魔眼

03


 ひどい喉の渇きを感じてわたしは目を覚ました。

 ぼんやりと視界に映った見慣れない天井を凝視して、瞬きをひとつ。窓からは強い日の光が差し込んでいる。

 あれ? わたし―――。

 そこまで考えて昨夜の出来事を思い出し、跳ね起きる。すると頭の芯が鈍く揺らぐ感じを覚えて、わたしは軽く額を押さえた。

 ううっ、この頭が重たい妙な感じ……これが俗にいう二日酔いってヤツ? いや、それよりも!

 我に返り、自分の着衣を確かめる。すると意外なことに防護スーツを身に着けていた。

 ファスナーが首の下辺りまで下ろされていたけど、それは昨夜意識が途切れる以前のことだ。念の為ゴミ箱も確認してみたが、情事があったような痕跡は見られない。

 部屋の中にドルクの姿はなかった。どうやら彼はわたしが気を失ったのを見届けた後、自分の部屋へと戻ったらしい。

 大幅に位置がずれたベッドと乱れたシーツの跡、そして―――きつく握られた手首に付いたドルクの指の痕だけが昨夜の出来事を物語っている。

 どうしてかは分からないけど、とりあえず良かった、ヤラれずに済んだんだ―――。

 ホッとすると同時に煮え切らない思いが込み上げてきた。それはもちろんこの場にいないドルクに対してのものだ。

 あのヤロー、いったいどういうつもりであんな真似しやがったんだ! 嫌がらせにしては度が過ぎる!

 昨夜のことを思い返すだけで腸(はらわた)が煮えくり返る。あんなひどい屈辱を味わったのは初めてだ。

 水をがぶ飲みしながら怒りをたぎらせていたわたしは、その時ドアの隙間から手紙のようなものが差し込まれていることに気が付いた。

 近付いて拾い上げると、それは傭兵ギルドからの封書だった。宿の従業員が持ってきてくれたんだろうか?

 開けてみて、青ざめる。

 それは前日引き受けた依頼の同行者が決まったという報せで、その人物との待ち合わせの場所と時刻が記してあった。

 待ち合わせの時刻は、今日の正午。

 わたしは懐中時計を見た。

 わあっ、もうギリギリだ。急いで支度しないと間に合わない!

 時間はないけどどうしてもシャワーが浴びたい気分だったので、各階に備え付けられた宿のシャワールームに慌てて駆け込む。歯磨きだけは念入りにして身支度を整え、飛び出すように部屋を出た。

 いるのかいないのか隣のドルクの部屋は静かで、幸いなことにヤツと顔を合わせることはなかった。

 宿代の精算時、昨夜の飲み代を加算したものを支払い、精神的にも物理的にもダメージを受けてうなだれる。

 昨日の自分に言ってやりたい。何てバカな過ごし方をしたんだと。



*



 急いで待ち合わせ場所までやってきたわたしは、相手を探そうとして―――その時初めて、同行者の名前も何も確認していなかったことに気が付いた。

 ええっと……。

 ギルドの封書を引っ張り出してそれを確認しようとし、その封書がないことに気が付く。出掛けのバタバタで宿に置き忘れてきたらしい。

 何やってるんだか……しまったなぁ。

 こうなったら相手に見つけてもらうしかない。

 わたしはきょろきょろ辺りを見回して自分と同じような人がいないか探した。

 ここは各地を結んでいる乗合馬車のターミナルの近くで、目印になる街の偉人の彫像があり、待ち合わせ場所としてよく利用されているところだった。たくさんの人の中に傭兵らしい人物もちらほら見受けられたけど、どれもわたしの同行者ではないらしい。その時だった。

「遅刻ですよ」

 背中からかけられたその声にわたしは反射的に飛び退(すさ)った。

 ウソ。この声……!

