崖の急斜面に掘られた各住居は岩を削って造られた階段で繋がっており、それぞれの入口には石造りのテラスが段違いに設けられていて、開放的で独立したスペースで仕切ることで各戸のプライバシーが確保されている。そんな洞窟住居群がいくつか寄り集まって穴熊族の村は形成されていた。
彼らはこの山間(やまあい)の地で採石等に従事しながら細々と暮らしているのだという。
灰色を基調とする自然と融合したその特異な景観は私が今まで目にしたことのないもので、こんな時でなければじっくりと眺めていたくなるような不思議な趣を持っていた。
圧巻ね……まるで知らない世界へ紛れ込んでしまったような錯覚に陥る佇まい……。
私と同じく初見の者は皆それに目を奪われた様子で、摩訶不思議な景観の村の前に立ち尽くしている。
それはフラムアークも同様で、言葉を失うようにして目の前の光景に見入っていた彼は、駆け出したピオの声で現実へと引き戻されたようだった。
「こっち―――こっちです! 早く早く!」
「―――ああ、今行く。みんな、行こう」
ピオの案内で灰色の階段を上っていきながら、私達は異様に静まり返った村内と辺りから漂ってくる異臭に気を引き締めた。上空には村の異変を察知しているのか、数羽の黒い鳥が不気味な声を上げながら旋回している。
―――どうかまだ、手遅れでありませんように。せめて、手を尽くせる状況でありますように。
「ここがオレの家だよ! 父さん母さんただいま、薬師さんを連れてきたよ!」
息せき切って自宅の玄関を開け放ったピオは、一目散に家の奥へと駆け込んだ。どうやらそちらに寝室があるらしい。彼の後を追って異臭の強くなる室内へと足を踏み入れた私達は、突き当たった部屋の寝台に横たわる彼の両親とまだ幼い弟妹の姿を目の当たりにして、呼吸を止めた。
みんな、全身に浮き出たおびただしい数の皮疹が膿んで破け、乱れた寝具は血液や体液で汚れている。よほど苦しかったのだろう、首や胸に爪で掻きむしった痕があり、父親と子ども達は白目を剥いて、口から泡を吹き絶命していた。
「父さん……ルノ、メロ……嘘だろ……」
ピオは呆然と呟いて、彼らの傍らで固く目を閉ざしている母親の身体を揺すった。
「―――っ、母さん! 母さん、起きて! 薬師さんを連れてきたんだよ! オレ、頑張ったんだ! ねえ―――ねえ、頼むから起きてよ!!」
必死で取りすがる彼の祈りが、届いたのだろうか。
奇跡のような光景が起きた。ピオの声に応えるように、それまで固く閉ざされていた母親の瞼が震え、微かに開いたのだ。
「母さん……!」
ピオの顔が喜びに輝く。だが、それは束の間の喜びだった。
一瞬だけ―――ほんの一瞬だけピオと視線を交わし合い、瞳に息子の姿を映した後、母親の瞼は無情にも再び閉ざされた。そして、二度とその瞼が開くことはなかったのだ―――。
言葉のやり取りさえ叶わない、刹那的な最後の逢瀬。けれど、私にはその時の母親の目に万感の想いが込められていたように感じられた。とても優しい光を帯びていたように思えたのだ。
「うっ……うわああああぁ……!」
洞窟の家の中に、ピオの慟哭が切なく響き渡る。
背後でフラムアークが言葉少なに他の家を見て回るよう指示を出し、皆が無言で散開していく中、エレオラがピオの傍らに付いていてくれることになった。
「ユーファ」
沈痛な面持ちのフラムアークに促され、私は頷いてピオの家を後にした。
まだ村内には生存者が―――助けを必要としている人がいるのかもしれない。私は薬師―――今は、そちらへと足を向けねば。
職業柄、人の死には何度も直面してきたけれど、その度にやりきれない思いに囚われる。
母親の亡骸にすがりつくようにしたピオの慟哭が耳にこびりついて、いつまでも離れてくれなかった―――。
*
穴熊族の村を手分けして回った結果、数名の生存者を確認することが出来た。
