金色の龍は、黄昏に鎮魂曲をうたう

07


 白い靄(もや)の煙る、山の奥深く。

 徐々に滝の音の大きくなっていく道なき道を草をかき分けるようにして進むにつれ、靄は霧となり、その濃さを増してオレ達の視界を奪っていく。

 険しい足場の道を、どれくらい歩いただろう。

 龍神の谷と呼ばれる場所にたどり着いたオレが霧の中に見たものは、天から流れ落ちる勢いで降り注ぐ壮麗な大瀑布だった。

 華厳の滝とかそういうレベルじゃない。本物は見たことがないけれど例えるならナイアガラの滝に近い姿だ。

 滝に向かってせり出した小高い丘の上、生い茂る木々の間に伏せるようにしてそれを眺めていたオレは、飛沫(しぶき)で濡れた顔を拭い隣にいる小六に尋ねた。

「ここに、水龍が?」

 轟々と流れる滝の音のせいで叫ぶようにしないと会話もままならない。

「は、はい……いるはずです。昔は多くの者がここを訪れ、祈りを捧げていました。オラも、何度か来たことがあります。当時はその姿を目にすることはありませんでしたし、こんなに深い霧が立ち込めることもなかったんですが……」

 そう語る小六の顔は青ざめ、全身が小刻みに震えていた。

「くそ、こう視界が悪くちゃ何も見えないな……。那由良は岩肌を背にして拘束されていたんだけど、これじゃどの辺りなんだか……」
「岩肌ということであれば、滝の近くでしょうか。ここから下に回ってみましょう」

 その提案に従って、オレ達は丘を下り、滝の元へと回りこんだ。

 下から見上げる滝はその存在感を一層増し、それを飲み込む深い滝壷は地獄へと繋がる底知れぬ深淵のように感じられる。

 辺りに満ちる異様に研ぎ澄まされた空気が、知らず身体を強張らせた。

 何て薄ら寒い緊張感に満ちた場所なんだ……これが霊域、って言われる場所なのか……。

「小六……水龍に見つかったら、オレが囮になる。何とかして那由良を解放させるから、そうしたら彼女を連れて逃げてくれないか」

 それを聞いた小六は戸惑いの表情を浮かべた。

「えっ……で、でも、それでは氷上様が……」
「オレは蒼影牙の加護をもらっているから、大丈夫だ」

 保証はないけど、な。

「何とかして逃げる方向でいくから、頼む」
「わ、分かりました……」

 予想外の展開で、結局何の策もないままここまで来てしまった。こんな神風アタックみたいな真似しか出来ない自分が恨めしいけれど、仕方がない。

 霧の中に目を凝らし那由良の姿を探していたオレは、その時視界の隅に何かを捉え、立ち止まった。白い景色にうっすらと浮かび上がる、あれは―――……。

「―――那由良!」

 叫んで駆け出したオレの後を慌てて小六が追いかける。

 滝の近くの岩壁に背を預けるようにして拘束されていた彼女は、霧の中から現れたオレ達の姿を見て驚きに目を見開いた。

「……! 彪……!」
「那由良! 大丈夫か!?」

 息せき切って尋ねるオレを、彼女は信じられないものを見るような面持ちで見つめた。

「―――どうして……」
「オレ、お前に伝えたいことが、伝えなきゃいけないことがあるんだ。だから―――小六達に手伝ってもらって、助けに来た」

 彼女的には、にわかには信じられない展開だったのだろう。オレと背後にいる小六とを見比べ、いつもは凛とした黒の瞳に戸惑いの色を浮かべた。

「今は詳しく説明しているヒマがないけど……」

 そう言って歩み寄ったオレに那由良は警告を発した。

「この水に、触れちゃダメだ……水龍に、気付かれる……」
「水龍は、どうしてお前をこんな目に?」

 痛々しいその姿に胸を痛めながら、オレは那由良に尋ねた。彼女自身の口から、どうしても聞いておかなければならないことだった。

 しばらく間を置いた後、那由良はゆっくりと口を開いた。

「あたしは、彪―――お前に会って、初めて自分の生き方に疑問を覚えた……。そして、初めて自分で考えた。色々なことを、本当に、生まれて初めて自分で考えたんだ……」

 自らを縛める水の縄に視線を落として、那由良は言った。

「自分で考えて、初めて水龍に逆らった。村の連中は今でも憎い。けれど、人を殺すのはもう嫌だって。あたしはもう、人を殺したくない。村の連中も、迷い込んできた人間も、あたしはもう殺したくない……!」

