病弱な第四皇子は屈強な皇帝となって、兎耳宮廷薬師に求愛する

十九歳J


 ピオの高熱は三日経っても下がらず、意識も朦朧としたままで、目が離せない状況が続いた。

 私は祈るような気持ちでピオに付き添い、エレオラ達と協力しながら、病魔と戦い続ける彼の為に出来る限りの手を尽くした。

 四日目の夜になるとようやくそんな状況に変化が訪れ、ピオの熱は緩やかに下がり始めた。呼吸も落ち着き、全身に広がっていた皮疹も化膿に至ることなく薄らぎ始め、その変化に私達は顔を見合わせて喜び合った。

 良かった……どうやら峠は越えたみたいね。

 私は大きく胸を撫で下ろし、まだ幼さの残るピオの顔を見つめた。意識はまだハッキリとしないけれど、この分なら近日中に回復することだろう。

 本当に良かった……フラムアーク達にも早く知らせてあげなくちゃ。とても心配していたものね。

 深夜の付き添いをエレオラ達に任せ、仮眠を取る為に村長の家を出た私は冬の外気に身を竦めながら、ふと見下ろした地上に一人佇んでいるスレンツェの姿を見つけた。

「スレンツェ」

 白い息を吐きながら石造りの長い階段を下り声をかけると、薄暗い月明りの下で私を振り返った彼は、少しだけ表情を取り繕った。

「ユーファ。……これから仮眠か?」
「ええ。後はエレオラ達にお願いしてきたわ。……こんな時間にこんなところで、どうかしたの? 何か考えごと?」
「……。まあ、そんなところだ」

 スレンツェは曖昧に頷いた。深く追求するつもりはなかったので、私はそう、とだけ言って話題を変えた。

「それより聞いて、ピオがどうやら峠を越えたみたいなの! まだ油断は禁物だけど、きっともう大丈夫。近いうちに目を覚ますんじゃないかしら」
「―――そうか。それは何よりだ……」

 スレンツェはひとつ息をついて、心から安堵した様子を見せた。

「……よく頑張ったな」
「ええ、本当によく頑張ったわ。あんなことになってしまって、精神的にもかなり弱っていたからベリオラの発症に耐えられるか心配だったけど、よく持ちこたえてくれた。この分ならきっとあと少しで元気になるわ」
「そうだな。……ピオはもちろんだが、お前もよく頑張った」
「えっ?」

 私?

「ありがとう……でも私だけの力じゃないわ、みんなで協力し合ったから―――」
「それはもちろんだが、そういうことじゃない。……色々きついことを言われていただろう。だが、それをおくびにも出さず献身的に手を尽くした。だからこそピオは踏ん張れたのだと思う。そういう意味での頑張った、だ」
「え……聞こえてたの……!?」

 私は驚いた。ピオが倒れた後、最初にその場に駆け付けて彼を運んでくれたのはスレンツェだった。大きな声がしたから何事かと思って来た、としか言われていなかったから、その内容を彼が把握しているとは今の今まで思っていなかった。

 そうか……スレンツェは知っていたんだ―――。

 そうと分かった瞬間、そんなつもりはなかったのに、これまで張り詰めていた気持ちが緩んでしまいそうになるのを感じて、私はあせった。ずん、と目の奥が熱くなってきて、それをごまかすように口を開く。

「ピオの言葉は確かにきつかったけど、それは彼の言い分に一理あると私自身が感じたから……。正直、ハッとさせられたの。今まで自分の側からしか見ていなかった世界を別の視点から突き付けられて、これまで認識していた世界が一瞬で色を変えた気がした……。
世界的に人種差別があることは、知識として知っていたの。ただの知識として……今も世界のどこかで起こっていることとして……。どこかの問題ではなく自分の身近で実際に起こっていることなのに、私にはその意識が欠落してしまっていたんだって思い知らされた。この世界で日常的に起こっている理不尽な現実が、私の中ではこれまでまるで現実味を伴っていなかったんだって―――。これじゃ、何不自由ない鳥籠の中で安穏と皇帝に飼われていると非難されても反論出来ないわ……! それが、情けなくて……ピオに指摘されるまでそんなことにも気付いていなかった自分が、ひどく間抜けで―――」

