病魔の猛威に曝されているモンペオの町は陰鬱な空気に覆われ、奇妙に静まり返っていた。
宮廷からの有志と共に馬車でやって来た私達は、幌のついた荷台からその様子を窺い、マスクを着けた互いの顔を見合わせて、決意新たに頷き合った。
どの家も固くドアが閉ざされた、北風が吹き抜ける人気のない通りを町の中心部へ向かって進んでいくと、静寂に包まれていた町並みに次第に人の声が入り混じり始め、徐々にそれが大きくなって、中央広場と呼ばれる開けた場所へと出ると、これまでの様子が一変した。
モンペオのベリオラ対策拠点が置かれた広場にはいくつもの天幕が立ち並び、そこに大勢の人々が治療を求めて長い列を作っていた。曇天(どんてん)の下、老人から働き盛りの男性、若い女性、まだ年端のいかない子どもや乳児を抱えた母親まで、様々な人々が不安げな面持ちでひしめき合っている。天幕にはたくさんの病人達が所狭しと寝かされていて、そこに入りきらず溢れ出た人達が寒空の下、シートが敷かれただけの地面の上に横たわっていた。
おびただしい数の人の中、患者達の呻き声や泣き叫ぶ子どもの声に入り混じって、切迫した薬師のものらしき声やそれに応える看護要員のものらしき声、更には町の役人達が慌ただしく情報を確認し合う声が飛び交い、辺りはまるで戦場さながらの様相だ。そんな環境で気持ちが不安定になっているせいか、小競り合いなども起きているらしく、あちらこちらから揉めるような声も聞こえてくる。
天幕の周りには洗濯が追いつかないのだろう、血がついたままの包帯や汚れた敷布などがそのまま山積されていて、マスク越しにも悪臭が鼻を突く。それが風に飛ばされてしまったものや、片付けられていない吐瀉物など、地面のそこここに感染ゴミとなり得るものが落ちていて、予想はしていたものの衛生状態はかなり悪かった。
「町長のカルロです。アズール城からの伝令により聞き及んでいます、よく来て下さいました。第四皇子フラムアーク様御自らのご支援、心より感謝致します」
私達を出迎えた初老の町長は目の下にクマを作り、疲労と緊張を隠せない様子でフラムアークに礼を取った。
「主軸となるのはこのユーファだ。私は他の者と共に後方支援に携わる。まずは現況を教えてくれ、それから指示を願いたい」
「かしこまりました」
現況報告を聞き終えたフラムアークは鷹揚(おうよう)に頷いて、恐縮する町長に労(ねぎら)いの言葉をかけた。
「状況は分かった。大変な中、町の者を指揮してよくここまで頑張ってくれた。これからは、私とその重責を分かち合おう。今は厳しい状況だろうが、こうして私達が来たことでひとまず人員が補充され、君達の負担も若干ながら軽減されるだろう。それにほどなく、ダーリオ候より支援部隊が増員されてくるはずだ。まずはそこまで頑張ろう。そこから先は徐々に事態が好転していくはずだ」
フラムアークの声は決して大きなものではないのに、聞く者の心に不思議とよく響く力を持っている。少なくとも私はそう感じている。
「は、はい……! はい、フラムアーク様……!」
そんな彼の言葉は張り詰めていた町長の心を幾ばくか緩ませたらしかった。落ちくぼんだ目にうっすらと涙を浮かべて、町長は深々とフラムアークに頭を下げた。
「まずはユーファを薬師の責任者に引き合わせてもらえるか」
「はい、すぐに……! 副町長チェルソがご案内致します」
私はフラムアーク達と別れ、モンペオ用に取り分けてあったワクチンの箱を持って、薬師の責任者の元へと赴いた。
「―――帝都より派遣された薬師団のファルマだ。モンペオ対策本部の薬師の責任者を預かっている。町長から話は聞いているよ、君がユーファだね。よく来てくれた。ご覧の通り深刻な人手不足でね、薬師の増援は非常にありがたい」
その言葉通り、患者の治療に当たりながら話すファルマは羊角族の女性だった。羊角族は羊耳の上方に生えている、くるんと丸まった一対の小振りな角が特徴的だ。見た目年齢は三十歳ほどで、理知的な顔立ちをしている。