 アオの予想通り、オレの信じた通りだった。

 那由良は、変わろうとしていた。自分自身の意思で。

 微かに目を瞠り息を飲む小六に鋭い眼差しを向け、那由良は自分の意思を強調した。

「でも、勘違いするな。あたしは決してお前達を許したわけじゃない……!」

 何百年にも渡る、血に彩られた怨恨の連鎖。

 双方共に簡単に捨て切れる感情ではないのだろう。

 けれど那由良も、そして小六達村人の一部も、今、別の一歩を踏み出そうとしている。

 オレは腕を伸ばして長い黒髪の張り付いた那由良の頬に触れた。ビクリ、と少しだけ怯えるようにして、彼女の身体が固さを帯びる。冷たい水に長時間拘束され続けた彼女の頬は冷えきって血の気を失い、桜色だった唇の色は紫色になっていた。

 そんな彼女の頬を包み込むようにして触れながらオレは言った。

「新しい可能性を一緒に考えよう、那由良。オレも手伝うから」

 那由良は静かに息を飲み、様々な感情で揺れる瞳をオレに向けた。その瞳を正面から受け止め、オレは力強く頷いた。

 短い沈黙の後、うっすら微笑んだ彼女の瞳には大粒の涙が浮かんでいた。

「バカだね……そんなことの為に、こんなところまで来たの? ……水龍は、人間が敵うような相手じゃない。早く、逃げるんだ……」

 囁くようにそう告げてオレの掌に頬を寄せるように押し付けた那由良の瞳から、涙が溢れた。

「この温もりだけ、もらっておくよ……それで、充分だ」

 消え入るような、彼女の言葉。

 こんなにも綺麗で、こんなにも切ない涙を見たのは初めてだった。

 たまらない愛おしさと狂おしさ、身が引き千切られるような切なさに、気が狂いそうになる。

 ―――那由良……!

 彼女を抱きしめたい衝動をかろうじて抑え、オレは小六に向き直った。覚悟が決まった。

「―――小六、那由良を頼む」
「は、はい!」
「! 彪……!?」

 不安そうな声を上げる那由良を振り返り、オレは自分の決意を伝えた。

「待ってろ。オレはお前を助ける為に来たんだ」
「……! 何をバカなことを……! やめて!」

 蒼白になり那由良が叫ぶ。

 オレは滝の正面に回りこみ、大きく深呼吸した。まるで全身が心臓になってしまったかのように、高ぶる鼓動の音だけがオレの世界を支配している。

 全てを打ち消すような滝の轟音も、切迫した那由良の声も、もう届かない。

 巨大な滝をにらみ据え、ありったけの勇気を振り絞って、オレは叫んだ。

「―――出てきやがれ! 水龍!!」

(……くく……今生の別れは、もう済んだのか……?)

 飛瀑の轟音を音もなく切り裂き、圧倒的な力を持つ『声』が霧の谷に響き渡った。

 肉声ではなく、頭の中に直接響く意思の声。あの時と同じだ。

 その場の全てを支配するかのような、威厳溢れるその声音に圧倒され、小六がよろめく。

 まるで待ち構えていたかのような皮肉なその口ぶりに、オレは片眉を跳ね上げた。

(このワシが貴様らに気付いていないとでも思ったか? 愚鈍な人間よ……)

 嘲笑う響きも明らかに、大気を震わせ大瀑布を割り、跳ね上がる水飛沫(みずしぶき)と共に巨大な影(シルエット)が現れた。

 鳴動する大地に立ちそれを見上げるオレの前で、辺りを覆っていた乳白色の霧がゆっくりと晴れ、その全貌を露わにしていく。

 夕闇の迫る空の下、その姿を目の当たりにしたオレは、戦慄した。

 蒼白く輝く、頑強で美麗な蒼銀の鱗。淀んだマグマのように燃え立つ赤黒い瞳。額に聳り立つ気高いオブジェのような二本の角。大きく裂けた口にはギザギザの鋭利な牙が並び、そこから覗く赤い舌のコントラストが、見る者に生々しい恐怖を煽り立てる。

 現代では空想上の生物とされる、龍。その神秘的で雄大な巨躯を現実に目の前にした時、意志とは裏腹に全身が激しく震え出すのを感じ、オレは自分が足を踏み入れた領域がどういうものなのか、ここに至ってようやく思い知らされ、慄然とした。

 一瞥しただけで、これまでの決意も勇気も、全てが根こそぎ剥ぎ取られていくかのような錯覚。

 肌で感じて、初めて分かった。村人達の言っていた通りだった。

 これは、人間が触れていいような存在じゃない。

(麗しい愛だな……己の危険も顧みず、死地へ臨むか。しかもどうやったのか、あの村の連中まで唆すとは大したものだ……。外界の住人よ、人あらざるこの女に、それほどまでに心奪われたか?)

