山間部にほど近い比較的貧しい地域で体調不良を訴える住民が相次ぎ、それが瞬く間に広がって、アズール領主ダーリオ侯爵が対策に乗り出す事態となったのだ。
体調不良を訴えた住民達の症状は初めに高熱や頭痛、倦怠感、嘔吐などの風邪に似た病状を呈し、一端熱が下がった後、顔や手足を中心に強い痛みや灼熱感を伴う斑状の皮疹が現れ、それが徐々に全身に広がっていくというもので、その段階になると一度下がっていた熱が再び上昇し、やがて膿疱となった皮疹が出血を伴って破け、壮絶な苦痛をもたらすというものだった。
致死率は高く、症状が現れた者の半数程度は亡くなっているという。
「症例的に忌まわしき疫病、『ベリオラ』が発生したと見て間違いない。書簡によるアズールの薬師会からの見立ても同様だ」
宮廷で催された帝都中の薬師を招集した緊急会議の席で、帝国の薬師の頂点に立つ薬事総長クレメンスはそう述べた。
ベリオラと聞いて、居合わせた薬師達の間に緊張が走る。
ベリオラは感染力が非常に強く、過去に幾度となく猛威を振るってきた疫病だ。発症した患者の三十パーセントから五十パーセントは死に至ると言われ、人種によっては致死率が九十パーセント以上にも及ぶという恐ろしい病である。
一方で、この疫病には高い免疫性があり、免疫療法が非常に有効であることが知られていた。ワクチンさえ接種していれば、ほぼ百パーセントの確率で感染を防げるのだ。
馬の病気でベリオラに似た馬ベリオラと呼ばれる病気があるのだが、これは人に感染しても軽度で済み、且つ、これにかかった者はベリオラにはならないことが確認されている。
それを踏まえて、感染した馬の膿を乾燥させある程度弱毒化したものからワクチンは作られているのだが、その接種方法は、二又になった金属の針にワクチンを付着させ、人の上腕部に刺して傷を付けることで皮内に植え付けるというもので、皇族や貴族、それに薬師は全員が接種を受けている。
また、帝都に住まう者達には基本接種が義務付けられており、その費用は国から捻出されているのだが、ワクチンの精製と管理には手間も維持費もかかる為、各領地での接種態様はそれぞれの領主に一任されており、領地ごとに格差が生じているのが現状だった。
帝国全土で見ると、どうしても身分が低い者ほど接種率は低く、また中心部から離れるほど接種率は下がる傾向にあるようだ。
薬事総長クレメンスは保健衛生上の緊急事態宣言を出し、帝都からアズール領への薬師団の派遣の決定と、薬師会を通じて近隣の領地からも薬師の応援とワクチンの寄付を募った。
アズール領主ダーリオ侯爵は疫病の蔓延を防ぐ為アズールと各地を結ぶ街道を封鎖し、また感染者が出た町村からの移動を民に禁じて、特別な許可を得た場合以外の通行を制限し、領内の薬師を総動員して未接種者へのワクチン接種と患者の隔離治療対策に当たったが、爆発的に増えていく発症者に対応しきれないのが実情だった。
「何としてでもアズール領内、それも出来るだけ地方で終息させねば、この私の沽券に関わる。万が一にも他の領地へ飛び火するようなことになれば、陛下に申し開き出来ん」
ダーリオ侯爵は胃の腑がひりつくような思いに駆られながら、地方の責任者達へ向けて檄と指示を飛ばすのだった。
*
皇族付きの薬師は薬師団の選定から外されており、なお且つ兎耳族で宮廷の外へ出ることが叶わない私は、戦場のような状況になっているであろうアズールの現況に思いを馳せながら、ここから案じることしか出来ない自身を歯痒く感じていた。
アズールはスレンツェの生まれ故郷で、かつて彼が王族として過ごした地だ。
緊急事態宣言が出されてからというもの、スレンツェの表情はどこか硬く、時折思案に沈んでいるように見受けられる。言葉に出さずとも彼がアズールの民達を憂えている気配が伝わってきて、私の胸は痛んだ。
出来ることなら今すぐにでも飛んで行って、ベリオラの鎮圧に尽力したい。一人の薬師として、切にそう思う。
―――それが許されれば、どんなに。
悶々とした思いを抱えながら日々を過ごしていた私達は、ある日、フラムアークの口から出た言葉に耳を疑った。
「スレンツェ、ユーファ、一緒にアズールへワクチンを届けに行こう」
「―――えっ?」
驚きのあまり、大きく目を見開いたまま動きを止めた私達に、フラムアークは微笑んで、確認するようにもう一度言った。
「一緒にアズールへ追加のワクチンを届けに行くよ。出立は二日後だ。今、宮廷内で協力してくれる同志を募っている」
「わ……私も……、ですか?」
何かの聞き間違えではないかと、信じられない思いで尋ねると、フラムアークは鷹揚に頷いた。
「そうだよ、ユーファ。君もオレ達と一緒に行くんだ。陛下には緊急事態ということでごり押しをして、特別に許可をいただいた」
―――嘘みたいだ。
本当……に? 私も、行けるの? あなた達と一緒に、アズールへ?
