もったいない!
10


 この間と同じくらいの時間帯。夕焼け色に染まる公園からは、暮れなずむ街並が見える。

 喜多川くんと一緒に再びその場所を訪れたノラオは、人のまばらな園内をどこか懐かしそうに眺めやった。

「あー、ここはあんま変わってねーな……」

 少し高台にある、昔ながらの遊具が申し訳程度に置かれたこの公園は、子ども達がはしゃぎ回って遊ぶ場所というよりは、近所の人が散歩に訪れたり、近くの会社で働く人なんかがひと息つきに訪れる場所といった感じだ。

「ここは君にとって、どういう所縁(ゆかり)のある場所なの?」

 喜多川くんにそう尋ねられたノラオは小さく笑った。

「別にそんな大層なモンじゃなくて、何てことはない場所なんだけどな。時々エージとここへ来て、あそこにあるベンチに座って、他愛もない話をしてたなーってだけの―――ベンチ自体はもう、あの頃とは物が変わっちまってら」

 ノラオはそう言って、当時と同じ位置にあるという背もたれ付きのベンチにどっかりと座った。

「でも、そんな何気ない時間が不思議と心に残っているんだよなぁ。何気ない時間だったけど、オレにとってはスゴく大切なものだったんだな―――」

 その口調からは、もう戻らない時への寂しさみたいなものが窺えた。

「エージさんと時々ここへ来ていたってことは、彼はこの辺りに住んでいたのかな?」
「……分かんねぇ。そうかもしれねぇけど……でも、オレが居たっつーアパートもここからそう遠いワケじゃねえし……」
「そういえばあのアパートのことで何か思い出せたことはないの? 建物が取り壊されてすっかり跡形もなくなったせいか、あの前を通っても君は何も感じないみたいだって岩本さんは言ってたけど……」

 そうなんだよね! 登下校の度にあたしは例のアパートがあった場所を必然的に通るんだけど、今は更地となったその場所に当のノラオは全くの無反応で、何か感じたりはしないのか尋ねてみても「別にー」みたいなうっすい反応が返ってくるだけだった。

 そして今も同じように何の感慨もなさげにこうぼやいている。

「んー……その辺は特に何も。こいつに取り憑く直前の断片的な映像みたいなのしか思い出せねぇんだよなぁ」

 あたしは以前見た夢の記憶を思い浮かべた。

 暗い和室で、ノラオだと思われる人物が一人、膝小僧を抱えている夢。

 もしかしたらノラオにとっては、あんまりいい思い出がない場所なのかもしれないな……それで無意識下で記憶を抑え込んじゃっているのかも。

 そんなあたしの心中をよそに、ノラオは閃いた、とばかりに目を輝かせた。

「なぁ、だったら不動産関係から当たれば話は早ぇんじゃねぇの? オレに関する記録が何かしら残ってて、名前とか色々分かるかもしれねぇじゃん」

 ドヤ顔のノラオの提案を喜多川くんは難しい顔で却下した。

「今は個人情報保護法っていうものがあって、名前とか生年月日とか住所とか、そういった個人に関する情報が安易に他人には見せられないようになっているんだよ。高校生で何の縁者でもないオレ達が不動産屋にかけあったところで門前いだし、かといって、現状適切な手段を踏むことも難しい」

 それを聞いたノラオは信じられないといった面持ちになって、耳を疑わんばかりの様相でまくし立てた。

「ええっ、何だよそれ!? たかだか名前とか住所だぞ!? そんなのなあなあで頼み込めば何とかなるモンなんじゃねぇの!?」
「昔はそうだったのかもしれないけど……今はその辺りが厳重に管理されていて、違法に情報を提供する側も受け取る側も処罰されてしまうんだ」
「マジかよ!? オレの時代なんて卒業アルバムに学年全員のそういうの全部、先公の分まで顔写真付きで載ってたぞ!?」
「今ではとても考えられないね……」
「はぁ〜、何っだそれ……信じらんねぇ。多様性が認められて色んな間口が広がっている半面、そういう部分はスッゲェ窮屈になってんのな……」
「昔には昔の良さがあるってことかな。何事も一長一短かもしれないね」
「確かにそうなのかもなぁ……」

 溜め息をつき、ベンチの背もたれに両腕を架けるようにして茜色の空を仰いだノラオは、そのままベンチの背をずるずるとずり下がった。

「! ちょっ……!」

 その様子を見た喜多川くんが慌てた様子で駆け寄ると、ノラオの膝小僧を強引に閉じ合わせた。

「君、今は男じゃなくて岩本さんなんだから……!」

 事態を把握したあたしはビャッ、と赤面した。

 有り得ない―――ッッ! もしかしなくてもノラオのヤツ、大股開いてずり下がってた!?