 見る者を畏怖させる強大なオーラを放ちながら、水龍は哄笑した。

 喉が震える。喘ぐような呼吸を繰り返しながら、軋むほど拳を握りしめ、腹筋に力を入れて、オレはどうにか声を絞り出した。

「約束だ……那由良を放せ……」

(くく……何だ? その、蚊の鳴くような声は)

 赤黒い瞳を細め、嗤う水龍。

 萎縮する勇気を奮い立たせ、精一杯の力でオレは叫んだ。

「那由良を放せ!」

(くく……)

 水龍は愉しげに喉を鳴らしながら、那由良に視線を送った。細い肢体を拘束する水の縄が解け、崩れ落ちるようにして、那由良がその場に膝をつく。彼女を助け起こそうと駆け寄った小六は二の足を踏み、その様子を見守るにとどまった。

(魔性の家系よな、那由良。男を惹きつけ惑わせるその血は、母親から色濃く受け継いでいると見える)

 那由良が弾かれたように顔を上げ、キッ、と水龍をにらみつけた。

 水那のことを言っているのか? それにしてもこの言いようは……?

(何だ、その目は)

 水龍の眼が鈍く光るや否や、滝から上がる飛沫の一部が瞬時に鋭い飛礫(つぶて)と化し、那由良へと襲いかかった!

「那由良ッ!」

 突然のことに、オレは目を剥いた。

「―――あ、危ないッ!」

 衰弱して思うように動けない彼女の肩を押すようにして、小六がとっさに地面に伏せた。水の飛礫が彼の肩口をかすめ、鮮血が辺りに散る。

「小六っ!」
「うぅっ……大丈夫です」

 よろめいて左肩を押さえながら、小六は上体を起こした。那由良は自分をかばって負傷した彼を見上げ、茫然と呟いた。

「どうして……」

 そんな彼女に彼は苦痛に顔を歪めながらほろ苦い笑みを返した。

「あ……あなたと、同じです……。色々な思いはあるけれど、このままじゃいけないって、オラ達も……」

 那由良はきゅっと唇を結び、何かを堪(こら)えるようにして押し黙った。その瞳に、新しい光が生まれる。彼女はためらいがちに負傷した小六の肩に手を伸ばすと、思わず身体を強張らせた彼を無言で促し、その手をどかせると、傷口にその掌を向け、チカラを解放した。

 那由良の手に生まれた仄かな蒼白い光が、小六の肩に降り注ぐのが見える。

 彼女が人に在らざるチカラを振るうのをオレは初めて目にしたけれど、全てを知り受け止めようと決めた今、それを見ても恐ろしいとは思わなかった。

 彼女の手から降り注ぐ蒼白い光は、とても優しく感じられる。

 オレもああやって、那由良に傷を癒された。

 水を操る妖だと彼女は自分のことを言っていたけれど、今にして思うと、それはとても些細なことのようにさえ感じられた。

 人に在らざる、水を操るチカラ。

 けれど、言ってしまえばただそれだけのこと―――そのチカラがあるというだけで、彼女が彼女であることに変わりはない。

 自分にはないチカラを持つ者を人は本能的に恐れるけれど、本当に恐ろしいのは、盲目的に異質な者を排除しようとするその思想なんじゃないだろうか。

 異質な者の全てが、理不尽にそのチカラを振るうワケじゃない。

 那由良は、目の前の水龍とは違う!

 オレは突然の暴挙に出た水龍に怒りのこもった視線を向けた。

「てめぇッ……いきなり、何を! オレが来たら那由良を解放するって約束だろう!」

(くく……ワシはそのような約束事を貴様と交わした覚えはないが?)

「何だとッ!?」

(貴様が来なければ那由良を殺す、とは言ったが、解放するとはひと言も言っておらんぞ)

 平然とそう言い捨て、水龍はほくそ笑んだ。

「てっ……めえぇ!」

 一筋縄でいくとは思っていなかったけど、何て嫌なヤローだ!

(くくっ、小僧……貴様には感謝してやろう。ワシもできれば那由良を殺したくはなかったのだ……。生かしておいた方が、何かと便利だからな)

「便利、だと?」

(この領域に侵入した者達を屠り、人間共の負の感情を煽り、厄介な刀の結界を抜け、ワシの命を遂行する、血染めの巫女……貴様に心奪われるまで、那由良はワシの良き手足だった……)

 オレは激しい憤りを感じながら、頬に力を込めて水龍をにらみつけた。

 かつては水の護り神として人々から敬われ、祈りを捧げられていたはずの、龍神。

 ―――それが、これかよ!? いったい何で!?

(今は少々すねておるが、なぁに、元通りにする方法はいくらでもある……)

 水龍の赤黒い瞳が残酷な光を帯びる。

「! 彪、逃げてッ!」

(例えば、貴様を使ってな!)