「薬師が一人増えれば、助かる患者の数はずっと増える。そうだろう?」
「あ……ありがとうございます! 一人でも多くの人を救えるよう、尽力します!」
頬を紅潮させ、勢い込んでフラムアークにそう答えた私は、直後、懸念すべき事項に気が付いて真顔に戻った。
「……ちょっと待って下さい。それはつまり、フラムアーク様もアズールに行かれるということですか?」
「そうだよ?」
当たり前のような顔をして怪訝そうに小首を傾げた第四皇子に、私は目を剥いて意見した。
「ダ……ダメですよ! いくら予防接種をされているとはいえ、薬師としては許可出来ません! 現地は不衛生な状況になっていると考えられますから、別の疫病が発生する恐れもありますし、病原菌の突然変異などが起こって、万が一罹患(りかん)されてしまったら目も当てられません!」
「その可能性がないとは言えないのは承知している。オレがもし次期皇帝候補に目されるような立場だったなら、きっと許可が下りることはなかったんだろうな。だが、実際に許可は下りているんだ。病弱だった第四皇子は身軽でいい」
私の懸念を軽く一蹴して事もなげにそう言い切ったフラムアークに、私は言葉を詰まらせた。
「フラムアーク様……」
「そんな顔をしないでくれ、ユーファ。ユーファとスレンツェがオレのことを誰より案じてくれているのはよく分かっている。体調に異変をきたしたらすぐに言うし、もしそうなったら即座に現場から引き上げて療養に専念すると約束するから」
「ですが、疫病の現場は生易しいものではありませんよ。想像を絶するほど悲惨で過酷な状況であるとお考え下さい。貴方にもしものことがあっては……」
そんな私達のやり取りを見ていたスレンツェが溜め息混じりに口を挟んだ。
「ユーファ、事後承諾になっている時点でもう無駄だ。フラムアークは既にそう決めてしまっている。でなければオレ達に黙って皇帝にそんなことを願い出たりはしないだろう」
それを受けたフラムアークは申し訳なさそうに私の表情を窺った。
「そういうことなんだ。ごめんね、ユーファ。ここは諦めてくれないか?」
「そんな……」
私は眉を寄せて二人の顔を見やった。
「皇帝の許可が下りたのなら、事態は既に動き出している。後はのるかそるかだ。出立は二日後だと言ったな?」
「うん。人手が多いに越したことはないから、やる気のある者がいたら一緒に連れて行きたいと思って二日後に設定した。どれだけ集まるかは分からないけどね」
フラムアークはそう言って、なおためらう私に手を差し伸べた。
「大丈夫だよ。一緒に行こう、ユーファ。ベリオラの蔓延を食い止める為に、君の力が必要なんだ」
「……せっかく健康になられたのに、自ら、疫病が蔓延する中へと飛び込んでいかれるのですか?」
「危険を伴うのは君達も一緒だよ。今この瞬間、現地で患者と向き合っている薬師達もだ。……オレは安全と引き換えに事態の成り行きを静観するのではなく、その時々の自分の気持ちに寄り添った生き方をしていきたい」
私は正面からフラムアークのインペリアルトパーズの瞳を見据えた。フラムアークは瞳を逸らさず、穏やかながら静かな決意を湛えた表情で真っ直ぐに私の瞳を見つめ返してくる。