 しっ、信じらんない! 後で全力でシバく!

 ―――っでも、今はそれよりも何よりも……!

 深層意識の「窓」を通してその光景を目撃したあたしは、両手で顔を覆って悶絶した。

 きっ、喜多川くんの手が、あたしの! 膝小僧に! 生足にかかっているぅー!!

「大袈裟だなぁ。足開いたって別に、こいつ何か黒い短パンみてーの履いてんじゃん」

 まるで悪びれていない様子のノラオに、喜多川くんは心なし顔を赤らめながら文句を言った。

「それは、万が一を防止する為のものであって、堂々と見せていいものじゃないんだ!」
「へ? ブルマみてーなモンなんじゃねぇの?」
「ブ?」
「それよかこいつ、お前に足触られてることの方に動揺してるぞ」
「―――っ!」

 ハッとした喜多川くんはあたしに負けないくらい赤くなると、大慌てでノラオの膝から手を離した。

「ご、ごめん……!」

 ううん、喜多川くんは悪くない! 悪いのはノラオだよー!

「―――と、とにかく……! 岩本さんの身体を借りている以上は、彼女の為にも色々と気を付けてもらわないと困る! もう少し慎重に扱ってくれ……!」

 彼の言葉に自分を大切にしてもらえているのを感じて、あたしは胸の中に温かな光が灯るのを覚えた。

 喜多川くん……!

「……。わぁーったよ……」

 どこか面白くなさげに生返事をするノラオへ、喜多川くんが気を取り直したように声をかける。

「もうすぐ日も暮れるし、そろそろ帰ろう。ノラオ、岩本さんと交替してくれないか?」

 それに対するノラオの返答は、予想外のものだった。

「……ヤダ」

 ―――ノラオ!?

 まさかの答えにぎょっとするあたし達の前で、眉を寄せたノラオは驚くべきことを言い出した。

「何で交替しないといけないんだよ。オレは、このままがいい。多様性が認められたこの時代でヒマリとして生きながら、今日みたいにお前やマキセと一緒に色んなトコ行って、色んなこと語らいながら、エージを探し続けたい」

 ちょっ―――。

 青ざめるあたしの前で、喜多川くんが静かに口を開いた。

「……それだけ今日が楽しかったっていうことかな?」

 ノラオはそれにこくん、と頷いた。

「どういうところが楽しかったの?」
「……。自分の気持ちを隠さないで、ありのままでいられたところ。男のオレがエージを好きだって知ってても、誰もそれを否定しねぇし、蔑みもしなかった。ありのままをすんなり受け入れてもらえて、当たり前みたいに普通でいられた。自分の気持ちを否定されずに済んだのが、嬉しかったんだ。こんなふうにエージのことが好きだって、自分の気持ちを開けっ広げに話すことが出来たの、初めてだったし……当たり前にエージのことを好きでいてもいいんだって感じられて、それが心から嬉しかったんだ……とても」

 ノラオ……。

「……ずっと、隠すのに必死だったから―――気付かれないよう隠し続けることに疲れ果てて、擦り切れちまってたから。自分の気持ちを隠さずに話せるっていいな、って心から思った。ありのままの自分でいられるって、スゲェいいな―――って。だから―――……」

 下目がちに言葉を途切れさせるノラオに喜多川君は言った。

「自分の気持ちを押し隠して生きていくことを強いられる辛さは、当事者でなければきっと分からないことなんだろうね。……オレにはそれを推し量る術もないし、想像することしか出来ないけど、君はきっと君の人生の中で必死にもがいて、たくさんのことと戦ってきたんだろうと思う。色んな事に折り合いをつける為に、必死で頑張ってきたんだろうなって思うよ」
「……っ」