 ピオよりずうっと年上なのに―――ただ長く生きてきただけで、私の中身はこんなにもスカスカだ。

 種の保存という名目で皇帝の軟禁下に置かれている兎耳族(じぶんたち)を、生活の保障と引き換えに自由を奪われた哀れな種族だと思ってきた。

 その状況を贔屓(ひいき)だと羨んでいる人々がいること、非難の眼差しを向け糾弾している人々がいることなど、想像もしていなかった。穴熊族のように謂れのない差別を受け、理不尽さを抱えながら生きている人達の不条理な日常を、現実を知らなかった。

 これ以上言葉にすると自分の情けなさに涙がこぼれてしまいそうで、私はきつく唇を結んだ。そんな私を黙って見ていたスレンツェの口から語られたのは、意外な告白だった。

「ピオの言葉にハッとさせられたのは……オレも同様だ」
「え……?」

 涙を堪えて見上げた彼の精悍な顔には、強い自責の念が滲んでいた。

「さっきお前に声をかけられるまで考えていたのは、実はそのことだ。バリケードを通過した後の馬車内でのやり取り―――あの夜、ピオからお前に向けて放たれた言葉の数々……聞いていて、全てが自分に跳ね返ってくるようだった―――胸に深く突き刺さって、あれからずっと、抜けずにいる。頭の中は自問自答の繰り返しだ。
この地で、アズールで綿々と続いてきた謂れのない差別……。オレは……かつてこの地で王族として暮らしながら、穴熊族のそんな実情を全く知らずにいた。いや……正しくは、知ろうとしなかった。その状況を改善出来たかもしれない立場にいながら、だ」

 切れ長の双眸に苦い光を揺らし、スレンツェは後悔の念を口にする。

「お前同様に、知識としては知っていた。この世には人種差別があるということ……アズールでは昔から穴熊族がその憂き目にあっていること……。だが、それが当たり前という風潮の中で育ったオレは、それを『異常』だとは思わなかった。『そういうもの』なのだと認識したまま捨て置き、それについて深く考えることなどしなかった。
これまでそうであったのだから、そのままで国が成り立ってきたのだから、特に問題ないことだと気にも留めていなかった。無意識下で差別していたんだ。
何もかも失って、どうしてやることも出来ない立場になって……初めてその現場に直面して、ようやくアズールが抱える暗い歪(ひず)みの深さに気が付いた……救いようのない愚かさだ」

 色が変わるほど両の拳を握りしめて、スレンツェは自身をそう断罪した。

「オレはこれまで一方的に帝国を憎むだけで、アズールには何ら非がないと―――父の治世に間違っているところなどないと思ってきたが、それは違っていたのかもしれない。オレの知らないところでくすぶっていた火種は、おそらく他にもあったんだろう。……水面下にあった数々の要因、そこから生じた様々な軋轢が重なって、結果、アズール王国は滅亡への道をたどることになったのかもしれない……。……真相は定かでないが、確かなのは……オレの目が節穴だったということだ。オレは、きちんと国を見ていなかった。見ていたつもりで、何も見えていなかった―――」

 スレンツェ―――。

「これまで私達は、私達の世界しか―――自分達の中の小さな世界しか、見えていなかったのね」

 私はうつむく彼を見つめて、ほろ苦く笑んだ。

 知らない―――それは、何て愚かな響きだろう。

 私達のように知り得る立場にいながら、真の意味でそれを知らずに―――知ろうとすらせずに過ごしている者は、この世界にいったいどれほどいるのだろう?

 世界がそれを共有出来ていれば、今、世界に溢れる数々の悲しい物語の結末は、変わっていた部分もあったのだろうか?

