もったいない!
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「―――……ありがと。胸、貸してくれて……」

 どのくらいそうしてもらっていたんだろう。

 ようやく涙が止まったあたしは、鼻をすすりながらそう言った。そんなあたしからゆっくりと距離を取った喜多川くんは、気遣わしげに尋ねてくれる。

「……大丈夫?」
「うん。何か、バーっと吐き出させてもらったら……また、何とかなるかなぁって気になってきた。ノラオもだいぶ反省していたっぽいし……」

 まだ空元気な部分もあったけど、こっちを気遣ってくれる彼を安心させたい思いもあって、あたしは意識的に口角を上げた。

「ならいいけど……無理はしないでね」
「うん。ありがと」
「……彼はちゃんと謝ってくれた?」
「うん。叱られた猫みたいな顔をして、『ごめん』って―――多分もう、あんな真似はしないんじゃないかな」
「……そっか」

 ふと気が付くといつの間にか辺りはすっかり暗くなっていて、目元を和らげた喜多川くんの顔が公園に設置された電灯の明りで見える時間帯になっていた。

「ごめん、すっかり遅くなっちゃったね。今日は早く帰るつもりだったのに……喜多川くん三連チャンで帰りが遅くなって、家の人に怒られたりしない?」
「大丈夫。念の為、ここに移動する電車の中で今日も遅くなるかも、って連絡しておいたんだ。岩本さんは?」

 さすが喜多川くん。ぬかりがないなぁ。

 あたしはというと、ノラオのせいで色々とヤバいかもしれない。

「と、とりあえず今、電話しておく。じゃないとブチ切れられそうだし」

 昨日一昨日はそう遅くなる前に家に連絡を入れる余裕があったけど、さすがに今日はそんな余裕なかったもんなー。

 ちょっとごめんね、と断ってお母さんのスマホに連絡すると、案の定「こんな時間まで連絡もなしにどこをほっつき歩いているの!」と怒号が飛んできた。

「ごめんごめん、これから帰るから」

 耳がキーンとするのを覚えながら適当になだめすかして電話を切って、予測通りの状況に溜め息をこぼす。どうにか気を取り直して喜多川くんを振り返ったあたしは、小さく苦笑した。

「さ、ガチギレされちゃう前に帰ろっか! 今日も遅くまで付き合わせちゃってごめんね」
「ううん」
「今日は一人で帰るね。下手に送ってもらって、家族の面倒事に巻き込むようなことになっちゃってもアレだし」
「ううん、送っていくよ。後ろめたいことがあるわけじゃないし、もし家の人に会うようなことがあったら、一緒に友達の悩みごとの相談に乗っていた体(てい)で話してもいい?」
「それは別に構わないけど……喜多川くん、ヤじゃないの? さっきお母さんの声聞こえてたでしょ? こんなタイミングでうちの家族に会うの、気まずくない?」
「まあ多少の気まずさはあるけれど……でも、岩本さんを一人で帰しちゃうよりはいいかなって思うから」
「えっ!?」

 その言葉にあたしは思わず頬を染めて、彼を見やった。

「今日はちょっと色々あり過ぎたし……ああ、でもオレが勝手に気になっているだけだから、その辺りは気にしないで」

 あっ……あーっ、そういうことね! さすが気遣いの人!

 何ちょっと勘違いしてドキッとしちゃってんの、あたし!

「そう言ってくれてあたし的にはスゴくありがたいし嬉しいんだけど、喜多川くんの負担にならない? それこそこんな、毎日連チャンで」
「同じ方向だし、うちより岩本さんちのが手前だし最寄駅からそう遠いわけでもないから、大丈夫だよ。予定があったり無理な時はちゃんと言うから」

 そっか。それなら厚意に甘えさせてもらってもいいかな。

「ありがとう。じゃあ、今日もお願いしちゃってもいい?」
「うん」

 涼やかな目元を優しく細めて頷く彼に、キュンとする。あー、「うん」の言い方、好きだなぁ。

 公園から駅までの道を二人で歩きながら、喜多川くんに送ってもらったところをお兄に二回とも目撃されていたことや、お母さんが喜多川くんを夕飯に誘いたがっていることなんかを伝えると、さすがに喜多川くんは戸惑い顔になった。