 唇を引き絞り言葉を詰まらせるノラオを見やりながら、喜多川くんは続ける。

「目に見えていないだけで、岩本さんもきっと岩本さんなりに色々ともがいていることがあると思うんだ。何に対してもがくかは人それぞれだろうけど、少なくとも岩本さんは今、君というイレギュラーな存在を仮にでも受け入れて、君の為にもエージさんを探し出したいと思って、必死に奔走している。今日もその為に早く家に帰っておじいちゃんに電話したがっていたんだって、牧瀬さんがそう言っていたよ。……そこは感じてくれている?」

 ノラオはばつが悪そうに視線を彷徨わせながら、ふてくされ気味に頷いた。

「……。それは……まぁ」
「君は、エージさんに会いたいんでしょ?」
「! そりゃ、もちろん!」

 勢いよく顔を上げて食いつくノラオに、喜多川くんは深々と切り込んだ。

「そのエージさんは、君が世話になった女子高生の身体を乗っ取っても、笑って許してくれるような人なの?」
「!」

 射抜かれたように息を飲み、きっ、と喜多川くんをにらみつけたノラオは、ややしてから視線を逸らすと、自嘲気味に口元を歪めた。

「……。……そりゃ、ねぇな。でっけぇ雷落とされて、ボロクソ説教食らうわ」
「良かった。エージさんは良識ある人なんだね。であれば、君がもしこのまま岩本さんの身体を乗っ取るような真似をすれば、そんな彼に心底軽蔑されて、最悪愛想を尽かされてしまうかもしれないね」

 喜多川くんらしからぬ挑発的な物言いにカッと気色ばんだノラオは、勢いよく彼の胸倉を掴み上げた。

「てっめぇ……! 聞いてりゃさっきから、人の弱みにつけ込むみてぇな言い方しやがって!」

 きゃあッ! ちょ、やめてッ! やめてよノラオ!!

 あせって悲鳴を上げるあたしの耳に落ち着き払った喜多川くんの声が響いたのは、その時だった。

「今の君がしていることと、何が違うの?」
「……!」

 眉を跳ね上げるノラオを冷静に見つめ、喜多川くんは淡々とした口調で告げた。

「一緒だよね。君もさっきからオレの弱みにつけ込んで、ワガママを言っている」
「……!」
「さっき言ったよね。何事も一長一短かもしれないって。君は多様性が認められない時代に同性のエージさんを好きになって、たくさん苦しい思いもしたんだろうけど、でも、それだけ好きになれるエージさんと出会うことが出来た。それはとても幸せなことでもあったんじゃないのかな?
今の時代は確かに昔と比べれば多様性が認められてきて、少数派の人達にとっては以前よりだいぶ生きやすい環境になったと言えるのかもしれない。だけど、この現代に君があれだけ好きになれた同年代のエージさんはいないんだ」
「……っ!」

 奥歯を噛みしめ、憤りに全身をわななかせるノラオへ、喜多川くんは突きつけた。

「岩本陽葵(いわもとひまり)という人も同じだ。高校二年生の彼女は、今この時にしか存在しない。君のワガママでオレや牧瀬さん、その他大勢の人達から奪っていい存在じゃないんだ。何より、君が彼女自身から彼女を奪うなんてことがあってはならないんだ―――絶対に」

 喜多川くん……!

 ノラオに毅然と意見してくれた彼の姿に、あたしは涙が止まらなかった。

 喜多川くん……!!

「―――チッ……」

 正面から冷静に諭されたノラオは大きく舌打ちしながら、喜多川くんの胸倉を突くようにして押し離すと、憮然とした面持ちで言い捨てた。

「何だよ、優しくしてくれるのかと思ったら、スッゲェ怒ってんじゃねぇかお前……」
「君のワガママが過ぎるからだよ」

 襟を正しながらそう返す喜多川くんに、ノラオは面白くなさそうに吐き捨てた。

「くっそ、お前そういうとこまでホント、エージにそっくり……! ムカつく!!」
「え?」
「そうだ、思い出した……エージも怒るとそうやって静かに淡々と怒りをぶつけてくる性格(タチ)だった。決して声を荒げることなく、冷たい目と表情で、丁寧な言葉を使ってじわじわ真綿で絞め殺しにくる性格(タチ)……」

