幸い悪い病原菌をもらってきたわけではなく、これまでの疲れが出たものだと思われ、緊張を覚えながら彼を診た私は大きく胸を撫で下ろした。
「情けないな……一緒に行ったみんなはピンピンしているっていうのに、オレだけこんなふうに倒れちゃうなんて」
久々にベッドの上の住人となったフラムアークはそう溜め息をついて天井を仰いだ。
「自分ではだいぶ体力もついてきたつもりだったけど……まだまだだったなぁ」
「そう気落ちしないで下さい。全体の指揮を取り続けた貴方の負担は私達よりずっとずっと大きなものがあったはずですから。むしろ途中で倒れることなく、無事に務めを果たし終えて、皇帝陛下へ報告を上げるまで持ち堪(こた)えられたご自分を褒めてあげて下さい」
冷たい水を絞ったタオルで彼の額の汗を拭きながらそう気遣うと、フラムアークは淡く笑んだ。
「……ありがとう。そう思うことにする」
それから少し間を置いて、彼は私にこう尋ねた。
「ユーファ、オレ、頑張れたかな?」
「もちろんです! アズールでの貴方の働きを知っている人はみんなそう答えると思いますよ」
「だと嬉しいけど。……ふとした瞬間に考えるんだ。もっと上手いやり方があったんじゃないかって。そう考えると、少し怖くなる。もっと上手くやれていたら、もっとたくさんの人を救えていたんじゃないのか……オレのやり方は本当に合っていたのかなって」
彼の口からこぼれたのは、上に立つ者が直面する孤独な命題、それに対する不安の欠片(カケラ)だった。
これはきっと今回に限ったことではなく、過去のアイワーン戦やこれまでの任務、何かある度に彼の脳裏をよぎってきたことなのだろう。
スレンツェにはこれまでもこういった悩みをこぼしていたのかもしれない。けれど、私に対して彼がそれを見せてくれたはこれが初めてのことだった。
私はそれを、嬉しく思った。
「……そこは多分、考えていくと際限がないのだと思います。過去に戻って違うやり方で再検証してみるわけにもいきませんし、貴方がその時精一杯考えて皆と協議した結果を信じてあげるしかないんじゃないでしょうか。もしも反省点を見つけた場合は、次に活かす糧(かて)としてより良い方法を模索していく―――それを繰り返しながらやっていくしかないのだと思います。有事における正解を知っている者など、誰もいないのですから」
「……うん。そうか。そうだね……」
フラムアークはその意味を噛みしめるように瞳を伏せた。
私の言葉で少しでも彼が楽になってくれたらいい。私の力が必要だと言ってくれた彼の為に、私の言葉が少しでも役に立てたなら。
「少し気が楽になった。ありがとう……」
ややしてからそう言ってもらえて、私の表情は自然とほころんだ。
良かった……。
そんな私に熱で赤らんだ顔を向けて、フラムアークは少し切なげな笑みを浮かべた。
「ベリオラがどうにか終息を迎えたのは良かったけど……また、鳥籠の中に戻ってきちゃったね」
「そうですね……でも、いいんです。いつか貴方が鳥籠(ここ)から出して下さる時が来ると、そう信じていますから」
熱のせいで気怠げなインペリアルトパーズの瞳が、確かな意志の輝きを帯びた。
「うん。少し時間はかかるかもだけど……信じて、待ってて」
「はい」
「……ユーファにこうして看病してもらうのは久し振りだね」
「そうですね。フラムアーク様、本当に丈夫になられましたから」
「不謹慎かもしれないけど……久々に君を独り占め出来ているようなこの状況は、ちょっと嬉しい。少しだけ、昔に戻ったみたいだ」
弱々しい笑顔で懐かしむようにそう言われて、胸に何とも言えない思いが広がる。どう返したらよいものか、返答に詰まった。
―――アデリーネ様に聞かれたら、やきもちを焼かれてしまいますよ。
「……ふふ。子どもみたいですね」
迷った末、私はそう苦笑するにとどめた。それから冷たい水で絞り直したタオルを彼の額に置こうと、柔らかな金色の前髪を指でそっとかき上げる。
「ユーファの指……冷たくて気持ちいい」
「フラムアーク様が熱いんですよ。完全に過労からくる発熱ですから、この際しっかり休養を取ってゆっくりと身体を休めて下さい。体調を万全にしましょう」
言いながら額にタオルを乗せた私の手を、フラムアークの手が取った。熱のせいで潤んだ綺麗な双眸と目が合う。
フラムアークは私の手を自らの火照った頬に導いて押し当てると、昔から何度も繰り返し唱えてきたあの呪文を囁いた。
「好きだよ、ユーファ」
その瞬間―――ドッ、と心臓が騒いで、彼から目が離せなくなった。
端整な面差しを上気させ、私の掌に熱い頬をすり寄せるようにして、ただ無償の信頼を寄せてくれている男(ひと)。幼い頃、自分の心を守る為の手段として彼が用いたお守りのようなその言葉は、時を経てまるで本物の魔力を持ち始めているかのようだった。
熱に冒され、ややしどけなくなった無防備な姿。掌に感じる、火照りを帯びた肌の質感。微かに指に触れる吐息が、熱い。
あろうことか、まるで彼の熱に当てられたように、全身がカーッと熱くなった。
そんな自分に私は大きく動揺した。動揺しながら、どこか冷静な自分が頭の片隅でこう告げるのを聞いていた。
―――返さなきゃ。いつもの、言葉を。
「私も……貴方が、好きです……フラムアーク様」
条件反射的に繰り出したその言葉を言い終えるのに、途方もない精神力を要した。
―――大丈夫? 声、震えてない?