「いや、それはもう気持ちだけで……さすがに夕飯をご馳走になるのは、その、申し訳ないというか」
「あー、遊びに来たこともないのに、いきなり夕飯はやっぱちょっとキツいよねー。お母さんも喜多川くんが気兼ねなく来れるようだったら、って言っていたから、気にしないで。どうせなら何回か遊びに来てからの方がいいよね」
「えっ?」
「あたしもさ、逆だったら気ぃ遣っちゃうもん。やっぱ何度かお邪魔して、友達のお母さんとかとも顔見知りになって、そっからがいーよね」
「あー……まあ、そうだね」
「だよね。お兄は見た目チャラいけど別に害はないし、お父さんは割と無口だけど基本穏やかなタイプだからー」
「岩本さん、お兄さんいたんだね」
「うん。ふたつ上で今専門学校生。そういえばさっき知ったけど、喜多川くんは一人っ子なんだね? ご両親と三人暮らし?」
「うん。二人とも勤めていて、母親は大体夕方には帰ってくるけど、父親は基本もっと遅いかな」
「そうなんだー。ねっ、喜多川くんはお父さんとお母さんどっち似なの?」
「うーん……周りに言わせると父親似、なのかなぁ」
「へー! 見てみたい! 喜多川くんに似てるならきっとイケオジだね!」
「いや、別にただの普通のおじさんだよ……」

 そうかなぁ。喜多川くんならおじさんになってもカッコ良さげな気がするけど。知的な雰囲気と大人の包容力と年齢を重ねた魅力漂う、アダルトな色気を醸し出すイケオジ……!

 あー、スーツとかスッッゴい似合いそう〜!

 こっそりそんな妄想をしてしまいながら、電車に乗ったあたし達は車両のドア付近に佇んで、ノラオに関する話をした。

「そういえば喜多川くんのおじいちゃんはどっちもエージって名前じゃないって言ってたけど、親戚関係でエージって名前の人、いた?」
「いや、それが……両親に聞いてみたんだけど、そういう名前の人はいないって」

 えー! ノラオの話だと、喜多川くんとエージは顔だけじゃなくって性格的にも色々被っているトコがあるみたいだったから、やっぱり血縁関係が濃厚なんじゃないかと思ってたのに!

「念の為、祖父母にも一度聞いてみようと思うんだけど……今日はちょっと無理っぽいから、日を改めて明日にでも」
「あー、おじいちゃんおばあちゃんって寝るの早いもんねぇ。あたしもそうするー。本当は今日電話したかったんだけどなー」
「お父さん方のおじいさんのお兄さんが若くして亡くなってるんだっけ?」
「うん。お父さんがまだ赤ちゃんの頃の話らしいから、お父さん自身もその人に会ったことはなくて、顔は分からないんだって。だからおじいちゃんに電話して色々話聞きたくって……写真あるならスマホに送ってもらいたいし」
「写真で確認出来たら早いもんね」

 それそれ! 写真さえ送ってもらえれば、その人がノラオかどうかすぐに分かるもんね!

「でもさー、これでハズレだったら一気に振り出しまで戻っちゃうね」
「そうだね。でもノラオの記憶がまた少し戻って、別の新しい手掛かりが出てくるかもしれないし―――それに、もしかしたらオレの祖父母から何か手掛かりになるような話が聞けるかもしれないしね」
「そっか―――そうだね!」
「ただ、父方の祖父は最近ちょっと認知症が始まって、今施設に入ってるから、話を聞けるか難しいんだけど」
「そうなんだ? 身体の方は大丈夫なの?」
「うん、身体の方は問題ないらしい。認知症もその日によって程度が違って……普通に会話出来る日もあれば、ちょっと難しい日もあるみたいなんだ」
「そっかー……」

 それって……ノラオとは逆だよね。どんどんどんどん、忘れていってしまうんだよね。

 何だか怖いな。よく聞く病名だし、あたし自身将来かかってしまう可能性だってあるわけだし、決して他人事じゃないよね。

 自分の意思とは関係なしに大切な思い出とか、大事な人とか、日々のささやかな積み重ねとか―――そういうのを忘れてしまって、忘れていることすら思い出せなくなる―――スゴく切なくて怖い病気だ。

 こんなふうに喜多川くんと二人で夜道を歩いたこと、ノラオにさんざ悩まされながら根気強く付き合ってもらったこと―――あたしは一生、忘れたくないなぁ……。

 そんなことを思いながら家の前まで来た時、あたしの帰りを待ちかねていたらしいお母さんが勢いよく玄関のドアを開けて出て来て、ぎょっとするあたしに大股で歩み寄ると、近所の手前、声量を抑えながら小言をまくしたてた。

「陽葵(ひまり)! あんたね、一応女の子なんだから―――何かあったんじゃないかと心配するでしょう! 何度も言うけど、遅くなりそうな時は必ず連絡をしなさ―――! ……あ、あら? もしかして―――喜多川くん?」

 小言の途中で喜多川くんの姿に気が付いたお母さんが、思わず口元を手で覆う。そんなお母さんに喜多川くんはちょっと緊張した面持ちで背筋を伸ばすと、礼儀正しく頭を下げた。

「初めまして、陽葵さんのクラスメイトの喜多川蓮人です。陽葵さんにはいつもお世話になっています」

 ―――陽葵さん! 名前で呼ばれた!