 考えても詮なきことかもしれない。

 過去は、どんなに変えたくとも変えられないのだから―――そして、それを嘆いているばかりでは何も立ち行かないのが現実なのだ。

 それを、私達は過去の辛い経験から学んでいる。

 ならば前を向くしかないのだと、現実を受け止め立ち上がるしかないのだと知っている。堂々巡りに陥りそうになる思考の隅で、分かっている。

 未来は、いかようにも変えていけるはずなのだと。私達の意識次第で、これからどんなふうにも変えていけるはずなのだと。

 たくさん間違って、傷付いて、迷いながら、苦しみながら、時に回り道をしながら―――でもきっと、それは無駄にはならないはずだと信じたい。大事なのはそういった経験を布石にして、この先、より後悔しない為の道を模索していくことなのだと、そう信じたい。

「ここから変わっていけばいいのよ、私もあなたも。そう割り切って進むしかないんだわ、きっと。だって、どう足掻いても過去には戻れないんだから。後悔に囚われて身動き出来なくなるより、反省して心機一転、前に進んだ方がずっと建設的よ」

 私は半分自分に言い聞かせながら、似たような過去を持ち、今また深い後悔に囚われている青年に訴えた。

 じっと私の声に耳を傾けていたスレンツェは、何かを噛みしめるように一度瞑目した。次に瞼を開けた時、彼の目にはいつもの強い光が戻ってきていた。

「……そうだな。確かにお前の言うとおりだ……」

 ゆるゆるとスレンツェが息を吐き出した時だった。

「―――オレも混ぜてもらえるか?」

 聞き覚えのある声がして、振り返った私達の前に暗がりからフラムアークが姿を見せた。

「フラムアーク様」
「ごめん、二人の姿を見かけたから話をしたいと思って―――立ち聞きするつもりはなかったんだけど、途中から聞こえていた。……一緒にいいか?」

 そう気遣う彼に私達はふたつ返事で頷いた。

「ええ、もちろん。どうぞ」
「構わない」
「ありがとう。―――ピオの容体はどう? 何か変化はあった?」
「はい、実は先程ようやく熱が下がり始めて―――峠は越えたと思います。皮疹も消え始めました」

 それを聞いたフラムアークは目を瞠ると、喜びを噛みしめるように言葉を絞り出した。

「そうか! それは良かった……! 村がこんなことになって―――それを報せてくれたピオにまで万が一のことがあったらと考えると、あまりにもやりきれなかったから……そうか、助かるんだな……ああ、本当に良かった……!」

 そうよね……それでは、あまりにも救いがないものね……。

「―――話の腰を折ってすまなかったな」

 フラムアークはそう詫びて表情を改めると話を仕切り直した。

「さっき二人が話していたことだけど……今回のことで色々と気付かされたのは、オレも同様なんだ。アズールはスレンツェの故郷ということもあって、どんなところなのか昔から興味があったから、子どもの時分からアズールに関する本はたくさん読んだけど、こうして実際に訪れてみて思ったのは、書面からは知ることの出来なかったことがたくさんあったということだ。
例えばこの穴熊族の洞窟住居だけど―――彼らが洞窟を住処としていることは様々な書物に記されていた反面、その構造や外観といった詳細な記述はどこにもなくて、それが独自の技術を用いて造られたこんなにも見事なものだということは、この地を実際に訪れてみなければ分からなかったことなんだ」

 フラムアークはそう言って、独特の景観を持つ穴熊族の洞窟住居群を振り仰いだ。

「百聞は一見にしかず、とはよく言ったものだと思う。アズールに関する本は何度も読み込んでそれなりの知識を持っていたつもりだったけど、自分の目で見て初めて知ることは本当に多いと思った。
村の者の話によれば、この辺りの岩は柔らかくて掘りやすいのに崩れにくく、余分な水分を吸収してくれる性質を持っていて、寒暖差の大きいこの地の住居を造るのに最適なんだそうだ。湿度を適度に保ってくれるから夏は涼しく冬は暖かい快適な家になるらしい。木やレンガで造るのではこうはいかないそうだ。この地の理に適った住まいと言えるんだろうな。
それに、どこか別世界に迷い込んだような気分になる独特な雰囲気と景観は、おそらく世界中でここだけのものじゃないだろうか。この村をひと目見た時、オレはその佇まいに芸術性すら感じた―――けれど、それは実際にこの地を訪れて自分の目で見てみなければ分からなかったことなんだ。知らないだけで、帝国全土にこういった事例はいくつもあるんだろうと思う。
素晴らしい技術と理に適った住まいを持つ穴熊族を日陰者、汚れ者と蔑称する風潮は、それを正しく理解しない偏見による吹聴から広まった悪しき因習だ。オレ達はこの地に深く根付いてしまったその風潮を、時間をかけて正していかなければならない。その為にはどうしたらいいのか―――この先、同じような問題を抱えたいくつもの事案を解決していく為には、どうすべきなのか」

