病弱な第四皇子は屈強な皇帝となって、兎耳宮廷薬師に求愛する

二十歳D


 その夜はフラムアークの要望で、彼の部屋へ食事を運んでもらい三人で遅い夕食を囲むことになった。

 普段私とスレンツェは宮廷従事者用の食堂でそれぞれ食事を取っており、フラムアークは皇族用の食堂で一人で食事を済ませることが多い。

 誰かの誕生日など、特別な時はこうして三人で食事をすることもあったけれど、年に数回程度なので、こうやってみんなで顔を合わせて夕食を取るのは久々のことだった。

「やっぱり皆で囲む食卓はいいな。普段は何とも味気ないんだ。任務で外へ出てる時はスレンツェと一緒だからいいけれど、皇宮(ここ)のだだっ広い食堂で自分以外誰もいない長テーブルで食事をしている時のあの空虚感といったら……」
「分かります、私も普段一人で食事を取ることが多いですから。誰かと一緒だと、同じ内容でも全然違って感じられますよね。去年アズールへ行った時、大勢で賑やかに食事が出来たのは楽しい思い出です」
「皇帝の庇護が解かれれば、これからはそういう機会も増えるだろうな。フラムアークの遠方の任務にユーファも同行出来るようになる」
「そうか……そうよね」

 そんな会話を交わしながら私達は食事を楽しみ、少々のお酒を共にしながら、今日の審議にまつわる話をフラムアークから聞いた。

 大帝国で成人と認められる十八歳を過ぎてからフラムアークは少しずつ色々な種類の酒(アルコール)を試し始め、この頃には大体何を飲んでも体調には差支えがないことが分かっていた。決して強いわけではないけれど、たしなむ程度なら問題なく飲めると言える。

 スレンツェは酒(アルコール)に強い体質で、飲んでも顔や態度にあまり変化が出ないタイプだった。自分の限界をキチンと把握していて、コントロールしながら飲める大人なタイプだ。

 ちなみに、この中で一番の酒豪は私だった。肝機能が優れているらしく、生まれてこの方、どんなにお酒を飲んでも酔っ払ったことがない。ふわふわ楽しい気持ちになるだけで、身体(しんたい)に支障をきたしたことがないのだ。

「ユーファは相変わらず水みたいに酒を飲むね。あんまりスイスイいくからアルコールが入ってないんじゃないかって疑いたくなるよ」
「こう見えて少しご機嫌にはなっているんですよ。身体もほんのり温かくなっていますし」
「見た目からは全く分からないのが恐ろしいな……」

 ぼそりと呟くスレンツェに私はじろりと視線をくれた。

「そういうスレンツェだって」

 そんな私達をほろ酔い加減のフラムアークが取り成した。

「二人とも酒に強くて何よりだ。もしオレが酔い潰れてもスレンツェが、スレンツェに万が一のことがあってもユーファがどうにかしてくれる。オレは気負わずゆっくりと酒が楽しめて、いい身分でいられるというわけだ」

 それから一刻ほど経過すると、その言葉を体現するかのように、フラムアークはテーブルの上に投げ出した自身の腕に頭を乗せるようにして寝落ちしてしまっていた。

 酔い潰れるような量は飲んでいなかったはずだけれど、今日一日様々な緊張に晒され続けた彼の身体はここで限界を迎えてしまったらしい。

 私達は頬をほんのり染めた無防備なフラムアークの寝姿に柔らかく瞳を細めた。

「色々な意味で気が緩んだんだろうな」

 起こすことを諦めたスレンツェがそう言ってフラムアークの肩を担ぎ、隣の寝室へと連れて行く。スレンツェが彼の世話をしている間に私は食器類をワゴンに片付けて廊下へと出しておいた。

 テーブルを拭いていると、寝室から戻ってきたスレンツェが後ろ首に手を当てて、肩が凝ったような仕草を見せた。

「デカくなって、着替えさせるのもひと苦労だ」
「ふふ。子どもの頃とは勝手が違うわよね」

 微笑む私にスレンツェはひとつ息をついて、何かと多忙なフラムアークを思いやった。

「明日は特に急ぎの仕事は入っていなかったな。午前中はゆっくり休ませておくか」
「そうね、それがいいと思う。ブランチは消化のいいものにしてもらって、充分に英気を養ってから午後の業務に取り組んでもらいましょう。厨房に連絡をお願い出来る?」
「ああ。ワゴンを下げがてら伝えておく」
「じゃあお願い。私は水差しを枕元に置いたら、ひと通り体調をチェックしてから下がるわ」
「分かった」
「お疲れ様、おやすみなさい」
「ああ、お疲れ。おやすみ」

