わたしはドルクに背負われる格好で宿への帰途についた。
肩を貸してもらいながら歩くのは距離的に無理だったし、横抱きや肩に担ぎ上げられた状態には抵抗があったから、自然とその選択肢しか残らなかった。
背負われるのも充分恥ずかしかったけど、野盗のアジトの壊滅を受けて警吏(けいり)が慌ただしく行き交う町の中ではさほど目立たず、少しホッとした。ドルクが派手に暴れてくれたおかげで、騒ぎに気付いた町の誰かが通報したらしい。
宿へ向かう道中、彼の背中で過去のレイゼンとの関わりをぽつぽつと話した。ドルクは静かにわたしの話に耳を傾けてくれていた。
わたしが早い段階から一人で行動していた本当の理由を知って、彼なりに色々と思うところがあったのかもしれない。
宿に着くと気が抜けたのか、一気に疲れが押し寄せてきた。シャワーを浴びたい気分だったけど、こんな状態ではそれもままならず、とりあえずトイレに入って人心地つく。生理中だったからどうなっているか不安だったけど、下着に多少血が滲んでいる程度でパンツの方は無事だった。
ああ、良かった。経血量の多い二日目三日目でこの騒ぎに巻き込まれていたら、かなり悲惨なことになっていたに違いない。
下着の方は応急処置して、手洗い場で手と顔を洗い、口をゆすいで、外で待っていたドルクに肩を貸してもらい、自分の部屋へとたどり着く。倒れこむようにしてベッドの上に仰向けになったわたしは、傍らに腰を下ろすドルクの整った顔を見上げて小さく苦笑を浮かべた。
「記念すべき『初デート』がまさかの展開になっちゃったね……」
「まあ……オレ達らしいのかもしれませんけどね。世間一般の『普通』からは縁遠い」
半ば諦めたように言いながら、ドルクが手を伸ばしてわたしの髪に触れた。どく、と心臓が反応する。
緩やかなクセのあるわたしの赤毛を、ドルクの長い指が梳くようにして往復する。こんなふうに誰かに頭をなでられるのは久し振りだった。いったいどれくらいぶりだろう……? 多分、子供の時以来じゃないか?
頭皮に伝わる優しい指の感触が心地良くて、思わず瞳が和らいだ。
ずいぶんと忘れていた感覚だ。頭をなでられるのって、こんなに気持ち良かったっけ……。
されるがままになっているわたしに、ドルクが珍しく遠慮がちに問いかけてきた。
「……無粋な質問をしていいですか?」
「何?」
「その……オレはちゃんと間に合ったんですかね? どこも触られたりしませんでした?」
いつもの落ち着き払った態度からかけ離れた、余裕のない彼の様子にわたしは少し驚いて、茶色の瞳を瞠りながら答えた。
「うん……間に合ったよ。ぎりぎり、胸には触られなかった」
「“胸には”?」
ドルクの大きなこげ茶の瞳に剣呑な色が宿る。
「他のところは触られたってことですか?」
「いや、レイゼンに裾から手を入れられて―――胸の近くまでこられたけど、でもその時、ドルクが来てくれたから」
彼の迫力に圧されて、思わずいらない詳細まで喋ってしまう。
「―――へえ」
低い声でそう呟いたドルクの額には青筋が浮き上がっていた。わたしの髪から手を離し、立ち上がってどこかへ行こうとする。
いや、ちょっと待て。尋常でなく顔が怖い。いったいどこへ行く気だ!?
「ちょっと……ドルク!?」
「あいつに清算させてきます」
あいつって、レイゼン!? いったいどう清算させるつもりなんだ!?
そう聞くのも憚(はばか)られる形相だ。
「ま、待てったら! ねえ!」
「すぐ戻ります」
「ドルク!」
うわぁ、こいつ本気だ! ドアを開けて部屋を出ていこうとするドルクにあせり、わたしはまだ思うままにならない腕の筋肉を酷使して半身を起こした。
あの様子じゃレイゼンを殺しかねない。レイゼンはどうでもよかったけど、あんな奴の血でドルクの手を汚してしまうことが嫌だった。
どうすれば、どういう言葉をかければ、こいつを止められる!?
普段あまり使うことのない女子力まで総動員して必死で考え、言い募った。
「そ、傍にいてよ! 今、一人でいたくない!」
ドルクの背中が止まった。ゆっくりとこちらを振り返り、信じがたいといった表情でわたしを見やる。
効果あり! けれど自分自身に跳ね返ってくる恥ずかしさの反動も半端ない。こっちの威力も効果大!
