わずかな睡眠を取って若干思考力の回復した頭で、私は昨夜の衝撃的な出来事を思い返していた。
フラムアークは酔ってはいたけれど、ちゃんと「私」だということを認識していた。認識した上で、あんなふうにキスしてきた―――。
思い出すだけで顔が火照ってきて、洗顔で引き締めたはずの気分が振り出しに戻る。私は必要以上にそれを思い出さないよう努めながら、彼のその行為の意味を考えた。
親愛の情を示すのに、あんなキスの仕方はしないわよね。異性への愛情表現―――そう捉えるのが自然だ。
つまり、フラムアークは私をそういう対象として見ていると……。
「わ―――!」
表現しようのない恥ずかしさにも似た感情が込み上げてきて、私は思わず枕に顔を押し付けて叫んでしまった。
信じられない。
それが、率直な心の声だ。
だって、まさか。
本当に、まさかのまさかだ。
幼い頃からずっと見てきたあのフラムアークが、私に―――。
私は枕に顔を突っ伏したまま、耳まで染めて自問した。
ウソ……! いつから!?
そんなこと、有り得る!?
私の方がずっとずっと年上で、彼にはそれこそアデリーネ様という人もいるのに!
そこまで考えて、ハタと気付いた。フラムアークの性格的にそれはおかしい、ということに。
彼の性格から考えて、複数の相手に同時に粉をかけるような真似はしないはずだ。二心を持つような行動は取らない。絶対に。
それを踏まえると―――。
―――アデリーネ様はカムフラージュ……?
そんなおこがましい推論にたどり着いてしまい、私はそう考えてしまった自分がまるで悪いことをしているような気分に陥った。
―――何様なのよ、私。
私が本命でアデリーネ様がカムフラージュだなんて、そんなこと、あるはずが―――……。
でも、そう考えるとしっくりきてしまう。
アデリーネ様は相変わらず定期的にフラムアークの元を訪れていて、彼と仲睦まじい間柄なのだと宮廷内で認識されている。フラムアークの方もイクシュル領へ赴いた際は必ず彼女に面会しているようだし、何かの節目の折には贈り物を送り合い、多忙でなかなか会えない時は手紙のやり取りもしているようだ。
周囲からも公認されている彼らの関係は、一年前から変わっていない。逆に言うと、この一年特別な進展もしていないのだ。
まだ一年と言われればそうだし、フラムアークのすぐ上の兄、第三皇子のフェルナンドも今のところ身を固めてはいないから、順番的にも婚約等を急ぐ必要には迫られていないという実情はあるのだけれど……。
ちなみに皇太子ゴットフリートと第二皇子ベネディクトはここ数年の間に他国の王女と政治的な意味のある婚姻を結んでいた。妻帯者となった彼らは皇宮を出て、現在はそれぞれ近くの宮に移り住んでいる。
そもそもフラムアークとアデリーネ様の距離が近付いたのは、私が貴族の令嬢達に嫌がらせを受けた後だった。その後、彼女の登場により、玉の輿目当てにフラムアークに群がっていた令嬢達はその姿を見せなくなったのだ。
―――私の考え過ぎ……?
