喉が渇いたのか、冷水ポットの麦茶をコップに注いでいたおじいちゃんは、台所に入ってきたノラオを見て、「おぅ陽葵(ひまり)」と笑顔を見せた。
「思ったより早く電気がついて良かったなぁ。雨もまた小降りになってきたし、明日には問題なく電車が動くといいんだが」
「―――タケ」
ノラオにそう呼ばれたおじいちゃんの表情が、ぎこちなく固まった。
そんなおじいちゃんを見やって、ノラオはどこか寂しげな、懐かしげな笑みを口元に刻む。
「ふっ……お前、年取ったなぁ……。しわっくちゃじゃねぇか。髪もそんなに白くなって……」
「……! 兄、ちゃん……? 兄ちゃんなんか? 本当に!?」
しわしわの瞼をいっぱいに見開くおじいちゃんに、ノラオはどこかきまり悪そうな顔になって、後ろ頭をかいた。
「あー……お前が混乱するのも無理ねぇし、こんなの普通は信じられねぇよな……。そうだな―――お前が学生の頃、参考書のカバーを掛けて偽装していたお気に入りのエロ本のタイトルは、確か『純情セーラー服―――」
「うわあぁぁ! やめんか! 信じる! あんたは兄ちゃんだ!」
お、おじいちゃん……。
「ははっ」
愉快そうに声を立てて笑ったノラオを改めて見やったおじいちゃんは、どこか信じられない面持ちで、目にうっすらと涙を浮かべた。
「兄ちゃん……本当に兄ちゃんなんだな……。あんなに供養したのに、成仏もせんで何やっとるんだよ……こんな長いこと現世(うつしよ)に留まって、記憶を失くして、オレの孫娘に取り憑いて―――……」
「……悪ぃ」
ノラオは申し訳なさそうに睫毛を伏せた。
「記憶は全部、戻ったのかい。エージって人のことは、思い出せたんかい」
「お前に会って、昔の……家族の記憶はほぼ戻った、と思う。エージのトコだけ、うっすら霞みがかっててもどかしい感じなんだけど―――でも、徐々に思い出せるんじゃねぇかな、って気はしてる。ヒマリやレントが手を尽くしてくれてるし、あいつらから色んな刺激をもらってっから―――」
ノラオ―――……。
あたしはふと、以前本屋で体感した感覚を思い出した。
ノラオが新しい発見とか刺激を受ける度に伝わってきた、心に響くような、何かが沸き立つような、言葉にするのが難しい不思議な感覚―――もしかしたらあれが、ノラオの記憶を揺り動かすきっかけみたいな役割を果たしていたりするのかな。
「それにタケ、お前もさ、姉ちゃんに名簿のこと確認してくれるって言ってたし―――」
「……! 驚いた……本当に、陽葵(ひまり)と情報を共有出来とるんだな」
「ああ。……。姉ちゃんは……その、元気か? 姉ちゃんも、だいぶ年食っちまったんだろうなぁ……」
「ああ……昔と変わらんあの調子で、元気にやっとるよ。見てくれは、オレに負けんくらいしわだらけになっちまったがなぁ―――姉ちゃんが地元で実家と墓を守ってくれとるんだ……親父とお袋と、兄ちゃんが入った墓をな」
「……!」
胸に突き刺さるような、何とも言い難い衝撃が、ノラオを通じて伝わってきた。
しばらく間を置いて噛みしめるように絞り出された言葉には、その複雑な心境が滲んでいた。
「そっか……オレ、親父とお袋と同じ墓に入ってんのか―――まあ、道理だよな。……。オレは“ここ”にいるのに……何か、スゲー変な感じ……」
「……。本当だな……」
それからおじいちゃんはポツポツと、ノラオが亡くなった後の家族の話をし始めた。
時折涙ぐみながら、言葉を詰まらせながら、ノラオの知らない家族の話を、長い時間をかけてゆっくりと語っていた―――。
*
昨夜の激しい雷雨が嘘みたいに、翌日は朝から抜けるような青空が広がっていた。