 那由良の絶叫と、水龍が牙を剥くのとがほぼ同時だった。

 凶器と化した無数の飛沫が、オレに向かって襲いかかる!

 ―――アオッ……!

 心の中で念じたその瞬間、視界に「あるもの」が飛び込んできた。

 ―――牙が。

 そこだけが大きくクローズアップされ、まるでストップモーションのように、網膜に刻み込まれる。

 オレの瞳に映った光景―――それは、一箇所だけ欠けた水龍の牙だった。鋭利な牙の生えそろった水龍の巨大な口には、何故か上顎(うわあご)の左の犬歯だけが無かった。

 パアァァァンッ!

 不可視の盾に阻まれた水の飛礫がオレの眼前で破裂するような音を立てて弾かれ、散っていく。

 その光景に驚愕する那由良と小六を見やり、オレは叫んだ。

「小六、那由良を連れて逃げろ!」

(くく、このワシから無事に逃れられると思っているのか? 妙なチカラに護られた小僧……)

 水龍がゆらり、と鎌首をもたげる。

(前回はよもやと思ったが……確信したぞ。貴様、“それ”をどこで手に入れた。“それ”が何なのか、知っているのか?)

 その言葉にオレは少なからぬ動揺を覚え、息を詰めて目の前の強大な存在を仰いだ。

 水龍は……アオのことを知っている!?

(試してみるか? ワシのチカラと、貴様を護るそのチカラ……どちらが、上か)

 流れ落ちる滝の水が水龍の意に導かれ、重力に逆らって、不可解な動きを見せ始めた。落下することをやめ、蒼銀の龍の背後に集まり始めた水は、みるみる盛り上がりうねりを帯びて、その質量を増大させていく。

 なっ……。

 巨大な水柱を従えたその姿に圧倒され立ちすくむオレの背に、かすれた那由良の声が届いた。

「彪っ……!」

 振り返ると、いつの間に駆け寄ってきたのか、長い髪をなびかせ、オレに向かって必死に腕を伸ばす彼女の姿がそこにあった。

(さあ、抗ってみろ!)

 残忍な愉悦を含んだ水龍の咆哮と共に、巨大な津波と化した滝の水がオレ達に向かって一気になだれこむ!

「……っ……那由良っ!」

 身体が硬直していた為、反応が一瞬遅れた。

 伸ばす指と指。あと数センチというところで届かず、オレ達は津波に飲み込まれた。

「……!」

 アオの加護も役に立たない。凄まじい水の力に翻弄され、まるで木の葉のように身体が回転する。その度に、ごぼっ、と音を立てて、鼻から、口から、気泡が漏れ出ていく。その気泡の先に、白い着物を着た少女の姿が見えた。

「……!!」

 溺れゆくオレに腕を伸ばし、那由良が何かを叫ぶ。

 瞬間、身体の周りに空気の膜のようなものが張られたのをオレは感じた。

「……っ……那由、良!」

 凄まじい水の力から解放され、むせ返るオレの目の前で、水の縄にがんじがらめにされ、彼女はオレと反対方向に流されていった。

「那由良あぁ―――ッ!!」



*



 どれくらい流されただろう。

 ようやく岸に這い上がることが出来た時、オレは凄まじいまでの絶望と無力感に打ちのめされていた。

 ―――オレ、は……オレは……!

 切れるほど唇を噛み、地に拳を叩きつける。

 ―――ブルって、まともに身体を動かすことさえ出来なかったっ……!

「チクショオォーッ!!」

 喉が張り裂けんばかりに絶叫し、身体を震わせながら、オレはその場にうずくまった。

 ずぶ濡れになった全身から滴り落ちる水滴が、乾いた大地を濡らしていく。冷たいそれに混じって、熱い涙が頬を流れ落ちていくのを感じた。

 ―――那由良……、小六……!

「何……やってん、だ……オレは……」

 手の甲で涙を拭い、歯を食いしばって、ふらつきながらオレは立ち上がった。

 泣いている場合じゃ、ねぇ……。二人を……助けねぇとっ……!

 顔を上げたオレの前に広がっていたのは、日が落ちて暗くなった見慣れない景色―――募る焦燥感とは裏腹に、立ちはだかる無情な現実を前にして心が折れそうになる。

 でも、どうやって……? どうやって、あんなバケモノから二人を救い出せばいい……!?

「だいたい、ここ……どこなんだよっ!?」

 八方塞がりの現状にキレて叫びながら、オレは自分の無力さを呪った。

「くそ……くそ、くそッ……!」

 ―――力が欲しい。

 切に、そう思った。

 大切な者を守る為の力が欲しい。強大な敵に抗えるだけの力が欲しい。

 ありったけの勇気を振り絞ったところで、オレの力ではこのザマだ。力の伴わない勇気には、意味がない。悲しいくらい無力だ。辛いけれど、それを思い知らされた。

 力が欲しい……!

