「岩本さん?」
独り取り残されてしまった深層意識の底、暗闇の中で、あたしは自分の名前を心配そうに呼ぶ喜多川くんの顔を、闇の中に浮かぶ窓のようなところを介して見ていた。
外の風景が映るあの窓みたいなモノは、現実のあたしの視界とリンクしているんだろうか?
前回とは違って、意識をなくすことなくこうやって状況を確認出来ているだけマシなのかもしれないけど、見知らぬ素行の悪い青年に力づくで肉体を乗っ取られた状態のあたしは、やり場のない憤りに肩をわななかせながら、為(な)す術のない現状に歯噛みしつつ、事態を見守るしかなかった。
くっそー、あっっの野良猫みたいな見た目のワル男!
あたしの身体を使って妙な真似をしたら、ただじゃおかないんだから!!
得体の知れない怨霊に取り憑かれたと思っていた時は怖さの方が勝ったけど、相手の姿を確認した今は不思議と、怒りの方が勝っている。
ううう、あいつっ……あいつ、許せない〜〜〜ッ!!!
「窓」越しに見える喜多川くんは、あたしの雰囲気が変わったことに気が付いた様子だった。
警戒する表情になった彼に、「あたし」は小首を傾げて「やぁ」みたいな軽いノリで手を振ってみせている。
「……岩本さん、じゃないですよね」
そう確認を取る喜多川くんにゆったりと、どこか満足げに頷いて、あたしの身体を乗っ取った野良猫みたいな印象の男―――ノラオはこう言った。
「分かるんだ? 嬉しいな」
「……。彼女は今、どこに?」
「中にいるよ。何かね、スゴく怒ってるのが伝わってくる」
伝わるの!? じゃあ早くあたしに身体を返してよ! 今すぐ、直ちに、謝罪込みで!
「ヤだよ。せっかくエージと話してるのに」
―――エージ。
喜多川くんが言っていたとおりだ。ノラオは喜多川くんのことをエージと呼んだ。
あたしの声に反応する様子を見せたノラオに、喜多川くんが驚きの声を上げる。
「! 彼女と話せるのか!?」
「そうみたいだね。うるさくてヤになる」
は、はあぁぁぁ〜っ!? な、何様―――っ!? 人の身体を奪っておいて、ちょ、こいつマジムカつく! ホンッット信じらんない!!
「……。あなたの意思で、いつでも自在に彼女とスイッチ出来るんですか?」
喜多川くんにそう尋ねられたノラオは、少し考える素振りを見せた。
「んー……そう出来たらいいんだけど、よく分かんないな。なんせまだ二回目だし、こっちも手探りっていうか―――キッカケっぽいのがあるっちゃあるっぽいけど」
「キッカケ? それは、どんな?」
「さあ? そう感じてるだけかも」
ふふ、と捉えどころなく微笑むノラオに、喜多川くんは慎重に問い重ねた。
「……。じゃあ、仮に今、あなたが戻りたいと望めば、彼女と入れ替わることは可能?」
「どうかな? 出来るかもしれないけど今はその気ないし」
のらりくらりとはぐらかすノラオに、喜多川くんは一歩踏み込んだ質問をした。
「……あなたはいったい、誰なんです?」
けれどしたたかなノラオはそれをしれっと聞き流すと、逆にこう注文をつけたのだ。
「ねえエージ、とりあえずどっかサテン入らない? 話長くなりそうだし、喉乾いた」
「サテン?」
レトロな用語に瞳を瞬かせる喜多川くんに、ノラオはちょっと驚いたような、不思議そうな顔をしてこう言った。
「サテンだよ、喫茶店! 知ってんだろ?」
「ああ、喫茶店……だったらすぐそこにカフェが」
「へー、カフェ! じゃあそこ行こう」
言うなり、ノラオは喜多川くんの腕にあたしの腕をぐいっと絡ませた。
しかもかなり密着、ちょっ、オッパイ当たってるんじゃないの!?
慌てるあたしの悪い予感はどうやら的中していそうな感じだった。
あああ、喜多川くんの顔が赤くなって、スッゴク困った感じになってる!!
「ちょっ……」
「何だよいーじゃん、こんくらい。早く行こっ。ほら、場所分かんないから案内してよ」
「わ、分かったからもう少し離れて」
「減るもんじゃないしいいだろー? 照れ屋さんだなーエージは」
きゃ……きゃーっ! ちょっとーっ、人の身体使ってやめて―――っっ!
あたしは絶叫したけれど、ノラオはガン無視。喜多川くんにはもちろん、あたしの声が届くはずもなく。
喜多川くんごめーんっ! 本当にごめん! 聞こえないだろうけど、本当にごめんね!
あのノラオ、シバけたら後でシバき倒してやる!!
「コワ。何だよノラオって……」
「?」
ボソッとこぼされたノラオの声は、いっぱいいっぱいの喜多川くんの耳にはどうやら届かなかったみたいだ。
「おー。へー、何かナウいなー」
ほどなく着いたカフェの店内を新鮮そうな面持ちで見渡したノラオは、喜多川くんが注文してくれたカフェモカをひと口飲むと、目を輝かせた。
「! ウマッ……好きな味だ。甘くてほろ苦くて、いい香り」
メニューを見て、もの珍しさと直感でカフェモカをチョイスしたらしいノラオはいたくご満悦の様子だった。
ノラオが生きていた頃は一般的な飲み物じゃなかったのかな? あのアパート相当古かったし……。
自分はカフェオレを注文した喜多川くんはノラオの向かいの席に腰を下ろして、さっきはぐらかされた質問を再び切り出した。
「それで……あなたは誰なんです? どうして岩本さんに取り憑いたんですか?」
「ん〜―――分かんない」
―――は!?
