病弱な第四皇子は屈強な皇帝となって、兎耳宮廷薬師に求愛する

十九歳D


 出立の朝。

 これから待ち受ける現実を示すように空は鉛色の雲に覆われていたけれど、遠くには青い空も覗いているのが見えて、私に希望を感じさせた。

 冬の終わりの空気はまだ冷たく、私はいつもの白い長衣(ローヴ)の上から灰色の厚手のポンチョを羽織り、薄茶色の革製の手袋とおそろいのブーツを身に着けている。フラムアークとスレンツェも旅装の上から防寒用のクロークを羽織っていて、フラムアークは肩回りが毛皮で二重に加工された光沢のある深い茶色の上質な素材のもの、スレンツェは機能的な黒色のもので、二人ともなめし革で作られた手袋とブーツを身に着けていた。

 追加のワクチンを届けにアズールへ赴くことを希望した者は十名にも満たず、そのほとんどは宮廷内では数少ないアズールの出身者で、故郷の為に何か手助けしたいという思いからの志願だった。彼らは普段、宮廷で庭仕事や清掃等の下働きに従事しているという。貴族から名乗りを上げた者は、一人もいなかった。

 彼らは初めて間近で目にする皇族のフラムアークに恐縮し、彼の隣に立つスレンツェには敬意を見せ丁重な態度を取った。アズール王国が無くなってから十年以上の歳月が経つけれど、かつての国民達の間でカリスマ的な人気を誇ったというスレンツェの存在は、彼らの中で今も特別なものであるようだ。

「オレ達を入れてちょうど十名か。まあこんなものかな。身動きが取りやすくていいか」

 簡単な自己紹介を済ませた後、追加のワクチンと支援物資を二台の馬車に積み終えて、私達はアズールへ向けて出発した。

 先頭を行く馬車の御者台にはスレンツェが、後続の馬車の御者台にはフラムアークが乗り込み、私はフラムアークの隣に座ることになった。

「フラムアーク様、馬車を操れるんですね」
「うん。意外だった?」
「意外というか……何だか不思議な光景です」

 騎乗している姿は目にしたことがあるけれど、それとはまた違って、隣で手綱を操る彼の姿は新鮮で、こんなことが出来るようになっていたのかという、驚きの気持ちが強い。

「私が知らないだけで、他にも色々とお出来になることがあるんでしょうね、きっと」
「はは、そうかもね。宮廷内でやる必要がないことはユーファは今まで見る機会がなかったものな」

 私達の馬車が城門に近付いていくと門番が合図を送り、それに合わせてアーチ型の巨大な門が重々しい音を立てて外側へゆっくりと開いた。その先に広がる雄大な大地への架け橋が目の前に開けて、私は思わず息を飲む。

「大丈夫だよ」

 御者台に置いた手をフラムアークに握られて初めて、自分が小さく震えていることを知った。

「いつか、当たり前のようにここを行き来出来るようになろう」

 巨大なアーチの下をくぐり、その影を抜けて、馬車は広大な世界へと駆け出していく。振り返ると、十年以上出ることが叶わなかった荘厳な宮廷が、馬車越しに私の視界を埋め尽くすように聳(そび)え立っていた。

 その光景に、言葉に出来ない思いが込み上げてきて、私は無意識のうちにフラムアークの手を握り返した。

 門を出てすぐは大き過ぎて視界に入りきらなかったその全貌が、次第に視界に収まるようになり、それから徐々に小さくなって、やがて景色の中へと滲んでいった―――。



*



 十日程かけてアズール領へ到着した私達は、まず領主であるダーリオ侯爵への挨拶と猛威を振るうベリオラの現状を把握する為、アズール城を訪れていた。

 ―――ここが、スレンツェの生まれ育った地……かつて彼が暮らした王宮の跡地に建てられた城……。

 城主の間へと続く赤い絨毯の上を歩きながら、私はその当時とはまるで趣を変えているであろう城内に視線を走らせ、王子としてこの地で暮らしていたスレンツェの過去を思った。スレンツェは今、どんな気持ちでここを歩いているのだろう。