 頷いて私の前を通り過ぎかけたスレンツェは、そこで足を止め私を振り返った。

「ユーファ」
「何?」
「……今日は悪かったな。オレもフラムアークと全く同じ考えだったんだ。自分のエゴを押し付けて、それがお前の為になるんだと自分に言い聞かせていた。お前の生き方を決めるのはお前自身なのに、自分の都合でそれをないがしろにしてしまっていた。すまなかった……」

 神妙な面持ちでそう謝罪するスレンツェに、私はもっともらしく眉を寄せてみせた。

「本当よ。何の前触れもなく突然あんなことを言いだされて、私がどれだけ驚いてどれだけ悲しい気持ちになったか……。情けないけど私はあなた達みたいに物事を深く先読みすることが出来ないし、お世辞にも機知に富んでいるとは言えないわ。けれど、私なりに自分に出来ることであなた達をサポートしていきたいと思っているの。
その……それこそ、あなたが前に言ってくれたみたいに、精神的な部分での支えというか……そういう部分で貢献していけたらと……」

 後半は尻すぼみになってしまった私の言い分にスレンツェは同調してくれた。

「そうだな。フラムアークが……オレ達がお前に求めているものは正にそれだ」
「だったらもう二度とあんなふうに、私の知らないところで私を切り捨てるような真似はしないで」
「切り捨てるというのとは違う。身勝手なやり方だったが、オレもあいつもお前を守りたかったんだ」
「私からすれば同じことよ。笑顔で突然手を離されて、一人放り出されてしまう感覚よ」
「……反省している。二度としない」

 唇を結んでそう誓うスレンツェに、私はいかめしい顔を作って念押しした。

「約束よ?」
「ああ。こちらから手放すような真似はしない」
「私は離れないわよ、絶対に」

 彼の言い方に納得出来なくてそう息巻くと、スレンツェは苦笑した。

「言葉のあやだ。手放せないさ、もう―――オレも、フラムアークも」

 伸ばした指先でそっと私の頬に触れて、彼はもの言いたげな表情を見せた。ドキリとする私に対し、しばらく無言でこちらを見つめた彼は、やがて何も告げぬまま、離した指と共にそれをしまいこんだ。

「明日からまた宜しく頼む」

 そう言い置いて背を翻すスレンツェの後ろ姿を見送り、私は動悸の治まらぬ胸を意識しながら、頬に残る彼の余韻をそっと指でなぞったのだった。



*



 盆に乗せた水差しとコップのセットを寝台のサイドテーブルの上に置いた私は、眠るフラムアークの体温と呼吸とを確かめた。

 うん、問題ないわね。

 続いて脈を計っていると、ベッドの中のフラムアークがわずかに身じろぎして、ぼんやりと薄目を開けた。

「ん……ユーファ……?」
「あ、すみません。起こしてしまいましたか?」

 寝ぼけ眼(まなこ)をこする彼にそう詫びると、相手が私だと認識した彼はふにゃりと笑った。

「ああ、ユーファだ……ユーファ、一緒に寝よう」

 言いながら私の腕を掴んで、有無を言わせず寝台へと引っ張り込む。

「きゃ! ちょ、ちょっとフラムアーク様……」

 彼の上に倒れ込むような形になってあせる私を、ころんと自分の横へ転がしたフラムアークは、とろんとした眼差しでこうねだった。

「今日くらい……夢の中でくらい、一緒に寝てよ。いいでしょ……?」

 これは……完全に酔っているわね。夢と現実が曖昧になっているんだわ。

 甘えるようにこちらを見つめる彼を見やって、私は小さく息をついた。

 常識で考えれば即座に辞退、ただちにベッドから下りるべきところだったけれど、夢現(ゆめうつつ)のフラムアークは今もうとうとしていて、放っておけばすぐに寝入ってしまいそうだった。