ドルクの視線を受け止めるのに耐え切れず、赤くなって瞳を逸らすと、彼が静かにドアを閉めて歩み寄ってくる気配が感じられた。
「……幻聴ですか? 今の」
「げ、幻聴じゃ……ない……」
くそぉ。どうしてわたしがレイゼンなんかの為に……。
「……削ぎ落としてくるべきだったな。あなたにそんなことを言われたら、行くに行けない」
穏やかでない言葉を紡ぎながら、ドルクが再びわたしの傍らに腰を下ろす。
「魂食い(ソウルイーター)が可哀想だよ……」
「それもそうですね。まあ、モノは削ぎ落とさないまでも男としての機能は魂食い(コイツ)に喰わせましたから。精力を失えば、奴のせいで泣く女性も出ないでしょう」
そうなんだ……レイゼンのせいで傷付く第二・第三のアリシャが出ることは、もう、ないのか……。良かった。
「ありがとう……」
「……フレイア。今回のことはもう言っても仕方がないことですが、見ず知らずの他人の命と自分の命なら、自分の命を優先させて下さい。これは、本当に……お願いです」
ドルクが真剣な表情で言った。
「見ず知らずの他人の為にあなたが犠牲になるなんて、オレには耐えられない」
その言葉から、今回の件でどれだけ自分が彼に心配をかけたのか、改めて知らされる。思い詰めたような彼の表情に胸が切なく引き絞られた。
「今回のことは本当にごめん……でもドルク、誤解しないで。わたし、決して自分の命を軽んじているわけでも、自分の身を危険に晒すことを当然と思ってるわけでもないよ。もしもわたしが今まで通り一人で行動していたんなら、あの姉妹には悪いけど、一度引いて、態勢を立て直していた。大義のない勝ち目のない戦いに身を投じるほど、わたしは純粋じゃない。ここで見ず知らずの二人の為に命を捨てるより、自分が生きてより多くを助ける方をわたしは選ぶ。それくらいの腹黒さは持っている」
わたしは居住まいを正してドルクに訴えた。
「今回は、一人じゃなくてドルクがいたから。勘のいいあんたならわたしの意図を察して、必ず助けに来てくれるって確信していたから。だから……多少の無茶をした」
「……多少ですか? あれが」
「多少だと思ったんだ。でも……今はちょっと、やりすぎたなって反省している……。ドルクにこんなに負担をかけるなんて、思っていなかった……ごめん。ちょっと、甘えていた」
わたしの考えが至らなくて、ドルクにあんな顔をさせてしまった。彼の口からあんな言葉を言わせてしまった。
一人で気ままにやってきた空気がどこか抜けきれていなかったのかもしれない。二人で組んでいる以上、相手は想ってくれるものなんだ。何かが起これば心配して当然なんだ。そんな当たり前のことを見落としていたなんて。
「……意外でした。そこまでオレを信用してくれているとは、思っていませんでしたから」
「信頼、しているよ!」
わたしは力を込めて言った。
「信頼出来ると思わなかったら、一緒に組もうなんて言ってない。『ランヴォルグ』としてのドルクも、ドルクとして出会った『ランドルク』も、わたしは信頼している! さっきも話したけど、レイゼン達の件以来、わたしは誰とも組む気がしなかった。初めてなんだ。自分から組みたいと思ったのも、心から信頼出来ると思ったのも!」
わたしは息巻くようにして、迸(ほとばし)る想いの丈をドルクにぶつけた。
これは、わたしの根っこの大事な部分だから。パートナーである彼に絶対に誤解をされたくない大事なところだったから、必死だった。
息を飲むようにしてわたしの言葉を聞いていたドルクは、彼にしては珍しく少し戸惑ったように視線を彷徨わせ、それから何とも言えない顔になって、わたしを見た。
「……さっきから、ものすごい殺し文句を言ってる自覚、あります?」
「え?」
殺し文句!? ち、違うっ!
「こ、これは、仕事上の、パートナーとしての! 人が真剣に話しているのに茶化すなよ!」
「茶化してません。オレはごく真面目ですよ。どっちにしても、スゴい威力だなって」
どっちにしてもって……あ、あれ? ドルクの頬、少し赤い?
その時になってわたしはようやく気が付いた。ドルクが何とも言えない面持ちで頬を少し染めていることに。
もしかして……照れてる、のか?
そう思い至って、心から驚く。
うわぁ……うわぁ……初めて見た! ドルクが……あのドルクが赤くなっている! 嘘みたいだ!