 本家本元のそれを思い出したのか、青ざめながらどこか懐かしそうに微苦笑を浮かべたノラオは、苦々しい息をひとつ吐き出すと、ダルそうに髪をかき上げながら喜多川くんに向き直った。

「お前、ホントに高校生かよ? 何だよあの返し……あんなふうに正論ぶつけられちゃたまんねーわ。オレはさ、お前らと接して、生きてるって躍動感みたいなヤツに当てられて、ただ懐かしくてうらやましくて、ちょっと自分の願望をこぼしただけなのに」
「君にはその程度の軽い気持ちだったとしても―――それを肉体の主導権を握られた状態で聞かされた岩本さんが、どれだけ怖い思いをしたと思う?」
「……!」

 ハッとした表情になったノラオは、気まずそうに視線をうつむけた。

「……そりゃ……そう、だよな……。……。そこまで深く考えてなかった―――悪ぃ」
「謝罪はオレにじゃなくて、直接彼女に言ってもらわないと」

 喜多川くんにそう促されたノラオは、唇を引き結ぶようにして彼を見上げると、弾けるように叫んだ。

「だって、お前も怒ってんじゃん! だから謝ってんじゃねぇか!」
「君がちゃんと反省して彼女に謝ってくれれば、オレはそれで充分だから」
「〜〜〜っ、何だよ……そんなにオレを早く引っ込めて、ヒマリに会いたいのかよ! オレはそんなに邪魔なのかよ!」

 突然頬を紅潮させて怒り出したノラオに、喜多川くんは困惑の表情を見せた。

「!? どうしてそうなるんだ!?」
「だってそうじゃねぇか! あいつに直接謝れってことは、オレに潜れって言ってんのと同義じゃねぇかよ!」
「そういう意味で言ったわけじゃ―――」
「レントのアホ! エージそっくりの顔でオレを拒絶するようなことばっか言うんじゃねぇ!」

 叫ぶノラオはもう半泣きだ。

 喜多川くんに怒られたことがよっぽど堪(こた)えたらしく、野良猫みたいに全身の毛を逆立てながら、それでも構ってほしいって、嫌わないでいてほしいって、全力で訴えているのが伝わってくる。

「―――そんなに―――似ているの? オレとエージさんは……」
「似てるよ! てか、最初っからそう言ってっし、今それ言うトコロじゃねぇだろ! アホ! アホレント! 頭いいクセして、こういうトコの気が利かないトコまでそっくりだよ!」
「ご、ごめん。オレ一人っ子だし、兄弟ゲンカとかしたことないから、こういう時どういう言葉をかけたらいいのか―――」

 ノラオの剣幕にたじたじの喜多川くんの回答に、ノラオは更にブチ切れた。

「何で引き合いに兄弟ゲンカを出すんだよ!? チゲーだろ!?」
「えっ!? いや、もし弟がいたらこんな感じなのかなって思って」
「はぁッ!? しかも、何っでオレが弟の立ち位置なんだよ!? フザけんな!」

 いや、それは何か分かる気がする。ノラオより喜多川くんのが絶対お兄ちゃんっぽいもん。

 真面目な喜多川くんはノラオのツッコミを真剣に受け止めて、少し考えてから大真面目にこう答えた。

「うーん……それは多分、君が自分の気持ちに素直で可愛いと、オレがそう感じているからかな」
「へ」

 不意打ちのようなその回答にノラオが一瞬ボカンとした隙に、喜多川くんは少しためらいがちに腕を伸ばすと、ノラオの頭に大きな手を置いて、ゆっくりと往復させた。

「君を拒絶する気持ちはないよ。ただ、岩本さんにキチンと謝ってほしいと思っただけ。それに、今日はもう帰る時間だから。最初からここには少し立ち寄って喋るだけって、そういう約束だったろう?」