その回答にあたしは目を剥いた。
分かんない!? は!? どういうこと!?
「ずーっと暗闇の中にいたことは覚えている……どのくらいそうしていたのかは分かんないけど、けっこう長い間そうしていたんじゃないかって気はする。覚えているのは、重機の音がして、暗闇に光が差し込んで、そしたらこの身体の持ち主が見えた。見えた瞬間、吸い込まれるみたいに引き寄せられて―――……そこからよく覚えてない。ずっと夢現(ゆめうつつ)の中、周りの景色とか音とかに五感を傾けていた。ふと気が付いたらエージがいて、懐かしくて手を伸ばしたら触れることが出来たから、嬉し過ぎてキスしようとしたら拒否られて、また夢現の中に戻っていった―――そんな感じ」
手元のカフェモカに視線を落としたまま、ノラオはどこか遠い目をしてそう言った。
「じゃあ昨日は、あなた的には夢を見ているような感覚だったと―――」
「あれ、昨日のことなんだ? まあそんな感じかな。現実味はなかったっていうか……」
「今はどうなんです? 昨日に比べて饒舌だし、あなた自身の個性がよく出てきているというか、自分の状況をわきまえてきているように感じられますけど」
喜多川くんにそう問われたノラオは頷いて、半眼を伏せた。
「そうだね。昨日覚醒してから徐々に意識がハッキリしてきた自覚はあるよ。表面に出ていない間もこの身体を通して外の世界を感じていて、自分がもうこの世の住人じゃないんだってことは何となく理解した。景色がさ、知っているはずの景色とかなり変わってて違和感あるんだよな。かと思うと、以前のまんまの変わってない景色も入り混じってたりして―――否が応でも時の移ろいを感じるっていうか」
ノラオ……。
「……自分のことは、何も覚えていないんですか? 名前とか……」
「んーサッパリ。でも、エージのことは覚えている。エージのことが大好きだって気持ちだけ、残ってる」
「―――あの、そのことなんですけど」
喜多川くんは言いにくそうに口を開いた。
「実は、オレの名前は喜多川蓮人っていうんです。エージって名前じゃありません。人違いなんです」
その瞬間、ノラオが受けた衝撃が、まるで感電するみたいにあたしにも連動して伝わってきた。
うわ、ガチで驚いているのが伝わってくる……!
スゴ……あたし達、こんなふうに感覚を共有しているんだ……!
「―――え………ウソ……!? だってエージ、エージじゃん……! 顔も声も、エージじゃん!」
「落ち着いて下さい。あなたがいた時代と今の時代が違うことはあなた自身、肌に感じて認識しているんですよね?」
「えっ……うん、あれ……? それはそう、だな……あれ……?」
ノラオはひどく混乱しているみたいだった。
「オレがあなたの知っているエージさんであるなら、もっと年を重ねた外見になっているはずだと思うんです」
「…………」
「多分、話し方とか、あなたへの接し方とか、細かい違いは他にも色々とあるはずで……あなたの意識がもっと鮮明になってくれば、その違和感もよりつまびらかになっていくんじゃないかと―――」
「―――エージじゃないの?」
テーブルの上で両の拳を握りしめたノラオは身を乗り出して、食い入るように喜多川くんを見つめた。
「じゃあ、本物のエージは? どこにいるの?」
「それは……」
「本物のエージはどこ? ……っ、エージ……! エージに会いたいよ……!」
ノラオの両目から、ボロッと涙が溢れ出した。
「エージに会いたい……! それがオレの心残りだ。エージにもう一度会いたくて会いたくて、だからずっとあの場所に残っていたんだ。そうだ。思い出した」
ノラオはボロボロ涙をこぼしながら、エージへの想いを語った。
「大好きだったんだ。大好きだったから、後悔してた。後悔して後悔して、あの場所から動けなくなった。エージ、エージ……!」
人目も憚らず、子どもみたいにわんわん泣き出してしまったノラオに、喜多川くんが弱り切った様子でハンカチを差し出した。
「君、落ち着いて。とりあえずこれで涙拭いて」
号泣しているノラオはそれを受け取る余裕もなく、わんわん泣き続けている。正面の席からノラオの隣へと移動した喜多川くんは、溢れるノラオの涙をハンカチで優しく押さえてあげながら、彼を落ち着かせようと辛抱強く慰めの言葉をかけ続けた。
「エージ……!」
ノラオの電池がブチッと切れたように感じたその瞬間、入れ替わるようにあたしの意識は急浮上して、急激に目の前が明るくなるのを感じた。
眼下に一瞬だけ、涙に濡れて眠るように横たわるノラオの姿が見えたような気がして、気が付くと、あたしの目の前には大いに困った喜多川くんの顔があって、あたしの目元には彼のハンカチが優しく当てがわれていた。
「……喜多川くん」
「! 岩本さん?」
あたしが戻ったと知った彼は大きく肩の力を抜いて、心からホッとした様子を見せた。
「ああ、戻ったんだ。良かった……!」
「ごめん。お手数おかけしました……」
互いの顔を見合わせて、どちらからともなく苦笑気味に眉を垂らしたあたし達は、直後、店内から痛いほどの注目を浴びてしまっている現状に気が付いて、カーッと頬を赤らめると、慌てて席を立ちあがった。
「で、出ようか! 喜多川くん」
「そ、そうだね。ちょっと違うところで落ち着いて話そう」
あたし達は飲みかけのドリンクを手に持つと、そそくさと店を後にした。
あ―――、ヤッバ! 恥っず!
顔、熱過ぎ……!
あのカフェ、もう行けないや〜!