 その思いに呼応するかのように、聞き覚えのある声が頭の中に響き渡った。

(―――彪……)

 アオ……!

 オレは目を見開き、奇妙な縁で繋がった物の怪に縋る思いで呼びかけた。

(アオ、オレがどこにいるか分かるのか?)
(……)

 それに対する答えは返ってこない。

 けれど、オレは不思議な引力を感じて振り返った。

 これ、は―――……。

 アオと繋がっているゆえの奇跡なのか。

 分かる。この方向の先に、アオがいる。つまり、そこに村がある……!

 村に戻ったところで、オレに何が出来るのかは分からない。戻った途端、また拘束されるような目に合ってしまうのかもしれない。

 けれど、前に進むしか道はない。二人を助ける為には、ここでじっとしているワケにはいかなかった。

 オレは覚悟を決めて、一歩を踏み出した。



*



 朝日が昇り小鳥達がさえずり始める頃、オレはどうにか村の入口までたどり着くことが出来た。

 朝を迎えた村からは、すでに床(とこ)から脱け出した村人達の生活を営む音が聞こえてくる。

 疲労困憊の身体を木の幹に預けながら、オレはその様子を木陰から窺っていた。

 誰にも見つからずに社まで行くのは、正直キツい。

 さて、どうすっかな……?

 呼吸を整えながら頭を巡らそうとしたその時、ザワッ、と周囲の木々がざわめいた。

 何だ?

 ただならぬ気配に振り返ったオレの遥か頭上を、ゴッ、と音を立てて何かが通り過ぎていく。激しい風圧が巻き起こり、煽られた緑が引き千切られんばかりの勢いで踊り狂う。腕をかざして上空を振り仰ぐと、頬に生温かい雫がかかった。

 揺れる木々の枝葉の間から覗いたのは、朝日を浴びて鈍く輝く蒼銀の鱗。その口元には、蠢く何かが咥えられていた。

 それを凝視しながら頬に手を当てたオレは、ぬるりとしたその感触に驚き、掌を彩ったその色を見て呼吸を止めた。

 村の頭上に突如出現した、巨大な飛行物体に気が付いた人々の間から恐怖の悲鳴が上がる。オレは木陰から飛び出し、その渦中へと駆け出していった。

(出てくるがいい、虫ケラ共。一匹残らず出てこねば、忌々しいこの結界を力ずくで断ち切るぞ)

 頭の中に流れ込んでくる、残酷な愉悦に満ちた絶対の響き。

 水龍……! やはり、ヤツが本気になれば蒼影牙の結界も打ち破れるのか……!

 力有る者の拒絶を許さない一方的な通告に、観念した様子で、力無き者達が怯えながら表へと集まってくる。

 全員が屋外へ出てきたことを確認した龍神は、赤黒い瞳を満足げに細めた。

(今日は改めて貴様らに、この地の絶対者が誰なのかということを教えてやろうと思ってな……。このワシが直々に足を運んでやったのだ、光栄に思うがいい)

 水龍の影の下、慄きながら天を仰ぐ人々の元に、息せき切りながらオレは走った。

「小六―――ッ!」

 叫びながら駆けつけてくるオレの姿に気付いた村人達が、ぎょっとした様子で道を空ける。

「ひ、氷上様……!」

(ほう……小僧。意外と早くここまで戻れたものだな)

 涼しげな口調でこちらを見下ろす水龍の口元を確認したオレは、悪い予想が的中したことを知り、衝撃で胸を詰まらせた。

「水、龍……! 小六をっ……小六を放せ!」

 そこには、水龍の巨大な口に囚われた小柄な青年の姿があった。鋭利な牙に咥えられた彼の身体はおびただしい量の血で彩られ、深刻なダメージを負っている様子が見て取れる。

 その腕が、微かに動いた。

「氷……上、様……ご無事で……」
「小六!」

 まだ、生きている!

「み、みんな……ひか……み、様の、言った通り……あの娘は、復讐、を……捨て……」

 全てを言い終えることが、小六には出来なかった。

 非情にも穿たれた水龍の牙が、彼の生涯を閉ざしたからだ。

 勢いよく噴き上がる鮮血と共に、苦痛に満ちた小六の断末魔が、辺りに轟く。

 降り注ぐ真っ赤な血が、ビシャアッ、と音を立て、立ち尽くすオレの全身を朱に染めた。

「きゃあぁぁーッ!」
「うあぁぁぁぁー!」
「こっ……小六ーッ!!」

 村人達の間から上がる絶叫。湧き起こる怒り。恐怖。その全てが、絶望の喘ぎへと転じていく。

(はぁっはっは! 伝わってくる……伝わってくるぞ、貴様らの感じる絶望が……!)