ピオのように症状の出ていない子どもが二人と、同様に無症状の大人が三人、後は重症者の大人が四名だった。
発症していない人達には取り急ぎワクチンを接種し、重症者には現時点で出来る限りの処置を施したけれど、後は当人達の体力次第といった塩梅(あんばい)で、状況は予断を許さない。
洞窟住居の最上層にある村長の家を訪れると、残念ながら当人と家人は既に息を引き取っていた。村で一番大きな住居だというこの場所を私達は拠点に定め、患者を集めて交代で看病につきながら病魔と彼らとの一進一退の攻防を見守ることになった。
―――せめて、この人達だけでも助けたい。
夜になって少し休憩を取る為に村長の家を出た私は、星明りの中、ひとつ下の階のテラスに腰掛け、空中に足を投げ出すようにしてうつむいているピオの小さな背中に気付き、彼の元へと歩み寄った。
「ピオ……眠れないの?」
「……。眠れるわけないよ」
こちらに背を向けたまま、かすれた声で呟くピオのやせた肩は寂しげで、横顔には深い影が差している。
「オレ、いったい何やってんだろ……? あんなに頑張ったのに、全部全部ムダだった……家族を、誰も助けてやれなかった……! こんなことなら必死こいてモンペオまで行くんじゃなかった……。ずっと傍にいて、最期まで精一杯看病してやるんだった……! それで―――それでオレも病気にかかって、一緒に死んじゃえばよかったんだ……!」
耐えかねたように喉を震わせ嗚咽する彼に、私は胸の痛みを覚えながら言った。
「ピオ……気持ちは分かるわ。でも、あなたの行動はムダだったわけじゃない。あなたのおかげで助かった人も、これから助かるかもしれない人もいるのよ」
「そんななぐさめ、いらない! オレが助けたかったのは家族なんだ! なのに、その家族を誰も……誰も助けられなかった……! それじゃ意味がないんだ……何の意味もない……頑張った意味なんて、ないんだよぉッ! くそっ……くそおぉっ……! 領主が、街道を封鎖なんてしなければ……! 役人があの時バリケードを通してくれていたら……! あんた達が、もっと早く村に来てくれていたら……!」
ピオは奥歯を噛みしめて、やるせなさに身を震わせた。
「ピオ……」
「―――っ、ユーファさんにオレの気持ちなんて、分からないよ! 皇子様に仕えているような身分の人に、こんなっ……、何もかも失くして独りぼっちになったオレの気持ちなんて、分かるワケがない!!」
涙を散らして絶叫しながら、ピオは紅潮した顔をこちらに向けた。私は抑えきれない激情に肩を大きく上下させる彼の瞳を見つめて、なるべく穏やかな声をかけた。
「……完全には分からないかもしれないけれど、分かる部分もあるわ。私もね、昔―――突然家族を亡くして、独りになってしまった経験があるの」
私の告白にピオは濡れた双眸を微かに見開いたけれど、数瞬の沈黙の後、唸るような声を絞り出した。
「……でも、ユーファさんは兎耳族じゃないか。穴熊族のオレとは根本的に違う……ずるいよ。見た目のいい種族は得だよね……数が減れば、皇帝に保護してもらえるんだから」
予想もしていなかった皮肉混じりのこの切り返しに、私は胸を突かれた。
「いろんな事情で数が減ってしまっている亜人族は他にもいるのに、どうして兎耳族だけが特別扱いされるんだろうね……? 数で言えば、オレ達穴熊族だってそうなのに。そういう種族の間で、あんた達が何て言われているか知ってる? 村の大人達はいつも言ってたよ……兎耳族はずるいって。見目がいいだけで皇帝に贔屓(ひいき)されて宮廷で何不自由ない生活を保障されて、なのにオレ達は差別されて迫害されて数が減ったって、例え最後の一人になったって絶対に保護なんてされないんだから、不公平だって! 本当にその通りだよ……! 全部を失って寄る辺のなくなったオレのこの孤独と絶望が、あんたに理解出来る!? 理解出来るわけ、ないだろぉッ!!」