太陽の光が降り注ぐ雨上がりの爽やかな朝とは対照的に、明け方までノラオと話し込んでいたおじいちゃんと、身体の持ち主であるあたしは寝不足のせいでどんよりしていて、遅くまであたしの戻りを待ってくれていたらしい蓮人くんも、目の下にかなりのお疲れモードが見て取れた。
一人だけしっかり睡眠を取ったおばあちゃんが、そんなあたし達を溜め息混じりに見やりながら、てきぱきと朝の給仕をしてくれている。
「―――あら。午後から電車が動きそうよ。運転再開のめどが立ったって。良かったわねぇ」
正午過ぎから電車の運行を再開するという朝のニュースに、とりあえず今日は無事に帰途につくことが出来そうだと安堵する空気が食卓に広がった。
まさかおじいちゃんちに一泊することになるとは思わなかったけれど、でも、結果的には一泊することが出来て良かったな。
ハプニングも盛り沢山だったけど、蓮人くんを蓮人くんって呼ぶことが出来るようになったし、何より、おじいちゃんとノラオに語らう時間を持たせてあげることが出来た。それが本当に良かったなぁって思う。
ぎゅっ、と濃い一夜だったなぁ……。
朝食後、おばあちゃんから洗濯して乾燥機にかけてもらっていた自分達の服を一式受け取ったあたし達は、それぞれ客間で身支度を整えることになり、あたしは服を着替え終わったタイミングでノラオに話しかけた。
―――ねえ。おじいちゃんに話そびれたこととか、ない? 話したいことは全部話せた?
『―――ん。まあ、概ね』
そっか。……そういえばさー、あんたって血縁的にはあたしの大伯父に当たるわけでしょ?
『まあ―――そう、なるんだな。実感わかねぇけど』
だよねー。あたしも実感わかないんだけど、あんたのこと、これから何て呼んだらいいのかな? って思って。
名前も分かったわけだし、このままノラオじゃちょっとアレかなーって―――武尊(たける)さん? 武尊伯父さん? 大伯父さん? 何て呼ばれたい?
ノラオはその提案に明確な拒絶を示した。
『うわ、どれもぜってぇヤダ。そんなん今更調子狂うし、今まで通りノラオでいいよ。オレは何も持たない野良の状態でお前と出会ったわけだし―――レントにもそう言っといて』
―――そっか。分かった。
そう答えながら、あたしは何となく心が温かくなるのを覚えた。
ノラオがそう言ってくれたことが、何だか思いの外(ほか)嬉しかったんだ。
*
「じゃあ陽葵(ひまり)、喜多川くん、気を付けてな。和雄(かずお)達に宜しく」
別れの時。おばあちゃんと並んだおじいちゃんはそう言って、玄関先まであたし達を見送りに出てくれた。
ちなみに和雄というのはあたしのお父さんの名前だ。
「うん、色々とありがとう。お父さん達に伝えとくね」
「突然なのに泊めていただいて、ありがとうございました」
おじいちゃんに笑顔で応えるあたしの隣で、蓮人くんが折り目正しく頭を下げる。
「陽葵(ひま)ちゃん、楽しかったわ。また遊びに来てね。もちろん喜多川くんも」
「ありがとうございます」
「うん、また遊びに来るよ。おばあちゃん達も良かったらうちに遊びに来てね!」
「ええ、ありがとう」
玄関先でおばあちゃんとそんな挨拶を交わすあたし達を見やりながら、おじいちゃんは幾重にも感情の滲んだ眼差しをあたしに向けた。
「……陽葵、お前にこんな迷惑を掛けちまって、本っ当に申し訳なかったなぁ……大姪(おおめい)に取り憑くなんて、とんでもねぇ大伯父だよ。何か困ったことがあったら、いつでも連絡しなさい。じいちゃんも出来る限りの手は尽くすから」
その言葉にうぐ、とノラオが息を詰まらせる気配が伝わってきて、あたしは苦笑しながら頷いた。