「……私は正直反対です。貴方が幼い子どもであれば、これが思いつきで起こしたような行動なのであれば、あらゆる手段を駆使してでも阻止したい。それくらい反対です。……けれど貴方はもう子どもではなく、これはおそらく熟慮した上での選択で、その上で今、決然としてこの場に立っている。……それが見て取れるから、その意思を覆すことは出来ないと諦めます。けれど、私自身の考えとしてはやはり賛同は出来ません」
「……ユーファの気持ちと立場からしたら、当然だと思う。苦労してオレをここまで健康体に導いてくれたのに、それに相反することをしようとしている。それについては本当に申し訳なく思うよ。我が儘を通してごめん」
そっと半眼を伏せるフラムアークに私は首を振った。
「少し違います……そういうことではないんです。誰しも自分の生き方は自分で決めるものですし、貴方ご自身がそうと決められたのなら、私は反対する立場にありません。そうではなくて……ぶっちゃけ、薬師としての立場うんぬんやこれまでがどうこうではなく、ただの一個人として貴方という人が心配だから、反対だと、そう申し上げているんです!」
勢いのままに言い切ってしまってから、私は感情的になってしまった自分に気が付き、ハッとして声のトーンを落とした。
「……これは、言うなれば私の我が儘です。貴方が心配だから、危険と分かっている場所から遠ざけたい。安全な場所で、見守っていてほしい。自分本位で身勝手な、私の感情論です」
分かっている。けれど、心配なのよ。
長かったベッドの上での生活から抜け出して、今ようやく、こんなにも生き生きとしている貴方がまた、以前のような生活に戻ることになってしまったら……って。
出来ることなら、貴方にもうあんな思いはさせたくない。
フラムアークはそんな私の言葉を噛みしめるようにして、言った。
「ありがとう、オレを心配してくれて。その上で諦めてくれて、ありがとう。それから……諦めさせて、ごめん」
「……我が儘勝負はどうやらフラムアークの勝ちだな」
渋々と頷いた私の前で、スレンツェが神妙な面持ちになったフラムアークの額を手の甲で軽く小突くようにした。
「オレも基本的にはユーファと同じ考えだ。アズール行きの取り計らいには感謝するが、褒めてはいないぞ。次からは事前に相談するようにしろ」
「……分かったよ。相談出来ることはするようにする」
含みを持たせたフラムアークの物言いに、スレンツェはひとつ息をついた。
「馬鹿だな、お前。そこはもっともらしく『分かった』とだけ言っておけばいいものを」
「だって、スレンツェとユーファに嘘はつきたくないし」
「ったく、素直なんだか頑固なんだか……」
そんな二人のやり取りに、私は思わず頬を緩めた。
「でも、フラムアーク様らしくていいですよ。そういうところ、私は好きです」
「えっ、ホント?」
神妙な面持ちから一転、瞳を輝かせてこちらを振り返ったフラムアークの額を、スレンツェが何故かさっきより強い力で小突いた。鈍い音がして、「たッ」と声を上げたフラムアークが額を押さえる。
「そうと決まったら準備だ、行くぞ」
「スレンツェ、大人げないな……」
「もたもたするな」
「はいはい」
背を翻(ひるがえ)したスレンツェとそんな彼の後を追う少しおでこを赤くしたフラムアークを見送り、私も準備をする為その場を離れた。
心配は尽きないけれど、アズールへ行って自分が直接力になれることは、純粋に嬉しい。
微力ながら、スレンツェの故郷を助けるささやかな力となれれば。
そんな決意を胸に、私は出立までの二日間、余念なく準備にいそしんだのだった。