こっちは大真面目で言ってるのに!
私は顔を真っ赤にしながら、小さく肩を震わせている彼に半分やけになってしがみついた。
「分かったらもう、遠慮せずに来て下さい! ちょっとやそっとじゃ壊れませんから!」
均整の取れた身体が、微かに強張った気がした。そう感じたのは一瞬で、次の瞬間には私は彼にきつく抱きしめ返されていた。
息が苦しくなるくらいの抱擁。こんなにきつくフラムアークに抱きしめられたのは、再度彼の宮廷薬師になることを任命されたあの時以来だ。
密着した身体から衣服を隔てて伝わる互いの質感。体温が交わり、鼓動の響きまでが感じ取れて、包み込まれる彼の香りに否応なくあの夜の記憶が思い起こされた。
―――あ……。
表情を繕うことは出来ても心拍数をごまかすことは出来なくて、忙しない心音がフラムアークに気付かれないか不安になりながら、でもそれ以上に彼が歩み寄ってくれたことが嬉しくて、そのことに満ち足りた気持ちを覚える。
「絶対に、無事で帰ってくる……こうしてまた、君をこの腕に抱きたいから」
耳元で紡がれる、少しかすれた低い声。フラムアークの胸に頬を押し付けているから彼の表情は見えなかったけど、声の響きからあの夜と同じ顔をしていることが想像出来て、その瞬間、胸の奥底に押し込めていた何かが一斉に溢れ出てきた。
「ユーファ」
いつもより低いフラムアークの声の響きに、ぞくぞくと兎耳(みみ)の柔毛が逆立つ。フラムアークは私の側頭部に頬を押し付けるようにして私の長い耳に唇を寄せ、声量を抑えた苦しげな声音で何度も何度も私の名前を呼んだ。
「ユーファ―――ユーファ……!」
その声に、感情が深く揺さぶられる。ぎゅっと目をつぶり、彼を抱きしめ返す腕に力を込めることでそれに応えていた私は、耳に彼の唇が触れた感触にビクッと腰を跳ね上げた。
あ……っ……。
見上げた先に橙味を帯びたインペリアルトパーズの光が降ってきて、狂おしさを内包したその輝きに胸を射抜かれる。
「―――好きだよ、ユーファ」
耳に残る感触が熱い。注がれる眼差しが、じりじりと胸を焦がす。
もう今までと同じ気持ちで聞けないその言葉に私は胸を震わせながら、条件反射的に今までと同じ言葉を繰り出そうとして―――それがひどく難しいものであることを悟った。
だって、私の意識も今までとは違うから。
返す言葉の意味も、根本的な部分がこれまでとは異なってしまうから。
そんな瞳で見つめられたら、そんな声で囁かれたら、平静を装って返すのは、もう、至難の業だ―――……。
「私も……貴方のことが、好き、です……フラムアーク様」
たどたどしく答えながら、どうしようもなく自分の頬が朱に染まっていくのが分かった。
ダメ、もう表情を繕いきれない。誤魔化しきれない。どうか、気付かないで―――。
祈りにも似た私の思いは、届かなかった。
目の前のフラムアークの表情がゆっくりと驚きに彩られ、彼が小さく息を飲む気配を感じた瞬間、それが叶わなかったことを悟った私は、慌てて顔を伏せた。
「あ―――で、では、私はこれで―――遅い時間に申し訳ありませんでした、おやすみなさいませ―――」
慌ただしく口上を述べ、彼の胸を両手で押すようにして離れようとした私の腕をフラムアークが掴んだ。
「待って、ユーファ―――顔を見せて」
「そんな、改めて見せるようなものでは」
私はどうにかこの場を逃げ切ろうとしたけれど、フラムアークはそれを許してくれなかった。巧みに頬を捕われて顔を上向かされてしまい、全てを見透かそうとするような橙黄玉の双眸の前に晒される。それを直視出来なくて、私は精一杯顔を背けながら彼に訴えた。
「っ、気にしないで下さい。私も貴方と同じで少し気持ちが昂っているんです、それが変に出てしまって」
「……。それは、こういう夜だから?」
「そうです。私はその、こういう決戦前夜のような雰囲気は初めてなので……」
「……。君のこんな顔は、初めて見た」
―――現実では。
唇だけを動かして刻まれた、空気に溶け消えるような、人間の聴覚であれば届かなかったであろうフラムアークの独白を、私の兎耳は拾ってしまった。
―――フラムアークは、覚えている? あの夜の出来事を―――夢として?
思わず動揺してしまいながら、そんな自分を彼が注視している気配を感じて、それをどうにか押し隠さねばと変に気負ってしまい、更に心乱れてしまう。
私は今、あの時と同じ顔をしてしまっているの?
頬に触れる厚みのある大きな手と、注がれる眼差しが熱い。もはや表情を取り繕うことなど不可能で、私は必死に視線を逸らしながら、何とか彼の眼差しから逃れようと身をよじった。その時だった。
あっ―――!
