制服も夏服になって、あたしの蓮人くん呼びも定着して、蓮人くんとの親密度も以前より増した気がするけれど、蓮人くんは相変わらずあたしのことを名字で呼んでいて、ノラオのエージに関する記憶も依然戻ってはいなくて、おじいちゃんから名簿が見つかったという連絡は未だなくて―――そんなふうになかなか変わらないものもある。
そして、そんなふうに変わらないものがここにもひとつ―――……。
*
「あっ、資料忘れた!」
移動教室に向かおうとした際、忘れ物をしたことに気が付いたあたしは、教室の入口から自分の席へと戻ろうとして、ちょうど教室から出るところだった男子生徒とぶつかりそうになり、慌てて避(よ)けた。
「ごめんっ!」
反射的に謝りながら相手の顔を見ると、それは小柴で―――目が合ったあたし達は何とも気まずい面持ちになりながら、互いにそのまま目を逸らしてすれ違った。
小柴が何かもの言いたげに振り返り、あたしの背中を目で追うのが分かったけど、その気配を感じながら、どうしても振り返る気にはなれなくて、そのまま気が付かないふりをしてしまう。
小柴と一緒にいた彼と仲のいい男子が、ひと言ふた言小柴に何か声をかけて、その肩を抱きながら廊下へと消えていった。
―――あの一件以来、あたしと小柴はずっとこんな感じでギクシャクしている。
あの時はあたしもちょっとキツく言い過ぎたなぁ、とは思うものの、あの時の彼の発言はそれだけ許せなかったし、小柴が謝ってくれたら和解する心積もりはあったものの、彼からそういった申し出は未だないままで、そうである以上、こっちから歩み寄るつもりはない、というのがあたしの心境だった。
いつまでもこんなのは気まずいし良くないよなぁ、という思いはありつつも、それと感情とはまた別物で、時間が経てば経つほどどうにも出来なくなってしまい、結果、そのまま放置してしまっている。
「陽葵(ひま)ー、小柴、何か言いたげにしてたよ?」
隣を歩く紬から、気付いてたでしょ? と目で問われたあたしは思わず頬を膨らませた。
「言いたげにしてるだけで、どうせ何も言ってこないじゃん」
「んー、あいつ意外とチキンなんだよねー。悪いと思ってるんならさっさと謝れって言ってるんだけど、あんたにガツンとやられたのがトラウマになってるみたいでさー」
「知らないよ。自分が悪いんじゃん」
ムッとして眉を寄せると、紬は苦笑した。
「まぁその通りなんだけどさ。今のあんたは小柴にとって取り付く島もない感じになってるから、せめてあのチキンが謝罪しやすいように、ちょっと空気を柔らかくするっていうか、話しかけても拒絶しないような雰囲気を出してあげるっていうのも必要じゃないかなーって思ってさ」
紬がここまで言うってことは、あたしも相当意固地な態度になっちゃってるのかな―――?
「……。あたし、そんなに頑なな雰囲気出てる?」
「んー、傍(はた)から見て、陽葵(ひま)の世界から小柴消えてんなって思う程度には?」
―――そんなに?
でもさ、元はと言えば小柴が悪いのに、小柴がさっさと謝ってくれれば済む話だったのに、誠意なんか微塵も感じられないのに、あたしの方からそんな譲歩してやる必要が、ある?
人を傷付けておきながら謝ることも出来ない相手に、そこまでして仲直りする必要、あるのかな?
ぐるぐる考えて難しい顔になっていると、紬はそんなあたしの背中をポンと叩いた。
「あんたの言わんとすることも分かるけど、あんまり追い詰めて、変な方向に小柴の矛先が向かないように気を付ける必要もあるんじゃない? ってこと。別に無理して許せって言ってるわけじゃなくて、許せないなら許せないで、このまま放置しとかない方がいいよって言ってんの。こういうのって、放置しとくとろくなことにならないから」
『……マキセってさ、何か年の割に達観してるっつーかさー、そういうトコあるよなー。人間関係がよく見えてるっていうか』
ノラオの感心したような声に、あたしも確かに……と心の中で頷いた。
高校に入って仲良くなった紬は、中学時代に人間関係で色々とあったみたいで、そういった経験がこういうところに表れているんだろうなと思うけど、なんにしろ、彼女があたしを気遣って言ってくれていることは分かったから、素直にその言葉は受け取っておこうと思った。
そしてその忠告は的を射ていたんだなぁと、後になってあたしは痛感することになるのだ。
「蓮人くん!」
何気ない日常生活の中で、笑顔で彼に接するあたしを、小柴がどんな思いで見ていたのか。
そんな小柴の様子を見ていた、あたしと蓮人くんの関係を快く思わない第三者が、何を考えたのか―――。
「―――似合わないよねぇ、あの二人」
その人物は笑顔の下に悪意を忍ばせて、あたし達の知らないところで小柴に歩み寄っていた。
「え……?」
人気のない廊下で振り返った小柴ににっこりと微笑みかけたその人物は、面識こそあるものの、これまで小柴とは接点のなかった隣のクラスの女子生徒だった。
訝(いぶか)しむ小柴に、彼女は鈴のような声音で囁きかける。
「あの二人、タイプ違い過ぎだし、見てて違和感しかないよねぇ? 岩本さんみたいな賑やかな子には、小柴くんみたいなクラスのムードメーカータイプが絶対に合うと思うんだけどなぁ」
「……」
「実際、小柴くんと岩本さんて結構仲良かったよね? よく廊下とかで喋ってるの見た気がするもん」
「……」
「でも最近は、そのポジションを蓮人くんに取られちゃってる感じ?」
「は……? さっきから何、お前」
眉を跳ね上げて不快感を露わにする小柴の心を揺らすように、つややかな薄紅色の唇がゆっくりと上向きに弧を描いて、意味ありげな表情を作り出す。
「でも、それって誤解なんだよね。実は蓮人くん、岩本さんに付きまとわれてて困っているみたいなんだ……」
「は……?」
「あっ、知らない? 蓮人くんと岩本さんってさ、急に絡むようになったじゃない? あれ、蓮人くんが岩本さんからとある相談を持ち掛けられたのがきっかけみたいなんだけど」
「……」
「蓮人くん的には、それが解決するまでの付き合いって思っていたらしいんだよね。期間限定の関係、みたいな? でもそこから岩本さんにグイグイ来られて、予想外にまとわりつかれちゃって、困ってるっぽいんだよね―――だけど蓮人くんはああいう感じの人だから、無下に出来なくて……」
「―――それ、喜多川がそう言ってんの? 岩本のこと迷惑だって」
思わず反応してしまった小柴に、彼女は可笑しそうに口元を手で隠しながら、奥歯にものが挟まったような言い方をした。
「蓮人くんの性格的にハッキリそうとは言わないよー? でもさぁ、岩本さんは蓮人くんのこと急に名前呼びするようになったのに、蓮人くんは一貫して岩本さんのことを名字で呼んでるじゃない? その辺りにさぁ、二人の関係性っていうか、温度差が表れてると思わない? ねえ?」
虚構の中に、ひとつまみの真実。
弱っていた小柴の心に、その悪意はするりと入り込んでしまった。
あたし達に関する確かな情報を何も持たず、その真偽を判断する材料が何もなかった小柴には、自分に都合の良いその話を嘘だと断じることが出来なかったのだ―――。