 自問するフラムアークの柔らかな金髪を、晩冬の夜風が撫でていく。

「必要なのは正しい知識と情報だ。それを国民に継続的に発信し続けて広めていく為の場が必要なのだと思った。ただ、帝国全土にそれを創設するとなるとざっと国家レベル規模の予算が必要になるだろうな。それを管理する為の機関も設けねばならないだろうし……いずれにしても病弱な第四皇子の手には余る問題だ」

 自虐気味な物言いをするフラムアークにスレンツェが静かな声で問いかけた。

「国民に正しい知識と情報を継続的に発信していく場……か。国家レベル規模の予算が必要になると言ったが、お前は具体的にそれをどう考えたんだ?」

 それに対するフラムアークの返答は淀みなかった。

「オレが考えたのは、教育という形だ。教育の場を作り、今は一定階級以上の者しか受けることの出来ていない教育を、これからの未来を担う全ての子ども達に受けさせることが出来たら―――子ども達を通じて親の世代にまでそれを伝えることが出来たなら―――将来的にこういった偏見や差別を無くしていくことは可能じゃないだろうかと、そう考えた。無論、そういった教育だけでなく文字の読み書きや算術等も教えることで国民全体の資質が上がり国力の底上げがなされれば、国としてのメリットも非常に大きいものがある」

 全ての子ども達に教育を―――そんな夢のようなことが実現出来たら、どんなにか素晴らしいだろう。

 それが叶えば、フラムアークが語るような社会が訪れる日も夢物語ではなくなるのかもしれない。世代交代が進み、やがて全ての人が教育を受けた世代となれば、悪しき因習は過去のものとして、記録の一ページに記されるのみとなるのかもしれない。

 けれど、それを実現するまでにはどれほどの苦難を伴うか。

「まだ、何の現実味もない理想論だ。膨大な予算も時間もかかるだろうし、それに携わる人材の育成も必要になってくるだろうしね。議論の余地は山程あるし、実現させるにしても相応の困難を伴うだろう。いずれにしても、何の力もない今のオレにはどうすることも出来ない机上の空論だ。けれどオレは、それで終わらせたくはない。そう思っている」

 フラムアークの纏う雰囲気が変わった。ただならぬ気配を察し知らず背筋を正した私達へ、厳(おごそ)かな光を湛えたインペリアルトパーズの瞳が向けられる。

「ユーファ、スレンツェ。だからこそ今、二人に聞いてほしい」

 凛とした夜の空気に、毅然とした、覚悟を感じさせる声音が響いた。


「オレは、皇帝になる」


 まるでタイミングを見計らったかのように、月にかかっていた薄雲が風にたなびいて、露わになった白い光が冴え冴えとフラムアークを映し出した。

 突然の宣言に息を飲み、目を瞠ったまま微動だにしない私達へ、降り注ぐ静謐(せいひつ)な光を受けた第四皇子は少しはにかみながら自らの心情を語った。

「君達にとっては唐突だよね。でも、自分の中ではずいぶんと前から頭にあったことなんだ。漠然とではあるんだけどね。オレにはどうしても叶えたい願いがふたつあって―――それはおそらく皇帝にならないと叶わないものだと、子ども心にも思えたから……」

 それを聞いた私は改めて衝撃を受けた。

 そんなにも以前から、彼の中に皇帝になるという意識が芽吹いていたのだということが意外で、驚きだった。

「きっかけはそんな、私利私欲以外の何物でもない不純極まりないものだったけれど、年月(としつき)を経るごとに自分の中でも色々と積み重なっていくものがあって、次第にそれは明確な目標へと変わっていったんだ」