いつものように言えている?
表情、おかしく、ない?
怒涛のような自問自答。耳の奥で反響する動悸と込み上げてくる罪悪感にも似た感情から、今すぐにここから逃げ出してしまいたいような衝動に駆られる。
それを踏みとどまらせたのは、目の前でふわりと広がった無邪気なフラムアークの笑顔だった。
「うん……」
穏やかで、安心しきった表情―――そんな彼の様子に私は心から安堵した。
良かった……ちゃんと出来ていた……。
「……ねえユーファ、我が儘を言っていいかな」
「はい……何ですか?」
「昔みたいに、オレが眠るまで傍にいてくれないかな……? 今日だけでいいから……」
喋り疲れて眠くなったのか、フラムアークはどこかとろんとした眼差しでそうねだった。
「分かりました。ここにいますから、安心してお休みになって下さい」
「ありがとう……」
言いながら瞼を閉じたフラムアークは、ほどなく眠りの世界へと誘(いざな)われていったようだった。
静かな寝息を立て始めた彼の額のタオルを再び取り替えてやりながら、私はその柔らかな金髪をそっと撫でた。昔そうしてあげたように、何度も何度も、ゆっくりと指で彼の髪を梳く。それから、幼い彼が好きだった子守唄を小さな声で歌った。
どうかしているわ、私。
無防備なフラムアークの寝顔を見つめながら、予期せず湧き起こった後ろ暗い自身の気持ちにそっと蓋をする。
熱を出して苦しんでいる主君に対して、あんな衝動を覚えるだなんて―――本当に、どうかしているわ……。
*
数日後、熱の引いたフラムアークの元へ意外な来訪者が現れた。
「虚弱な兄の見舞いに来た。加減はどうだ?」
「エ、エドゥアルト様……」
ノックの音に対応にあたった私はまさかの訪問客に驚いた。
第五皇子エドゥアルトが二人の腹心を伴ってフラムアークの見舞いに来たというのだ。
過去、病に臥(ふ)せっているフラムアークの元へ彼の兄弟が見舞いに訪れたことは一度もない。
アイワーンとの一戦以来、他の兄弟達に比べればエドゥアルトとの関係は良好にあると言えるのかもしれなかったけれど、飄々(ひょうひょう)とした第五皇子は油断のならない人物でもあり、私は彼の真意を計りかねた。
けど、わざわざ見舞いに来たという皇族を追い返す選択肢はない。
「ご来訪ありがとうございます。既に熱は下がりまして、大事を取っているところです。どうぞお入り下さい」
第五皇子一行を室内へ迎え入れると、それまで従者然としていた護衛役のラウルの雰囲気が急激に和らいだのが分かった。
「ユーファ久し振り、アズールへベリオラを封じ込めに行ってきたんだって? 大変じゃなかった!?」
「え、ええ……お久し振りですラウル、それはもう大変でした」
「スレンツェも一緒に行ってきたんでしょ? あれ、今日はスレンツェは? どこ?」
「今はちょっと業務で席を外していて、ここにはいませんが……」
「ええー、いないのかぁ、残念!」
手合わせの約束でも取りつけたかったのだろう、心底残念がるラウルにエドゥアルトの雷が落ちた。
「くだらんことをベラベラと……だからお前はついてこなくていいと言ったんだ!」
「そんなに怒らなくてもいいじゃないですかぁ!」
言い合いに突入しそうな勢いの二人に、見舞い用の花束を持った男性の側用人がこれ見よがしに「ん゛ん゛っ」と咳払いをする。分かりやすく諫められた二人は居住まいを正し、エドゥアルトはきまりが悪そうな顔で私に言った。
「繋いでくれ」
フラムアークにエドゥアルトの来訪を伝え、彼を寝室へ通すと、ベッドの上で半身を起こして書類に目を通していたフラムアークは驚きを隠さずに一歳下の弟を見やった。
「エドゥアルト。どういう風の吹き回しだ?」
