魔眼 情動

05


「ずいぶんと久し振りだね。元気だった?」

 ドルクとアデライーデがカールマーンの元へ向かった後、救護所に残ったわたしにクラウスがそう言いながら冷たいお茶を出してくれた。

「見ての通り。そっちこそ元気だった? 相変わらず面倒見がいいんだな」

 わたしの言葉に彼は微笑んで、小さな丸テーブルを挟んだ向かいの席に座った。

 こんな柔らかな微笑み方は昔と変わらないな。

 テーブルを介して向かい合うクラウスの身長はわたしより頭半分ほど高い。色素の薄い茶色の猫っ毛に、穏やかな青い瞳。細いフレームの眼鏡をかけたその顔立ちは端正だけど、ふわりとした彼独特の柔らかな雰囲気がそれを包み隠している。

 あれから六年―――現在26歳になった彼はあの頃よりずいぶん大人の男性という雰囲気になった。左の薬指に光るリングの影響もあるんだろうか。

「そういえばクラウス、結婚したんだな。おめでとう」

 笑顔でそう伝えると、彼はひとつ瞬きをして自身の左の薬指へと視線を落とした。

「え? ああ―――これのこと?」
「うん。結婚してダハールへ来たのか?」

 わたし達が知り合ったのは別の地方でのことだった。結婚を機にこっちへ移ってきたんだろうか?

「……。まあ、そんなところだね」

 クラウスは自身の右手をそっと左手のリングの上に重ねると、わたしに視線を戻してこう言った。

「君は……何だか綺麗になったね。それに、雰囲気がとても柔らかくなった」
「え? そ、そうか?」

 予想もしなかった言葉を返されて、わたしはほんのり頬を染めた。

 クラウスは社交辞令を言うようなタイプじゃない。自分じゃよく分からないけど、彼がそう言うならそうなんだろうか?

「パートナーのドルク君―――彼の影響かな?」

 クラウスが口にした名前にドキリと心臓が反応する。

「さあ……」
「否定しなかったということは、そうなんだね」

 やんわりと結論づけられ、軽く彼をにらむとその理由を述べられた。

「傷を負った状態とはいえ、恥ずかしがり屋で意地っ張りの君が、甘んじて年下の男に横抱きにされる状況というのがまず有り得ないし―――そもそも二人で泳ぎに来ていること自体がデートのようなものだしね」
「デッ……デートじゃない、泳ぎを教えてもらいに来てただけで!」
「そういえば君は泳げなかったんだっけ? 泳げるようにはなった?」
「おかげさまで! 普通に泳ぐ分には問題なくなった!」
「それは良かった。無事に泳げるようになったことも、頑なに単独行動をしていた君に信頼出来る相手が出来たことも―――彼は公私共に君のパートナーだと思っていいのかな?」

 そう問われてわたしは少し言葉に詰まり、歯切れ悪く返した。

「公私共に、というわけじゃ―――」

 それもこれも自分がヘタレなせいで、まだそう言える関係になれていない。

「ふうん……フレイアは好きなんだね、彼のこと」
「! なっ、何で!」
「元恋人だからかな? 君は親しい人間ほど嘘をついたりごまかしたりするのが下手だからね。分かりやすいよ」

 うぐぐ!

「ドルクに妙なことを言うなよ」

 赤くなりながらねめつけるようにすると、クラウスは穏やかに瞳を細めた。

「医師には守秘義務があるからね。滅多なことは言わないよ。僕達の関係も黙っておいた方がいい?」
「まあ……隠すわけじゃないけど、わざわざ言わなくてもいいことだと思うから」
「分かった」

 ああそうだ、クラウスはこういうヤツだった、医師という職業柄もあるんだろうけど、人の表情や言動からその内面を読み取ってくるんだった。付き合っていた頃はそれが原因でケンカになったこともあったっけ。

「そうだ、僕達のお願いを引き受けてもらえるかどうかは置いておいて、何かあった時の為に僕の診療所の地図を書いて渡しておくよ。救護所(ここ)へはしばらく来ないからね」

 そう言いながら紙にペンを走らせるクラウスを見やり、わたしは何だか不思議な気分になった。

 わたしは今ドルクのことが好きだけど、この男(ひと)を異性として好きだった時期があったんだよなぁ……でも、今のドルクを想う気持ちとクラウスを好きだった頃の気持ちは、少し違う気がする。

 思い返してみると、クラウスと過ごした期間は穏やかで温かで、戦いに明け暮れる殺伐とした日々の中、ホッと息をつける憩いの場所―――そんな感じだった。

 でも、ドルクは―――ドルクといる今は、殺伐としていた日々が、それ自体が光溢れるものに変わったような印象だ。様々な光に彩られた日常を、共に生きている。目まぐるしく変化する感情に振り回されて、毎日、生きているんだということを忙しく実感する。そんな、イメージ。