ただの偶然かもしれない。その可能性も充分にある。でも、もし、そうでなかったとしたら。
これまで見えていなかった彼の深い愛情が見えてきて、私は胸元の長衣(ローヴ)をぎゅっと掴んだ。
―――苦しい。
今まで見えていなかったものが見えてくる反面、私は今、フラムアークの気持ちどころか自分自身の気持ちでさえ定かでなかった。
何故なら―――昨夜のことには心の底から驚いたけれど、フラムアークにキスをされたこと、それ自体は嫌じゃなかったからだ。
私はそんな自分自身の有り様に何よりも驚いていた。
だって―――私は、自分の気持ちがスレンツェにあると感じていたから。
なのにフラムアークにキスをされて、驚いたけれどそれを嫌だとは思わなかった―――だから流されるように受け入れて、冷静に立ち返った時、そんな自分に愕然とした。
短い眠りから覚めて昨夜のことを改めて考えた時、私はそんな自分に戸惑いながらも、それを事実として受け止めざるを得なかった。
私は、男性としてのスレンツェに惹かれている。その自覚がある。
けれど、きっと―――同時にいつの頃からか、男性としてのフラムアークにも惹かれていた。そうと認めていなかっただけで、度々彼へ向かう感情の中に、その片鱗を違和感として感じていた。
ずっとどこかで、フラムアークに対してそれは抱いてはいけない感情なのだと、無意識のうちにセーブしていた部分があった。幼い頃から仕えてきた彼に対して、私に無償の信頼を向けてくれている彼に対して、そんな想いを抱いてしまうことは不誠実で、彼の信頼を裏切ることに繋がるのだと。
フラムアークの口からアデリーネ様に対して「可愛い」という言葉が使われた時、私が抱いた感情は、嫉妬だった。二人が仲睦まじくしている様子を外側から見ている時は心がそわそわして落ち着かない程度だったのが、「可愛い」という言葉で具体的に彼の心が彼女へと傾いているように示された時に初めて、女としての情動が発露したのだ。
今ならばそれが分かる。
そんな自分に、私は自己嫌悪でいっぱいになった。
身近な二人のどちらにも惹かれているだなんて、そんなこと―――心はままならないものだと言うけれど、これはない……これはないわ。こんなの、私が彼らの立場だったら嫌だ。こんな自分勝手でどうしようもない、あやふやな気持ち―――どっちつかずで不誠実もいいところだ。二人に対して申し訳なさ過ぎる。
―――こんなこと、誰にも言えない。
私は深い溜め息をつき、自己嫌悪に沈みながらさしあたってのことを考えた。
フラムアークは昨夜の出来事をきっと覚えていない。断片的に覚えていたとしても、彼自身が言っていたように夢の中の出来事としか思わないだろう。
今の私に出来ることは―――素知らぬふりをして、今までどおり彼に接することだ。
彼に対してやましい想いを自覚してしまったとはいえ、彼が私の主であることに変わりはなく、その彼の野望を成し得たいと願う私の思いは、本物なのだから。
まずは、頭を冷やそう。冷却期間を置いて、混乱している自分の気持ちを整理して、見極めることが先決だ。自分自身の気持ちをきちんと把握出来ない以上、その先の選択肢を見出すことなど出来はしないのだから―――。
*
―――幸せな夢を見た。
陽春の太陽が中天に差し掛かる頃、カーテン越しにも日の高さを感じる薄明るい寝室で目覚めたフラムアークは、ぼんやりとその片鱗をなぞらえた。
腕の中に、ユーファがいた。
指で髪を梳いても、顔に頬を寄せても、逃げも怒りもしなかった。
キスをしたら一度だけ制止するような素振りを見せたが、構わずにキスを続けると大人しくなって、そのまま自分に身を任せてくれた。
シーツの上に長い髪を広げて、潤んだ瞳でこちらを見上げた彼女―――キスを繰り返すうちに次第に上気していった肌と、しどけなく乱れていった吐息―――感じ入るようにくたりと伏せられた兎耳。
これまで目にしたことのない女としての彼女の姿はひどく優艶(ゆうえん)で、ふるいつきたくなるほど魅力的だった。
今も唇におぼろげな感触さえ残っているように感じられるリアルな夢の名残に、半身を起こしたフラムアークはひとつ吐息をついて、後ろ頭を掻いた。
―――相当、欲求不満が溜まってるな。
そこへドアをノックする音が響いた。そちらへと首を向けたフラムアークは、続いて聞こえたユーファの声にあせりを禁じ得なかった。
「フラムアーク様、おはようございます。目覚めの薬湯をお持ちしました」
「ユーファ? ちょっと待って―――」