 目の前を行く彼の広い背中からは、それを窺い知ることは出来なかった。

「これはこれはフラムアーク様、第四皇子たる方御自らワクチンを届けに来ていただきまして、何と御礼を申し上げて良いのやら、感謝の言葉もございません」

 揉み手しそうな調子で私達を出迎えたダーリオ侯爵は五十代半ばの恰幅の良い丸顔の男性で、額に汗を浮かべつつ謝意を述べ皇帝の意向を窺った。

「それで、その……陛下は何か仰られていたでしょうか?」
「状況の変化を逐一報告するようにと。援助の手は惜しまぬから迅速且つ確実に病魔を制圧せよとのことだった」
「御意にございます。それで、あの……何か他に、私に関して仰られていたことなどは……」
「ダーリオ候個人に対しての言付けは特に預かってはいないな」
「さ、左様ですか」
「それより、まずはベリオラの現状に関する報告を頼む」
「かしこまりました」

 ダーリオ侯爵から報告を聞き終えたフラムアークは、卓上に広げられたアズールの地図を眺めながら形の良い眉をひそめた。

「状況としては、芳(かんば)しくないな」
「はい。患者の増加が著しく、看護する側の手が追いつかない状況です。薬師達も連日の激務に疲労困憊の様子でして……」
「薬師達の後方支援はどうなっている? 彼らはきちんと休息を取れているのか」
「短い睡眠時間を確保するので手一杯で、休憩らしい休憩は取れていないような状況です。薬師達の派遣先には彼らの食事や身の回りを世話する為の要員を送っているのですが、増え続ける患者の対応とも相まって、現地の住民達と協力しても手が回り切らず、現場はまるで戦場のような有様だと」

 汗を拭き拭き答えるダーリオ侯爵にフラムアークは苦言を呈した。

「それでは気力も体力も落ち、遠からず限界が来る。立ち行かなくなる前に急ぎ対策を講じるべきだ。薬師達の数には限りがあり、今後も大幅に増やせることは見込めない。まずは早急に後方支援を見直し、ここをしっかりと立て直して、薬師達が持てる力をいかんなく発揮出来るような環境を整えるべきでは?」
「仰る通りですが、そんな人員の余裕は……」

 否定的な見解を示すダーリオ侯爵にフラムアークは疑問を投げかけた。

「先程城内を見た限りでは、この城にはまだ人的余裕があると感じたが。城内に勤める者、それに貴族やその屋敷に仕える者達はワクチンを接種済みだと聞いている。軍属の者もそうだろう?」
「そ……それはそうですが、城内に勤める者や軍属の者はさておき、貴人がそのようなことに従事するとは、とても」
「直接それに従事しなくとも、物資的・金銭的な面での惜しみのない援助であったり、家に仕える者を出仕させることは可能だろう。身分を問わず領民一丸となってかからねば、今回の事態の早期終息とはあいならないのでは?」
「―――は、それは……」
「今この時こそが、ダーリオ候の手腕を示される時ではないのかな」

 橙味を帯びたインペリアルトパーズの双眸に見据えられたダーリオ侯爵は、汗だくになって平身低頭した。

「御意。ご忠告に感謝し、しかと承ります。このダーリオ、全力をもって早急に対策にあたらせていただきます」
「宜しく頼む。我々は宮廷薬師ユーファと共に支援が必要な地に赴こうと思うが、この中で現状一番支援が必要とされる場所はどこだ?」

 地図上に目線を落としたフラムアークを前に、ダーリオ侯爵は驚きの表情を浮かべた。

「まさか―――フラムアーク様ご自身も、そこへ行かれるおつもりなのですか!?」
「そのつもりで出向いてきた」

 疫病が蔓延する最中の地に皇族が降り立つなど、前代未聞だ。それを聞いたダーリオ侯爵は顔面蒼白になった。

「ど、どうかおやめ下さい! 第四皇子という身分にあられる御方が……! 現場は患者の吐瀉物や血液、皮疹から剥がれ落ちたかさぶたといったもので衛生状態が著しく悪化しておりまして、新たな疫病が発生する懸念もあります……! まかり間違って、万が一貴方様が身罷(みまか)られるような事態となれば、私は皇帝陛下に顔向け出来ません……!」