 ここは取り立てて騒がず、フラムアークが寝てからそっと抜け出すのが正解かしら……? 下手に拒否して彼を傷付けたくはないし。

 そう考えてじっと微動だにしない私を見て、自分の要望が受け入れられたと思ったらしいフラムアークは、整った相好を嬉しそうに崩した。

「へへ」

 そんな彼につられるようにして、私も自然と自分の表情が緩むのを覚えた。

 こんなことで、何て無邪気に喜ぶのかしら。

「オレ、今日頑張ったんだ」
「……そうですね。本当によく、頑張って下さいました」

 お酒が入っていない時に、改めてお礼を言いたいな。

 そう思った。

 さっきは感情が荒ぶっていて、気持ち良くフラムアークにお礼を言うことが出来ていなかったから。

 彼が私の為に―――兎耳族(わたしたち)の為に尽力してくれたことは、本当に言葉に出来ないくらい嬉しかったし、心の底から感謝しているのだ。

 それをきちんと、伝えておきたい。

 そんな私の心情を知る由もないフラムアークは、どこかあどけない表情で私に微笑みかける。

「だから、ご褒美かな? こんな夢……」
「ふふ。大袈裟ですね」

 そういえば、昔は度々一緒に寝てほしいってせがまれたっけ……。

 そんなことを懐かしく思い起こしていた私は、不意にすん、と首の辺りをフラムアークに嗅がれて、大いに面食らった。

「ユーファはやっぱりいい匂いだな……落ち着く……」

 きゃー! 今ちょっと、それはやめて! 一日の終わりで、一番不衛生な状態なのに!!

 酔いが回って頭がお花畑になっている彼とは違い、こちらは素面(シラフ)に近い状態なのだ。当人には全く悪気のない辱めと紙一重の行為に、非常にいたたまれない気持ちになってしまった。

 お願いだからすんすんしないで……! 

 と叫ぶわけにもいかず、逃げ出したい衝動をぐっと堪えていると、フラムアークに背を引き寄せられて、彼の胸に抱き込まれるような格好になった。

「それに、あったかくて……柔らか……」

 私を抱き込んだままのフラムアークの呟きが、心地好さげな寝息の中に吸い込まれていく。

 ―――ね、寝た……?

 私はしばらく動きを止めて彼の様子を窺った。

 フラムアークが呼吸をする度、私の目の前をすっぽりと覆う広い胸がゆっくり上下している。彼の規則的な心音と温かな体温が思いの外(ほか)心地好くて、思わずまどろみそうになってしまい、私は困った。

 お腹いっぱいで程良くお酒も入り、今日一日の終わりを迎えようとしているこの時間帯に、この誘惑はきつい。ともすれば眠りに誘(いざな)われそうになる身体を意志の力でどうにか制し、重い瞼を叱咤しながら頃合いを見計らって、なるべく静かに彼の腕の中から抜け出そうと試みる。

「ん……」

 腕を持ち上げたところでフラムアークの口から漏れた響きにぎくりとして、私は動きを止めた。

 まだ、早かった!?

 この行程をもう一度繰り返すのは正直辛い。どうにかこのまま起きずにすんでくれないだろうかと、息を凝らして彼の様子を見守っていると、うっすら開いたインペリアルトパーズの瞳とバッチリ目が合ってしまい、私は内心で天を仰いだ。

 これはちょっと、このままやり過ごすのは無理っぽいかしら……。

 自分の腕を抱えたまま固まっている私を見て、彼が何を思ったのかは分からない。

 物憂げにひとつ瞬きをしたフラムアークは、私に取られた腕をおもむろに伸ばすと、私の雪色の髪に触れ、ゆったりと梳くようにして撫でてきた。それから静かに顔を近付けて、私のおでこに自分のおでこをくっつけるようにする。

 すり、と一度合わせて離れ、今度は私の側頭部に自分の頬を寄せると、控え目にそっと押し付けた。

 こんな状態になっても冷静に状況を観察出来ていたのは、ひとえにアルコールの影響だと言える。お酒が入って、私自身の気の持ちようも大きくなっていたのだ。

 親愛の情を示すように何度か側頭部に頬をすり寄せられて、動物の愛情表現を連想していると、真正面にフラムアークの顔が戻ってきた。互いの鼻が触れ合ってしまいそうな距離でこちらを見つめるインペリアルトパーズの瞳に捉えられて、その引力に吸い込まれそうになる。

 間近で輝く、至高の宝玉のような橙黄玉の双眸。その煌めきの中に私がいた。

「やはり、夢……だな」

 誰に問うわけでもないフラムアークの独白が、夜の寝室にポツリと響く。

 どこか寂し気なその口調とは裏腹に、彼はとても幸福そうな顔をして、こうも言った。

「でも、それでもいい。幸せな夢だ」

 狂おしいほどの情熱がその瞳に灯り、ゆっくりと近付いてくる彼の端整な顔を、私はまるでスローモーションのように見ていた。我に返ったのは、近付いてきた彼の唇がそっと私の唇に重なった瞬間だった。

 一瞬だけ触れ合った柔らかな質感と熱に、私はサファイアブルーの瞳を見開いた。

 何もかも、全部が飛んで、思考が静止する。現実とは思えない出来事にただただ目を瞠る私に、フラムアークは柔らかく微笑んで、これまでに見せたことのない、男の艶(つや)を感じさせる表情でこう告げた。