「この町に元々いた薬師は三名。帝都より私を含めた五名がこちらに派遣されて、現在八名で回している状況だ。君を入れたら九名だね。現状二名が別の場所でワクチン接種を行い、六名がこちらで治療に当たっている―――それ、追加のワクチンだよね? 在庫が尽きかけだったから助かった! チェルソ、すぐにそれをワクチン組の方に持っていくように手配してもらえる?」
指示を受けた副町長が近くにいた役人を呼びつけてそのように手配するのを目だけ動かして見届けながら、ファルマは口早に言った。
「早速だけど、ユーファには患者の治療に当たってもらいたいんだ。そこのスペースを使ってもらえる? 初日で勝手が分からないだろうから、今日は私の隣で仕事をしながら色々と覚えてほしい」
「分かりました」
「必要な薬品はそこの薬箱に、ガーゼや包帯はその隣の籠、器具類はそこの箱の中に入っているから。何か分からないことがあれば声をかけて」
「はい」
私は手早く準備を整えて、速やかにファルマの隣で患者の治療を始めた。
フラムアーク付きとなってからは手が空いている時に兎耳族の人をたまに診るくらいで、一般の人を診る機会が極端に減っていたから、こうしてたくさんの人の治療に当たるのは実に久し振りだ。
―――こういうのはあの大災害の時以来ね、多分……。
忘れたくても忘れられない、悲惨な光景がチラと脳裏をよぎった。
あの時は傷付いた人達の手当てをすることで、自分の心を保っていたような気がする。目が回るような忙しさが、慟哭で壊れてしまいそうな私の心を繋ぎ止めていた―――。
そんな感傷を振り払い、私は目の前の仕事に集中した。
ベリオラに特別な治療法はない。感染して数日以内であればワクチンによって発症や重症化を防ぐことは出来るのだけれど、それ以外はいわゆる対症療法―――脱水補正や疼痛緩和などで自然治癒を促進していくしかない。
患者達の痛々しい皮疹に痛みを和らげる薬を塗り、包帯を巻いて、必要があれば飲み薬を出し、その作業を数え切れないほど繰り返していく。
気が付くと辺りはいつの間にか薄暗くなっていて、最後の一人に包帯を結び終えると、隣で大きく伸びをしたファルマにお疲れさん、と声をかけられた。
「手際が良かったね。仕事も丁寧だった。さすが皇族付きの薬師ってトコかな。さ、ここからがまた勝負だよ。炊き出しでさっと夕飯食べたらあそこに見える町長の家へ行ってひとっ風呂浴びて、用意された寝床で仮眠を取る。薬師は清潔第一だ、白衣(ローヴ)は必ず洗いに出して新しいものに着替えること! 夜間は役人達や町の有志が交代で天幕の患者の様子を見てくれているけれど、急変で叩き起こされるのはしょっちゅうだし、急患が運び込まれてくるのも常だから、食べれる時に食べて休める時に身体を休めるように心掛けて! 私達が倒れたら元も子もないからね。さ、行こう。夕飯はこっち」
ファルマに案内されて中央広場の隅へ行くと、篝火の近くに設置された大鍋から温かそうな湯気が立ち昇っていた。近くには暖を取る為の熾火(おきび)があって、そこを取り囲むようにして何人かが食事を取っている。ここは対策本部の人達用の炊き出しということで、町の人達の姿はなかった。
「薬師様お疲れ様です、どうぞ」
まかない役の中年の女性から椀に一杯のスープと固いパンをもらって、私達は焚火の近くに腰を下ろした。
スープの中身は根菜の切れ端と細切れの鶏肉で、それにパンを浸してかじりながらファルマは言った。
「主要な街道が封鎖されて、食料や色んなものが手に入りにくくなっているんだ。アズール領内のベリオラに侵されている地域はどこもこんな状態で食料の生産や物流が止まっているから、まだ疫病に侵されていない地域からの供給に頼らざるを得ないんだけど、それではまかないきれなくて、食糧事情は日ごとに悪化している。私達の食事には気が遣われていてまだ肉や魚が入っているけれど、一般の人達はもっと質素な食生活を強いられているはずだ。いや、食べられるだけ、まだいいのかもしれない。もっと奥地の小さな町や村ではどうなっているか……」
先日アズール城で提供された豪華な料理を思い出し、その格差に、そのまま現場と領主陣営との温度差が表れているのを感じた。
「……そういった小さな町村にも、薬師団から薬師は派遣されているんでしょうか?」