喉が張り裂けんばかりに叫んで立ち上がったピオは、勢いよく私に詰め寄るとやり場のない憤りをぶつけた。
「兎耳族のあんたの独りぼっちと鼻つまみ者の穴熊族のオレの独りぼっちとじゃ、意味が全然違うんだよ!! 皇帝に飼われているあんたとオレとじゃ、行きつく先が全然違うんだからッ!!」
「ピオ―――」
「もう、希望も何もない……何でワクチンなんか打ったんだよ……! いっそのこと、みんなと一緒に病気で死ねたら良かったのに……!」
両手で顔を覆い、呻(うめ)いたピオの身体が傾(かし)いだ。とん、と私に寄りかかった彼の身体が、燃えるように熱い。ピオの剣幕に圧倒されていた私はハッと目を見開いて、両手で覆われた彼の顔を覗き込んだ。
「ピオ!? 熱が……!」
「ほっといて……もう、どうなってもいいんだ……生きてる意味なんて、ない……」
私の肩をぞんざいに押して距離を取ろうとした彼は、そのまま膝から崩れ落ちるようにして床に倒れ込んでしまった。
「ピオ!」
慌ててしゃがみ込んだ私は、その手首の内側にうっすらと斑状の皮疹が浮かび上がっているのを見て、彼がベリオラを発症したことを悟った。
ワクチンを打っているから、薬学上は発症しても軽度で済むはず。けれど今は、その軽度の症状に彼の心身が耐えられるかどうか……!
村の状況から見るに、穴熊族は他の人種と比べてこの病原菌に弱いであろうことが窺えた。九割を超える致死率は、治療らしい治療を受けられなかったことを鑑みても高過ぎる。
「父さん、母さん、どうして死んじゃったの……? 頑張ったのに……。オレ、みんなを助けたくて、辛かったけど、苦しかったけど、全部我慢して、あんなに頑張ったのに……! ひどいよ……。ひど……。ユーファ、さん……親切にしてくれたのに、ひどいこと言って、ごめんなさい……。苦しいよ……寂しい……怖い……。オレ、どう……なっちゃうの……」
虚ろな瞳で涙を流しながらとりとめなく呟くピオは、意識の混濁が始まっているようだった。
「しっかりして、ピオ! あなたは強い子……逆境に負けず、自らの危険を顧みず、封鎖線を突破してみんなを助けようとした、勇気ある子……! あなたのお母さんは、あなたの家族は、こんなふうにあなたが後を追ってくることを望んではいないはずよ……!」
彼の状態を確認しながら、私は声をかけ続けた。
「どんなに罵られようとも、私は薬師として手を尽くす。文句はあなたが元気になってからまた聞かせてちょうだい……恨み言ならいくらでも聞いてあげる。それから……その時は少し、私の言い分も聞いてくれると嬉しいな。生活を保障されているのに贅沢だって怒られちゃうかもしれないけど、兎耳族(わたしたち)にだって言い分は色々とあるのよ。
生活を保障された不自由と、生活の保障のない自由―――いったい、どちらが幸せなのかしら。そこはきっと人それぞれで、正しい答えというものはないんだろうけど……」
「―――い……寒い……」
ピオの歯がカチカチと鳴った。私は着ていたポンチョを脱いで、熱のせいでガタガタと震え始めた彼のやせた身体を包み込んだ。
ここで助けられることが、この子にとって善(よ)いことなのか悪いことなのかは分からない。彼の今の気持ちからしたら、きっと余計なことでしかないだろう。
「うん……あなたはきっと怒るわね。何で余計なことをしたんだって……でもね」
その善し悪しは、この先の人生を歩んでみなければピオ自身にも分からないことだ。私に推し量れることではない。
それを未来の彼自身に確かめてもらうために、私は今、私に出来ることをする。全力で、死の淵から救い出す手伝いをする。
それが薬師としての努めであると、そう私は信じているから―――。