 小六を咀嚼しながら、水龍は哄笑した。

(くくっ、貴様らは俎上(そじょう)の魚(うお)……どのように足掻こうとも、このワシからは逃れられん。永遠にな……。それを思い知るがいい!)

 絶対的な力を村人達の前で改めて誇示すると、水龍は小六であった肉片を勢いよく吐き捨て、龍神の谷の方角へと飛び去った。

「ひいぃっ、ひいぃぃぃっ」
「うぅ……」
「く、くそぉっ……」

 血生臭さと絶望感漂う、現実世界から取り残された、孤立無援の村。

「おっかあ……おっかあ、怖いよ……」

 初めて味わう未曾有の恐怖に身体の震えが止まらないサチが、おタキにしがみつき、むせび泣く。

 おタキも泣いていた。泣きながら、サチを抱きしめていた。

 オレは膝をつき、震える手を伸ばして、無残に転がる千切れた小六の腕を取った。

 オレに勇気を与えてくれた、小六の手。オレを信じて、力を貸してくれた小六。新しい一歩を踏み出そうとしていた小六。最後まで、圧倒的な力に抗おうとしていた小六……!

 ―――何で……何でだ!?

 たまらない激情が込み上げてきて、涙となり迸った。漏れそうになる嗚咽を喉の奥で押し殺し、奥歯を折れるほど噛みしめ、オレは勇敢に戦った小六の腕を抱きしめた。

 ―――何で小六が、こんなふうに殺されなけりゃならない!?

 自分の中の何かがこの時音を立ててキレたのを、オレは感じた。

「―――蒼影牙を抜く」

 ゆらりと立ち上がったオレの声を耳にした、近くの村人達が青ざめた面(おもて)を上げた。

「―――な……何を、言って……」
「や……やめてくれ。あの刀を抜かれたら、ワシらは……」
「水龍が言っていたのを聞いただろ。ヤツが本気になれば、蒼影牙の結界は壊せるんだ。だったら、結界を張り続ける意味はない」

 そう言い置いてゆっくりと歩き出したオレの前に何人かが回りこみ、立ちはだかった。

「や、やめろ! 勝手なことを言うな!」
「だいたい、あ、あんたのせいなんだぞ! あんたのせいで、水龍が怒って、小六が……!」
「そうだ、オレのせいだ。オレのせいで小六は死んだ。……でもな、小六は死ぬ間際にもオレを責めなかった……」

 彼の血にまみれた全身に視線を落とし、オレは震える声で村人達に訴えた。

「これは、小六からあんた達への、命を懸けた伝言でもあるんじゃねぇのか! 見ただろう! あれが、近い将来の、紛れもないあんた達の姿だよ!!」

 その事実を突きつけられ、言葉に詰まる面々。目にしたばかりの小六の最期はあまりにも生々しく、彼らの脳裏に忘れかけていたあの日の記憶を甦らせたに違いなかった。

「他の誰かのことじゃない。ここにいる全員に、同じ未来が訪れるんだ! これからまた何百年と耐えたって、誰も救っちゃくれない!!   立ち向かわない限り、何も変わらないんだ! 小六の命を無駄にするな!!」

 雷に射抜かれたように、村人達は押し黙り、静まり返った。

 オレが一歩進み出ると、気圧されたように彼らは後退り、道を空けた。

 遮る者のいなくなった道を進み、オレは村の中央に位置する社にたどり着いた。

 外の騒ぎからまるで隔絶されたかのような静かな佇まいを見せる社の扉を開けると、冴え冴えとした蒼影牙の刀身と、それに巻きつくようにしたアオの姿が目に入った。

「―――来たか、彪」

 血染めのオレの姿を見ても何ら動揺する様子もなく、アオは淡々とそう迎え入れた。薄暗い社の中で仄青く輝く蒼影牙に映し出されたその顔は影を帯びて、蒼い瞳だけがぎらぎらと輝いて見える。

「アオ……」

 初めて見る、物々しい表情。オレもきっと、同じような表情をしているんだろう。

「―――蒼影牙を抜きに来た」

 そう告げたオレに、アオはただ頷いた。

「……そうか」
「オレを、待っていたのか」

 何故かそう確信して、オレは問いかけた。

「……度々変わるお前の匂いに、いつからか、こうなる予感が深まってはいた―――」

 そんなオレを真っ直ぐに見つめ、アオはそれを肯定した。

「……。オレの匂い、また変わってんのか」
「ああ。もはや極上と呼んでいい匂いだ」
「お前の言う匂いって、いったい何なんだよ」
「確証はない……何しろ記憶を失くしているのでな。ただ、これではないか、と思うところはある」