 充実しているんだ。オンも、オフも。スゴくバランスが取れていて、心地いい。

 わたしの中でこれまで足りていなかった部分をドルクの存在が埋めてくれた―――そんなふうに思える。

 ああ、わたし―――傾倒しているなぁ。いつの間に、こんなに好きになっていたのか。

 ここにいないドルクのことを想い、胸が切ない音を立てた。



*



 夜の海沿いをカールマーンの元へ向かう道中、アデライーデはオレにギルドのことを色々と尋ねてきた。

 加入資格を満たす16歳になるまで後二年ある彼女はそれが待ちきれないらしく、じりじりとした思いを抱いているらしい。

 その覚えはオレにもあったから、そんな彼女を見ていて何だか懐かしいような気分になった。

 今すぐにぶつけたい熱い思いがあるのに、年齢という壁に阻まれてその情熱をぶつけられない、焦がれるような思い。

 もどかしく思いながらも鍛錬に費やしたその期間は後に自分の財産になったから、今となってはそれが必要な期間だったということが分かるのだが、今現在その状況に置かれている彼女のほぞを噛むような気持ちも理解出来た。

「早く大人になりたいなぁ……」

 そうこぼすアデライーデに少し口元を緩めて返す。

「あせってもどうにもならないから、今は認定試験を一発で突破する為に自分の力を研ぎ澄ます期間だと考えることだ……誰か、追いつきたい人間でもいるのか?」

 オレの場合はフレイアがそうだった。彼女の存在に追いつきたくて、ギルドの加入資格を満たすその日が訪れるのを身を焦がすような思いで待ち続けていた。

 オレのその言葉は的を射ていたらしい。

 アデライーデはためらいがちに頷いて、小麦色の頬を少し染めたようだった。どうやら目標とする人物がいるらしい。

「追いつきたくても追いつけるような人じゃないって、分かっているんです。あたしが勝手に追いかけたいだけ」

 独り言のようにそう呟いた後、彼女はパッと表情を変えてオレにこう聞いてきた。

「ねえドルクさん、ドルクさんはフレイアさんのパートナーなんでしょう? 先生とフレイアさんは旧知の仲って話だったけれど、どういう知り合いなのか知ってます?」
「昔仕事で怪我をした時に、何度か診てもらったことがあるという話は聞いた」

 だが、おそらくそれだけの関係ではないだろう。それにしては二人の間に漂う空気が親密だし、クラウスのフレイアに対する信頼の度合いが大き過ぎる。

 フレイアのパートナーだから、という理由で今日が初対面のオレにアデライーデと相談事の可否まで任せるというのは……普通ではないだろう。

 フレイアとクラウスは多分、以前は特別な関係にあった。

 そう考えるのが自然だ。

 にもかかわらず、オレがこれだけ落ち着いた状態を保てているのは―――クラウスの左の薬指に光っていたマリッジリングと、それを目にしながら穏やかな表情を湛えていたフレイアを目の当たりにしているからだ。

 それから―――先程の、救護所へ向かう道中での、あの出来事。オレに対してフレイアが見せた不自然な言動、あれが何よりも大きい。

 ふとオレの首に回された彼女の腕。振り返ろうとしたオレの側頭部に頬を押し付けるようにしてそれを止めた彼女の吐息は震え、紡がれた言葉は緊張の為ぶれていて、背中に密着した彼女の胸からは高鳴る心臓の音が聞こえるようだった。

『す―――』

 耳元で囁かれた彼女の声。その後に続けようとしていた言葉は、何だったのか。

 昼間の不自然な言動では分からなかったが、あれでようやく察しがついた。



 フレイアは、オレに気持ちを伝えようとしてくれている。



 おそらくそれで、間違いない。

 だから待とう、と思えた。

 オレの気持ちはこれまで何度も彼女に伝えてきたし、それを態度に示してもきた。

 それを受けて彼女が自分の気持ちを伝えてくれる気になったのなら、揺るがず、それを信じて待とう。

 最近フレイアのガードが固くなったのは、多分それが理由だった。真面目な彼女は自分の気持ちを伝える前になし崩し的に関係を持ってしまうのを良しとしなかったのだ。

 そんな彼女の想いを、あそこまで態度に出されるまで気が付かなかったとは……オレもまだまだだな。

「でも何か、医師と患者―――それだけって雰囲気じゃない気がするんですけど……何ていうか、スゴくお互いを分かり合ってるような感じがしません?」

 二人の関係をアデライーデはそう穿ってくる。

「気になるなら本人に直接聞いてみたらどうだ?」

 それが何よりも確実で早い。だがアデライーデはためらいを見せた。

「そ、そんなの……無理。無理です。例え聞いたとしても、適当にあしらわれて終わるのが目に見えるし……子供扱いされて……」

 クラウスのような年齢の男からしたらひと回りは下のアデライーデなど子供扱いで当然だ。だが当の彼女はそうは思っていない様子で、小さく頬を膨らませている。そんな彼女の様子にオレは違和感を抱いた。