 脂汗をしたたらせながら制止するダーリオ侯爵にフラムアークは苦笑を返した。

「例えそういう事態になっても、その件で貴方が責に問われることはないから安心してほしい。その危険性を考慮した上で、陛下にはこちらへ赴く許可をいただいている」
「え……そ、そうなのですか?」
「ああ。それに今は、身分を問わず全員が一丸となって立ち向かうべき時だと先程も言ったろう? 第四皇子の私でも、領民にそれを伝える旗印にはなる」
「フラムアーク様……」

 ダーリオ侯爵が神妙な面持ちになる。それから協議した結果、私達はアズール領の中央よりやや東に位置するモンペオという町へ向かうことになった。ここはベリオラが猛威を振るう最前線で、患者数が急増している場所なのだという。

 モンペオは比較的大きな町でいくつかの道が交わる交通の要衝でもあるようなので、皇族であるフラムアークが支援に来ているという噂も広がりやすいと考えられ、何としてでもここでベリオラの進行を食い止めたいダーリオ侯爵と、ここを拠点に疫病の猛威に苦しむ領民達に希望を伝えたいという私達の思惑とも合致した。

「あの……フラムアーク様、蛇足とは思いますが、くれぐれも『彼』の素性が領民達に知られぬよう、ご配慮のほど願います。何分こういう状況ですから、領民達も不安定になっておりますし、それと相まって何かの弾みで妙な方向へ転がってしまってもかないませんので……」

 ダーリオ侯爵は最後にこう付け加えて、フラムアークの傍らに控えるスレンツェをチラと見やった。フラムアークは頷いて、「心配無用だ」と短く答える。

 私達が城主の間を退出して分厚い扉が閉まった直後、大きく嘆息したダーリオ侯爵の独白が聞こえてきた。

「うーむ、最近は良い噂ばかり耳にすると思っていたが、疫病が蔓延する地に死を不問として我が子を遣わされるとは、陛下はそこまで第四皇子を疎んじておられるのか……。しかし、皇族が現地に支援に来ているとなれば、悲惨な現状に喘ぐ領民や疲弊しきった薬師達を鼓舞する力となることは間違いない。ここで上手くベリオラを食い止められれば第四皇子を遣わした陛下の名声も上がる……もしやそれを考えて……? 領地としての歴史が浅いアズールは、民の皇族への支持率が帝国内で最も低いからな……。だとすると、先程の皇子の発破は陛下のご意見……!? 皇子を通じて、私にそれを成せと暗に命じておられるのか……!?」

 人間の何倍も優れている兎耳族の聴覚は、分厚い扉の奥で漏らされるダーリオ侯爵の打算的な憶測の声を余すところなく拾い上げた。

「何か収穫があった? ユーファ」

 ゆっくりと歩きながらこちらを振り返ったフラムアークに、私はひとつ頷きを返す。

「はい。後でお伝えします」

 既に夕刻を迎えようとしていることもあり、今日はアズール城に一泊することになっていた私達は、そのままフラムアークにあてがわれた客室へと行き、先程の件について話し合った。宮廷から一緒に来た他の人達は、ダーリオ侯爵の計らいで到着早々に使用人用の大部屋を一室与えられたので、そこで休んでもらっている。

「へえ、ダーリオ候がそんなことを……。彼はかなり評価を気にするタイプだから、ああ言っておけば尻に火がついて奮起するだろうと思ったけど、そういうふうに捉えてくれるならますます成果が期待出来るかな。
それにしても兎耳族の聴覚は優秀だね。こう優秀だと、どこへ行く時もユーファを連れて歩きたくなっちゃうな」

 そう言って軽く笑うフラムアークは私がよく知っているいつも通りの彼で、ダーリオ侯爵と相対していた時とはまるで別人みたいだった。そのギャップに、私は内心で戸惑いを禁じ得ない。

 完全仕事モードのフラムアークを私は初めて見たのだけれど、その姿は皇族然としていて近寄りがたいオーラを漂わせており、でもそれがとても板についていて、私の知らない男の人みたいだった。

 馬車を操る彼を見た時も似たようなことを感じたけれど、こんな場面を突き付けられると、フラムアークはもう大人で、私の知らない面をたくさん持っているのだと、一抹の寂しさと相反する頼もしさと共に実感する。