朝の生理現象と先程の夢の記憶とが相まって、とてもベッドを抜け出せるような状態ではない。慌てて上掛けを引っ張り、上腹部までをリネンで覆い隠した。
「どうしました? どこかお加減でも?」
ドアの向こうから心配そうな声がかけられる。フラムアークは見た目に不自然な箇所がないか確認をしてから、取り繕った声を返した。
「いや、大丈夫。どうぞ」
許可を得てユーファが室内に入ってきた。他の部屋はノックと同時に開けてしまうこともままある彼女だが、フラムアークが年頃になってからは一定の配慮をしているらしく、寝室だけは必ず返事を確認してから入ってくる。今回はこの配慮に救われた。
「おはようございます。気分の方はどうですか?」
「おはよう。うん、ちょっとぼーっするけど問題ない。……オレ、もしかして昨日あのまま寝ちゃった?」
「そうですよ。スレンツェがここまで運んで着替えも済ませてくれたんです。後でお礼を言っておいて下さいね」
ユーファの様子はいつもどおりだ。当然のことなのだが、やはりあれは夢だったのだと再認識をして、フラムアークは小さな落胆を覚えた。
「そうか。迷惑をかけちゃったな。……しかも、カーテンの向こうの日がずいぶん高いように思えるんだけど。オレ、だいぶ寝てた?」
「私とスレンツェで相談して、午前中はゆっくり休んでいただこうという話になったんです。今日は急ぎの仕事もありませんでしたから。その分、午後は頑張って下さいね」
フラムアークに薬湯を受け渡したユーファがそう言って部屋のカーテンを開けると、室内の明度が一気に増した。
「先に入浴になさいますか? お風呂も食事も、スレンツェの手配で用意が整っています」
「じゃあ、先に風呂へ入ってこようかな。色々スッキリしたいから」
「分かりました。では薬湯を飲み終えて朝の体調チェックが済んだら入浴という流れで参りましょう」
カーテンに続いて窓を開けたユーファがフラムアークの元へと戻ってきて、朝の日課の準備を始める。カーテンを揺らす春風が優しく彼女の雪色の髪を撫でて、長い髪の一部がその唇にかかった。それを指で払う彼女の仕草に得も言われぬ色気を感じて、フラムアークは戸惑った。ふっくらとした薄紅の唇が妙に艶めかしく目について、困る。夢の記憶が脳裏にチラついて劣情をくすぶらせた。
薄闇のシーツの上で淫靡(いんび)に濡れて光っていた彼女の唇。何度も何度も重ねて、食(は)んで、それでも足らず、食らい尽くしたいと思った―――。
そんな考えに及んでしまい、せっかく落ち着いていた自分自身に危うく火が付きかける。フラムアークはそんな己を戒め、煩悩を滅するように苦みのある薬湯を飲み切った。
*
フラムアークの様子はいつもどおりだった。
この分なら、昨夜のことは夢としても覚えていないかもしれない。
その方が間違いなく都合がいいはずなのに、一方でそれを寂しいと感じてしまう理不尽な自分がいた。
自分の気持ちすら定かではないというのに―――身勝手ね、私。
密かに自分を戒める私の前で、フラムアークが勢いよく薬湯をあおった。濡れた唇の端を拳でぐい、と拭う何気ない彼の仕草に男を感じて、思わずドキリとしてしまう。
昨夜はこの場所で、このベッドで、この唇に何度も熱を注ぎ込まれた。あの時はただの男と女だったのに、今はこうして主従として向き合っている、不思議な現実―――私の記憶の中にだけ残って、彼の記憶には残らない、一夜の夢。
フラムアークは本当のところ、私のことをどう思っているのだろう?
彼はあの熱情を秘めたまま、男としての側面を隠したまま、このまま主従として私と共に歩んでいきたいと、そう考えているのだろうか?
―――そもそも、亜人の一宮廷薬師が皇帝となる人間と結ばれることなど、許されるわけがないのに。
そんな自身の考えが心に重い影を落とした。
だから―――だから彼は、明かさずにいるのだろうか? だから自身の気持ちを押し隠して、皇帝としての将来を見据え、名実ともに伴侶としてふさわしいアデリーネ様を―――。
そんなふうに思ってしまい、私は心の中が矛盾だらけでぐちゃぐちゃになっている今の自分を嫌悪した。
空になった薬湯の椀をフラムアークから受け取りながら、そんな内心を包み隠して彼の前で精一杯普段どおりに振る舞っている自分を、醜くさえ思う。
「では、体調チェックに入りますね。まずは体温を測りましょう」
知らずにいたことを知った後で、それ以前の「普通」を保つのって難しいわね―――それとも素知らぬふりを続けていけば、それがいつかは当たり前になって、私達の「普通」が上書きされていくのだろうか―――……?