「人聞きが悪いな。心優しい弟が虚弱な兄上を心配して来てやったというのに」
来客用の椅子にどっかりと腰を下ろしたその尊大な態度からは、そんな様子は一切窺えない。フラムアークは良く晴れた窓の外へと視線を向けて、こう嘯(うそぶ)いた。
「明日は嵐か……」
「ふん。そんな皮肉が言える程度には回復したらしいな」
「兄としては冗談と受け止めてもらいたいところだけどね。―――それで、お前がわざわざ皇宮の辺境へ来た本当の用向きは? 見舞いついで、何を聞きに来たんだ?」
見舞いの方がついでだと分かった上でのこの切り返しに、エドゥアルトは口角を上げた。
「話が早いな。見舞いついで、あんたの真意を確かめに来たのさ。どうして危険を冒してまでベリオラの渦中にあるアズールへあんた自身が出向く必要があったのか―――それを聞きに」
男性の側用人から渡された見舞いの花を花瓶へと生けながら、私は二人の会話が気になって落ち着かなかった。
「そんなことを聞く為にわざわざここへ? これが知れたら皇太子達からの風当たりもきつくなるだろうに」
「子どもの時分からの幼稚な優劣ごっこにいつまでもこだわっているような人達のことはどうでもいいよ」
「言うね」
「先に言っておくが、スレンツェ(あの男)の故郷の惨状を黙って見ていられなかったとか、人道的観点うんぬんの薄っぺらな戯言(たわごと)を聞きに来たわけじゃないからな」
「ひどい言いようだな。人としてのオレの美徳は全否定か」
「僕的にはそこはどうでもいいことなんでね」
エドゥアルトは鼻で笑った。にべもない弟の回答にフラムアークは苦笑をこぼす。
「何がそこまで引っ掛かった?」
「単純に違和感だね。あんたがあの男を殊(こと)の外(ほか)大事にしていることは知っているが、疫病の支援にお抱えの薬師を送るだけならまだしも、あんたが自身の命を危険に晒してまで今回の対策に当たる必要性が見いだせなかった。あんたは自分の命の価値をよく分かっているはずだしね」
油断のならないトパーズの瞳が、値踏みするようにフラムアークを見やる。
「アズールはあの男の故郷だが、あんたが命を張る程の縁者は今あの地にはいないはずだ。ということはアズールという遠方の一領地に、そこまでこだわる何かしらの理由があったんじゃないかとそう思ってね」
「オレ達の主従関係がお前の想像も及ばない強い絆で結ばれているからと、そういうふうに思ってはくれないのか?」
「そういうふうに考えている連中は多いと思うよ。反吐(へど)の出る仲良しごっこだと、皇太子(あにうえ)のようにね。だがあいにくと僕はそういうふうには考えられないんだ。あんたが柔和そうに見えてなかなかに強(したた)かな男だということはもう知っているから」
口調こそ穏やかなものの、探り合う兄弟の視線は得も言われぬ鋭さを帯びて、室内の緊張感を高めていく。ラウル達は寝室のドア付近に控えてそれをじっと見つめていた。
私はお茶の準備に取り掛かりながら、心臓がひりつくような思いに囚われてその状況に耳を傾けていた。
エドゥアルトは何を言わんとしているの?
「アズールでは領主関係者はおろか、民衆の間にもだいぶ広まったんじゃないか? 第四皇子フラムアークの名は」
含みを持たせたその言い方にドキンッ、と心臓が音を立てた。
「ああ、現地ではもっと違う広がり方を見せているかもしれないな? 皇子の下で頑張った連中の名も、顔も、実際に関わった領民の胸にはきっと深く刻まれたことだろう」
「……実際に皆、極限の状況下でよくやってくれたよ」
「ふぅん。壮大な未来を見据えた種まきは成功、といったところかな?」
それは、どういう―――?