 思わず身構えながら、そこに予想通り黒衣の武装を纏った人物を見出し、わたしは愕然と目を見開いた。

「ドルク!? 何であんたがここに……!」

 そんなわたしの眼前に依頼書を突きつけて彼は言った。

「ガラムの町のAランクの依頼。行くんでしょう?」
「えっ……。何、まさかあんたが今回の同行者!?」

 わたしのその様子を彼は不審に感じたらしい。

「……もしかして確認していないんですか? 仕事の同行者を」
「今朝、ギルドからの封書に気が付いて……慌てて来たから」
「今朝というか、察するにほぼ昼でしょうね、それ。で、詳細を確認し忘れて、ついでに封書そのものも忘れたと?」
「……うう」
「仕事で失態は犯さないんじゃなかったんですか」
「ううう……」

 うぐぐぐぐ……悔しいけど、申し開き出来ない。

 ぐうの音も出ず押し黙るわたしの前でドルクはひとつ溜め息をついた。

「本番では頼みますよ。足、引っ張らないで下さい」

 ぐああああぁっ!

 できれば二度と会いたくなかった相手からの手痛い一撃を受け、わたしは心の中で大きくよろめいた。

 こんなミス、今までただの一度もやったことなかったのに! 何故、どうして、このタイミングでやっちゃうんだ、わたし!

 くそっ、くそっ、くそぉぉぉっ! こいつにだけは、こいつにだけはこんなところ見られたくなかったっっ!

 精神世界で悶えながら、それをぐっと堪(こら)え、わたしは言った。

「遅刻したのは悪かった、ゴメンナサイ。大丈夫だから、誓ってあんたの足は引っ張らない」
「……昨夜の酒は残っていないんですか」
「ああ、もう平気」

 起きた時は少し残っていた感じがしたけれど、水を飲んでシャワーを浴びた頃にはもうスッキリしていたから、多分抜けたと言えるんじゃないかな。

「昨夜のことといえば、あんたもわたしに何か言うべきことがあるんじゃないの?」
「オレがあなたに?」
「そうだよっ! 昨夜のこと、色々謝るべきことがあるだろう!?」

 気色ばむわたしにドルクは小首を傾けてふっと微笑んだ。

「キスしたことですか? それともキスで気絶させたことですか?」
「両方だよ!!」

 キスで気絶させたとか、言葉で聞くとスゴい破壊力なんだけど! 恥ずかしすぎる!!

「貸しを、返してもらっただけなんですけどね……」
「あんな勝手で一方的な取り返し方があるか!」
「だいぶ優しくしたつもりだったんですけど……目が覚めた時、ホッとしたでしょう?」

 ズバリ言い当てられて、わたしは赤くなった。

 キスだけで終わらせて、紳士的だったとでも言いたいのか!?

「あれの! どこが! 優しいんだっ!? こっちは窒息するところだったんだぞ! ほら、手首だって―――」

 袖をまくってあざになった手首を見せつけると、ドルクはああ、と言ってわたしの手を取り、おもむろに―――手首のあざへと、口付けた。

「―――!?」

 言葉を失う、とはこのことだ。

 予想外の行動に目を剥いて硬直するわたしの手首のあざの上を、ドルクの舌がゆっくりとなぞっていく。あどけなさの残る清らかな彼の容貌と、ちろりと覗く舌の淫靡さが対極的で、背徳的なエロチシズムを感じさせる。生温かくてくすぐったいような感覚に頬が赤らんだ。

「なっ……にするんだ!」

 ようやく我に返りドルクから手首を取り返すようにした時、わたしはある異変に気が付いた。

 えっ……?

 一瞬、自分の目を疑った。

 手首からあざが、消えていた。

 なんっ……今、何をした、こいつ?

 魔法を使ったようには見えなかった。

「もう片方もどうぞ?」

 何事もなかったかのようにドルクがわたしに手を差し伸べる。ためらったけど、今し方の出来事を確かめたい気持ちの方が大きくて、わたしは自ら彼にもう片方の手を差し出した。

 ドルクが再びわたしの手首のあざに口付ける。何が起こるのか見逃すまいと目を凝らしていると、彼の舌が触れた先からあざが消えていくのが確認出来て、わたしは心の底から驚いた。

 何だ、この現象は!? こんな特殊能力、聞いたことがない!