 諭すように言いながらこちらを見つめる喜多川くんの真摯な瞳に、偽りはない。

 全身の毛を逆立てていたノラオの気配がゆっくりと凪いで、緩やかに往復する喜多川くんの指の動きに身を任せる、穏やかなものへと変わっていった。

「……。分かったよ」

 しばらく間を置いた後、ノラオはそう呟いて、上目遣いに喜多川くんを見た。

「お前、エージと一緒で無自覚たらしの素質あるよ」
「えっ?」

 喜多川くんが目を瞠ると同時に、ぐんっと意識が急浮上するあの感覚が来た。入れ替わるように刹那のタイミングでノラオとすれ違って、一瞬目が合った時、申し訳なさそうな、やるせなさそうな、何とも言えない顔で「ごめん」と言われた。

 その次の瞬間には黄昏から紺碧へと色を変えていく世界にあたしは戻っていて、目の前には現実の喜多川くんと、頭に置かれた大きくて温かい彼の掌の感触があった。

 ―――戻れた。

 戻って、これた。

 そう実感したら、ガクガクと足が震えた。

 ―――ああ、自分で思っていた以上に怖かったっぽい。正直、もう戻ってこれなくなるんじゃないかって思ったから、メチャクチャ怖かった。

「! ―――岩本さん? 戻ったの?」

 小刻みに震え始めたあたしの違和感に喜多川くんが気付いて、そう言いながらあたしの顔を覗き込んだ。

「……あ、ごめん! 勝手に触ったりして―――」

 慌てた様子で、遅まきながらあたしの頭から手をどかした彼にあたしは首を振って、その顔を見、涙腺を決壊させながら、震える声で訴えた。

「うっ、うう〜……怖かった……、怖かったよー……! うわーん……!」

 ボロボロ、ボロボロ涙が溢れて、止まらない。身体の震えも、心臓の動悸も治まらない。目の前の喜多川くんの姿も、あっという間に涙で霞んでよく見えなくなってしまった。

「そうだよね、怖かったよね……」

 霞む視界の向こうから喜多川くんが慰めの声をかけてくれるけど、ひっくひっく止まらない自分の嗚咽にかき消されて、よく聞き取れない。

 ―――ノラオ共々面倒臭いヤツで、ごめんね。

 喜多川くんがあたしの為にノラオに色々言ってくれてたの、ちゃんと聞いていたよ。スゴくスゴく、嬉しかったよ。ありがとう、言葉に出来ないくらい感謝しているよ。

 本当はまずそうお礼を言いたいのに、涙も震えも止まらなくて―――ダメダメでごめんね。悪いけど落ち着くまで、もう少しだけ待って―――。

「……ごめんね。オレ口下手だし、ノラオにも言われちゃったけど気が利かないから―――こういう時、どういう言葉をかけたらいいのか、どうするのが正解なのか、分からなくて―――」

 そんなことないよ。喜多川くんは充分すぎるくらい気が利くし、たくさん嬉しいこと言ってくれているよ。

 単に、あたしがダメダメなだけで―――。

 泣きながらかぶりを振るあたしに一歩歩み寄った彼は、少しためらいがちに、でも意を決したように口を開いた。

「不快だったら、すぐ言って。やめるから―――」

 喜多川くんの気配がまた少し近付いた、と思ったら、背中に控え目な手が回って、そのまま軽く手前に引き寄せられた。額がとん、と彼の胸に当たって、抱き寄せられているような格好になり、あたしは小さく息を飲んで、涙に濡れた瞳を見開いた。

 ビックリした。

 それが正直な感想だ。

 けれど、それ以上に嬉しかった。

 あたしはおずおずと手を伸ばし、彼の腹部の辺りのシャツを緩く握り込むようにして、胸を貸してくれるその厚意を受け入れる姿勢を示した。

 自分とは違う体温がそっと包み込んでくれる安心感―――喜多川くんの匂いに包まれて目を閉じていると、少しずつ震えが治まっていって、心が落ち着きを取り戻していくのが分かった。

 ―――多分これ、大正解だよ、喜多川くん。

 まだ涙は止まらなかったけど、気持ちがぽかぽか温かい。

 一人じゃないんだって、寄り添って支えてくれる人がいるんだって、全身で感じることが出来る。

 こんなの、不快なワケがない。

 むしろ、最高だよ―――。
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