エドゥアルトの言葉の真意を汲み取りかねる私の視線の先で、フラムアークは薄い笑みを湛える弟を諦めたように見やった。
「うーん……。お前が何を聞きたがっているのかは察しがつくけど、それを言ってオレにメリットはあるのかな?」
「さあね……でもまあ、そう構えるなよ。僕は単純に自分の指針としたいだけなんだ。前にも言ったけど僕は出来るだけ楽をしたいから、どう動くのが効率がいいか自分なりに早目早目で考えておきたいんだよ。それがあんたのメリットに繋がるかどうかは、今は何とも言えないな」
「それはまた……ずいぶんと都合のいい話だな」
「そうだね」
「で―――オレがそれに応えてやる義務はないよね」
「それはそうだね。どうするかはあんたの自由さ。僕がどう動くかは僕の自由だし」
エドゥアルトはあくまで飄々とした姿勢を崩さない。フラムアークは吐息をついて彼をねめつけた。
「……それがどう転ぶかは全部オレ次第、ってことか」
「まあそういうことになるかな」
のらりくらりと取り留めのないエドゥアルトにフラムアークは渋面になった。
「見舞いに来たと言いながら、病み上がりの兄に対して優しくない弟だ」
「見舞いはついでだからね。僕達の間に兄弟の絆なんてないようなものだろう?」
あっけらかんと言ってのける、自分をヤンチャにしたような顔立ちの弟を前に、フラムアークはじっと考え込む表情になった。
ハラハラする私の前で、全てを見透かすようなインペリアルトパーズの瞳と、それを読み取り飲み込もうとするトパーズの瞳とがぶつかり合う。しばらくして、ゆるゆると息を吐き出したのはフラムアークだった。
「……概(おおむ)ねお前の考えているとおりで合っていると思うよ」
告げられたその内容に、エドゥアルトはゆっくりと笑みを刻んだ。
「……へえ」
椅子から少し身を乗り出して、その真意を確かめるようにジロジロとフラムアークを眺めやる。
「ふーん……そうか。そうじゃないかとは思ったけど。へえ……」
面白そうに呟きながら、やがて一人納得するように頷いて椅子から立ち上がると、エドゥアルトはフラムアークに向かってこう言った。
「どうも、兄上。応えてくれた見返りにひとつ忠告してやろう。僕が勘付いたように、それとなく勘付いている奴は他にもいるぞ。フェルナンド兄上には気を付けるんだな」
フェルナンドというのは、第三皇子の名だ。
フラムアークより三つ年上で、母親似の秀麗な顔立ちをしている。頭が良く見た目の物腰は柔らかいけれど、自分の手を汚さずに他者を貶めることに長けている印象があり、私的には怖いイメージのある人物だった。
幼い頃、フラムアークは彼のせいで何度ひどい目に遭ったか分からない。階段から突き落とされた時も、突き落としたのは皇太子のゴットフリートだったけれど、彼を唆(そそのか)したのは第三皇子のフェルナンドだった。
「滅多なところでこんなことを口にするわけにいかないからな。フェルナンド兄上の間者がどこに潜んでいるか知れん。今日はあんたが応えてくれたらこれを伝えたいと思っていたんだ。忠告出来て良かったよ」
晴れやかな顔でそう告げるエドゥアルトにフラムアークは尋ねた。
「どうしてオレにそれを教えてくれようと思ったんだ?」
「言っただろ。僕はなるべく楽をしたいんだよ。ずっと気を張って生きていくのはしんどいし、常に背中を警戒しながら生きていく未来よりは、出来ればのんべんだらりと過ごせる未来の方を願いたい。そう思ったまでさ」
私は小さく息を飲んだ。
―――エドゥアルトは、やっぱり気が付いている。フラムアークの秘めた野望に。彼が皇帝を目指して動き始めていることに。
そしてエドゥアルトの言葉を額面通りに捉えるなら、彼の中で次期皇帝候補と目しているのはフェルナンドとフラムアークの二人に絞られていて、どちらの才も認めている彼は様子見に回ると暗に告げているのだ。状況次第で敵にも味方にも翻(ひるがえ)ると。
無論、その二人が共倒れにでもなれば、その後釜には自分が座ることを考えているに違いない。彼は「出来れば皇帝にはなりたくないが、それ以上に自分より無能な者の下に付くつもりはない」とかねてより断じているのだから。
「フェルナンド……か。やっぱりそこが出てくるよな……」
予想外の見舞客が帰り静けさの戻った室内で、フラムアークはポツリと呟いた。
彼の中で予測はしていたことながら、この時、すぐ上の兄を自らの前に立ちはだかる障壁として、フラムアークは具体的に認識することとなったのだ―――。