フラムアークの初陣となったイクシュル領に於ける国境門付近の戦い以降も、してやられて腹の虫がおさまらないアイワーン側は度々ちょっかいをかけてきていた。
フラムアークはスレンツェを伴って幾度となくイクシュルへ赴き、その度にハワード辺境伯と連携して対策に当たっていた。
そんな中、親密になったのだろうか。
最近になって、ハワード辺境伯の末娘、アデリーネ嬢が足繁くフラムアークを訪ねてくるようになった。
フラムアークと同い年で現在十九歳の彼女は、若葉のようなペリドットの瞳をしていて、明るい茶色の髪をふんわりと結い上げ丸いおでこをスッキリと出した、可愛らしい気品のある顔立ちをしている。
楚々としていながら陽だまりのような明るさを持ち合わせている彼女は、私やスレンツェに対しても礼節を守り、分け隔てなく接してくれ、そんな彼女に向けるフラムアークの眼差しは優しかった。
時折宮廷内を散策しながら談笑している二人を見かけることがあったけれど、その様子は親密で、とてもいい雰囲気のように見える。けれどフラムアークからは彼女に関する具体的な話がされることはなくて、私はそわそわした。
「フラムアーク様とアデリーネ様、いい雰囲気よね? 二人はお互いに想い合っているのかしら? スレンツェ、何か聞いていない?」
そう切り出すと、彼は少し考える表情になった。
「特に何も聞いてはいないが……どうだろうな。今まで湧いていた小蠅のような女達と違うのは確かだろうが」
スレンツェが小蠅と称したのは、フラムアークに取り入ろうと躍起になる貴族の令嬢達のことだった。例の一件があった後も、第四皇子に何とか近付こうと息巻くたくましい令嬢達は後を絶たず、フラムアークを辟易させていたのだけれど、アデリーネ嬢の登場は彼女達にも大きな影響を与え、最近はその姿を見かけることが少なくなっていた。
「何にしても、彼女が虫除けになってくれたことはありがたい」
その意見には私も同感だったけれど、残念、スレンツェも何も聞かされていないのね。
実際のところはどうなのかしら……。
アデリーネ嬢はふた月に一度ほどの割合で宮廷を訪れると、幾日か滞在してイクシュル領へと帰って行き、またフラムアークの方も、所用でイクシュル城を訪れる際は必ずアデリーネ嬢に面会しているようだ。それを許可しているということはハワード辺境伯はそんな二人の様子を憎からず思っているのだろうし、宮廷内では既に二人は恋仲にあると目されて、第四皇子の初ロマンスとして尾ひれのついた噂が広がっていた。
「気になるか?」
スレンツェにそう尋ねられた私は大きく頷いた。
「気になるわ。何ていうか、胸の辺りがずっとそわそわしているの。アデリーネ様は可愛らしくて身分も人柄も申し分のない方だし、フラムアーク様があの方に惹かれているのなら上手くいってほしい。それとなく気遣えたらとも思うのだけれど、早とちりで余計な真似はしたくないし……。それに、小さい頃から見てきたあの方が、一人の男性として誰かを想うようになるのが何だか不思議な感じがして……。真相を知りたいような、知りたくないような……そんな複雑な思いもあるの。これって、息子を持つ母親みたいな心境なのかしら」
「……。そうかもしれないし、そうでないのかもしれないな」
「スレンツェはそういう気持ちにはならない?」
精悍な彼の顔を仰ぎ見ると、苦笑気味に返された。
「オレとしては、フラムアークに対する感情は息子というより、弟に近い感じだからな」
それもそうか、スレンツェとフラムアークの年の差は十歳だものね。始めから大人として彼に仕えている私とは、視点が違って当然だ。
「男と女の違いもあるだろうが、ユーファのような複雑な心境にはならないな。あいつが彼女に惹かれているなら上手くいけばいいと願うだけだし、何かの目的があって動いているなら、それを見据えて行動するだけだ。その時々の状況に沿う感じと言えばいいかな」
「そういうもの? 男の人って、何だか淡白ね」
「女が複雑で多感な生き物なんだよ。男は単純で明快な生き物だからな」
そうかしら? 女からすると、男の人の方が何を考えているのかよっぽど分からないけれど……。
「フラムアークが息子なら、ユーファにとってオレは差し詰め、弟のような立ち位置か?」
スレンツェにそう問われて、思いも寄らなかったその質問に、私はひとつ瞬きした。
「え?」
弟? スレンツェが?
確かに―――年齢的な流れでいけばそういう感覚になってもおかしくはなかったけれど、スレンツェは弟と言うにはしっくりとこなかった。
私の方が年上だから姉のような気持ちになって彼に接したことはあったけれど、その時も弟のような存在だと思って接したわけではなく、あくまで年長者として、それにそぐう対応をしただけのことで―――彼を弟のように思ったことは、一度もない。
辛い経験を経てきているスレンツェは少年時代から大人びていたし、立ち居振る舞いがしっかりしていて様々なことに精通しており、昔から頼りになった。
共に第四皇子を支える同僚として、戦友のような存在として長い時を過ごし、すっかり大人になった彼には恥ずかしいところも弱いところも見せてしまっているし、現在はもう、彼に対して年下だという意識はほとんどなく、対等な大人の男性として接しているのが本音だった。
「スレンツェは弟、と言うには堂々とし過ぎていて違和感があるわ……年下だけど、あなたをそういうふうに思ったことはないわね」
彼としては意外な返答だったのか、スレンツェは切れ長の黒い瞳をやや見開いた。
「逆にスレンツェは私を姉のように感じたことがある?」
「……オレはユーファを姉のように思ったことは、一度もない」
ええと……それは、どういう意味かしら?