「いやだ、目のやり場に困るわぁ〜」

 近くに居合わせたおばさんから上がったその声でわたしは現実に引き戻された。そして、衆人の注目を集めてしまっている状況に気が付き赤面する。

「あっ―――い、……行くぞ、ドルク!」

  いたたまれなくなったわたしは慌てて彼を促し、その場から逃げ去るようにして乗合馬車のターミナルへと向かったのだった。



*



 こいつはいったい、何なんだ?

 ガラムの町へと出発した乗合馬車に揺られながら、わたしは正面の席に座るドルクの整った顔を見つめていた。

 ギルドに属している人間なのは間違いない。依頼の難易度と傭兵のレベルはリンクしているから、今回Aランクの仕事に携わるということはAランク以上の傭兵なのだということになる。Sランクに属するのは基本魔眼か、魔眼に値するほどの実力の持ち主ということになるが、数少ないその中でドルクという名は聞いたことがない。

 ではAランクの傭兵なのか? だが、こいつの持つ剣から感じる寒気を伴うような威圧感は、魔具に近い―――いや、魔具そのものであるように思う。それにこいつは、酔っていたとはいえこのわたしをあっさり手玉に取って見せた。屈辱的なことではあるが。

 どうやらランヴォルグを知っているようだし、彼に対してあまり良い感情を抱いていないらしいことも窺える。

 それに、さっきのあの能力(チカラ)―――。

 ああ、くそ、封書できちんと同行者を確認しなかったことが悔やまれる。

 馬車はガランディの街並みを抜け、郊外へと進んでいく。昨日気になった雑貨屋が窓の外に見え、景色の中に流れていった。

 今日覗きに行こうと思っていたのに、結局行けなかったな……。ピンクのもふもふ、ふたつに減っていた。

「ドルク、あんたはどうしてこの依頼を受けたんだ? わたしがエントリーしてたのは知ってただろう?」

 わたしは疑問に思っていたことを尋ねた。時間軸を考えてみると、わたしがこの依頼を受けると決めた時、ドルクはまだエントリーしていなかった。わたしがギルドから真っ直ぐ宿に向かってすぐに酒場に入った時、すでに彼はそこにいたから、彼がエントリーしたのはあの後―――わたしを気絶させた後だと考えられる。あの後彼はギルドへ向かい、この依頼を受けたのだろう。

 だけど、どうして? あんなふうにもめた相手とわざわざ同じ依頼を受ける意味が分からない。

 それも昨日の今日だ。普通に考えたら気まずいなんてもんじゃない。まともな人間ならまず避ける道だろう。

 それをあえて、何故? どうしても腑に落ちない。

 すると彼はどこか不機嫌そうな顔になった。

「……少し気になったことがあって」
「気になったこと? この依頼について?」
「あなたに言うことじゃありません。これはオレの問題なので」

 ああ、そうかい。またこういう流れかい!

 わたしはしかめっ面になった。

 こいつはわたしの質問にまともに答えたためしがない。

「わたしがあんたの名前を見てキャンセルするとは考えなかった?」

 気分を害して少し意地悪く言うと、彼は事もなげに返した。

「結果的にそうなりませんでしたから」

 うぐっ!

「まさかSランクの傭兵が、己の些細な問題で助けを求める罪なき人々を無下にするとも思いませんでしたし」

 うぐぐぅ! この、人畜無害な皮をかぶった皮肉屋め! いちいち嫌味ったらしい!

 完全に機嫌を損ねたわたしは仏頂面でそっぽを向いた。

 何て口の減らないヤツだ。ああ、もうとっとと仕事を終わらせて、一刻も早くこいつとおさらばしてやる!
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