 雑談の一環だと思い適当に返したが、そうではなかったのかもしれない。

「……的外れなことを言うかもしれないが……君が追いつきたい人間、というのはもしかしてクラウス先生のことなのか?」

 オレの問いかけにアデライーデは黙っている。

「差し出がましいことを言うが、それが恋愛感情からの言葉ならやめておいた方がいい。君くらいの年齢の子が年上の男に憧れる気持ちは分かるが、彼は既婚者で、傭兵の世界はそんな理由で足を踏み入れてやっていけるような場所じゃない」
「……恋愛感情がないって言ったら嘘になるけど、あたし、生半可な気持ちで傭兵になりたいって思ってるわけじゃありません」

 顔を上げてアデライーデが反論した。

「あたし、小さな頃から自分に魔力が……人と違う力があるのは分かっていたけれど、でもこの能力(チカラ)をどうしたらいいのか分からなくて、ずっと悩んでいたんです。うちの両親はノーマルで、魔法に対する知識がなくて、周りにもそういう人がいなくて。でも異質な力はあたしの成長と共に育っていって、時々魔力が暴走しては具合が悪くなって、その度に両親に心配と迷惑をかけて。あたし、ずっと自分のことが嫌いだった……。
でも四年前、家の近くに診療所を開いた先生があたしを診てくれた時、こう諭してくれたんです。『自分の能力(チカラ)を押さえつけて蓋をするのではなく、それに向き合って解放してごらん』って。『君のその能力(チカラ)は神様が授けてくれたとても素晴らしいもので、それを持たない人がどんなに望んでも得られない奇跡の能力なんだよ』って―――。
でもどうしていいのか分からない、って泣いて訴えるあたしに、先生は手を尽くしてくれました。つてを使って術士(メイジ)の人を紹介してくれて、あたしはその人に魔力のコントロールと魔法の基礎を教わることが出来て、苦しみ続けていた魔力の暴走から解放されました。先生はそれだけじゃなくて、簡単な読み書きしか出来なかったあたしに勉強も教えてくれて、難解な魔導書が読めるような知識を与えてくれたんです」

 一気に言い切って、彼女は大きな紫色の瞳を和らげた。

「今はありのままの自分でいられることが楽で、本当に幸せ―――先生はあたしの恩人なんです。その先生が奇跡の能力(チカラ)だと言ってくれた自分の魔力を一番活かせる場所はどこだろうって考えた時、ここだと思えた場所が傭兵ギルドだった……形は違えど、あたしは先生のように苦しんでいる人達を助ける力になりたい。
ドルクさんから見たら不純に思える動機かもしれないけれど、あたしにとっては真剣な目標なんです。……先輩に向かってこんな口を利くの、百年早いんだろうけど……」

 最後は尻すぼみになってしまったアデライーデの言い分を聞きながら、オレはひとつ息をついた。

「それが自分の信念だと言うなら、やってみればいい。他の誰でもない自分の人生なんだ」

 魔導士の魔力は先天的なもので、それを持つ人間は持たない人間に対して圧倒的にその数が少ない。それ故にアデライーデのような事例が度々発生してしまうことは耳にしていた。ギルドの魔導士の中でもそういう経験をした者は少なくないと聞く。裕福で教養のある環境に生まれ落ちない魔力保有者は苦労することが多いのだそうだ。

「だが、既婚者を困らせるのはやめておいた方が無難だぞ」

 そう釘を刺すと、アデライーデはやや憮然とした面持ちになった。

「想うくらいは自由でしょう? それに先生、独身だし」

 その意外な返しにオレは軽く目を瞠った。

「独身? 結婚指輪を着けていたが」
「あれ、救護所勤務用の虫除けなんです。ああしてないと女の人がうるさいんですって」

 そういうことか……。

 納得すると同時に救護所へ残してきたフレイアのことがやや気にかかった。

 彼女もこのことは知らないはずだ。もしかしたら今頃はそれを聞かされているのかもしれないが……。

 浮かんだわずかな懸念を振り払い、オレは夜の闇の中見えてきた洞窟の入口を見据えた。

 下手に気にするのはやめよう。彼女は自分で自分の身を護れる女(ひと)だし、揺るがず信じて待とうと先程自分で決めたばかりだ。

「ここです」

 アデライーデが足を止めて傍らのオレを振り仰ぐ。オレは頷いて、彼女と共に薄暗い口を開けた洞窟の中へと足を進めていった。
Copyright© 2007- Aki Fujiwara All rights reserved.  designed by flower&clover