「ダーリオ侯爵は最後にああ仰っていましたが、スレンツェの呼び名などはそのままでいいんでしょうか?」

 気になっていたことを尋ねると、フラムアークはスレンツェと顔を見合わせて頷いた。

「そのままで構わない。アズール王国の王子だったスレンツェの名を知っている者は多いだろうが、顔を知っている一般領民は皆無に近いし、時の流れで当時とはスレンツェの容貌も変わっている。この辺りでは特別珍しい名前というわけではないから、下手に偽名を使わない方がいい。宮廷から一緒に来た者達にはスレンツェの素性をみだりに語らないよう固く口止めしてあるし、スレンツェがオレの側用人になっているということを、この地の者はまず知らない。それ以前にオレが第四皇子であることも、第四皇子の名がフラムアークであることも知られてはいないだろう。領民が知っている皇子の名前と言えば、せいぜい皇太子くらいのものだろうな」

 それは確かにそうかもしれない……私も宮廷へ行く以前は、皇子の名前は皇太子のゴットフリートくらいしか知らなかった。顔に関しては、言わずもがなだ。

「実際、領地視察で初めてアズール城へ来た時も、ほとんどの者がスレンツェを『スレンツェ』だと認識しなかった。この城に勤めている者でさえそうなんだから、そんなに神経質にならなくて大丈夫。領民には『第四皇子フラムアークの側用人スレンツェ』として、オレの名前と共に記憶してもらおう」

 それは、果たして良いことなのだろうか。それとも悪いことなのだろうか?

 スレンツェの心情を思うと、私には判断がつきかねた。

 そんな思いが顔に出ていたのだろう、フラムアークは淡く微笑むと、噛んで含めるように私を諭した。

「過去はしばしば美化されたり、その人物の持つ感情によって多少の脚色をされてしまうものだと思うんだ。そうやって客観的に見られなくなってしまった事象は、どうしても人の判断を狂わせる素因となって、ダーリオ候の懸念に通ずるものとなってしまう可能性がある。オレはそれは避けたいと思うし、スレンツェもそんなことは望んでいないと知っている。だから……過去の虚像としてではなく、現在のスレンツェという生身の人物を彼らに直接感じてもらって、脳裏に焼きつけてもらいたいんだ。
アズールの領民達にとって、自分達が辛い状況にある今この時に、スレンツェという人物が力になってくれたと記憶してもらうことが大事だと、オレはそう考えているから」

 大切なのは過去ではなく今であって、これから先の未来だ。静かな輝きを放つインペリアルトパーズの瞳が、そう告げている。

「それは……確かにそうですね。そう思います」

 フラムアークの言葉は優しく私の心に沁み込んで、そう納得させてくれた。スレンツェの方を見やると、彼は静かに頷いて、自分も同じ気持ちであることを示してくれる。

 フラムアークはそんな私達を穏やかに見つめて言った。

「明朝早くにここを発って、モンペオへ向かおう。明日からは忙しくなるだろうから、二人とも今夜はゆっくり身体を休めるようにね」

 それから慌ただしく明日の準備を終え、自分に当てがわれた部屋のベッドに潜り込んだ私は、見慣れない天井を仰ぎながら、自分が今こうしてアズール城にいる現実と、それをまだどこか現実のものとして捉えきれていない不思議な感覚の狭間で、壁一枚隔てた隣の部屋にいるスレンツェのことを想った。

 スレンツェ、あなたは今、何を考えている……? 故郷の夜を、どう過ごしているの……? 今夜はちゃんと眠れそう……? 

 旅疲れでうとうととまどろみながら、私は彼の胸の内を案じ、それから夢現(ゆめうつつ)のようなこの状況が確かに現実のものであることを祈った。

 夢じゃない……夢じゃないわよね。フラムアークのおかげで私はこうしてこの地へ来れて、及ばずながらアズールの民の為に力を貸すことが出来るのよね……。

 どうか、朝起きたら今までのように宮廷に独り取り残されていて、これが全部夢だったということがありませんように―――。

 明日から、精一杯頑張れますように。スレンツェの生まれ故郷を、ベリオラの猛威から守ることが出来ますように―――。

 そんなことを思いながら、私の意識は眠りの中に溶け落ちていった。 
Copyright© 2007- Aki Fujiwara All rights reserved.  designed by flower&clover