病弱な第四皇子は屈強な皇帝となって、兎耳宮廷薬師に求愛する

十九歳M


「せっかくの休日なのに付き合わせて悪いな」

 翌朝、顔を合わせたスレンツェにそう言われた私は、期待と緊張の入り混じった胸の内を意識しながらかぶりを振った。

「いいの。こんなふうにスレンツェから誘われるの初めてだったし、むしろ楽しみにしていたのよ」

 さり気なく自然に、本当の気持ちを伝える。

 あなたは想像もしていないでしょうけど、すごくすごく、嬉しかったのよ。昨夜(ゆうべ)はドキドキしてなかなか寝付けなかったんだから。

「それで、どこに連れて行ってくれるの?」
「少し遠くまで。馬を借りたから乗って行こう」
「えっ、馬!? 私乗れないんだけど」

 馬車に乗ったことはあるけれど、乗馬となると引き馬の経験すらない。

 そんな私を見やったスレンツェは、口元をほころばせた。

「知っている。安心しろ、オレと二人乗りだ」

 二人乗り……。

 その様子を想像して、とくんと心臓が波打った。

 これ、状況だけ考えたら何だかデートっぽくない? そんなふうに思えてしまって、一人うっすら頬を染めてしまう。

 城門付近には栗毛の馬が一頭用意されていた。手慣れた様子で颯爽(さっそう)とまたがったスレンツェから手ほどきを受けて、私も彼の手を借りながらどうにか馬上の人となる。よく調教されている馬は大人しく、乗ってみると目線が思った以上に高くて、否応なしに気分が盛り上がった。

「すごい、景色が全然違って見える。馬上からだとこんなふうに見えるのね」
「新鮮か? 疾走するとまた違った爽快感を得られるぞ」

 スレンツェの声の近さにドキリとして背後の彼を振り返ると、思ったよりも至近距離で視線がぶつかり、想像以上の距離の近さに落ち着かなくなった。

 少し後ろに重心を傾けたら、スレンツェに寄りかかってしまいそうな距離だ。

 わ……こんなに、近いんだ……。

「怖くはないか?」
「平気。高いところは好きだし、スレンツェの腕を信頼しているから」

 内心の動揺を押し隠して答えると、彼らしい物言いが返ってきた。

「ふ。そこは任せておけ」

 スレンツェの言動はいつもどおりで、背中いっぱいに感じてしまう彼の気配をこんなにも意識してしまっているのは、どうやら私だけみたいだ。

 それとも……スレンツェも私みたいに、内心では平静を装っていたりするのかしら……?

「出発するぞ。いいか?」
「ええ」

 スレンツェの操る手綱に従って、馬がゆっくりと動き出した。城門を出ると次第にそのスピードが上がって、春の陽光にきらめく街道を風を切って駆け抜けていく。軽快に響く馬蹄と勢いよく流れていく景色が眩しくて、私の顔からは自然と笑顔がこぼれた。

「わあ……早い! 気持ちいい!」

 弾んだ声を上げる私にスレンツェが背後から尋ねる。

「寒くはないか? この時期はまだ風が冷たい。長く走り続けると想像以上に身体が冷えるから、寒いと感じたらすぐに言ってくれ」
「分かったわ。今のところは平気よ」

 私は灰色の厚手のポンチョ、スレンツェは防寒用の黒いクロークを羽織って、しっかり手袋も身に着けている。冬装備で来てくれと事前に言われていたんだけど、それはこういう理由だったのね。

「こんなふうにスレンツェと二人で外出するなんて、初めてね」
「お互い帝都では籠の鳥だったからな。……フラムアークのおかげだ」
「本当ね。こうしてあなたと二人でアズールの道を馬で駆けているなんて、夢みたい。こんなこと、少し前はとても考えられなかったもの」
「フラムアークの『野望』が達成されれば、こういったことも夢ではなくなるんだろうがな……」

 不意に、宮廷の城門をくぐった時の情景が瞼の裏に浮かんだ。


『いつか、当たり前のようにここを行き来出来るようになろう』


 震える私の手を握り、そう言ってくれたフラムアーク―――私達の主上は、今夢物語であることが夢物語ではなくなるかもしれない世界を体現しようとしてくれている。不条理な力に抑えつけられることなく、誰もが自由な意思に基づいて行動出来る、それが当たり前になる日常を、人が人らしく生きられる世の中を実現しようと、強い決意を胸に秘めて、今は水面下でその力を蓄えている。