 整った穏やかな容貌が決然とした色を纏い、熾烈な骨肉争いへと身を投じる覚悟を決めた一人の男の顔へと変貌する。

「今は、揺るぎないオレの野望だ」

 そう言い切った彼の双眸には深く燃え滾る不退転の焔が見えるようだった。

「誰よりも信頼する君達に今ここでこうして宣誓することで、オレはここから本格的に動き出す」

 私は自分の血潮がざわっと騒ぐのを覚えた。生まれて初めての感覚だった。

「オレは、不条理な差別をなくしたい。真面目に慎ましく生きる全ての人々が健全に笑って暮らせる、それが当たり前の社会を築きたい。
自分の生まれや境遇を嘆いた時期もあったけれど、オレは病弱に生まれて、第四皇子という立場に生まれて幸運だったと、今ではそう思っている。この身に生まれついたからこそ人としての痛みを知ることが出来たし、人の醜悪さも優しさも目の当たりにすることが出来た。おかげで人を見る目が養えたし、何より、自分の願いを叶えられる可能性のある立ち位置に生まれ落ちたことをありがたいと思う。普通であれば手の届かない皇帝という地位に、努力すれば届くかもしれない位置にいるんだ。
宮廷内では次期皇帝候補になることはないと早々に見限られているし、実際にだいぶ出遅れてしまってはいるが、公に皇位継承権を剥奪されていない以上、オレにもチャンスはある。皇位継承順位という生まれながらの序列こそあれ、次期皇帝の座は最終的には現皇帝の裁量によって決まるからだ。病弱のハンデを負ったことで兄弟達はオレを見くびっているから、そこを最大限に活用していくつもりだ。けれど、たやすくたどり着ける道のりじゃない。オレ一人では到底立ち行かない。だから」

 フラムアークは一旦言葉を区切り、熱のこもった眼差しで私達に訴えた。

「ユーファ、スレンツェ、どうか君達の力を貸してほしい。オレの野望を叶える為には、君達の協力が必要なんだ」

 これまで内に秘めてきた熱情を初めて露わにするフラムアークからそう乞われ、胸の奥底から熱いものが込み上げてくる。

 ベッドに臥せりがちで泣いてばかりいた小さな貴方が、そうやって自分の未来を見定めて、それを成す為に全身全霊をもって戦おうとしている。その手伝いが、私に出来るのなら。

「はい―――フラムアーク様」

 私は口角を上げて頷いた。

「正直―――貴方の口からこんな言葉を聞く日が来ようとは、夢にも思っていませんでした。けれど、嬉しいです。貴方がご自身の価値を認め、ご自分で考えて決断した目標であり野望―――ぜひとも成し遂げて、貴方の理想とする世の中を実現してみせて下さい。その為の助力は惜しみません。私に出来ることでしたら、何なりと」

 フラムアークに向かって頭(こうべ)を垂れる私の隣でスレンツェが口を開いた。

「―――オレは帝国が嫌いだ」

 苦々しさを多分に含んだ口調。精悍な顔をわずかにひそめて彼は続けた。

「……だが、かつての祖国は今や帝国領の一部となった。不本意ながら、当面この状態が変わることはないだろう。新たな火種を起こして、死屍累々の山を築いてまで祖国再興を期するつもりが、今のオレにはないからだ。それに……立場が違うだけで、帝国の民もアズールの民も等しく人であることは、この十余年で身に染みた。
オレが願うのは、国民の恒久的な平和だ。アズールの民には辛い思いをさせた分、幸せに暮らしてもらいたい。
オレは現皇帝の治める今の帝国は嫌いだが、お前が皇帝になって、さっき宣(のたま)っていた高説が実現された新たな国ならば、好きになれるかもしれない」