「いや、人員的な余裕がなくて、薬師の派遣は比較的人口の多い町にとどまっているのが現状だ。小さな町村には支援の手が及んでいない。そこに地元の薬師がいない限りは、まともな治療すら受けられていないだろう。例え薬師がいたとしても、孤立無援の状態ではキャパオーバーで倒れてしまっている可能性が高い」
歯噛みするファルマの横顔には、悔しさが滲んでいる。
人員的な救援も物資的な支援も受けられていないであろう、過酷で孤独な場所が存在する事実と、それを分かっていながらも、物理的な理由からそこまで自身の手が及ばず、どうしてやりようもない現実。
「そこを思い始めるとキリがないから、私達は頭を切り替えて、今目の前にある現実と向き合っていこう」
ファルマは自分に言い聞かせるように首を振って、話題を変えた。
「ユーファに他の薬師達を紹介したかったんだけど、見たところまだ全員はここへ来ていないな。とりあえず今いる分だけ紹介しとこうか」
そう言って食事に来ていた三人の男性薬師に声をかけ、私を紹介してくれる。彼らとひと通り挨拶を交わし終えた私に、ファルマは思い出したように尋ねた。
「そういえばユーファは第四皇子付きの薬師なんだって? アズール城の伝令が来て、皇子もここへ来るようなことを町長が言っていたけれど、ホント?」
「はい、来ています。今はちょっと姿が見当たりませんけれど……」
私はきょろりと辺りを見渡した。フラムアークもスレンツェも、宮廷から一緒に来た面々はまだ誰もここへは来ていないようだ。まだ、どこかで何かの作業に従事しているのだろうか。
「ふぅん。ユーファを連れて来てくれたのはありがたいけど、体調を崩されても困るから、ご自身には早いところ帝都へ帰ってもらった方が問題なくていいんだけどな。物見遊山(ものみゆさん)するようなところでもないし」
ファルマの口調からは厄介払いしたい本音が透けて見えた。
……みんなやっぱり、気に掛けるのはそこね。
「私もそこを心配して最初は同行に反対したんですけれど、フラムアーク様の意思が固くて。後方支援に携わりたいと仰っていましたから、今は何かしらの作業を手伝っているんじゃないでしょうか」
「は? 視察じゃなくて、後方支援? 帝国の第四皇子が、こんなところで?」
ファルマは驚きを通り越して呆れたような顔になった。
「こんなところで温室育ちの人間に何が出来るっていうの。見た通り、疫病の現場は戦場だよ。臭いし汚いしグロいし、寒くて満足な食べ物もない。この環境に耐えうる皇族がいるとは思えないな。もらいゲロして寝込むのが関の山じゃない? 毎日死と隣り合わせでこっちは目が回るくらい忙しいんだから、そうなっても皇子様の面倒見てる余裕なんてないんだけど」
彼女の懸念は過酷な現場で働く者達の総意で、もっともだと思う。でもきっと、フラムアークは―――。
「大丈夫です。あの方は責任感のある方ですから……ここで自分に出来ることを見つけて、その役割を担っていくと思います。それに万が一体調不良をきたした場合は、大人しく引き上げて療養すると約束していますから」
「ふぅん? 余計な手間をかけさせないでくれるならまあ、こちらとしてもありがたいけど―――」
ファルマは大して期待するふうもなく、残りのスープをかき込んだ。
「ほら、さっさと食べて行くよ。明日はまた朝早くから患者を診ないといけないんだから、とっとと休まないと」
「あっ、はい」
私も急いで残りのスープを飲み込んで、ファルマの後を追い立ち上がった。
慌ただしく入浴を済ませて新しい長衣(ローヴ)に着替え、そのまま床に就く。慣れない環境で気力も体力も費やしていた身体はすぐに眠りに沈んだけれど、ファルマが言っていた通り、いくらもしないうちに叩き起こされた。
「二番の天幕で急変、吐血しています!」
「五番で一名、泡を吹いて痙攣を起こしています!」
飛び起きるようにしてマスクとポンチョを身に着け、枕元に備えておいた回診用のバッグを肩にかけて、カンテラを手に取り、要請のあった天幕へと向かって急ぐ。