 皇帝になる、と彼が宣言したあの夜を思い出し、私は知らず頬を緩めた。

 不思議ね……現実には厳しい道のりだと分かっているのに、貴方がそう言うと、理屈ではなくどうにかなるんじゃないかと思えちゃうの……。

「フラムアークの野望への挑戦は、オレ達がオレ達らしく生きられるかどうかを賭けた、オレ達自身の戦いでもあると言える」
「……そうね」

 頷く私に、スレンツェはもっともらしい口調で返した。

「だが、今日は休養日だ。小難しいことを考えるのはやめよう」

 その意見に私は笑って賛同した。

「賛成よ。メリハリをつけるの、大事よね」

 それから私達は他愛もないことをたくさん話した。これまで話せなかった分を埋めるように、たくさんのことを。

 時間が過ぎていくのはあっという間で、長かったはずの乗馬時間も全く苦にならなかった。

「―――ここだ」

 太陽が中天に差し掛かろうとする頃、長い傾斜を上り森の小径(こみち)を抜けた先に待っていたのは、勇壮に流れ落ちる滝と険しくも美しい渓谷、その遥かにアズールの城下町を臨める絶景だった。水が太陽の光を反射してキラキラと煌めき、水飛沫(みずしぶき)の向こうには虹が架かって見える。

「わあ……」

 張り出した丘の先端からその光景を見やった私は、しばらく息をするのも忘れて目の前に広がる絶景に見入っていた。

「綺麗ね……」

 ほう、と吐息混じりに呟いた私の隣に馬を繋ぎ終えたスレンツェがやってきて、こう言った。

「昔、遠征に行く途中で偶然見つけた場所なんだ。雄大なこの景色を眺めていると、多忙に追われ逸る心が不思議と落ち着いていくのを感じて……それからは何かある度、一人でここへ来るようになった。フラムアークの領地視察でアズールへ来た時はここへ来る余裕などなかったから、何年振りになるかな。最後に来てからずいぶんと経つが……変わっていない」

 感慨深そうに切れ長の瞳を細めて、スレンツェは思い出の風景を眺めやった。

「お前と一緒に、もう一度この景色を見ておきたかったんだ。……付き合ってくれて、ありがとう」

 どんな思いで彼がその言葉を口にしたのか―――想像すると胸に迫ってくるものがあって、私は声が震えないよう気を付けながら、彼に感謝の気持ちを伝えた。

「ううん。私の方こそ、そんな大切な場所に連れてきてくれて、ありがとう」
「面と向かってちゃんと言えてなかったが……アズールの民の為に尽力してくれたことを、心から感謝する。今回アズールへ初めて来たお前に、過酷な局面ばかりでなく、せめてこの景色を見せておきたかった」

 私はエレオラの言葉を思い出した。

『アズールの民として、この地の為に尽力して下さった皆様には大変だった思い出だけでなく、心の滋養となるような記憶もお持ち帰りいただきたいのです』

 ああ、スレンツェもエレオラと同じ気持ちなんだ。

 そして、この大切な思い出の景色を私と共有したいと、そう思ってくれたんだ。

「私にとってもフラムアーク様にとっても、アズールは特別な思い入れのある大切な地よ。スレンツェの故郷だもの。あなたの故郷の為に、微力ながら力になることが出来て良かった。今日あなたと一緒に見ることの出来たこの景色を、私一生忘れないと思う。かけがえのない思い出になったわ」

 私はスレンツェの黒い瞳を見つめて微笑んだ。

 それは、心からの気持ち。あなたの故郷で共に見たこの美しい景色を、私は一生忘れない。

 こうしてあなたの大切な場所に連れて来てくれたこと―――二人だけの秘密のような思い出が出来たこと。また少しあなたの心に踏み込ませてくれたのだと、そう感じられることがとても嬉しい。

「ユーファ……」

 スレンツェが何か言いかけた時だった。渓谷から少し強めの風が吹きつけてきて、私は思わずぶるっと身体を震わせた。

「寒いか? ここまでだいぶ風を切ってきたからな」
「そうね……少し冷えたかも。でも」

 でも平気よ、と言い終える前にスレンツェが自らのクロークの裾を広げて、自分の身体を抱くようにしていた私を包み込んだ。肩を抱くようにして引き寄せられ、前触れなく彼の香りと温もりに包まれて、一瞬思考が静止する。