静かな口調で否定した彼の言葉が悪い意味にしか捉えられなくて、私は口元をひくつかせた。
「それは……どういう意味? 私は頼りにならないっていうこと?」
「は、それは違う。何て顔をするんだ」
小さく吹き出されて、私は憮然とした。
「だって」
「逆だよ、頼りにしている。オレとフラムアークの精神的な支柱はお前だ」
今度は過大評価としか思えない言葉を振られて、落ち込みかけたところからの振り幅の大きさに、表情が定まらなくなる。
兎耳がくてんと横にしおれて、私は熱くなった顔を両手で隠した。
「表情の変化が忙しいな」
「スレンツェのせいよ。こんなのずるい……不意打ちだわ」
顔を覆ったまま、私はそう訴えた。
からかっているわけじゃなく、彼が本気でその言葉を言ってくれたことが分かるからこそ、顔が熱い。
いくら何でも褒め過ぎよ。そこまで褒めてくれなくても、頼りにしていると言ってもらえるだけで充分嬉しいのに―――直前までの落差と相まって、反応に困るじゃない。
「―――……不意打ちは、どっちの方だ」
かすれた呟きと共にスレンツェが動いた気配がして、大きな手が頭に置かれた。緩く髪をかき混ぜるようにされて、顔を上げると、今までに見たことのない表情をしたスレンツェがそこにいた。
―――スレンツェ?
黒い双眸に読み取れない深い感情の光を揺らした彼は、じっと私のサファイアブルーの瞳を見つめている。その輝きに吸い込まれそうになって思わず視線を伏せると、それを追うように滑り落ちてきた彼の手が私の頬を包み込むようにして顔を上向かせ、ひたむきなその視線から逃げられないようにした。
「じっとしてろ」
囁くような低い声音。肌に触れる男らしい無骨な手指が、男性としての彼を意識させる。至近距離で見据えられ、動けなくなった私に向かって、頬を包み込んでいる方とは逆の、もう一方の彼の手がゆっくりと伸ばされて、その瞬間、急激に心臓がドッ、と騒いだ。
「な、に、スレンツェ……!?」
頬に朱を散らし、情けないくらい動揺しながら身じろいだ私の耳にスレンツェの静かな声が忍び込んだのは、次の刹那。
「……取れたぞ」
―――はい?
「目の下に睫毛が付いていた」
彼の長い指先に付いたそれを見せつけられ、私は憤死しそうになった。
「……!」
あっ……あんな取り方、あるー!? 私の心臓のすり減り具合と、この最高潮にいたたまれない感を、どうしてくれるの!
「そっ……そういうことは先に口で言いなさい!」
恥ずかしさのあまり、つい噛みつくような口調になると、口角を上げたスレンツェはしたり顔になった。
「あんな顔を見せられると、やはり姉のようには思えないな」
「!?」
わっ……わざと!? からかったの!?
真っ赤になって肩をわななかせた私が、文句を言おうとした時だった。
「とりあえず、オレを弟と認識していないのであればそれでいい」
スレンツェが意味ありげな物言いをしたものだから、私はそれを飲み込んでしまった。
それは、どういう……? 私はそれを、どう捉えたらいいの?
困惑する私に、スレンツェはもうひとつ意味深な言葉を投げかける。
「身近で忘れがちかもしれないが、オレもフラムアークも、年下だが男だということを忘れるな」
一瞬、またあの深い光を帯びた彼の眼差しに、ドキン、と心臓が波打って、私は無意識のうちに長衣(ローヴ)の胸の辺りを掴んだ。
「どういう意味……どうしてそこに、フラムアーク様も出てくるの」
「……。あいつはお前が思っているより、多分、ずっと大人だよ。加えて一途だ」
スレンツェの目元がふと和らいで、弟を思う兄のような顔になった。一拍置いてどこかやるせない表情になった彼は、複雑な語調を滲ませる。
「あいつの行動は目先の為のものではなく、あくまでその先―――見据えている未来を念頭に置いたものであって、全てはそこへ帰結する為の布石なのだと思う」
「……? 何を言っているのかよく分からないわ、スレンツェ」
「オレが言っているのは全て推論だ。確証があるわけじゃない。だから、分からなくていい」
まるで謎かけのような言葉。けれどその表情から、彼が大事なことを語っているのだということだけは伝わってきた。
私の脳裏に、これまで薄々感じていながら、その度にずっと打ち消し続けてきたある可能性が思い浮かんで、それに恐れをなすように、今また、無意識のうちに頭の中でそれを打ち消していく。
それは多分、私達の中のバランスを崩しかねない、危うい核心。触れてはならない、気付いてはいけない、見て見ぬふりをしてきた、禁忌の箱。
フラムアークの成長と共に、短くはない時を共に過ごすうちに、私達の間に少しずつ少しずつ積み重なって、形を成してきたもの。異分子である三人が肩を寄せ合い育み合ってきた、少し歪で、でもとても心地好い、かけがえのない関係。
そんな私達の関係は、もしかしたら過渡期へと差し掛かっているのかもしれない―――。