 スレンツェ……。

「―――毒を食らわば皿まで、だ。オレにはかつてのアズールの民達の暮らしを守る責任もあるしな。お前がその為に邁進(まいしん)すると言うのなら、全力で支えよう」

 偽りを許さない、厳しくも真っ直ぐなスレンツェの視線を曇りのない眼差しで受け止めたフラムアークは、大輪の花開くような笑顔になった。

「……ありがとう、スレンツェ。ユーファ。オレ、全力で頑張るから」

 私達の前でだけ見せる、年齢相応の人懐っこい表情。そこからは、劣勢を挽回し皇帝の座に就くと宣言した先程の強(したた)かさは窺えなかった。

 無意識にか意識的にか、フラムアークは自分の見せ方を心得ているような気がする。普段は必要のない威厳も気概も内に秘め、ここぞという時にだけ解放しているような……。

 それにしても、皇帝を目指す発端となった「皇帝にならなければ叶わないふたつの願い」というのは何なのかしら……?

「あの、参考までに……差支えなければで構わないんですが、皇帝(そこ)を目指すきっかけとなった『どうしても叶えたいふたつの願い』というのは何なんですか?」

 率直に尋ねてみると、悪戯っぽくかわされてしまった。

「ゴメンねユーファ、願掛けをしているんだ。叶うまでは誰にも言うつもりはない」

 ええ……そうなの?

 ううーん、無理強いする気はないけれど、正直とっても気になる……! いったい何なの??

 隣で腕組をしているスレンツェに「何だと思う?」と目配せすると、彼は少し悪い顔になってフラムアークに揺さぶりをかけた。

「ずいぶんと昔からの願いのようだからな……ひとつは簡単に察しがつくが―――さて、もうひとつは何だろうな?」
「ちょっ、スレンツェ! 心の中で想像する分には自由だけど、口に出すのはナシだからな!? 絶っっ対にユーファに言っちゃダメだぞ!」

 ええ、何それ!? フラムアークのひとつ目の願いごとはスレンツェにとってそんなに簡単に分かるものなの!?

 目を丸くすると同時に、自分だけが蚊帳の外に置かれてしまったような気分になって、私は小さく頬を膨らませた。

「そんな、私だけが分からないなんて、何だかのけ者みたいで悔しいじゃないですか。スレンツェの憶測なら別に言っても問題なくないですか?」
「ダメだ、オレのメンタル的に問題ありありだ! 憶測じゃなくて多分正解だし!」
「ええー、そう言われるとますます気になっちゃうんですけど……どうしてスレンツェには簡単に分かって私には分からないのかしら……」
「いいからユーファ、頼むからもうそこはそんなに掘り下げないでくれ……」

 額に手を当てて大仰に息を吐くフラムアーク。そんなふうに心底参った、という調子で制止されてしまったら、私的には引き下がらざるを得ないけど……ああ、ものスゴい消化不良感……。

 上目遣いでそれを訴えてみるも、心なし頬を染めたフラムアークにキッパリ却下されてしまった。

「そんな可愛い顔をしても、ダメ!」

 どちらかといえば恨みがましい顔だったのではと思ったけれど、久し振りに彼から「可愛い」という言葉を使われて、不覚にもそれを意識してしまった自分がいた。

「フラムアークの野望が叶えばふたつの願いとやらも自ずと明らかになる。それまでの楽しみに取っておいたらどうだ?」

 タイミングよくスレンツェから出された助け船のような言葉に乗って「そうね」と相槌を打ちながら小さな動揺を押し隠していると、そんな私達を見ていたフラムアークがぽつりと漏らした。

「……何だかこの空気、久し振りだな。三人そろって、気の置けないこの感じ……やっぱり心地好いね」

 確かに……アズール城を出てからというもの、毎日慌ただしく過ごしていて、こんなふうに三人だけで顔を合わせるということがなかったものね。

 それは私達も感じていたことだったから、自然と互いの顔を見合わせて和やかな雰囲気になった。

 冬の終わりが近付く山間部の深夜の外気は身を切るように冷たかったけれど、フラムアークと壮大な決意の共有を果たし、互いの絆がより深まったと感じている私達の心は熱を帯びていた。

 その夜は、私達にとって忘れられない夜となった。
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