衝撃的な彼の姿に、わたしは自分の心が例えようもなく騒ぐのを覚えた。
知らなかった……こんな顔、するんだ……。
不覚にもそんな彼を可愛いと思ってしまった。ドルクが初めて、年下の男の人らしく見える。
ドルクは元々人畜無害な、純真そうな整った顔立ちをしているんだけど、それに伴わない中身のせいで、特にわたしの前では皮肉屋というかふてぶてしいというか、彼本来の容貌を際立たせる表情を見せてくれることが少なかったから、不意に覗いたその一面を見た衝撃は大変なものだった。
「……触れて、いいですか?」
ためらいがちにドルクに尋ねられて、鼓動が跳ねる。
いつもはそんなこと聞かずに、隙あらば触れてくるくせに。さっきだって、あんなふうに『治療』しといて。
わたしの過去を知って、一線を引いてくれているのか。あるいは今日の出来事を慮(おもんばか)って、気を遣ってくれているのか。それとも、これは新たな彼の作戦なのか。
分からない。分からないけど分かるのは、自分の鼓動が今、ひどく落ち着きを失くしているという事実だけ。
ドルクの指がわたしの唇に触れる。触れて、指先でそっと輪郭をなぞるようにする。くすぐったいようなその感覚にわたしは身じろぎした。
「そこはもう、さっき、治してもらったっ……」
「分かってます。オレは今、治療じゃなくて……キスしたい」
ハッキリと宣言されて、心臓がひと際大きな音を奏でる。わたしの返事を待たずに、ドルクは唇を重ねてきた。
自分のものに重なった熱い彼の感触に、思わず震えが走る。
「んっ……」
ゆっくりと体重をかけられて、まだ思うように力の入らない身体があっさりとベッドに沈んだ。
「嫌だったら言って下さい。やめますから……」
唇を触れ合わせながらドルクが囁く。彼は無理に深く口づけてはこなかった。愛しそうにわたしを見つめて、どこか儚げに微笑む。その微笑みに、何故か胸が切なく締めつけられた。
嫌……?
自問しながら、自分に重なるドルクの体温を意識する。わたしの両頬を包み込むようにして添えられた温かな掌。優しくついばむようにして、角度を変えて繰り返される彼のキス。
嫌じゃ、ない……。
どうしよう。むしろ、もっと……。
彼の体温が、与えられる熱が、心地良い。
唇から生まれる熱に、生理的な欲求が込み上げてくる。
むしろ、今はもっと、彼を感じたい。
その情動に逆らえず、わたしは自分からせがむように薄く唇を開いた。応えるように、ドルクが深く口づけてくる。
火がついたように身体が熱くなった。巧みな彼のキスに、自分の吐息が甘く切ないものへと変わっていくのを感じる。ドルクのキスに蕩けそうになっていると、頬に置かれていた彼の手が下へ滑って、優しく首筋に触れていった。
あ……っ。
甘い疼きを伴った感覚にゾクゾクと腰が震える。ドルクの指が首の擦過創に触れた。首輪をつけられた痕だ。
彼が魔眼を発動させる気配が伝わってくる。わたしの唇から離れた彼の唇が首の傷へと下りていって、吸いつくように柔らかく触れると、自分の吐息がたちまち乱れるのを感じた。
「……っ!」
ドルクの舌がゆっくりと傷をなぞる。温かく湿った淫靡な感触に、身体が小刻みに震えた。
あ……ダメ! 首、弱いんだ……声が……!
ドルクは首の付け根にある注射針を刺された痕にもそっと指で触れてから口づけた。
自分の手の甲を唇に押し当てるようにして、恥ずかしい声を漏らすまいと耐えていると、その手首をドルクがそっと持ち上げて、手枷の痕にも同じように口づけた。もう片方の手首にも。そして、両の足首にも―――。
金色の双眸が、とても綺麗だ―――彼を見つめるわたしの目は、きっと熱でひどく潤んでいるに違いない。
ドルクに触られた箇所はどこもかしこも熱を帯びて、なでられるようにするだけで甘い痺れが走るようで、レイゼンに打たれたのは実は媚薬だったんじゃないかと疑いたくなるほどだった。
「……ここですか? 触られたのは……」
腰の左側にドルクの手が宛てがわれる。甘い熱に浮かされたように頷いたわたしは、裾から差し入れられた彼の手の感触で我に返った。肌の上を滑るようにして、ドルクの手が腰からわき腹へと上がっていく。
「ちょっ、待て! ストップ!」
慌てて制止の声を上げ、衣服の上から彼の手を掴んで押さえた。
「……ダメですか?」
熱を帯びた眼差しでドルクがわたしを見やる。くそお、男のくせに何て色っぽい眼なんだ。
ともすると流されそうになる彼の魔眼を意志の力で受け止め、わたしは真っ赤な顔のまま頷いた。
「ダメだ」
「……あなたにマーキング出来たらいいのに」
囁きながら、ドルクがわたしの頬に口づける。
「ちょっ……」
「オレのものだという印をつけて、他の男共が決して触れることが出来ないように、防壁を張りたい」
ドルクの唇が頬から首筋へと滑っていって、肌をきつく吸い上げた。
「ああっ! ちょっ……!」
驚くわたしをよそに、ドルクの唇は首筋を移動して、次々に赤い花を咲かせていく。
「やっ! 待って……!」
わたしは頬を紅潮させて身悶えした。
ダメ! 首筋は本当に……ダメなの!