「うん、ありがとう。今のおじいちゃんの言葉を聞いて、何かね、柄にもなく身につまされているみたい」
「そこは切実に感じてもらわんとなぁ。とっとと無念を解消して成仏して、陽葵の身体から出て行ってもらわんと……」
「ふふ。本当だよねぇ」
可笑しそうに肩を揺らすあたしを見やったおじいちゃんは、それにつられるようにやれやれといった面持ちになった。
「こんなとんでもない状況なのに、お前がそうやって笑ってくれているのが本当に救いだよ。きっと喜多川くんのおかげなんだろうなぁ」
しみじみとそう言ったおじいちゃんは蓮人くんに向き直ると、改まって彼に頭を下げた。
「喜多川くん、君にこんなお願いをするのは気が引けるが、出来ればこれからも陽葵(ひまり)の良き相談相手となって、この子を傍で支えてもらえんだろうか。オレの兄の不始末に巻き込むような形になって申し訳ないが、こんなことを相談出来る相手はなかなかおらんと思うから」
おじいちゃん……。
「はい、そのつもりです。僕にとっても無関係なことではないので」
蓮人くんは即答してくれて、それを聞いたおじいちゃんは少し安心したような顔になった。
「そうか……ありがとう。悪いが陽葵を宜しく頼むよ。二人とも、またいつでも遊びに来なさい。待っとるから」
「うん! ありがとう、おじいちゃんおばあちゃん。またね!」
「お世話になりました」
大きく手を振っておじいちゃん達に別れを告げ、あたし達は帰宅の途についた。
昨日の運休の影響で混み合う駅の改札を抜けて、混雑する電車内に乗り込み、どうにか座席に座れた時、何だか一気に疲れが出て来てしまって、あたしはシートに頭を預けながら深々と溜め息を吐き出した。
「ふわー、座ったら、何か急にドッと来た……」
「うん、分かる。オレも急に来た……。岩本さん、寝ていいよ。昨日はほとんど寝てないでしょ?」
「それ言うなら蓮人くんだって。だいぶ遅くまで起きて待っててくれたんでしょ? それに急におじいちゃんちに泊まることになって、気遣いも半端なかったろうし……」
「うん……確かに。さすがにちょっと疲れたかな……」
シートに深くもたれて首を捻るような仕草を見せる蓮人くんに、あたしは頬を緩めて、改めて感謝の気持ちを伝えた。
「ありがとう、蓮人くん。おじいちゃんちに付き合ってくれて。蓮人くんが一緒にいてくれたから、おじいちゃんにちゃんと色々伝えることが出来たよ。心配させ過ぎずに必要なことを聞いて、協力を取り付けることが出来たよ。本当にありがとう」
あたしにそう言われた蓮人くんは、眼鏡の奥の涼しげな目元を和らげた。
「オレはただ一緒にいただけで、特別なことは何もしていないけど……でも、岩本さんやおじいさんがそう感じてくれたんだとしたら良かった。ノラオの顔を知ることが出来たのも良かったし」
それは確かに! 顔を知ってるのと知らないのとじゃ全然違うもんね。
あたし達はどちらからともなく微笑み合って、自然と温かくて穏やかな雰囲気に包まれた。
そんな心地好い空気の中、再び眠気を感じたあたしは軽く目をこすった。
「……少し仮眠しよっか。ちょっと限界……」
「うん。オレも少し目を閉じていようかな……」
蓮人くんの声を聞きながら瞼を閉じると、あっという間に意識が深い眠りの中に吸い込まれていって、そのまま爆睡してしまったあたしは、周りの乗客達からこう噂されているのを聞くことが出来なかった。
「見て見て、あのカップル。可愛いー。頭預け合って寝ちゃってる〜」
「ホントだ。高校生かなー? 彼女の方、口開いちゃってるー。いいなぁ、ラブラブだねー」