 岩に突き刺さった蒼影牙の柄の上にふわりと乗り、アオは貫くような冷厳な眼差しをオレに向けた。

「蒼影牙を『抜ける』ということと、『抜く』ということでは大きく意味が違う。この刀の持つ全てを受け入れ、それを背負う覚悟がお前にはあるのか」

 蒼い炎のように揺らめく身体から、底冷えするような霊威が立ち昇る。

「脆弱な人間が一人で背負うには、あまりにも重いものだぞ。一時(いっとき)の感情に左右されていい話ではない……。それを踏まえた上で、お前はこの刀を抜く覚悟があるというのか」

 今までのオレからすれば、それは到底考えられないことだった。

 責任とか持たされるのは基本的に嫌いだったし、面倒くさいことからは極力逃げてきたような気がする。これまでの人生を振り返ると、何でもそこそこに、適当に、穏便に済ませてきた自覚があった。

 頑張っていないワケじゃないけど、特別頑張っているワケでもない。

 そんな、今までの自分。

 そのオレが今、この村の人達の運命を左右する一振りの刀を手に取ろうとしている。

 有り得ないよな……。

 過去の自分自身を冷静に顧みて、ふと自嘲めいた笑みを刻む、もう一人の自分がそこにいた。

 心はひどく静かだった。頭の中は澄み切って冴え渡り、ただ明確な決意だけがそこにあった。

 あの時音を立ててキレたのは、おそらく、他力本願で甘えたがりだった、ある意味とても人間らしい、これまでの自分。

 迷いはなかった。恐れも、なかった。

 言い知れぬ迫力を持つアオの言葉を受けても、怯みは生じなかった。

「決めたんだ」

 蒼く燃えるアオの瞳を正面から捉え、オレは蒼影牙の柄を握った。

 蒼影牙。

 水の巫女水那が、水神より授かりし神刀。

 何百年もの間この村を護ってきた、唯一水龍に抗し得(う)るだろう、最後の切り札。

 ―――那由良を助ける為に、お前の力を貸してくれ……。

 呼吸を整えながら、オレは目の前の刀に心の中で語りかけた。

 小六の無念を晴らす為に……この閉ざされた地に生きる、全ての者の為に。

 蒼影牙。お前の力を貸してくれ……!

 念じながら、静かに力を込めて、オレはそれを引き抜いた。

 ―――蒼影牙!!

 ふわり、と、まるで自らを岩から解き放つかのように、音もなく、仄かに青みを帯びた刀身がその全貌を現した。

 ―――抜けた……!

 アオが大きく目を見開き、息を飲む。

 オレは手の中の神聖なオーラを放つ美しい刀を見つめ、それを目の前にかざした。

 以前はどんなに力いっぱい引いてもビクともしなかったのが嘘のように、まるで羽のような軽さで抜けた。

 不思議なカタナだ……。

「アオ……何か思い出したり、したか?」

 傍らで茫然としている蒼い物の怪にそう問いかけると、アオはハッと身体を震わせて、我に返ったようにオレを見上げた。

「―――い、いや……。残念ながら、そう上手くはいかないようだ……」
「記憶が戻らないなら、さしあたってお前の『成すべきこと』はないワケだよな?」
「……何が言いたい?」

 上目遣いでねめつけるアオをオレはさらりと勧誘した。

「水龍退治に付き合えよ。どのみちお前、蒼影牙からは離れられないんだろう?」

 こうもダイレクトに誘われるとは思っていなかったのか、一瞬呆けたような顔になったアオは瞳を瞬かせ、しばらくオレを見つめた後、可笑(おか)しそうに小振りな牙を覗かせた。

「くくっ……まったく、良くも悪くも素直なヤツだ。まさか、お前に本当に蒼影牙が抜けるとはな……」

 こんなに愉快そうに笑ったアオを見たのは初めてだった。

 目を丸くするオレの前でひとしきり身体を震わせた後、アオはいつもの偉そうな口調でこう言った。

「いいだろう。毒を喰らわば皿まで、だ。私が記憶を取り戻す前に、蒼影牙の持ち手たるお前に死なれてしまっては元も子もないからな。水龍相手にどこまでやれるかは分からんが、付き合ってやるとしよう」

 あまりにもすんなりとアオが頷いたので、オレは逆に驚いた。

「言い方は置いといて、えらくあっさりだな。もう少しごねるかと思った」
「あっさりしすぎて気味が悪いか? 那由良という娘には、私としても会わねばならぬ理由があるからな。それに、少々気にかかっていたこともある……」
「え?」
「水龍と呼ばれる存在について、だ」