「ぁ……っん……!」
殺しきれない、色づいた喘ぎがもれる。
「……可愛い声ですね」
笑みを含んだ声でそう評されて、全身が朱に染まった。
何て……何て声! 恥ずかしすぎる!!
自分でも聞いたことがないような甘ったるい声に、眩暈がした。羞恥心で胸が詰まる。どうにかなってしまいそうだ。
目をぎゅっとつぶって、片手で口を覆い、これ以上は恥ずかしい声をもらすまいと防御態勢に入ったわたしは、ドルクの動きが変わったことに気が付いた。
きつく吸われて赤い花の咲いた箇所へ、今度は癒しの舌が這う。
自らがつけた所有印を惜しむように丁寧になぞって消していきながら、わたしに衣服の上から押さえつけられた、服の裾から差し込んだままの手をゆっくりと上下させ、微妙な触れ方で刺激してくる。
「……っ!」
まだ完全に力の戻っていないわたしの手はまるで抑止にならず、彼の手の上に重なるようになったまま、その動きに合わせて服の上を彷徨うだけだ。
「っ、ふ……!」
触れられた箇所から伝わる甘い疼きに腰が跳ねる。眉をひそめるようにして首を振って気を逃がし、与えられる刺激に耐えながら、わたしは自分でも信じられないくらい熱くなっていく肉体を感じた。
どうして……どうしてこんなに感じてしまうんだ、こいつっ……触り方が、上手すぎる!
首筋に咲いた赤い花を消し終えたドルクが耳元で囁いた。
「フレイア」
名前を呼ばれて、どくんっと鼓動が反応する。それを押し隠し、薄く目を開いてにらみつけるようにすると、いつものこげ茶色の瞳に戻ったドルクが妖しく微笑んでこう言った。
「次はもっと、可愛い声を聞かせて下さい」
「……! 次回ありきで言うな! てか、いつまで触ってる!」
裾に入り込んだままの手をぴしゃりと叩くと(気分的にはぴしゃりとだが実際にはへろりとだった)、ドルクはいつもの人を食ったような顔で答えた。
「ああ、すみません。手触りと反応が良くて、つい」
「……!」
反応は余計だろ!
彼の愛撫に感じていたことを見透かされて、ただでさえ赤い顔がさらに赤らむ。
「それと、オレは次回ありきだと思っているので」
「!」
そう宣言してくるか!
けれど、分が悪くて今は何も言い返せない。もともとこいつには口で勝てないことが分かっているから、今は唸るようにしながらねめつけるにとどめた。
くそぉ。可愛いと思って近付いた子犬があろうことか魔狼の擬態で、うっかり餌食にされてしまった気分だ。
あの時は、確かにあんなに可愛いと思ったのに……。
いつも通りに戻ってしまったドルクの顔を見やりながら、心の中で口を尖らせる。
「何ですか?」
「何でもない……疲れたから、休む! 寝る!」
「添い寝してあげましょうか?」
「余計疲れるだけだから、遠慮しとく!」
「ああ……可愛い声が出ちゃいますもんね」
なけなしの筋力を総動員して枕を投げつけると、ドルクはそれをかわすどころかあっさりと受け止めてしまった。
そんな彼に背を向けて上掛けにくるまると、傍らに枕が置かれ、優しく髪をなでられた。
「おやすみなさい」
ドルクの声が、悔しいくらい心地良く耳に響く。彼の長い指はそのままわたしの髪をゆっくりとなで続けた。
彼をこの場にとどまらせる為に放った、わたしのあの言葉を律儀に遂行してくれようとしているらしいその気配に、心が緩むのを感じる。
この空気が温かい、と思った。
一人で気ままに各地を渡り歩いていた頃はそれはそれでいいと思っていたけれど、こうして二人で過ごすようになって、話しかければ返ってくる声、いつもそこに感じる気配、背中を預けられる確かな安心感―――近くに支えてくれる腕があるということは、こんなにも心強いものなのか―――そう、改めて実感している自分がいる。
ドルクの気配に安らぎを感じる―――今は新鮮に感じるこの状態が、いつかは当たり前のようなわたしの日常になっていくんだろうか―――。
そんなことを考えているうちに、疲れ果てていたわたしはいつの間にか、心地良いまどろみの中に溶け落ちていった―――。