「! ユーファ―――」
足がもつれてバランスを崩してしまい、大きくよろけた私を支えようとしたフラムアーク共々、背後にあった寝台の上に倒れ込んでしまった。
軽い衝撃と共に背に敷布の感触を覚えながら目を開けると、私はフラムアークの影の下にいて、目の前には呼吸を止めてこちらを見下ろす端整な彼の面差しがあった。
まるであの夜の再現のような構図―――大きく違うのは私も彼もお酒の影響を受けておらず、素面(シラフ)だということだ。
私を挟むようにして寝台に両手をついたフラムアークはどこか茫然とした様子で、敷布に髪を散りばめて横たわる私を真上から見下ろしていた。
な、何ていうタイミングで、何ていう体勢―――!
愕然としたまま、為(な)す術のない私はただひたすら息を詰めてフラムアークが自分の上からどいてくれるのを待っていたのだけれど、彫像のように静止してしまった彼は、こちらを凝視したまま動き出す気配を見せない。
もしかしたら、この状況に既視感を覚えているの……?
そんな思いが頭をかすめたけれど、この状態が長引くのは私の心臓的に厳しい。フラムアークが身体をどかしてくれないと起き上がれない私は、なるべく平静な顔と声を装って彼に呼びかけてみた。明らかに頬が上気しているのは、この際仕方がないと割り切って。
「……あの、フラムアーク様。すみませんが、どいていただけますか」
そこで初めてハッと肩を震わせた彼は、次の瞬間みるみる頬を赤らめると、珍しくあからさまに動揺した様子を見せながら、ぎこちなく身体をどかした。
「―――っ、ああ、ごめん……」
伏し目がちに瞳を逸らした彼の頬ばかりか耳までが赤く染まっているのが見えて、私は驚くと同時に胸がきゅうっとするのを覚えた。先程までとのギャップも相まって、その様子をひどく可愛いと感じてしまう。
さっきまであんなに躊躇(ちゅうちょ)なく触れていたくせに……こんな反応をするの?
「いえ……すみません、私がよろけてしまったばかりに」
起き上がりながらそう詫びるとフラムアークは首を振り、口元を片手で覆った。
「いや……オレが悪い。ごめん。何ていうか―――その、色々」
ちょっと気まずそうに言葉を濁しながら、彼は悩ましい吐息を漏らした。
「ダメだな、やっぱり―――気が昂っていて、平常時と同じではいられない。でも、オレを思ってくれるユーファの心遣いはスゴく嬉しかったから。ありがとう」
いつもの姿に立ち戻って微笑む彼に、私はまだ先程の余韻に騒ぐ胸を押し隠してかぶりを振った。
「気にしないで下さい。それを承知で願い出たのは、私なんですから」
それを聞いたフラムアークは心からホッとした様子を見せた。
「良かった。怒られちゃうんじゃないかと思ったから」
安堵からこぼれ出た素の笑顔に、また胸がきゅうっと締めつけられる。自分の中に目まぐるしく湧き起こる感情に収拾がつかなくて、私は密かに困ってしまった。
「自分が言い出したことの結果に怒ったりしませんよ」
「じゃあ、もう一回ギュッとしても?」
冗談めかしたその物言いにドキッとしつつも、これが場を和ませる為の心遣いと理解した私は、精一杯すん、とした表情を作った。
「それには教育的指導を発動させていただきます」
「はは、それは残念」
フラムアークは軽く笑ってこの話を終わらせると、私にこんな提案をした。
「ねえユーファ、この件が無事に片付いたら、宮廷に戻る前に君の故郷ガーディアへ立ち寄ってみないか?」
「えっ? ガーディアへ?」
思いも寄らぬ申し出に瞬きをすると、フラムアークは頷いてこう言った。
「うん。ここからそんなに遠くないし、またとない機会だから。せっかく自由の身になれたのに、ユーファはまだ一度も帰郷出来てないでしょ?」
確かに……何だかんだ忙しくて、まとまった休みを取ることが難しい状況が続いていたものね。
「嬉しいですけど……いいんですか?」
「うん。オレもどうせならユーファと一緒に行ってみたいって思っていたし、きっとスレンツェもそうじゃないかな。それに、ここを頑張ったらこういうご褒美が待っていると思えば、より一層頑張れる気がするから」
そういうことなら、私的にもありがたい話だわ。
「分かりました、そういうことでしたら是非。楽しみにしています。その為にも絶対に無事で帰って来て下さいね」
「了解。約束は守るよ。ユーファにそう教えられてきたからね」
フラムアークが差し出した小指に、私はそっと自分の小指を絡めた。そんな私を見つめて、彼は改めて約束の言葉を口にした。
「絶対に無事で帰ってくる。―――好きだよ、ユーファ」
甘やかな眼差しでもう一度、不意打ちのようにそう告げられて、上手く呼吸が出来なくなる。そのタイミングで小指をくんと引っ張られて、軽く前のめりになった私の額に、フラムアークの唇が柔らかく押し当てられた。驚きで二の句が継げずにいる私に、彼はどこか艶を感じさせる悪戯っぽい笑みを向けて囁いた。
「―――おやすみ。また明日」
その後、どうやって彼の部屋から退出したのか、私はよく覚えていない。
気が付けば空になった薬湯の椀を持って、いつの間にか調理場に佇んでいたという、そんな有様だった。