 オレは水龍のチカラと初めて対峙した後のアオの様子がおかしかったことを思い出した。

「そういえば、前にも似たようなコト言っていたな。いったい何が引っかかってんだ?」
「……上手くは言えんが、何か違和感を覚えるのだ。あの存在に……あのチカラに……」

 じっと虚空を見つめてアオはそう呟いた。

「……。お前が感じている違和感がどういうモンなのかは分かんねーけど、話に聞く昔の水龍と、今の水龍ってのはあまりにも違いすぎる。もしかしたら、記憶を失う前のお前は昔の水龍を知っていたんじゃないか? 水を操るチカラもあるし……そういえば、水龍はお前のコト知ってるような口ぶりだったぞ」
「……。本当か?」
「あぁ。お前のチカラのコトを指して、『それをどこで手に入れた? それが何であるのか知っているのか』って言ってた」

 それを聞いたアオは難しい顔で考え込んだ。

「水龍が……」
「あと、これは気が付いたコトなんだけど、アイツ、牙が一本だけ無いんだよ」
「牙が?」
「左上の犬歯、一本だけ。大したコトじゃないのかもしれないけど、何だか気になってさ」

 あんなに頑丈そうなヤツ、そう折れるモンじゃないと思うし……もしかしたら地龍との戦いの時に欠けたものなのかもしれないな。

「行こうぜ、アオ―――水龍の元へ。もしかしたらお前の記憶の手掛かり、見つかるかもしれないな」

 そう言って手を差し伸べるとうつむいていたアオは顔を上げ、ふっと頬を緩めてオレの肩に飛び乗った。

「だと、いいがな。―――しかし彪、お前はほとほと運が悪いな。その運の悪さ、折り紙付きと言えるぞ」
「……そんなオレと一蓮托生のお前も、そう言えるんじゃねーのか」

 オレ達は顔を見合わせて、どちらからともなく笑った。

「行くか」
「あぁ、行くとしよう」

 扉を開け放つと、社の周りに集まってきていた村人達がオレが手にした蒼影牙を見て、大きくどよめいた。

「あぁっ、ご、御神体が……!」
「蒼影牙様……!」

 そして、予想だにしなかった現象が起きた。

 小六の血に染まり、肩にアオを乗せ、蒼影牙を手に朝日を浴びるオレの前に、村人達が次々と膝を折り始めたのだ。

 驚き立ち尽くすオレの前におぼつかない足取りで進み出てきた村長が、みんなと同じように地に膝をつき深々と頭を下げた。

「我が村の護り神は貴方様を使い手と認められました。それを目にした今、遅まきながら、我々もようやく決意するに至りました……。数々の仕打ち、許していただけるとは思っていません……しかし―――しかし!」

 強く言葉を区切り、村長は訴えた。

「決断が遅すぎたのは否めませんが、我々にも、何百年もの間戦ってきた、人としての意地があります。死にたくても死ねなかった、様々な想いがあります」

 額を地にこすりつけ村長は懇願した。

「虫の良すぎる話かもしれませんが、どうか―――どうか一太刀でもいい、我々の無念の思いを、水龍に浴びせてはもらえませんか。何なら、この場で私を斬り捨てていっても構いません。ですから、何とぞ―――!」

 その言葉に、あちらこちらからすすり泣きが漏れた。

「お……お願(ねげ)ぇします! どうか……どうか、ワシらの願いをお聞き届け下せぇ!」
「死んでいった奴らの為にも……この通りです!」

 深々とひれ伏し、彼らはオレに哀願した。

「お願(ねげ)ぇします!!」

 しばし言葉を失っていたオレは、アオの尻尾で軽く背を叩かれてようやく我に返った。

「あ……いや、その……みんな、頭を上げてくれないか。何て言ったらいいのか分からないけど……オレは別にあんた達を恨んでいないし、どうこうしようとは思っていない」

 恐る恐る顔を上げる村人達に、オレは言葉を考えながら言った。

「確たることは言えないけど……やれるだけのことは、やるよ。こんな不確かなことしか言えなくて悪いけど―――あんた達の生命(いのち)を、オレに預けてくれ」

 やつれきった村長の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。

「我々はもはや、長く生きすぎました……貴方の言葉で、ようやく―――ようやく、踏ん切りがついたのです。その結果については、異論はありません。どうぞ……宜しくお願い致します」
「あ……ありがとうごぜぇます。ありがとうごぜぇます!」

 風雲急を告げるように、一陣の風が吹いた。

 涙を流しながら頭を下げ続ける村人達に見送られ、オレは記憶喪失の蒼い物の怪と一振りの刀を道連れに、この村の運命を決する岐路へと発ったのだった。
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