雪がちらつく闇夜の中を篝火とカンテラの灯りを頼りに患者の元へとたどり着き、処置を施して寝床へ戻る頃にはすっかり身体が冷え切っていた。手足をさすりながら丸くなってようやく眠りに落ち始めた頃にまた、急患の知らせが入り、冬の夜空へと駆け出していく。
鉛色の空から薄日が差す朝を迎えても、睡眠らしい睡眠を取れなかった身体はひどく気怠くて、寝床から抜け出すのに気力がいった。
「おはよう。調子はどう?」
身支度を整えているファルマから声をかけられて、私は疲れの取れない顔を上げた。
「おはようございます……覚悟していたつもりでしたけど、やっぱりきついですね。目がしょぼしょぼするし、全身が怠いです」
「初日が一番きついと思うよ。日が経つにつれて疲労は増すけれど、身体は慣れてだんだん負担を感じにくくなってくるから。疲労は蓄積しているわけだからいい傾向とは言えないけど、ま、だましだまし頑張ろう」
連れ立って朝食を取りに炊き出しの場所へ行くと、昨日と同じ中年の女性が朝の挨拶をしながらスープを取り分けてくれた。中身は塩漬け肉の小間切れと野菜の葉っぱで、やはり固いパンをそれに浸すようにして食べる。
昨日見かけなかった薬師達がいたので、ファルマに紹介してもらって挨拶した。これで全員と顔を合わせたことになる。私達以外は全員が人間の男性だった。
フラムアーク達の姿を探してみたけれど、目に付くところには見当たらない。もしかしたら、疲れてまだ寝ているんだろうか。それとも既に朝食を終えて、どこかで作業を始めている……?
彼らの姿が見えないことに一抹の寂しさを感じながら、私はその日も薬師としての職務に精を出した。途中で処置に使う包帯が無くなってしまい、ファルマに尋ねると、彼女はまたか、と小さく息をついた。
「人手が足りなくて、汚れ物の洗濯が追いついていないんだ。冬で季節的に乾きづらいことも影響している。昨日はユーファ達が持ってきてくれた支援物資のおかげで事なきを得たけれど……仕方がないから出来るだけ塗り薬を塗布するに留めて、出血がひどかったり膿疱が破れそうな患者にだけ、ここに入ってる即席の包帯を使って」
ファルマが示した箱の中には、ただ古布が裂かれただけの応急的な包帯が入っていた。間に合わせだけれど、ないよりマシだ。
近くにいた役人に包帯の補給を急ぐように頼んで、患者の治療へと戻る。あっという間に昼になって、これまでと似たようなメニューを流し込むようにして昼食を済ませると、取り急ぎ治療を再開した。
本当に、ひと息つく間もない。天幕は冷えるけどトイレもろくに行けないし、診ても診ても患者の数は減らなくて、日が落ちるまでひたすら同じような作業を繰り返した。翌日も、また翌日も、同じことを繰り返した。
細切れの睡眠と労働力に見合わない質素な食事が、日ごとに体力を削り取っていくのを感じる。けれど、負けるわけにはいかなかった。
薬師(わたしたち)も辛いけれど、裏方で働いている人達だって辛い。一番辛いのは病魔に侵されている患者自身だ。この町の人達はきっと今、誰もが辛くて苦しい思いをしている。
歯を食いしばるようにしながら五日ほど経った時、私は包帯の補充が途切れなくなったことに気が付いた。まだ充分な量とは言えないけれど、町の有志が洗濯を終えた包帯を補充しに来てくれる回数が増えて、籠の中に全く包帯がないという状況はなくなった。
「包帯、途切れなくなりましたね」
「……そうだね。そういえば、天幕の周りに積まれていた汚れ物もなくなっていた気がする。心なしか、見える範囲が整然として悪臭も和らいできたような……」
言われてみれば確かにそんな気がする。鼻が臭いに慣れてしまったものと思っていたけれど、天幕から見える風景の中には以前はそこら中に見受けられたゴミ類が見当たらなかった。雑然としていて後ろへ行くほどどう並んでいるのか分からなかった人の列は、今はきちんと分かりやすい並びになっていて、それが元で起きていた諍(いさか)いもなくなり、全体の雰囲気も以前に比べて殺伐としていないような気がする。
―――フラムアーク達だ、と私は直感した。
ここで別れてから一度も顔を合わせていない彼ら―――彼らがきっと、何かを変えてくれたのに違いない。