「冷たい。冷え切ってるな」

 彼の吐息が私の長い兎耳に触れる。スレンツェに側面から寄りかかるような格好になって彼のクロークに包まれた私は、ぎこちなく声を返した。

「……そ、う? そう、かもね」
「寒いと感じたら言えと言ったろう」
「そんなに寒く感じなかったのよ。話すのに夢中になっていたから……」

 自分の心臓の音がうるさい。左の胸にあるのだと、これでもかと言わんばかりに主張してくる。急激に顔が火照ってきて、私は真っ赤になった顔をスレンツェに見られないよう、景色の方へ精一杯首を向けた。

 今顔を見られたら、色々な意味で心臓が持たない。

 どうしよう……温かくて、幸せで、でも緊張して、心不全を起こしそうなんだけど……!

 しばらく無言で美しい風景を眺めながら、私はずっとドキドキしっぱなしだった。

 スレンツェは、平気なのかしら?

 こんな状況になっているというのに、彼の声はいつもと変わらず平静で、態度もごく自然なもののように思える。

 ……何だか私だけ一人でドキドキしているみたいで、ずるい。

 そっと彼の表情を窺うと、こちらを見ていた黒い瞳と目が合って、左の鼓動がひと際跳ねた。

「な、何?」
「いや……ここで今お前とこうしている不思議と、時の流れを改めて噛みしめていた。……誰かとここへ来ることなど、昔は考えられなかったからな」

 スレンツェ―――私……少し自惚れてもいいのかしら? あなたにとって少しは特別な存在だと、そう考えてもいいのかしら?

「……そろそろ行こうか。日暮れ前に戻らないとな」
「もういいの?」
「ああ。目によく焼きつけた」
「そう……何だか名残惜しいわね……」

 後ろ髪を引かれる私にスレンツェがふと笑んで、これまでに見たことのない、和らぎを帯びた極上の顔を見せた。

「そう言ってもらえたなら、連れて来た甲斐があった」

 うわ……何て顔をするの。あなたのその顔を見れただけで、私こそ、今日この場所へ来れて良かったと、心からそう思える。

 スレンツェから、目が離せない。そんな私を彼もじっと見つめていた。

 しばらく無言で見つめ合う時間が流れ、やがて、ゆるゆると私から視線を外しながらスレンツェは言った。

「……どこかで軽く食事をしてから戻るか」

 呼吸をするのも忘れていた私は密かに詰めていた息を吐き出しながら、意識的に明るめの声で言った。

「そうね……お腹空いちゃった。私、何か温かいものがいいな」
「なら、比較的近い場所に何度か立ち寄ったことのある店があったはずだから、そこへ行ってみるか。温かいメニューが豊富で、味も悪くなかったはずだ」

 こんなやり取りがひどく新鮮だった。

 スレンツェの案内で行くお店……地元ならではよね。私の知らない彼の一ページをまた新たに知れるようで、嬉しい。

 その反面、スレンツェと二人だけのこの時間に刻々と終わりが近付いているのだと思うと、とても寂しい気持ちになった。

「―――ねえスレンツェ。食事をして、もしまだ時間があるようだったら、私行ってみたいところがあるんだけど」

 そう提案すると彼は意外そうな面持ちになった。

「構わないが……どこにだ?」

 私はポケットに忍ばせていたエレオラからもらったメモを取り出して彼に見せた。

「実は、エレオラからアズールのお勧めの景勝地とお土産を教えてもらっていたの。もし時間が取れるようだったら行ってみて下さいって言ってくれて。この中で、行けそうな範囲のものはある?」

 メモにざっと目を通したスレンツェは感心したように頷いた。

「いいセレクトだ。この中で今日行けるとすれば……ここかここだな。食事をしながら決めよう」
「……ええ!」

 二人きりの時間が少しだけ伸びた。それが、この上なく嬉しい。

 立ち去る前に私達はもう一度、壮麗な景色に目を向けた。

 再び見ることは叶わないかもしれない―――けれど、私達は絶対にこの景色を忘れない。

 包まれていたスレンツェのクロークが広げられて外気の冷たさを感じた時、出来ればずっと彼の体温に包まれていたかったと感じている自分に気が付き、私は馬へと向かうスレンツェの広い背中を見やりながら、身体に残る彼の余韻をそっと抱きしめた。
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