「……好きだよ、ユーファ」

 それに呼応して、ドク、と、左の鼓動が大きく打ち震えた。

 これまでに何度も耳にしてきた言葉が、まるで別の意味を伴って鼓膜の中で反響し、心の奥の深いところまで揺らして、それまで自分の中にあった既存概念を崩壊させていく音を、私は呆然と聞いていた。

 人形のように動きを止めてしまった私に、フラムアークが再び口づけてくる。

 触れ合わせただけのさっきと違って、今度はしっとりと唇を重ねられ、リアルな質感にキスされている、とハッキリと感じて、止まっていた思考が動き出した。

「ん、待っ―――」

 押しとどめようとする私の言葉を遮るように、フラムアークは角度を変えて、強さを変えて、何度も何度も私にキスしてきた。

 それに圧(お)されるようにして後頭部が柔らかなシーツに沈み、見上げた先には初めて目にする男の顔があった。

 ―――これは、誰?

 心臓を鷲掴むような艶を放つ、私の知らないフラムアークの顔。滾(たぎ)るような熱情をその双眸に宿し、匂い立つような男の色香を纏って私を惑乱させる青年は、私の頬を両手でそっと包み込むようにして頤(おとがい)を上げさせ、止むことのない口づけを注いでくる。

 注ぎ込まれるそれが熱くて、これまで知らずにいた彼の深淵へと引きずり込まれていくようで、私はまるで縋るようにして彼の夜着を掴んだ。その滑らかで上質な絹の手触りが、私を更なる深い闇夜へとさらっていくようだった。

 待って。熱い。唇を塞ぐ貴方の熱も、身体を巡る私自身の熱も。

 控え目な香水の入り混じった男の匂いと互いから香るアルコールの残滓(ざんし)が私の鼻腔を妖しくくすぐり、嗅覚からも熱を煽って、私の意識を混濁させていく。

「んっ……ん、ふ……」

 自分のものでないような切ない吐息が耳をかすめる。大切そうに、愛しそうにキスを繰り返されて、心臓の鼓動で胸が破れてしまいそうだった。

 ―――何がどうして、こんなことに。

 絶えることのない口づけの合間に、私はそんなことを考えた。

 アデリーネ様は? あんなに、いい雰囲気だったのに。可愛い人だと、そう言っていたのに―――。

 ぐるぐると渦巻く思考を溶かすように、フラムアークの唇が私の唇を押し包む。静かな夜の闇に響く衣擦れの音とリップ音に、理性が突き崩されていくような気がした。

 私はどうして、されるがままになっているの? どうして抵抗する気が起きないの。

 逃がさないよう抱きすくめられているわけでも、きつく押さえつけられているわけでもない。

 ただ、顔を仰向かされて、情熱的なキスを受け続けているだけ―――……。

 きつく閉じた瞼の裏に、先程のもの言いたげなスレンツェの姿が浮かんだ。

 スレンツェ―――……あの時、何を考えていたの? 私に何か、伝えたいことがあったの―――……?



 どのくらいの時間が経ったのだろう。

 溢れ出るような熱情をひとしきり私に注いだ後、糸が切れたように深い眠りへと落ちていったフラムアークの傍らでまんじりともせずにいた私は、白々と明け始める夜をカーテンの向こうに感じて、彼の腕の下からのろのろと抜け出した。

 静かに眠るフラムアークの寝顔は見慣れた彼のそれで、今は可愛いとすら感じられる。蕩けるような男の色香を身に纏い、その熱で私を飲み込んだ男性と同一人物だとは、とても思えなかった。

 にわかには信じ難くて、今となっては夢だったのではないか、とさえ思う。

 でもあれは確かにフラムアークで、あの顔は今まで彼が見せてこなかった、男としての顔だった。

 私は震える指で自身の唇にそっと触れた。

 思い出すだけで、胸がぎゅっとしなるような感覚に陥ってしまう。

 あんな一面があったなんて、知らなかった。

 優しくて穏やかな人柄のその奥に、あんな―――あんな熱情を秘めていたなんて―――。

 その事実に、戸惑わずにはいられない。

 私はこれまでの彼に対する自分の認識を改めざるを得なかった。

 ―――男の人、なのよね……。

 身をもって、それを知った。知らされた。

 色々と考えなければいけないことはあるのに寝不足の頭ではとりとめのないことしか考えられず、私は混乱の残る胸の内を抑え込み、とりあえずわずかでも睡眠時間を確保する為、明け方のフラムアークの寝室をそっと後にしたのだった。
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