緩いクセのあるショートヘア。凛とした輝きを宿す瞳を今は静かに閉ざし、長い睫毛がきめ細かな肌の上に陰影を落としている。色づいた形の良い唇からもれる安らかな寝息。いつもハイネックの防護スーツに覆われていてなかなか目にすることのない首筋から鎖骨へかけてのデコルテラインが眩しかった。
ついさっきまで、そのラインに溺れるように口づけていた。滑らかで瑞々しい甘い口当たりの肌に、出来ればいつまでも触れていたかった。
紅い月の夜、オレを救った女性。オレが傭兵への道を歩むきっかけとなった魔眼―――。
柔らかな赤毛をなでながら、昼間聞いた彼女の話が脳裏をよぎった。
12歳まで剣を持ったことすらなかったとは知らなかったから、衝撃だった。壊劫(インフェルノ)に魅入られるまで、この女(ひと)は本当にごく普通の少女としての人生を歩んでいたんだな……。その少女が数奇な運命をたどり、わずか二年後、14歳の時には魔眼としてエランダの任務に就き、オレを救った……。
どれほど過酷な状況を乗り越え、彼女はその力を手にしたのだろう。
『信頼出来ると思わなかったら、一緒に組もうなんて言ってない。『ランヴォルグ』としてのドルクも、ドルクとして出会った『ランドルク』も、わたしは信頼している! さっきも話したけど、レイゼン達の件以来、わたしは誰とも組む気がしなかった。初めてなんだ。自分から組みたいと思ったのも、心から信頼出来ると思ったのも!』
フレイアのあの言葉は、胸に来た。
彼女は気付いていただろうか? 初めてオレの名を呼んだことに。
ランドルク、と彼女の唇が刻んだ瞬間、胸を貫いた衝撃は、形容しがたいものだった。
心を寄せる相手に自分の名を呼ばれることが、これほどの威力を持つものだったとは……彼女が叩きつけるようにして放った言葉の意味と合わせて、殺し文句以外の何物でもないと思った。
不思議だな……毎日顔を合わせているのに、フレイアへの想いは褪せることがなく、日々募っていく。
恋とは、往々にしてそういうものなのだろうか? 初めての自分には得難く、新鮮な感覚だ。ふとした瞬間に見せられる愛らしい言動にどうしようもなく心惹かれ、彼女のことをひとつずつ知る度、また彼女に対する想いが深まっていく。
自分が誰かにこれほどまでに溺れる日が来ようとは、思っていなかった。際限がないその感情に恐怖にも似た思いすら抱く。
万が一フレイアを失った時、オレはどこへ行くのだろう? あてどない旅路が脳裏をかすめた。
フレイアと巡り合わなければ抱くこともなかっただろうその感情に、今日は翻弄された―――身体を焼き尽くすような激情を何度体感しただろう。理性は焼き切れる寸前だった。
フレイアと再会するまで、オレは自分をどちらかといえば冷静な部類の人間なのだと思っていた。こんなにも直情型の自分を目にすることになるのだとは夢にも思っていなかった。
野盗に囲まれた部屋で拘束され、手傷を負い、ベッドの上に転がされたフレイアを目にした時―――その傍らにいた今回の元凶レイゼンには抱いたことがない種類の殺意を覚えた。オレがまだ触れたことのなかった彼女の素肌に奴が先に触れたことを知った今では、実際に殺しておけばよかったとさえ思う。
『そ、傍にいてよ! 今、一人でいたくない!』
フレイアのあの言葉がなかったら、それを実行していたかもしれない。それを防ぐ意味で彼女が放った言葉であることは察しがついたが、それを差し引いても、あの発言はヤバかった。
あんな台詞(セリフ)を吐かれたら、彼女の傍を離れられるわけがなかった。
それでなくとも、フレイアは自分の可愛らしい言動に無自覚なのだ。
例えばつい先刻、スリの姉妹から自分の剣帯を返してもらった時。剣帯のポーチを確認した彼女は、オレがプレゼントしたうさぎのストラップが無事なのを知るとホッとした笑顔を見せ、財布の中身を確認せずにポーチを閉じた。あのストラップは共用の財布に付けてあるものなのだが、普通は財布の中身を確認するのが筋なんじゃないか。
彼女はそれをせず、うさぎのストラップだけを見てあんな笑顔を見せた。あれはオレからしたらたまらなかった。
その後に、あの殺し文句の数々。
我慢が出来なくなって手を伸ばし口づけると、まるでもっと深い口づけをせがむようにして薄く開いた彼女の唇―――応えるように深く口づけると、甘く切ないものへと変化していった吐息―――首が弱いらしく、首筋に唇を這わせるとハッキリと吐息が乱れた。強引にキスマークをつけると、たった一度、堪(こら)えきれぬように初めて甘い声を漏らした。
切なげに眉をひそめ、頬を上気させた、彼女の色づいた唇からあの甘い声が漏れた時には、胸に震えが走った。タガが外れかける理性をかろうじて制した。
これ以上はまずい。
そう感じて、キスマークをつけるのを止め、消す行為に移った。レイゼンの痕跡を消す意味も含めて服の裾から忍ばせた手で彼女の滑らかな素肌を愛撫すると、想像以上に感度の良い反応を返され、もう一度あの甘い声を聞きたい欲求とこれ以上は自制が利かなくなる現状に板挟みにされた。
どうにか理性が制し、自分でつけたキスマークの最後のひとつを消しにかかりながら、ふと脳裏をかすめたのがスリの姉妹の妹の方―――彼女の首から傷が消えていることに気付いた時、フレイアが見せた反応―――彼女はオレが今まさに彼女にしているように、あの妹の傷もこうして治したと思っているようだったが―――実は、それは違う。
刷り込み効果なのだろう。初めてフレイアにこの能力を見せた時、なめることで彼女の傷を治してみせたことから、彼女はオレのこの能力をなめて癒すものだと思い込んでいるのだ。
実際は、負傷部位に手を宛てがうだけでも回復させることが出来る。粘膜からの浸透がもっとも高い回復効果を得られるやり方ではあるのだが、これをフレイア以外に施したことはなかった。
彼女に尋ねられていないのをいいことに、オレは自分からはこの事実を説明する気がなかった。彼女に嘘をつくつもりはないので、尋ねられれば答えようとは思っているが。
「……ん」
オレの前でフレイアが寝返りを打った。ぼんやりと瞼を上げ、オレの姿を確認して、少しほころばせた口元で小さくオレの愛称を刻み、また眠りの世界へと落ちていく。
「…………」
あなたはこうして、オレの心をまた捉えるんだ。どうしようもなく、溺れさせていくんだ。
無自覚に、無防備な表情で。
吸い寄せられるようにして、オレは眠るフレイアのこめかみに口づけた。
日常の中で、際限なくあなたに囚われていく。
この少しだけ苦しく、蕩けるような刺激をもたらす日常が、今はたまらなく心地良い―――。
<完>