 わ〜、さん付け新鮮ー!!

 あれ!? 何かスッゴいドキドキするな!?

「あらあらぁ! お世話になってるのはこの子の方でしょう? 何だか昨日もその前も送ってもらったみたいで、お世話かけちゃってごめんなさいねぇ。改めまして、陽葵の母です。娘がいつもお世話になっています」

 即座によそ行きの笑顔を纏ったお母さんに「いえ」、と声を返した喜多川くんは、申し訳なさそうに口を開いた。

「あの、今日は連絡が遅くなってすみませんでした。駅で、牧瀬さんも交えて共通の友人の悩み相談に応じていたんですが、気が付いたらこんな時間になってしまっていて―――」
「あらぁ、紬ちゃんも一緒だったの? 遅くなって、喜多川くんのご両親も心配しているんじゃない?」
「いえ、僕は男なのでそれほどでも―――」
「そう? 男の子でも親としては心配するだろうから、あまりご両親に心配をかけないようにしてね」
「はい。気を付けます」
「―――お、お母さん! 喜多川くんはちゃんと早めに家に連絡してたから、大丈夫なの! あたしが連絡しそびれちゃってただけで―――」

 思わずそう申し出ると、お母さんは微笑みを張り付けたまま鬼のような視線をあたしにくれて、喜多川くんにこう言った。

「何だぁ、陽葵(ひまり)が迷惑かけちゃっただけなのね、本当にごめんなさいねー。後でよーく言い聞かせておくわね。ねぇ喜多川くん、お腹空いていない? 良かったらうちで夕飯食べていってもいいのよー。ご両親にはこちらから連絡させてもらうし」
「い、いえ、お気持ちだけで。その、家でもう夕飯の支度をしてしまっていると思いますから」
「あら、そーお? じゃあ良かったら、今度ぜひ遊びに来てね。気軽に来てもらって構わないから、遠慮しないでね」
「はい。ありがとうございます。じゃあ岩本さん、また明日」

 そう言うとお母さんに折り目正しく礼をして、喜多川くんは帰って行った。

「……ふーん。あんたが言ってた通り真面目でいい子じゃない。今時なかなかいない好青年。背も高くて素敵ねー」

 お母さんに喜多川くんを褒められて、あたしは無性に嬉しくなった。

「でしょ!? お母さんなら絶対そう言ってくれると思ってたー! もうね、本当に優しくて神がかってんの! でも優しいだけじゃなくて、しっかり言うことは言ってくれるの!」
「あら。それはポイント高いわねぇ」
「うんうん! しかも、眼鏡外すとまた雰囲気変わっていいんだよー。スッゴく綺麗な顔立ちしてるの」
「へぇー、お母さんも見てみたいわぁ。今日は暗くて顔がよく見えなかったから、今度は明るい時に連れてきなさいね」
「うん!」

 誘ったら、来てくれるかな? はにかみながら、頷いてくれるかな?

 そんなことを考えて口元を緩ませていると、お母さんにこう突っ込まれた。

「ところで、ここ二日くらい見慣れない男物のハンカチが洗濯物に紛れ込んでいるんだけど、まさかあんた、喜多川くんから借りてたりしないわよね?」

 あ゛。

 あたしは気まずい面持ちになりながら、今日彼から借りたハンカチをお母さんに差し出した。

「へへ、実は今日も借りちゃってたりして……洗濯、お願い出来る? アイロンはちゃんと自分でかけるからさ……」

 それを見たお母さんは呆れ果てた顔になって、頭が痛そうに額を押さえた。

「あ、あんたって子はもう、ホンット……! 同じ男の子から三日連続でハンカチを借りるってどういうこと!? 毎日ハンカチくらいちゃんと持ち歩きなさい、もう恥ずかしいったら……! 喜多川くんにお世話になりっ放しじゃないの……!」

 うっ……! あ、あたしも自分でハンカチ持って行ってはいるんだよ、ただ、やむにやまれぬ事情があって……!

 とはいえ―――やっぱそうだよねー、三日連続で同じ男子からハンカチ借りるってないよねー。

 我ながらやらかしてるなー、とは思うので、喜多川くんに呆れられていないといいな―と、心から願うしかなかった。
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